投手起用の球団史・巨人編(2006〜2015)

巨人編1995〜2005から続く

10 2006〜2015 第2期原政権の投手陣

■内海哲也の台頭

 05年の巨人のチーム防御率4・80はリーグ最下位で、球団史上最悪の数字だった。同年オフに堀内恒夫監督は退陣し、原辰徳の監督復帰が発表された。
 だが、再編のシーズンとなった06年は主力投手にアクシデントが相次ぐ。開幕直後、4月5日のヤクルト戦(神宮)でベンチにいた高橋尚成にファウルボールが直撃。高橋は顔面陥没骨折で戦線離脱してしまう。また、上原浩治は交流戦直前に右太腿肉離れを発症して1ヶ月のリタイア。先発の両輪が稼働できず、苦しいやりくりを強いられることになった。
 こうした状況で、大きく台頭した左腕がいる。3年目の内海うつみ哲也(82年生まれ、敦賀気比高〜東京ガス)である。

画像

 03年ドラフト自由枠で入団した内海は即戦力として期待されたが、1年目の04年は3試合の登板に終わり、05年は26試合(先発19、救援7)に登板して4勝9敗、防御率5・04とプロの壁に苦しんでいた。だが、当時の堀内監督は「体が強くて疲れない」「柔らかくて、体に負担のかからない投げ方をしている」内海を評価し、「お前は必ず成功する。通算200以上勝った俺が言うんだから間違いない」と言って励ましたという[1]。また、05年のシーズン中に二軍に降格したとき、二軍監督だった高橋一三に「チェンジアップを投げてみろ」「どうなってもいいから使え」と命じられ、実際に投げたら簡単に内野ゴロでアウトが取れた。「そこから、僕のピッチングが変わりました」と内海は回想する[2]。
 V9時代のダブルエースに導かれ、内海は06年に開花する。前述のように故障者が続出する中、オリックスから移籍したジェレミー・パウエル(76年生まれ、ハイランド高〜エクスポズ〜近鉄〜オリックス)とともにローテーションを守り、前掲の表の通り、投球回数、先発数、勝利数すべてチームトップの数字を残した。防御率2・78はリーグ4位。
 以降、内海は14年まで9年連続で規定投球回に到達し、その間、リーグ優勝6回、日本一2回を達成する「第2期原政権」のエースとしてキャリアを築いていく。
 80年代以降のエース級の投球回を見ると、規定投球回到達は江川卓が内海と同じ9年連続(79〜87年)で、西本聖は7年連続(79〜85年)、槙原寛己は5年連続(91〜95年)、斎藤雅樹は8年連続(89〜96年)、桑田真澄は8年連続(87〜94年)、上原浩治は5年連続(02〜06年)がそれぞれ最高である。内海は数字的な見栄えのする投手ではないが、その安定感と持続力は、歴代のエースたちと比較しても遜色のないものだった。

 一方で、堀内監督時代に確立できなかったリリーフ陣は、まだ暗中模索の状態だった。

画像

 タレントがいなかったわけではない。左の林昌範(83年生まれ、市立船橋高)、右の久保裕也(80年生まれ、沖学園〜東海大)はすでにリリーフとして多くの場数を踏み、06年もブルペンに欠かせない戦力になっていた。だが、最後を締める抑えが固定できない。
 当初、9回のマウンドに想定したのは、西武からFA移籍した豊田清(71年生まれ、鈴鹿高〜同朋大〜西武)だった。西武で通算135セーブを記録していた豊田は確固たる実績者だったが、06年は35歳になっており、衰えは否めない。苦慮した原監督は、顔面陥没骨折のアクシデント(前述)から復帰した高橋尚成を抑え役に配置転換する。
 7月16日のヤクルト戦(神宮)で4−3と1点リードの9回裏に登板した高橋尚は、三者凡退に抑えて初セーブをあげる。以降、シーズン終了まで15セーブを記録したが、通年の防御率は4・94で、盤石の内容ではなかった。同年オフの納会で「来季は先発で」と監督に直訴したという[3]。

■上原の抑え転向

 続く07年、巨人は5年ぶりのリーグ優勝を成し遂げて復権する(CSで中日に敗退したため日本シリーズは不出場)。「第2期原政権」初の優勝だ。
 先発陣はジェレミー・パウエルが抜けたものの、前年に台頭した内海哲也、先発に復帰した高橋尚成を中心に回していった。

