歴史上で幕末の剣士と言えば、誰を思い浮かべますか。1853年(嘉永6年)のペリー来航により、多くの人が外国の脅威を身近に感じるようになりました。「尊王攘夷」、「倒幕」の動きが激しくなり、これに比例するように、幕末には「剣術」が流行。剣術を極めた剣豪が数多く出現し、活躍したのです。剣士の歴史や定義、有名な幕末の剣術流派、道場、幕末最強の剣士について、詳しくご紹介します。
「剣士」とは、剣術を使う人のことです。剣術とは、日本刀を使って戦う武術のこと。
剣術は、日本刀が誕生した平安時代中期に生まれ、平安時代後期には「京八流」(きょうはちりゅう:念流、京流、吉岡流など)、「関東七流」(かんとうななりゅう:鹿島流、香取流、日本流、良移流、本心流、ト伝流、神刀流)という流派が誕生しています。
しかし、日本刀はあくまでも、武器としては第2武器。室町時代前期まで、戦は騎乗戦が中心でしたが、室町時代中期からは鉄砲が登場して、白兵戦へと変化。
接近戦では、日本刀が重視されるようになり、秘伝の妙法を取得した剣術者達によって、「天真正伝神道流」(てんしんしょうでんしんとうりゅう)、「陰流」(かげりゅう)、「中条流」(ちゅうじょうりゅう)などの剣術流派が創設されたのです。
また、戦国時代には、「新当流」(しんとうりゅう)、「有馬流」(ありまりゅう)、「一羽流」(いっぱりゅう)、江戸時代前期には「柳生新陰流」(やぎゅうしんかげりゅう)、「小野派一刀流」(おのはいっとうりゅう)なども創設され、剣術流派は700以上にもなったとのこと。
剣士
しかし、試合をすると死傷者が出るため、江戸幕府によって禁止となっていました。これを打開したのが、神道無念流など、新しい剣術流派です。真剣の代わりに「竹刀」(しない)による打ち込みを主体とし、現代の剣道のような「型」(かた)を中心とする剣術になったのです。
ところが1853年(嘉永6年)、「ペリー」の来航によって、状況が一変。外国船は打ち払うべきだという「攘夷論」(じょういろん)や、幕府を倒さねばならないという「倒幕論」(とうばくろん)など、様々な思想が生まれ、派閥同士で殺し合う時代になりました。
すると、再び実践的な剣術を重要視。江戸幕府は幕臣とその子弟を対象に、有事の際に備えて武芸訓練機関・講武所などを設立し、腕を磨くことを推奨。このため、幕末には200以上の剣術流派が新設されたのです。
剣術流派の中でも、特に人気だったのは、「技の千葉」と呼ばれた北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の「玄武館」(げんぶかん)、「力の斎藤」と呼ばれた神道無念流(しんどうむねんりゅう)の「練兵館」(れんぺいかん)、「位の桃井」と呼ばれた鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の「士学館」(しがくかん)です。「江戸の三大道場」とも呼ばれ、大藩のお抱え道場となりました。
北辰一刀流の「玄武館」は、1822年(文政5年)、「千場周作」(ちばしゅうさく)が創始した道場です。規模は江戸随一と言われ、最盛期には3,000名もの門人を有しました。
千葉周作は、1794年(寛政6年)、宮城県気仙沼生まれ。5歳の頃から「北辰夢想流」(ほくしんむそうりゅう)の剣術を学び、10代で「小野派一刀流中西派」(おのはいっとうりゅうなかにしは)の道場で修行を開始。そして、自分が習得した、北辰夢想流と小野派一刀流中西派という2つの剣術を融合させ、新たに「北辰一刀流」を生み出したのです。
千葉周作
北辰一刀流の特徴は、「技の千葉」と呼ばれた通り、従来の主流であった「打ち込み」(互いに攻め合う稽古法)ではなく、「掛かり稽古」(一方が相手に対して連続的に打ち込む稽古法)が中心。また免許を簡略化し、他流派では10年かかる修行が5年で完成するということも大きな特徴でした。なお、千葉周作は、1839年(天保10年)に水戸藩(現在の茨城県水戸市)の剣術師範にも就任しています。
