討幕派・明治維新の中心人物

木戸孝允/桂小五郎(長州藩士)
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木戸孝允/桂小五郎(長州藩士) 木戸孝允/桂小五郎(長州藩士)
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幕末期は長州藩を主導して国事に奔走し、明治初期は新政府内にあって日本の近代化を推し進めた「桂小五郎」(かつらこごろう)こと「木戸孝允」(きどたかよし)。この人物なくして長州藩の武力討幕はなく、明治政府による国家経営の刷新もありえませんでした。 現在、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)と共に「維新三傑」の一員に数えられていますが、この2人と大きく異なる点は、桂小五郎が剣豪であったことです。愛刀や剣豪たるゆえんを踏まえて、その生涯をご紹介します。

長州藩の尊皇攘夷派における中心人物

長州藩に桂小五郎あり

桂小五郎は1833年(天保4年)6月26日、萩城下の町医者「和田昌景」(わだまさかげ)の子として生まれました。桂家に養子に入ったのが8歳。以後、1865年(慶応元年)9月29日まで「桂小五郎孝允」を名乗ります。

10代の頃から学業優秀者に贈られる褒賞を受けるなど頭角を現し、1849年(嘉永2年)には藩校「明倫館」(めいりんかん)で「吉田松陰」(よしだしょういん)の教えを享受。

以降、「松下村塾」の塾生ではなかったものの、門人の礼を執り続けました。1860年(万延元年)には水戸藩の尊皇攘夷派と盟約を結び、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)や「久坂玄瑞」(くさかげんずい)と並んで、長州藩内の尊皇攘夷派の中心人物となっていきます。

一方で、「勝海舟」(かつかいしゅう)や「坂本龍馬」(さかもとりょうま)、「横井小楠」(よこいしょうなん)などの開明的な人々とも交流。

広く思想を受け入れる柔軟さも、桂小五郎の特長のひとつでした。やがて長州藩が御所警護の任にある立場を利用して朝廷内の尊皇攘夷派公家とも手を結ぶと、京都における存在感も高まり、「長州に桂小五郎あり」と広く名前を知られるようになりました。

木戸孝允

木戸孝允

京都に潜伏し長州藩の信頼回復に奔走

1863年(文久3年)、朝廷内で「八月十八日の政変」が勃発すると、京都における長州藩の影響力は失われ、桂小五郎も一転、幕府から追われる身となります。尊皇攘夷運動の高まりに危機感を募らせた「孝明天皇」(こうめいてんのう)が、朝廷内の公武合体派公家と薩摩藩会津藩の両藩を動かし、尊皇攘夷派公家と長州藩勢力を京都から一掃させたのです。

しかし、長州勢力が京都を追われたあとも桂小五郎は京都に潜伏し、藩の信頼回復に奔走しました。1865年(慶応元年)には藩命で名を「木戸貫治孝允」に改名。桂小五郎の名前が有名だったため、幕府の追及から逃れる目的で別人になりすましたのです。

この頃、桂小五郎改め木戸孝允は、土佐脱藩浪士の坂本龍馬を介して薩摩藩との接触を開始します。薩摩藩は長州藩を京都から追い出した遺恨の敵でしたが、幕府による「第二次長州征伐」が迫る中、西南雄藩の筆頭格であり中央政局に絶大な影響力を有する薩摩藩と提携することは、長州藩が生き延びる上で不可欠でした。

1866年(慶応2年)1月、京都で「薩長同盟」の密約が成立すると、長州藩の命運は討幕という大目標に向けて、大きく動き出します。

薩長同盟

薩長同盟

維新の中心人物として存在感を発揮

新政府の目玉政策を統括

王政復古の大号令」が下され明治政府が樹立されると、木戸孝允は参与を拝命。1868年(明治元年)1月に「五箇条の御誓文」を起草し、秋には大久保利通に封建領主制改革について提案します。この結果、1869年(明治2年)に「版籍奉還」(はんせきほうかん)が実現。かつて大名だった諸侯達に領地と領民を差し出させたのです。