画像

 だが上の3項目の上位に、上原浩治の名前がない。彼の名は次の項目の上位にある。

画像

 07年の上原は3月に左太腿を故障し、開幕を二軍で迎えた。復帰したのは4月30日のヤクルト戦(神宮)で、巨人が9−2と大量リードした9回裏にマウンドに上がった。翌日、5月1日の中日戦(ナゴヤドーム)でも9−5とリードした9回裏に登板。さらに2日の同カードは3−3で延長に入り、11回表に巨人が2点を入れて勝ち越すと、その裏、3連投になる上原が三者凡退に抑えてプロ初セーブを記録した。球団通算5000勝の記念すべき試合だった。
 最初の2試合は、あくまで調整登板だと思われた。だが、セーブシチュエーションで、なおかつ3連投となる3試合目の起用を見ると、原監督は当初から上原の「抑え転向」を意図していたと思われる。前年の高橋尚成は成功とはいえなかったが、原は「先発のエース格をあえて抑えに使う」試みに再チャレンジしたのだ。上原は、当時をこう回想している。

「5月中旬に、たしか監督室に呼ばれて、『ウエ、オールスターまでは後ろでやってくれないか』と頼まれたんです。僕としては、監督からそう言われたら、分かりました、と答えるしかないですよね。(中略)この話し合いまで、ブルペンから出ていくのは先発復帰までの試運転のつもりだったので、5月2日以降は連投しないことになっていたんですが、ここからは連投もOKということになりました」[4]

「15年前、原巨人はなぜ上原浩治を〝守護神〟に指名したのか?」

 野球に限らないが、指揮官の口約束というものは往々にして反故にされる。結果が指揮官の望むように推移すれば、約束よりも「現状の継続」が優先されるのだ。結局、オールスター以降も上原は抑えを続けることになった。残した成績は55試合登板で32セーブ。93年に石毛博史がマークした30セーブの球団記録を更新した。与四球はわずか4で、WHIPは0・82。四球を出さず、三振を獲れる決め球(フォーク)を持ち、メンタルが安定している上原には、そもそも抑えの資質があったのだ。
 日本での抑え役はこの年のみだったが、メジャー移籍後の上原は大半をリリーフとして過ごし、レッドソックス在籍時の13年に「ワールドシリーズ優勝の瞬間にマウンドに立つ」というクローザーとして最高の栄誉を体験する。その布石は、07年シーズンにあったわけだ。

■「内海プラスα」の面々

 08年以降の先発陣は、毎年規定投球回以上を投げる内海哲也を軸としながら、その周囲を固める顔触れが短いサイクルで入れ替わっている。「沢村・スタルヒン」「藤本・別所」「堀内・高橋一」「江川・西本」「槙原・斎藤・桑田」「上原・高橋尚」のように複数の軸が並立するのではなく、「内海プラスα」。1950年代終盤の、藤田元司の単独エース時代に近い形である。
 08年〜12年の推移を見よう。

画像

 08〜09年に「内海プラスα」の「プラスα」になったのは、ともに、ヤクルトから移籍した外国人投手だった。

 セス・グライシンガー(75年生まれ、バージニア大〜タイガース〜ツインズ〜ブレーブス〜韓国・起亜〜ヤクルト)は07年にヤクルトに加入するとリーグ最多の209イニングを投げ、16勝で最多勝のタイトルを獲得した。だが「活躍した外国人選手がオフの契約交渉で揉め、他球団(主に巨人)にさらわれる」というヤクルトにとってお馴染みのパターンで、2年総額5億円を提示した巨人へ移籍する。ヤクルトでの07年の年俸は4000万円だった。なお、アレックス・ラミレスが同様のパターンで巨人へ移籍したのも同じ07年オフだ。ヤクルトは、エースと4番打者を同時に巨人にさらわれてしまったのである。
 08年のグライシンガーは期待に応え、31試合に先発して206回を投げ、17勝。先発数、投球回数、勝利数すべてリーグ最多だった。09年シーズン中に右ヒジ痛を発症し、11年まで巨人に在籍したが稼働したのは最初の2シーズンのみだった。

