古墳時代に大和政権(ヤマト王権)が誕生してから明治時代まで、日本のトップは常に天皇、あるいは将軍でした。しかし長い歴史の中で2度、天皇と将軍ではない、位の低い人物が逆転して頂点に上りかけた時代があったのです。それが、戦国時代と幕末でした。日本史の中で戦国時代と幕末が特に人気を集めているのは、その点にも理由があると考えられます。特に幕末は、多くの人が自分個人のことよりも、日本という国の将来を考えて新しい国づくりを目指した時代です。そんな時勢に生まれ、理想を実現するために必死に戦い、散っていった幕末の偉人を紹介します。
「坂本龍馬」(さかもとりょうま)は1835年(天保6年)、土佐藩(現在の高知県)の生まれです。
江戸時代初期に「山内一豊」(やまうちかずとよ)が領主となって以来、土佐は山内家の関係者である「上士」(じょうし)と、それ以前から土佐で暮らしていた「下士」(かし)という2つの階級が存在していました。坂本龍馬は下士のひとつである「郷士」(ごうし)という身分の出身です。
若い頃、同じ土佐出身で、10年間アメリカで過ごした「ジョン万次郎」の手記を読んで大いに感動し、アメリカがいかに発展した文明を持っているかを知ったことで、海防の必要性を痛感したと言われます。
もうひとり、坂本龍馬に大きな影響を与えたのが、幕臣「勝海舟」(かつかいしゅう)でした。アメリカから帰ってきた勝海舟と言葉を交わした坂本龍馬は、欧米諸国に負けない日本を作る必要があるという意見で勝海舟に深く共感し、弟子入り。
坂本龍馬
こうした様々な出会いを通じて、坂本龍馬は藩という組織や、武士という身分の枠組みを超えて、日本という国がどうあるべきかを考えるようになっていったのです。
1864年(元治元年)、坂本龍馬が仲介役となり、それまで仲が悪かった薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)と長州藩(現在の山口県萩市)による「薩長同盟」(さっちょうどうめい)が実現。坂本龍馬は、武力による倒幕ではなく、あくまでも平和裏に政権の委譲を考えていました。
そして1867年(慶応3年)6月、坂本龍馬はこれからの日本が採るべき方針について自分の構想を8ヵ条にまとめ、江戸幕府に提案しています。「船中八策」(せんちゅうはっさく)と呼ばれるこの文書には、「大政奉還」(たいせいほうかん)や議会政治の実現、優秀な人材の登用、開国、憲法の制定、海軍の増強など、のちの明治政府が行った政策がすべて盛り込まれていたのです。しかし、あまりに時代の先端を進みすぎていた坂本龍馬は、同年10月、念願の大政奉還が実現した1ヵ月後に、江戸幕府の刺客によって暗殺されてしまいました。
坂本龍馬の師である勝海舟が、日本で最も人格が優れた人物と絶賛したのが「西郷隆盛」(さいごうたかもり)です。
西郷隆盛は1827年(文政10年)に薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。そして当時、日本で最も先進的な思考を持っていたとされる薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)に見出され、藩政に関与するようになります。その後は儒学者「藤田東湖」(ふじたとうこ)や越前藩(現在の福井県福井市)の「橋本佐内」(はしもとさない)などに会い、政治について大いに論じました。
1858年(安政5年)、敬愛する島津斉彬の訃報を聞いた西郷隆盛は、自分も死のうとします。しかし、尊王攘夷派(そんのうじょういは:江戸幕府を否定して天皇を敬い、外国を排除しようとする人々)の僧「月照」(げっしょう)に説得されて一命を取り留めました。
ところが、大老「井伊直弼」(いいなおすけ)が自分の政治に反対する者達を弾圧した「安政の大獄」(あんせいのたいごく)で、恩人である月照が捕らえられると、西郷隆盛は月照とともに海に身を投げます。結局、西郷隆盛は助かりましたが、この罪により、西郷隆盛は奄美大島(現在の鹿児島県)に幽閉(ゆうへい:一室に閉じ込めて外へ出さないこと)されてしまいました。
西郷隆盛
1861年(文久元年)に幽閉を解かれたものの、島津斉彬の弟「島津久光」(しまづひさみつ)の政策に反対したため、再び沖永良部島(おきのえらぶじま:現在の鹿児島県)へ島流しに。それでも西郷隆盛は希望を捨てず、島で塾を開いて子ども達に読み書きを教えたり、飢饉(ききん:不作による深刻な食糧不足)に備えた作物の作り方などを島民に教えたりしました。
一方、その頃の薩摩藩では、西郷隆盛を呼び戻してほしいという声が高まり、島津久光は仕方なく1864年(元治元年)に西郷隆盛を解放。その後、西郷隆盛は幕政に大きな影響を与え、倒幕を主導していきました。江戸幕府側の勝海舟から人格を高く評価されたのもこの頃です。
