江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の実父であり、水戸藩(現在の茨城県)9代藩主として知られる「徳川斉昭」(とくがわなりあき)。「青天を衝け」(せいてんをつけ:2021年[令和3年]度放送)や「西郷どん」(せごどん:2018年[平成30年]度放送)など、幕末を題材にした歴代のNHK大河ドラマに何度か登場しており、そのほとんどにおいて頑固者であった人物像が描かれています。実際に徳川斉昭は、「烈公」(れっこう)と称されるほど苛烈な性格であった史実が残されているのです。また、徳川斉昭ゆかりの場所として「偕楽園」(かいらくえん)があります。この偕楽園は、現在でも多くの観光客や大河ドラマのファンが訪れて賑わいを見せている名所のひとつ。 今回は、徳川慶喜との関係や家系図を交えて徳川斉昭の半生と功績をご説明すると共に、徳川斉昭が鍛えた「刀剣ワールド財団」の所蔵刀「刀 無銘 葵紋崩[徳川斉昭]」(かたな むめい あおいもんくずし[とくがわなりあき])、そして偕楽園についてもご紹介します。
「烈公」と呼ばれた徳川斉昭は、水戸徳川家の9代当主です。「水戸徳川家」は、「徳川御三家」(とくがわごさんけ:江戸時代に将軍家の次に地位を持っていた徳川氏[水戸徳川家]、[尾張徳川家]、[紀州徳川家]の3家)のひとつ。
徳川家康の十一男「徳川頼房」(とくがわよりふさ)を祖としています。徳川斉昭は、水戸徳川家7代当主「徳川治紀」(とくがわはるとし)の三男。
兄弟達が養子として出ていく中、聡明な徳川斉昭は、長男であり水戸徳川家8代当主「徳川斉脩」(とくがわなりのぶ)の控えとして、幼少期から部屋住みで過ごしました。
のちの第15代将軍「徳川慶喜」は、徳川斉昭の七男。しかし、徳川慶喜は、一橋徳川家の養子となったのちに第15代将軍になった理由で、徳川斉昭とは別の家系として考えられているのです。
水戸徳川家
2021年(令和3年)現在では、「徳川斉正」(とくがわなりまさ)氏が第15代水戸徳川家当主であり、「東京海上日動火災保険株式会社」常勤顧問、公益財団法人「徳川ミュージアム」理事長などを務めています。このあと、「徳川斉礼」(とくがわなりよし)氏が、16代水戸徳川家当主を継承される予定です。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の作中、徳川慶喜の実父である徳川斉昭は、中心人物として多くの場面に登場。その豪快で破天荒な性格をよく表しているセリフが「快なり!」。
このシンプルで力のあるセリフは、ソーシャルメディアやインターネット上でもあっという間に話題になり、「流行語大賞」にノミネートしてほしいとまで望まれ、多くの人の心に残りました。この「快なり!」は「愉快だ」の意味ですが、特に、徳川斉昭が歓喜する場面での口癖としてとても印象的でした。
青天を衝けでも描かれていたように、民衆にとって心強い存在であり、改革に邁進する徳川斉昭の魂やカリスマ性は、実子・徳川慶喜にもしっかりと受け継がれていくのです。そして、青天を衝けでは、主人公である渋沢栄一と徳川斉昭の関係性も興味深く描かれています。
1800年(寛政12年)、水戸藩(現在の茨城県)の7代藩主「徳川治紀」(とくがわはるとし)の三男として生まれた「徳川斉昭」(とくがわなりあき)。
次代藩主は長兄の「徳川斉脩」(とくがわなりのぶ)に決まっており、その他2人の兄は他家へ養子に出されていました。
一方で徳川斉昭は、30歳頃まで部屋住み(次男以下で家督相続権がなく、独立せずに親の家に留まっている者)でしたが、1829年(文政12年)に8代藩主・徳川斉脩が没すると、紆余曲折を経て9代藩主に就任。即座に藩政改革へと乗り出したのです。
徳川斉昭
徳川斉昭は藩政改革に尽力していた傍ら、欧米列強に対抗するため、海防に対して大きな関心を示していました。そのきっかけとなったのは、1824年(文政7年)、水戸藩領の海岸にイギリスからの捕鯨船が上陸した事件です。そののち徳川斉昭は大砲を鋳造し、「那珂湊」(なかみなと)へ設置しました。
しかし、この大砲を鋳造する際にも、徳川斉昭の苛烈な性格が発揮されています。もともと徳川斉昭は、水戸学における「敬神廃仏」(けいしんはいぶつ)の思想を持ち、仏教を好ましく思っていませんでした。そのため、領内にある190もの寺院を破壊し、大砲の材料となる鐘などを没収。同時に住職のいない寺院を廃絶しています。