 ディッキー・ゴンザレス(78年生まれ、アドルフィナイリサリー高〜メッツ〜デビルレイズ〜ヤクルト)は04年にヤクルトに加入し、06年に9勝をマークした。だが07年春に右ヒジ靭帯移植手術を受け、復帰した08年は8試合の登板に終わる。オフに自由契約となり、09年1月に巨人と契約した。同じヤクルトからの移籍でも、大型契約のグライシンガーとは経緯が異なるわけだが、この補強は巨人にとって嬉しい誤算だった。
 5月に二軍から昇格すると5連勝して月間MVPとなり、その後も安定した投球を続けて15勝2敗、防御率2・11でフィニッシュ。日本ハムとの日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発し、防御率1・46で優秀選手賞を獲得した。このシリーズでは第2戦に先発した内海と第4戦に先発した高橋尚がともにKOされており、ゴンザレスがいなければ、巨人にとって02年以来7年ぶりの日本一はなかっただろう。

 そして、「プラスα」の一角に加わる若手投手も現れた。

 東野とうの(86年生まれ、鉾田一高)は04年ドラフト7位で入団。二軍で育成され、3年目の07年に1試合だけ一軍で登板した。08年はシーズン途中から中継ぎとして一軍に帯同し、9月17日の横浜戦(横浜)で初先発。事前に知らされておらず、試合前に風呂で一緒になった投手コーチの尾花高夫から「今日、先発ね」と告げられたという[5]。結果は6回2失点でプロ初勝利。さらにもう1勝を上積みして飛躍のきっかけをつかんだ。
 09年は開幕からローテーションに加わり、先発数26は内海に次ぐチーム2位。日本ハムとの日本シリーズでは王手をかけて迎えた第6戦で先発に抜擢されたが、初回に高橋信二の打球が右手甲に直撃して緊急降板と悔しい結果になった。
 ベストイヤーは10年で、前掲の表が示すように投球回数と勝利数は内海を抑えてチーム1位。先発数は内海と同数のチーム1位。その実績を背景に、翌11年は開幕投手に起用される。この開幕戦は、ひときわ印象的な試合だった。
 同年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕が4月12日に延期された。なおかつ、事前に発表されたスケジュールに従ったため、巨人は山口・宇部で開幕戦を行なうことになった。地方球場での開幕という異例の事態だ。「まるでオープン戦のような」開幕戦の光景は、非常時の只中でプロ野球が始まるのだ、という心象を喚起させるものだったが、東野はヤクルト打線を7回までノーヒットに抑える快投で、遅い球春の到来を力強く示したのだった。
 肩の故障もあって10年の成績を上回ることはなく、12年オフにオリックスへ移籍した。先発投手として稼働した期間は短かったが、東野の名前を見ると、いまでも「宇部球場の開幕戦」を思い出す。

 東野が開幕投手をつとめた11年にデビューしたルーキーがいる。10年ドラフト1位で入団した澤村拓一ひろかず(88年生まれ、佐野日大高〜中央大)だ。高めのストレートとフォークのコンビネーションで勝負する、典型的なパワーピッチャーである。背番号「15」は、同姓の沢村栄治の永久欠番「14」のひとつ上で、レジェンドを超えてほしいという含意があった。
 11年は前述したように開幕投手が東野で、2戦目の先発が内海。そして、3戦目となる4月15日の広島戦(マツダ)でルーキーの澤村が早くも先発する。このまま通年でローテーションを守り、チームトップの投球回数(200)、先発数(29)で11勝をマークして新人王を獲得した。巨人で1年目の投手の投球回数が200に達したのは62年の城之内邦雄(280回2/3)以来49年ぶりのことだ。66年の堀内恒夫(16勝)は181回、99年の上原浩治(20勝)は197回2/3だった。
 翌12年も10勝をマーク。日本ハムとの日本シリーズでは、第1戦で7回無失点と好投した内海の後を受けて第2戦(東京ドーム)に先発、8回無失点でチームを連勝に導いた。ただし、試合中に牽制のサインを見落とし、中央大の先輩である阿部慎之助に公衆の面前で頭をポカリと叩かれる場面があった。
 13年以降は勝利数が2ケタに届かず、15年から抑えに転向する。