人格者として評価された西郷隆盛ですが、残酷とも取れる主張を行う場面も。1867年(慶応3年)の大政奉還ののち、徳川家は政権を朝廷に返して大名家のひとつになり、それまでのような権力を持たなくなりました。しかし、西郷隆盛は最後まで徳川家の消滅を主張し、最終的には、徳川家温存を主張する諸侯を殺せと部下に命じています。これは、徳川家を残すとそれが火種となることを知っていたからでした。
「吉田松陰」(よしだしょういん)は1830年(文政13年)、長州藩の生まれです。
10歳のときに、「アヘン戦争」により清(しん:17~20世紀前半の中国王朝)がイギリスに大敗。幼い頃から兵学を学んでいた吉田松陰はこの報せを聞き、日本にとって身近な清がヨーロッパの国に敗れたと知り、日本が亡国の危機にあることを実感したそう。日本を救うために、自分を「二十一回孟士」(にじゅういっかいもうし)と称し、21回の「猛」(過激な行動)を行うと決めたのです。
最初の「猛」は1852年(嘉永5年)の脱藩でした。ロシアの脅威にさらされている東北の視察を計画したとき、藩から出るための通行許可をもらおうとしましたが、手違いのために遅れてしまいます。しかし、吉田松陰は迷わず脱藩。当時、脱藩はお家断絶か死刑という大罪でしたが、そんなことはお構いなしでした。
また、1853年(嘉永6年)に「マシュー・ペリー」が浦賀に来ると、吉田松陰は外国へ留学したいと思うようになります。ロシア軍艦に乗り込もうと考えましたが、港に着いたときにはすでに出航。そこで、翌1854年(嘉永7年)に再び来日したペリーの黒船へ、小舟に乗って近付き、乗船に成功します。しかし、日本との関係悪化を恐れたペリーは同行を拒否。夢がかなわず、江戸に戻った吉田松陰は、いさぎよく自首し、長州に送り返されて「野山獄」(のやまごく:山口県萩市)に投獄されました。
吉田松陰
その後は自宅で幽閉処分になり、隣家で叔父が主催していた「松下村塾」(しょうかそんじゅく)を受け継いで塾を開校。その教え方は、教師が一方的に話して学問を教えるのではなく、先生である吉田松陰が生徒と意見を交わすというものでした。ここから、「久坂玄瑞」(くさかげんずい)や「高杉晋作」(たかすぎしんさく)、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)など、幕末に活躍した多くの偉人が巣立つことになったのです。
吉田松陰の「猛」はこれだけにとどまりません。1858年(安政5年)に江戸幕府が「日米修好通商条約」を締結すると、それに反対した吉田松陰は、条約締結に関与した老中「間部詮勝」(まなべあきかつ)の暗殺を企てます。結局、塾生達の反対で未遂に終わりましたが、この一件で吉田松陰は幕藩体制を見限り、「草莽崛起」(そうもうくっき:身分に関係なく、志ある者が立ち上がること)しかないと思い始めました。しかし、これが危険思想と判断され、吉田松陰は再び投獄されます。
1859年(安政6年)、安政の大獄で処刑された人物の取り調べで江戸に呼ばれた吉田松陰は、老中暗殺計画を企てていたことを自ら告白。これが最後の「猛」でした。その場で死刑が宣告され、1859年(安政6年)11月21日に牢屋敷で斬首。しかし、吉田松陰の「志ある者が立ち上がる」という教えは、門下生だけでなく多くの人に受け継がれ、明治という新しい時代を動かすための活力になりました。
1863年(文久3年)、14代江戸幕府将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が上洛する際、警護のための「浪士組」(ろうしぐみ)という組織が江戸幕府による一般応募で結成されます。それに応募した浪士(ろうし:仕える主君を持たない侍)の中にいたのが、「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)をはじめとする、のちに「新撰組」(しんせんぐみ)となる人物達でした。
しかし、京都に到着したあと、浪士組は陰謀によって、尊王攘夷派の一味として倒幕のために利用されそうになります。それを知った近藤勇らは、浪士組と行動をともにすることを拒否し、江戸には戻らずそのまま京都に残留することを決意。これを知った「京都守護」(きょうとしゅご)の「松平容保」(まつだいらかたもり)の支援によって誕生したのが新撰組でした。新撰組は、京都守護が設置した私設警察のような存在だったのです。
その後、新撰組は江戸幕府の庇護を受けながら、京都の平和を守るために奔走。そのために多くの人を斬殺し、厳しい「局中法度」(きょくちゅうはっと:新撰組のなかの規律)に背いた多くの隊士をも粛清しました。