ところが、徳川斉昭を嫌っていたのは幕府などの既存勢力ばかりで、領民の多くは徳川斉昭を支持していました。特に藩政改革の一環として行われた検地などによって貧困から抜け出せた農民達は、徳川斉昭が不遇な扱いを受けていることに黙っていられず、復帰を願う運動が広がっていったのです。そのおかげで徳川斉昭は、1846年(弘化3年)に謹慎処分が解かれ、1849年(嘉永2年)には藩政への復帰が認められました。
またこの頃の徳川斉昭は、薩摩藩(現在の鹿児島県)11代藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)など、年下の大名達と攘夷や海防について活発に意見を交換。これらの分野における先駆者として、頼られる存在になっていたのです。
徳川斉昭は、1853年(嘉永6年)のペリー来航後、黒船は打ち払うべきとの主張を記した建白書を江戸幕府に提出。その上で徳川斉昭は、大砲や弾薬も献上しました。
これにより幕府は、徳川斉昭を「海防参与」に任命。得体の知れない黒船の出現に動揺を隠せずにいた江戸市民は、これを大いに喜びます。
この様子が、NHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)でも取り上げられていました。それは、2021年(令和3年)2月28日に放送された第3回「栄一、仕事はじめ」でのエピソード。
ペリー来航
海防参与への就任で一躍英雄となった徳川斉昭の顔を、古代中国の名軍師「諸葛孔明」(しょかつこうめい)の姿に描いた錦絵が江戸市中に出回ったのです。このエピソードからは、徳川斉昭が民衆にとって心強い存在であり、カリスマ性を持った人物でもあったことが窺えます。
攘夷論を貫いた徳川斉昭は、13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の後継者問題や、「日米修好通商条約」の勅許(ちょっきょ:天皇からの許可)問題を巡って、彦根藩(現在の滋賀県)藩主でありながら、幕府の大老も務めた「井伊直弼」(いいなおすけ)と対立。そののち、「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と呼ばれる幕府の弾圧により、1859年(安政6年)、水戸での永蟄居(えいちっきょ)を命じられました。
そして1860年(安政7年/万延元年)に徳川斉昭は、そのまま水戸の地で帰らぬ人となったのです。なお、その死因は心筋梗塞であったと推測されています。
苛烈な性格から烈公と呼ばれていた徳川斉昭ですが、その性格が故に、抜群の行動力を発揮して藩政に腕を振るい「名君」と評されていたことも事実。
徳川斉昭がこのような功績を残せたのは、無類の肉好きであったことも関係しているのではと言われています。
江戸時代に肉食は禁忌とされていましたが、徳川斉昭は牛肉を積極的に食べていました。肉食によってスタミナを蓄えていたからこそ、水戸藩主としてタフに動き回れていたのかもしれません。
また牛肉が原因となり、徳川斉昭と井伊直弼の間ではひと悶着が起こっています。井伊家では、徳川将軍家や水戸徳川家を含む徳川御三家などに味噌漬けにした牛肉を献上していましたが、熱心な仏教徒であった井伊直弼が藩主になると、その慣例は取り止めになります。これを受けて徳川斉昭は、「毎年楽しみにしている牛肉を送って欲しい」と彦根藩へ書状を再三送りましたが、井伊直弼は取り合ってくれなかったのです。
牛肉
この牛肉の恨みが、1860年(安政7年/万延元年)に、水戸浪士達が井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」の勃発に繋がったとする異聞があります。もちろん、同事件が起こった実際の主な要因は、水戸藩率いる尊王攘夷派との対立です。
しかし、この牛肉にまつわる逸話は、もと・水戸藩士が1893年(明治26年)に著した「水戸藩党争始末」にも記載されているできごと。桜田門外の変の直接的な要因ではなくても、徳川斉昭の部下である水戸藩士達がそれを伝え聞いたことで、井伊直弼に対する反感をより一層高めたのかもしれません。
「文武両道」を掲げて弘道館を開いたことからも分かるように、徳川斉昭は武芸のみならず、学問の修得についても重きを置いています。そのなかで徳川斉昭自身も、書を得意とするなど文化的な側面を持っていました。