 FA制の導入(93年オフ)以降、巨人は他球団の主力打者を数々獲得したが、投手の方では「ベテラン左腕」獲得の系譜がある。95年に加入した川口和久、00年に加入した工藤公康、そして12年に獲得した杉内俊哉(80年生まれ、鹿児島実〜三菱重工長崎〜ダイエー・ソフトバンク)。
 ホークスで通算103勝をマークしていた杉内は、4年総額20億円に加え、桑田真澄の引退後は欠番になっていた背番号「18」を与えられる破格の条件で迎えられた。同じ左腕で、内海より2歳年長。その実力を見せつけたのは12年5月30日の楽天戦(東京ドーム)で、9回ツーアウトまで完全試合の快投。代打の中島俊哉に四球を与えたため〝準完全試合〟のノーヒットノーランとなったが、巨人の投手がノーヒッターとなるのは、94年の槙原寛己の完全試合以来18年ぶりだった。
 ともにホークスからの移籍組である工藤と、巨人での通算成績を比較しておこう。

・工藤 実働7年、789回2/3、128試合(先発128)、53勝40敗、防御率4・05
・杉内 実働4年、571回、91試合(先発91)、39勝22敗、防御率3・03

■クルーンと山口鉄也

 07年は上原浩治の抑え転向が成功したが、前述したように、翌08年は先発に戻った。同年4月にFA権を取得した上原は「来季からのメジャー移籍を目指す」と公言していた。
 上原の抑えを1年であっさり終了させたのはそういった背景もあるが、直接的な理由は、横浜の守護神だったマーク・クルーン(73年生まれ、シャドーマウンテン高〜パドレス〜レッズ〜ロッキーズ〜横浜)を獲得したからだ。
 08〜10年の救援陣の状況を見よう。

画像

 横浜に加入した05年7月19日の阪神戦(甲子園)で球速161キロをマークし、NPBで初めて「160キロの壁」を破ったクルーンは、3年間で84セーブを記録。だが07年オフに2年総額5億円という条件を蹴り、年俸3億円で巨人と契約した。前述のように、07年オフに巨人はヤクルトからグライシンガー、ラミレスと投打の中心選手を引き抜いたが、それに加えて横浜の守護神であるクルーンも獲得したわけだ。当時、巨人の編成部にいた香坂英典は、ヤクルトのプロスカウトだった安田猛から「おい香坂、巨人は3人獲ったけど、それで勝ってうれしいの?」と問われ、「そうですね……、それほどうれしくないかもしれませんね……」と返したという[6]。
 ともあれ、高橋尚成(06年)、上原浩治(07年)と先発投手をクローザーに配置転換する応急処置で凌いでいた巨人は、ようやく確固たる守護神を得ることになった。クルーンは期待に応え、前年に上原が記録した32セーブの球団記録を大幅に更新する41セーブ。09年は27セーブ、10年は25セーブで、角三男の持つ通算セーブ数93の球団記録に僅か3シーズンで肩を並べたが、10年は防御率が4・26と悪化し、同年限りで退団した。
 2025年時点で、角とクルーンの球団記録はまだ破られていない。巨人は、セーブ制導入以降の13球団(現行12球団と近鉄)で唯一、球団通算100セーブを超える投手が不在だ。クルーンがあと1年プレイしていたら、その壁を破っていただろう。

 クルーンが多くのセーブ数を積み重ねることができたのは、お膳立てをするセットアッパー陣が整備されたからでもあった。
 この時期に台頭した、生え抜きの右腕と左腕がいる。

 越智大祐だいすけ(83年生まれ、新田高〜早稲田大)は05年大学・社会人ドラフト4巡目で入団。入団後2年間は一軍登板がなく、08年に突如としてブレイクした。3月28日、ヤクルトとの開幕戦(神宮)で4回4失点KOされた先発の高橋尚の後を受けて一軍初登板。ここから実績を重ね、勝ちバターンの中継ぎに定着すると、チーム最多の68試合に登板した。
 以降、11年まで4シーズンにわたって中継ぎとして稼働するが、12年に難病である黄色靱帯硬化症を発症し、選手生命を絶たれてしまった。

 08年は、2人のセットアッパーがフル回転した。68試合に登板した越智と、67試合に登板したサウスポー、山口鉄也(83年生まれ、横浜商〜米国3A)である。
 横浜商3年の秋。山口は大学へ進むつもりだったが、学校に一通のFAXが届く。送信者は代理人を名乗る米国在住の日本人で、「県大会での投球を見ました。アメリカでテストを受けてみませんか」と書かれていた[7]。渡米した山口は、02年にダイヤモンドバックス傘下のルーキーリーグに加入する。だが3年プレイしても、マイナーリーグの最下層であるルーキーリーグから抜け出すことができなかった。Baseball-reference.comが示す通算記録は49試合、170投球回、7勝13敗、防御率4・98[8]。限界を悟った山口は05年シーズン途中で帰国し、伝手を頼って横浜の入団テストを受けたが不合格。さらに楽天のテストを受けたが、やはり不合格。最後の望みを託したのが巨人のテストだった。その姿を見ていたのが、当時、二軍投手コーチだった小谷正勝である。小谷が回想する。