明治時代が訪れ、尊王攘夷派として新撰組と敵対関係にあった長州藩・薩摩藩の藩士達が政治の実権を握ると、「明治天皇」は明治政府側の立場に。その後、1869年(明治2年)の「箱館戦争」における土方歳三の死によって、新撰組は結成から6年で歴史から姿を消したのです。
近藤勇は、1834年(天保5年)生まれの人物です。15歳で剣術「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)の「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)が指導する道場「試衛館」(しえいかん)に入門。近藤周助に剣術の腕を見込まれ、翌年には養子になって道場を継ぎます。しかし、当時の天然理心流は無名で、経営するには自分が剣で名を挙げる必要があり、浪士組に応募したのもそのためでした。
京都で新撰組を結成したとき、組織をまとめていたのは、近藤勇と一緒に浪士組に応募した水戸藩(現在の茨城県)出身の「芹沢鴨」(せりざわかも)を中心とする一派。ところが、彼らの傍若無人ぶりを見かねて、近藤勇率いる試衛館一派が芹沢鴨を殺害し、近藤勇が新撰組の局長となります。
1864年(元治元年)、過激派の浪士による天皇誘拐計画を察知した近藤勇は、旅籠屋(はたごや:食事を出す宿)である「池田屋」(京都市中京区)で浪士を殺害し、計画を未然に防ぎました。この「池田屋事件」で、新撰組は大いに名を挙げたのです。
より激しくなる過激派浪士の抵抗に対処するため、近藤勇は見込みのある人物を隊士として招くなど努力を重ねましたが、脱退して新撰組と敵対する者も現れたため、相手を暗殺することもありました。
近藤勇
1867年(慶応3年)に起きた「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、近藤勇は明治政府軍を甲州(現在の山梨県)で迎え撃つ「甲陽鎮部隊」(こうようちんぶたい)の大将に就任します。こうして、小さな道場主であった近藤勇は、江戸幕府軍の大将へと出世を果たしたのです。しかし、のちに戦いに敗れて捕獲され、最後まで江戸幕府に忠義を誓ったまま1868年(慶応4年)に斬首されました。
土方歳三は1835年(天保6年)、多摩郡石田村(現在の東京都日野市)に誕生。15歳で剣道道場に通い始め、ひとつ歳上の近藤勇と出会います。
25歳で試衛館に正式に入門してから、土方歳三と近藤勇は常に行動をともにし、上洛して新撰組を結成したあともそれは変わりませんでした。
破った者は斬首という厳しい「局中法度」を定め、恐怖によって新撰組を律したのも、副長である自分が嫌われ役を引き受け、局長の近藤勇を絶対的なリーダーとするため。そんな幼馴染の2人に率いられた新撰組は、やがて幕末最強の戦闘集団になります。
1868年(慶応4年)に近藤勇が戦線を離脱すると、土方歳三が指揮を執って「鳥羽・伏見の戦い」(とばふしみのたたかい)に挑みました。しかし旧幕府軍の大将「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が戦意を失ったことで、新撰組も江戸へ敗走。負け戦は決定的でしたが、土方歳三は徹底抗戦を続けました。8月には仙台で旧江戸幕府軍の「榎本武揚」(えのもとたけあき)と合流し、蝦夷地(えぞち:現在の北海道)に渡って「蝦夷共和国」(えぞきょうわこく)の樹立を宣言。しかし、翌1869年(明治2年)に函館付近で新政府軍の銃弾に倒れ、その後どこに埋葬されたかはいまだに分かっていません。
土方歳三
沖田総司は1842年(天保13年)に江戸の麻布(現在の東京都港区麻布)で生まれました。10歳で試衛館に入門すると、剣士としての才能が開花。立ち合いでは近藤勇さえかなわないほどの腕前で、18歳で免許皆伝になっています。
新撰組結成後は「副長助勤」(ふくちょうじょきん:副長に次ぐ3番目に高い位)や「総長」、「一番隊組長」を兼任。3段突きを繰り出す天才剣士で、「撃剣師範」(げっけんしはん:剣術の師範)として隊士に指導しました。
普段から明るく愛嬌がある人物でしたが、長く肺を患っており、池田屋事件で喀血したのちは表立った活躍がありません。また、沖田総司には隊士を粛清する人斬り役としての一面があり、芹沢鴨をはじめ、1865年(慶応元年)には新撰組から逃走した盟友「山南啓助」(やまなみけいすけ)を捕獲し、隊に連れ戻して切腹の介錯をするなど、記録に残っているだけでも7名の隊士を斬っています。
しかし、それらは土方歳三と同様、幼馴染の近藤勇を支えるため。病気が悪化した沖田総司は江戸で療養していましたが、近藤勇が斬首された直後、近藤勇からの便りが途絶えたことを案じながら、結核のため26歳で人生に幕を下ろしたのです。
沖田総司