木戸孝允は1869年(明治2年)には参議に就任。1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)にも大きくかかわりました。しかし、「岩倉遣外使節団」(いわくらけんがいしせつだん)に副使として加わり、1873年(明治6年)7月に帰国すると、政府内で「征韓論」の議論が持ち上がります。

木戸孝允は内治拡充の立場から反対しますが、共に維新を牽引した西郷隆盛や「江藤新平」(えとうしんぺい)らが「明治六年の政変」で下野。木戸孝允は参議兼文部卿となりますが、この頃から健康面での不安が目立つようになります。

さらに1874年(明治7年)には、大久保利通の台湾出兵に反対して参議を辞職。一度は政府に復帰したものの大久保利通と意見が対立しがちであり、体調悪化も伴って第一線からの後退を余儀なくされてしまいます。

そして1877年(明治10年)、下野後、薩摩に隠棲していた西郷隆盛が挙兵して「西南戦争」が勃発すると、病床で「西郷君、分かった。分かったから、いい加減にしないか」と呟きつつ病没。享年45歳でした。

西南戦争

西南戦争

異称は「逃げの小五郎」

木戸孝允は、桂小五郎と名乗っていた時代にあだ名を付けられていましたが、それが「逃げの小五郎」です。反幕府勢力の首魁・長州藩の有力者ということもあり、幕府側から命を狙われる機会が多かったものの、常に逃げの一手で危機を切り抜けています。

例えば、1864年(元治元年)6月に起こった「池田屋事件」。京都を追われた尊皇攘夷派の志士が池田屋で密談中、新撰組に急襲されて多くの志士が討ち取られた際も、桂小五郎は辛くも難を逃れました。「一足先に池田屋に行ったら人が少なかったので、出直そうと思って対馬藩邸に赴いたのが幸いした」と本人は回想していますが、幕府の記録では「桂小五郎は屋根伝いに逃げた」と記しています。

この1ヵ月後には長州藩が御所に攻めかかった「禁門の変」が勃発。長州勢は敗れて京都から追われてしまいますが、このときも桂小五郎は変装を駆使して幕府側の厳しい追及を逃れつつ、京都内を転々としました。芸妓の「幾松」(いくまつ:のちの正妻[木戸松子])が身をやつして、二条大橋の下に潜む桂小五郎のもとへ握り飯を運んだという有名な逸話も残っています。

また、首尾よく京都を脱出するや、今度は但馬地方(現在の兵庫県北部)に潜伏。地方内をあちこちと逃げ回って幕府側の追及をかわしています。「逃げの小五郎」という異称はこのとき、逃亡行為を揶揄する意味で付けられました。

日本刀の目利きにも長けた人物

桂小五郎は剣豪としても知られ、流儀は「神道無念流」。長州から江戸に出府して、「斎藤弥九郎」(さいとうやくろう)が営む同流道場「練兵館」に入門するや、わずか1年で免許皆伝を許され、塾頭を5年間務めています。

得意の構えは大上段。当時としては高身長の5尺8寸(約174㎝)だったこともあり、竹刀を振りかぶるだけで相手を圧倒しました。塾頭期間中はたびたび剣術教授を行い、「直心影流男谷派」(じきしんかげりゅうおだには)の剣豪「男谷信友」(おだにのぶとも)の直弟子を破ったとも伝えられています。

愛刀は「備前長船清光」(びぜんおさふねきよみつ)でした。備前とは現在の岡山県東部、長船とは吉井川下流域一帯の地名です。中国山地で良質な砂鉄が採取でき、さらに鍛刀の燃料となる炭が生産できることや、吉井川の水運が利用できること、中国山地の伏流水が焼き入れに必要な良質の水として湧くことなど好条件が重なり、備前長船は平安時代中期から日本刀の主要産地となります。

備前刀は日本刀を代表する一大ブランドでした。備前長船清光はこの備前刀のうち、「末備前」(すえびぜん:応仁の乱、文明の乱から室町時代末期に到る時期の備前刀)を代表する名工のひとりです。「数物打」という粗悪刀も多い末備前にあって、「注文打」の備前長船清光を愛刀とするあたり、桂小五郎は日本刀に対する目利きであったことが窺えます。

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