玄武館出身者には、「坂本龍馬」、「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)、「伊藤甲子太郎」(いとうかしたろう)、新選組の「藤堂平助」、「山南敬介」(やまなみけいすけ)などがいます。
神道無念流の「練兵館」は、1826年(文政9年)に「斎藤弥九郎」(さいとうやくろう)が九段下俎橋(くだんしたまないたばし:現在の東京都千代田区)に創始した道場です。
斎藤弥九郎は、1798年(寛政10年)、越中国(現在の富山県)の農家生まれ。1812年(文化9年)に江戸に出て、旗本「能勢祐之丞」(のせすけのじょう)の家臣となり、1815年(文化12年)「神道無念流」(しんとうむねんりゅう)の「撃剣館」(げきけんかん)に入門。わずか数年で先輩達を凌駕して代稽古を務めました。
1826年(文政9年)に「練兵館」を創設。なお、練兵館は、兵学の師「平山子龍」(ひらやましりゅう)の屋号「錬武堂」(れんぶどう)にちなんで命名されています。神道無念流の「練兵館」の特徴は、「力の斎藤」と呼ばれた通り、真剣で両断するような激しい打ち込み。長州藩(現在の山口県)の多くの藩士が練兵館の剣術を習得しました。
木戸孝允(桂小五郎)
練兵館出身者には、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、伊藤博文、渡辺昇、谷干城、品川弥二郎、藤田東湖などがいます。
鏡新明智流の「士学館」は、初代「桃井春蔵」(もものいしゅんぞう)が日本橋茅場町に創設し、4代桃井春蔵の時代に栄えた道場です。
4代桃井春蔵は、1825年(文政8年)、沼津藩士「田中重左衛門」の次男として誕生した人物。1838年(天保9年)に、3代桃井春蔵に入門し、才能を見込まれて婿養子となり、25歳で奥伝を受け春蔵を襲名。1863年(文久3年)には、江戸幕府の講武所剣術教授方に登用されています。
鏡新明智流の「士学館」の特徴は、「位の桃井」と呼ばれた通り、高い品位。土佐藩(現在の高知県)の多くの藩士が士学館の剣術を習得しました。
士学館出身者には、「土佐勤皇党」(とさきんのうとう)を開いた「武市半平太」(たけちはんぺいた)や「人斬り以蔵」として恐れられた「岡田以蔵」(おかだいぞう)がいます。
幕末には、剣術に優れた剣士がたくさん登場します。なかでも幕末最強と言われたのが、新選組局長の「近藤勇」(こんどういさみ)、「沖田総司」(おきたそうじ)。そして、「坂本龍馬」(さかもとりょうま/りゅうま)です。彼らのどこが最強だったのか、詳しくご紹介します。
「近藤勇」は、1834年(天保5年)、武蔵国(現在の東京都調布市)生まれ。
百姓「宮川久次郎」の三男として誕生しましたが、14歳の1848年(嘉永元年)に「試衛館」に入門し、才能を見込まれて、15歳の1849年(嘉永2年)に天然理心流3代宗家「近藤周助」の養子となりました。同年、天然理心流の皆伝免許を取得し、4代宗家に就任。
1863年(文久3年)、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」の上洛の警護のために、京都に上って浪士組に加わり、のちに新選組を結成して局長となり、尊王攘夷運動を取り締まる幕臣となりました。
天然理心流とは、寛政年間(1798~1801年)に遠江国(現在の静岡県西部)出身の「近藤内蔵之助長裕」が創始した剣術道場。天然理心流の特徴は、鹿島神道流を淵源としており、柔術を併習する剣術流派であるところでした。
近藤勇
近藤勇が最強と呼ばれるのは、やはり、1864年(元治元年)におきた「池田屋事件」での実績。新選組は、旅館の池田屋(現在の京都府)で集会をしていた攘夷派で肥後藩の「宮部鼎蔵」(みやべていぞう)、長州藩の「吉田稔麿」(よしだとしまろ)など、30名を襲撃。9人を斬殺し、20余名を捕らえることに成功したのです。