「難しいチェンジアップを簡単に放るんだ。(注・スカウト部の)部長に『枠があるなら獲っといたほうがいいよ』という話をした。はじめてだよ、そんな余分なことを言ったのは」[9]

「食事は食パンとリンゴ1個で……」

 この05年から「育成ドラフト」という新制度が導入されることが決まっていた。山口は、巨人にとって初の「育成選手」として指名される。小谷の慧眼と新制度の後押しが、プロへの道を開いたのだった。
 2年目の07年4月23日に支配下選手に登録され、32試合に登板。そして前述のように、08年は67試合と登板数が倍増。11勝2敗2セーブ23ホールド、防御率2・32という成績で「育成選手」として史上初の新人王を受賞する。
 この08年から16年まで、9シーズンの山口の足跡を示しておこう(赤字はリーグ最多)。

画像

 なんといっても、NPB記録の「9年連続60試合以上登板」を特筆しなくてはならない。記録を更新したのは12年の段階で、それまでの記録だった「4年連続60試合以上[10]」を上回り、そこから9年まで更新したのである。
 NPB歴代1位である1002登板の岩瀬仁紀(中日)は実働19年のうち年間60試合以上は5回で、連続は04〜05年のみ。歴代4位の宮西尚生(日本ハム)は実働18年のうち年間60試合以上は4回で、10〜12年の3年連続が最高。歴代10位の益田直也(ロッテ)は実働14年のうち年間60試合以上が6回あるが、12〜13年と18〜19年の2年連続が最高だ[11]。同時代のタフなリリーバーたちと比較しても、山口の「9年連続」は追随を許さない偉業である。
 通算登板数642は巨人歴代1位。「育成選手」として入団した左腕が、球団史に輝かしい足跡を残す投手になった。後述する「巨人の投手分業制黄金時代」においても、山口は揺るぎない中軸だった。

■新エース・菅野智之

「第2期原政権」8年目の13年。内海を軸に編成してきた先発陣に、新しいエースが誕生した。それは「エースにするために獲得した投手」といっても過言ではなかった。

画像

 菅野すがの智之(89年生まれ、東海大相模高〜東海大)の母は原辰徳の妹。つまり、伯父と甥の関係だ。
 東京ドームのスタンドで伯父の引退試合を見つめた6歳の少年は大学球界ナンバーワン投手に成長し、「巨人志望」を公言して11年ドラフトを迎える。逆指名制度のある時代ならすんなり決まったのだろうが、同制度は06年を最後に廃止されていた。他球団が巨人、というより原ファミリーに忖度して指名を控える中で日本ハムが敢然と1位指名し、抽選で当たりくじを引いて交渉権を獲得。菅野は約1ヶ月熟考した結果、日本ハムへの入団を拒否して〝浪人〟の道を選ぶ。卒業延期制度を利用して大学に残り、翌12年のドラフトで巨人の単独1位指名を受けて初志を貫徹した。なお同年の日本ハムは菅野ではなく、MLB球団との契約を望んでNPB入りを拒否していた大谷翔平(花巻東高)を強行指名している。
 13年は内海哲也が3月のWBCに参加したため、調整期間を考慮して開幕戦の登板を回避。原監督は3年目の宮國みやぐに椋丞りょうすけ(92年生まれ、糸満高)を開幕投手に抜擢し、2戦目にルーキー菅野を先発させた。2人の若手投手を押し出して、先発陣の世代交代を前へ進めたいという意図が込められた起用だ。
 宮國は肩痛による離脱があり年間投球回は100に届かなかったが、菅野は投球回数、先発数ともにチーム最多、内海と同数の13勝をマークして先発陣の新しい〝顔〟になった。ただ、同年はリーグ最多の16勝をあげた小川泰弘(ヤクルト)が新人王となり、13勝の菅野と10勝の藤浪晋太郎(阪神)に「新人特別賞」が与えられた。
 伯父の辰徳は15年限りで監督から退き、高橋由伸に後継を託す。甥の菅野を「エース」に育て上げたうえでの指揮権移譲だった。

