明治時代

山県有朋

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伊藤博文(いとうひろぶみ)と同じく、低い身分から内閣総理大臣にまで上りつめた山県有朋(やまがたありとも)。しかし、政治家としての両者のキャリアは対照的で、伊藤博文が政府官僚としての道を選び、立憲制による近代国家の成立を目指したのに対して、山県有朋は軍人としての道を選び、主に日本の軍制の整備を進めました。西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)という「維新の三傑」(いしんのさんけつ)に代わる世代として伊藤博文らとともに大きな足跡を残した山県有朋の生涯を振り返ります。

下級武士の息子から松下村塾の塾生に

山県有朋

山県有朋

山県有朋は1838年(天保9年)、長州藩阿武郡川島村(ちょうしゅうはんあぶぐんかわしまむら:現在の山口県萩市川島)の下級武士・山県有稔(やまがたありとし)の子として生まれました。

幼名は辰之助(たつのすけ)。少年期より槍術などの武術の鍛錬とともに勉学にも励み、15歳で元服(げんぷく/男子を一人前の男として認める儀式)を迎えます。その後、1853年(嘉永6年)の黒船来航とともに高まりを見せた尊王攘夷論(そんのうじょういろん:天皇を尊び、外敵を排除しようという思想)に影響を受けるように。

ちょうどその頃、長州藩が人材育成のため京都に有望な若者を派遣することになり、山県有朋も友人の推薦により参加の機会を得ます。メンバー6名のうち、4名は吉田松陰(よしだしょういん)の私塾である「松下村塾」(しょうかそんじゅく)の塾生で、そこには生涯のライバルとなる伊藤博文も所属していました。

京都で松下村塾の塾生であった久坂玄瑞(くさかげんすい)らと交流を深めた山県有朋は、帰郷後正式に松下村塾に入塾しますが、翌年1859年(安政6年)に吉田松陰が「安政の大獄」(あんせいのたいごく)により29歳の若さで刑死。わずか1年で師を失ってしまいます。

伊藤博文ら他の塾生に比べると、山県有朋が塾生だった期間はとても短いものでした。しかし山県有朋本人は、生涯にわたって自身を「松陰先生門下」と称し、松下村塾の塾生であったことを誇りにしていました。

陸軍卿となり、苦慮の末に西南戦争を鎮圧

1863年(文久3年)、伊藤博文が井上馨(いのうえかおる)らとともにイギリスへ渡り、尊王攘夷論から開国論へと転じた頃、山県有朋は松下村塾の同窓である高杉晋作(たかすぎしんさく)に代わって「奇兵隊」(きへいたい:長州藩で結成された軍隊組織)の軍監(ぐんかん:軍の監督をする役職)に就任しました。

当時、日本国内では攘夷(じょうい:外国人を排斥すること)運動が活発化しており、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃しますが、諸外国の報復攻撃に遭い敗北。これが「下関戦争」(しものせきせんそう)の始まりです。そして翌1864年(元治元年)、長州藩は海外列強4ヵ国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)連合艦隊の襲撃を受けまたも敗北し、山県有朋も列強との圧倒的な軍事力の差を思い知ることになります。

1869年(明治2年)6月からの1年のヨーロッパ視察を経て兵部省大輔(ひょうぶしょうたいふ:兵部省の実質的トップ)となった山県有朋は、元長州藩士に暗殺された大村益次郎(おおむらますじろう)のあとを受けて近代軍隊の基礎となる「徴兵制」(ちょうへいせい)を制定。1873年(明治6年)には陸軍卿(りくぐんきょう)となり、大きな影響力を持つ存在になります。

この時期の山県有朋にとって苦しい体験となったのが、1877年(明治10年)に勃発した「西南戦争」(せいなんせんそう)です。西郷隆盛(さいごうたかもり)のもと、鹿児島の士族を中心とした約40,000人の兵が集まり、同年2月から7ヵ月にわたって政府軍と戦った士族反乱を総称して「西南戦争」と呼びます。

軍創設の先輩であり、かつて志を同じくした西郷隆盛を政府として討つことをためらった山県有朋は西郷隆盛に書簡を送り、不毛な戦いの早期終結を望みました。しかし事態は好転せず、西郷隆盛は同年9月に自刃(じじん:自ら命を絶つこと)。

同年5月には明治維新の指導者のひとりであり、長州藩の先輩にあたる木戸孝允(きどたかよし)も病死しており、敬愛する両者を同時期に亡くした山県有朋の喪失感は大きかったことでしょう。