このとき、激しい乱闘となり、新選組の永倉新八は左手親指に深い傷を負い、沖田総司は奮戦したものの肺結核で倒れて戦闘不能となり、近藤勇のみ無傷だったと言われています。なお、永倉新八は新選組の中で一番長生きだったため、真の最強と言われています。
幕臣として名を高めた近藤勇は、「鳥羽・伏見の戦い」に参戦し新政府軍と戦いましたが敗戦。江戸に戻って「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)を組織しましたが、1868年(慶応4年)に捕らえられ、斬首刑となりました。
「沖田総司」は、1842年(天保13年)、または1844年(天保15年)に生まれました。
父は、白河藩(現在の福島県白河市)藩士「沖田勝次郎」です。沖田総司は、江戸の白川藩屋敷(現在の東京都港区南麻布)で誕生したと言われています。
沖田総司が4歳のときに、父・沖田勝次郎が死去。9歳のときに天然理心流「試衛館」に入門し、約10歳年上の近藤勇、「土方歳三」達と出会うのです。
試衛館では、剣術の天才と言われ、剣術で沖田総司にかなう者はなく、14歳で近藤勇とともに出張稽古に行くことを許され、19歳で天然理心流の免許皆伝を取得し、塾頭となっています。そして、近藤勇とともに「浪士組」、「新選組」と参加し、沖田総司は「一番隊隊長」として京都の治安維持に尽力したのです。
沖田総司
新選組の中で、剣術の腕は最強と呼ばれた沖田総司ですが、肺結核を患い、1864年(元治元年)6月、「池田屋事件」の際に、喀血して戦線離脱。その後は床に伏せることが多くなり、1868年(慶応4年)、負傷した近藤勇とともに江戸に帰還し、千駄ヶ谷(東京都新宿区)で療養生活に入りました。死の直前、沖田総司が「黒猫が切れない」と嘆いたという話は有名ですが、同時に、死の直前まで「近藤先生を襲った者は俺が切る」と繰り返したとも記録されています。
そんな沖田総司は、1868年(慶応4年)、近藤勇が処刑された翌月にあとを追うように没しました。
「坂本龍馬」は、1836年(天保7年)土佐国(現在の高知県)生まれ。
世界における日本というスケールで物事を考え、日本を開国に導いたことで知られます。そんな坂本龍馬は、剣豪としても有名でした。
幼い頃に実の姉から剣術を学び、1853年(嘉永6年)、17歳のときに江戸に出ますが、上級武士ではない坂本龍馬は、はじめ千葉周作が指揮する「玄武館」には入れず、千場周作の弟が運営する「千場道場」(ちばどうじょう)で修行に励みました。
そして1856年(安政3年)に玄武館での修行を許され、その2年後、1858年(安政5年)に北辰一刀流の免許皆伝。千葉道場の塾頭を勤めています。
坂本龍馬
その後は土佐に戻り、盟友・武市半平太の土佐勤皇党に参加し、1862年(文久2年)には土佐藩から脱藩。江戸にのぼり、尊王攘夷よりも開国を主張する「勝海舟」(かつかいしゅう)の門人として、海軍の設立に奔走します。
その中で、海軍の増強を画策していた薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)と接近。開国を推進するには、有力な薩摩と長州(現在の山口県)が反目すべきではないと主張し、1866年(慶応2年)に「薩長同盟」(さっちょうどうめい)を実現させたのです。これで坂本龍馬は幕府から追われる身となりました。同盟成立直後、京都の「寺田屋」(京都市伏見区)を伏見奉行所の役人に襲撃され、命からがら脱出したことは有名です。
しかし坂本龍馬は、自分が狙われていることを知りながら、京都でも自分を守ってくれるはずの土佐藩邸に入らず、定宿の「近江屋」(おうみや:京都市中京区)で新しい国づくりに向けた活動を続けました。その理由は、剣の腕に自信があったことに加え、いざとなったら最新式のピストルがあったためと言われます。
しかし1867年(慶応3年)、「大政奉還」(たいせいほうかん)の2ヵ月後、旧幕府勢力に襲撃されて坂本龍馬は非業の最期を遂げたのです。