■「スコット鉄太朗」──分業制の黄金時代

 マーク・クルーンが10年オフに退団したため、救援陣は再編成を迫られることになった。

画像

 11年は前年に加入したレビ・ロメロ(84年生まれ、シモンボリバール高〜米マイナー)をクルーンの代役に抜擢したが結果が伴わず、結局、キャリアのある久保裕也が暫定的な抑え役をつとめた。同年にリーグ2連覇を達成した中日は37セーブの岩瀬仁紀、45ホールドの浅尾拓也とブルペンに二枚看板を擁しており、浅尾は中継ぎ投手として初めてMVPを受賞する。「強力な救援陣こそ優勝への最重要条件」とされた時代である。

 11年に一軍投手総合コーチに就任した川口和久は、12年シーズンの救援陣再構築に頭を悩ませていた。すでに中継ぎとして実績を重ねていた山口鉄也に抑え役を打診するが「蚊の鳴くような声で『勘弁してください』と真顔で言われたんで、『分かった。だったら7回、8回をきっちり抑えてくれよ』と言うしかなかった」[12]。次に目をつけたのが、9年目の中堅、西村健太朗(85年生まれ、広陵高)だった。
 03年春の甲子園の優勝投手で、同年のドラフト2位で入団した西村は11年までの8シーズンで208試合に登板し、うち先発が53、救援が155。11年の登板は先発16試合、救援21試合という「どっちつかず」の投手だった。西村の能力を買っていた川口は、「どっちつかず」状態を改め、クローザーという明確な役割を与えようと考えた。

「終盤に投げる投手の条件は150キロ超の真っすぐがあることです。健太朗には強い真っすぐがあり、ほかにもスライダー、フォークが一級品だった。唯一の問題はノミの心臓(笑)。大してコントロールがよくないのにコースぎりぎりを狙って、結果、フォアボールで走者をためて大量失点になったり、カウントが悪くなって甘い球を打たれるという悪循環になる。健太朗は時々、そのドツボにはまった(笑)。だから、彼にはいつも『とにかくストライクから入れ』と言っていました。マウンドに行って『打たれても使った俺の責任だし、お前を出して負けてもチームは納得する』と何度言ったか」[13]

「『スコット鉄太朗』をつくった男」

 西村は12年4月1日のヤクルト戦(東京ドーム)で4−2と2点リードして迎えた9回表に登板し、三者凡退に抑えてシーズン初セーブを記録した。

 12年のブルペンには、新しい戦力も加わった。
スコット・マシソン(84年生まれ、アルダーグローブコミュニティー高〜フィリーズ)はメジャー実働3年で15試合(先発8、救援7)、44投球回、1勝4敗、防御率6・75。マイナーでは実働9年で201試合(先発96、救援105)、648回1/3、32勝37敗34セーブ、防御率3・75。二度のトミー・ジョン手術を受け、キャリアが頭打ちだったマシソンは、日本に活路を求めて契約する。目立つ実績はないものの、マイナーでは通算648回1/3で奪三振646、1試合(9回)あたりの奪三振率9・0と高い数値を記録していた。
 開幕は二軍で迎えたが、4月15日に昇格。すべてリリーフで11試合連続無失点と快調なスタートを切り、7月末にヒジ痛を発症して離脱したものの、一時期は抑えもつとめた。
 山口鉄也の後を受けてマシソンがセーブをあげた7月16日の阪神戦(甲子園)を報じる日刊スポーツの記事は、こんな一節で始まっている。

「『スコット鉄太朗』でおなじみの山口鉄也投手(28)とスコット・マシソン投手(28)が、完璧に仕事をこなした」[14]

https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120716-984532.html

 救援トリオを一括して呼ぶのは阪神のJFK(ジェフ・ウイリアムス、藤川球児、久保田智之)、ロッテのYFK(薮田安彦、藤田宗一、小林雅英)を踏襲したもので、発想としてはパクリである。それはともかく、スコット・マシソン、山口也、西村健太朗を一括した愛称は、この時点では「おなじみ」ではなかったが、3人が結果を重ねるにつれ、メディアを通じて定着していく。巨人の球団史としては「角、鹿取、サンチェ」以来の強力な救援トリオの誕生だ。
 救援陣の安定を得た巨人は、12年に中日からペナントを奪回し、日本シリーズでも日本ハムを下した。