第1次伊藤内閣において内務大臣に任命される

1885年(明治18年)に内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。山県有朋はこの第1次伊藤内閣において内務大臣に任命されました。

ともに、長州藩下級武士の貧しい家庭で育ち松下村塾で学び、一時は奇兵隊でもともに戦った両者ですが、政府官僚の道を選んだ伊藤博文は、年齢は山県有朋の3歳下でありながら、軍人の道を選んだ山県有朋よりも常に一歩早く出世しました。閣僚として内閣総理大臣・伊藤博文の指示を受ける立場となった山県有朋は、複雑な心情だったに違いありません。

1889年(明治22年)、伊藤博文らの尽力によって実現した「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)の発布を祝い、日本中が祝祭ムードで盛り上がっていた頃、山県有朋(やまがたありとも)は自治行政視察のためヨーロッパに滞在中でした。

この頃の山県有朋は、あまり目立った活動をしていないように思われがちですが、実は軍人畑での経験と人脈を活かした功績を多く残しています。

徴兵令による新軍隊の編成、軍政改革の遂行、そして「軍人訓戒」(ぐんじんくんかい)・「軍人勅諭」(ぐんじんちょくゆ)による明治近代軍隊の精神の啓蒙など、軍隊の近代化の実現に尽力することで藩閥政治(はんばつせいじ:薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩出身の有力者が明治政府の閣僚の多数を占める政治体制)を支え、憲法体制を維持・強化する役割を担っていたのです。

官僚や軍部に山県閥を形成し、長く権力を維持

対人関係において慎重だったと言われる山県有朋は、一度信用した人物はとことん人事的に重用することでも知られ、こうしたなかから軍部や政官界に「山県閥」(やまがたばつ)と呼ばれる派閥が形成されるようになりました。

これは人付き合いが淡白で、最後まで派閥が作られることのなかった伊藤博文との大きな違いであり、山県有朋は自身の派閥を基盤として着実に権力を握ることになります。

そして1890年(明治23年)に初めて組閣。第3代内閣総理大臣となり、在籍期間1年5ヵ月の間に「市町村制」及び「府県郡制」の公布による地方自治の成立、「第1回帝国議会」の開会、「教育勅語」(きょういくちょくご)の発布などを実現し、山県有朋は軍人としてだけでなく、政治家としても確固たる地位を得ました。

続いて1898年(明治31年)には第2次山県内閣を発足させ、第9代内閣総理大臣に。地租(土地に課せられる税)を2.5%から3.3%に引き上げる増徴案の成立や「文官任用令」(ぶんかんにんようれい)の改正、「軍部大臣現役部管制」(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)の制定などを行い、山県閥の官僚や軍部による権力体制を固めます。

山県有朋は、「集会条例」(しゅうかいじょうれい)の強化を指示するとともに、「保安条例」(ほあんじょうれい)の強行実施により市民の反政府運動の弾圧を強化しました。これにより山県有朋は官僚と軍人には支持を得ながらも、民衆からの大きな支持は得られませんでした。

1922年(大正11年)2月に85歳で死去したのちに国葬が営まれた際も、その1ヵ月前に同じ日比谷公園で執り行われ、300,000人が参列し「国民葬」と呼ばれた大隈重信(おおくましげのぶ)の葬儀に比べると国民の参列者は少なく、閑散としていたとされています。

山県有朋の口癖は「一介の武弁(ぶべん:武士)」でした。内閣総理大臣経験者でありながら、1894年(明治27年)の「日清戦争」(にっしんせんそう)では第一軍司令官として自ら出征。1904年(明治37年)の「日露戦争」(にちろせんそう)でも満州軍総司令官のポストを強く望みました(実際に任命されたのは参謀総長の大山巌)。

時代に先駆けて徴兵制を制定し、軍事の改良と整備により、軍隊の近代化を進めた山県有朋の功績は大きなものです。また政治家としても、地方自治制の施行など高く評価されるべき実績を残しています。しかし山県閥を率いてライバル・伊藤博文を圧倒したのちも元老として権力を維持し、長く政界に君臨し続けた山県有朋は、もしかすると自分が思っていたより長生きしすぎたのかもしれません。

1909年(明治42年)に東清鉄道のハルビン駅で伊藤博文が暗殺された際には「死に場所を得た伊藤がうらやましい」と側近に語っていたと言われています。7人いた実子のうち6人を早くに失い、夫人にも先立たれた「政界の帝王」の孤独は、相当根深いものだったに違いありません。

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