画像

 続く13〜14年も巨人はセ・リーグを制し、3連覇を達成する。両年とも「スコット鉄太朗」が登板数トップ3を占めた。

画像

 終盤の7、8、9回を3人で締めくくるパターンが定着したこの時期を、巨人の球団史における「投手分業制の黄金時代」と称しても間違いではないだろう。とりわけ13年は西村が最多セーブ(42セーブはこの時点での球団新記録)、マシソンと山口が42HP[15]の同数で最優秀中継ぎをダブル受賞と、救援部門の表彰を「スコット鉄太朗」で独占した。同年の3人の防御率は西村1・13、マシソン1・03、山口1・22である。

 15年は西村が故障で1試合の登板に終わったため「スコット鉄太朗」はいったん解体され、澤村拓一(前述)を先発からクローザーに転向させて「スコット鉄+拓一」を結成した。だが適当な新呼称は考案されず、長かった第2期原政権はこの年が最後になった。

画像

(続く)

(資料1)投球回数ランキング

画像
在籍通算500回以上。赤字は現役、青字は他球団在籍

(資料2)登板数ランキング

在籍通算200試合以上。赤字は現役、青字は他球団在籍

(資料3)先発数ランキング

在籍通算100試合以上。赤字は現役、青字は他球団在籍

(資料4)勝利数ランキング

在籍通算50勝以上。赤字は現役、青字は他球団在籍

(資料5)セーブ数ランキング

在籍通算30セーブ以上。赤字は現役、青字は他球団在籍

(資料6)ホールド数ランキング

在籍通算30ホールド以上。赤字は現役、青字は他球団在籍

参考文献・資料

『読売巨人軍75年史』(株式会社読売巨人軍、2010)
「ジャイアンツ栄光の70年」(ベースボール・マガジン社、2004)
「ジャイアンツ90年史」(ベースボール・マガジン社、2024)
「日本プロ野球80年史」(ベースボールマガジン社、2014)
日本テレビ「月刊ベースボールTV」2007年6月9日
「THE OFFICIAL BASEBALL ENCYCLOPEDIA 2004」(ベースボールマガジン社、2004)
森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(日外アソシエーツ、2001)
坂本邦夫『プロ野球データ事典』(PHP研究所、2001)
宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993)

Baseball-reference.com

個人年度別成績 日本野球機構
日本プロ野球記録
週刊ベースボール「堀内恒夫コラム」第50回 2022年10月11日
週刊ベースボールONLINE「内海哲也引退惜別インタビュー」2022年11月1日
Number Web「15年前、原巨人はなぜ上原浩治を〝守護神〟に指名したのか?」2022年4月7日
週刊ベースボールONLINE「惜別球人東野峻」2016年1月8日
週刊ベースボールONLINE「裏方が見たジャイアンツ」第79回 2022年11月10日
Number Web「食事は食パンとリンゴ1個で……巨人で新人王、〝育成の星〟が高卒後アメリカで痛感した米マイナーリーグの過酷な現実」2025年4月22日
週刊ベースボールONLINE「『スコット鉄太朗』をつくった男」2022年6月29日


[1] 「堀内恒夫コラム」第50回
[2] 「内海哲也 引退惜別インタビュー」
[3] 「月刊ベースボールTV」
[4] 「15年前、原巨人はなぜ上原浩治を〝守護神〟に指名したのか?」
[5] 「惜別球人 東野峻」
[6] 「裏方が見たジャイアンツ」第79回
[7] 「食事は食パンとリンゴ1個で……」
[8] https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=yamagu001tet
[9] 「食事は食パンとリンゴ1個で……」
[10] 56〜59年の稲尾和久(西鉄)、61〜64年の秋山登(大洋)、05〜08年の藤川球児(阪神)と加藤大輔(オリックス)。
[11] 宮西と益田の記録は2025年時点。
[12] 「『スコット鉄太朗』をつくった男」
[13] 「『スコット鉄太朗』をつくった男」
[14] https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120716-984532.html
[15] ホールドポイント=ホールド数+救援勝利数


いいなと思ったら応援しよう!

ピックアップされています

投手起用の球団史

  • 12本

コメント

コメントするには、 ログイン または 会員登録 をお願いします。
投手起用の球団史・巨人編(2006〜2015)|Katsuo_ohsugi
word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word word

mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1
mmMwWLliI0fiflO&1