それが窺えるのが、「刀剣ワールド財団」が所蔵する「刀 無銘 葵紋崩[徳川斉昭]」(かたな むめい あおいもんくずし[とくがわなりあき])を始めとして、いくつかの刀を作刀していたと伝わる史実です。徳川斉昭のように、専門の刀工ではない貴人の作刀は「慰み打ち」(なぐさみうち)と呼ばれ、その御相手鍛冶は、水戸藩お抱えの名工「直江助政」(なおえすけまさ)・「直江助共」(なおえすけとも)父子が務めていました。
徳川斉昭の作刀は趣味の域を超え、杢目肌(もくめはだ)が目立つ独特の地鉄(じがね)である「八雲鍛え」(やぐもぎたえ/やくもぎたえ)を自ら考案するまでの腕前を持っていました。その刀工名に用いられていたのが「水戸烈公」の名です。幕末の大名でありながら優れた作刀技術を持っていた徳川斉昭は、刀工としても高い評価を受けています。
兄弟の中でも、徳川斉昭に特に目をかけられて育った七郎麻呂(のちの徳川慶喜)は、1837年(天保8年)、徳川斉昭の七男として生まれます。七郎麻呂が7歳の頃、徳川斉昭が、自分の子供達の評価をしたことがありました。
その際、徳川斉昭は、七郎麻呂に対して「七郎は天晴[あっぱれ]名将とならん。されどよくせずば手に余るべし」と評価。徳川斉昭の女房達や侍女達には、七郎麻呂のわんぱくさは目に余るものがあり評判は良くなかったものの、徳川斉昭や家臣達には、七郎麻呂の強情さや乱暴な一面は、「常人にあらず」と、むしろ期待を持って養子に出さずに目の届くところに留め、厳しい鍛錬や教育を施していたと考えられるのです。
七郎麻呂が徳川慶喜を名乗るのは、1847年(弘化4年)「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつ、「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)を相続したときです。この当時、一橋徳川家では、第7代当主「徳川義嘉」(とくがわよしひさ)が跡継ぎのいないまま25歳で死去。
尾張徳川家より養子となった「徳川昌丸」(とくがわまさまる)が第8代当主となったものの、徳川昌丸も、一橋徳川家を相続した3ヵ月後に病死してしまいます。そこで、七郎麻呂に一橋徳川家相続の打診が。徳川斉昭はこれを快諾。このとき七郎麻呂は11歳でした。
NHK大河ドラマ青天を衝けの第1回「栄一、目覚める」(2021年[令和3年]2月14日放送)でも、このときの場面が描かれています。徳川慶喜に一橋徳川家相続の打診を受けると、徳川斉昭は、「快なり!快なり!」と歓喜の声を上げたのです。1862年(文久2年)、徳川慶喜は「将軍後見職」(しょうぐんこうけんしょく:江戸幕府により新設された要職のひとつ)に就き、「文久の改革」(ぶんきゅうのかいかく)と呼ばれる幕府改革に乗り出していました。
この頃、「公武合体運動」(こうぶがったいうんどう:幕府が朝廷の権力を抑制し利用する動きを抑えて、権力の均等を保つ目的の政治運動)を推し進めていた薩摩藩の「島津久光」(しまずひさみつ)が、勅命(ちょくめい:天皇の命令)を盾にして、江戸幕府人事に介入。
これを良しと思わない徳川慶喜は、ときの将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)を守る意志を固めます。そして、1863年(文久3年)、攘夷実行について朝廷と協議する目的で、徳川家茂が上洛を決意。徳川慶喜はこれに先んじて、上洛。朝廷に対して、攘夷実行と政治全般を幕府に任せるか、政権を朝廷に返すかの二択を迫ったのです。
この出来事も、NHK大河ドラマ青天を衝け第14回「栄一と運命の主君」(2021年(令和3年)5月16日放送)で描かれています。朝廷に政権を返上しないことを決めた徳川慶喜は、家臣達を集めて、祝会を催します。そこで「快なり!」と祝杯を上げる徳川慶喜の姿は、父親である徳川斉昭の魂が乗り移ったかのような快活な表情を見せるのです。
これはドラマ脚本の手法のひとつで、似たような場面を前半と後半で描き、後半に若干の変化をもたらすことで、人物の変化や成長を印象的に見せる効果があります。まさに、徳川斉昭の遺志や人格を徳川慶喜が受け継いでいることがとても印象深く表現されている場面で、放送後にも話題となりました。
NHK大河ドラマ青天を衝けの主人公として描かれている渋沢栄一。「実業界の父」、「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、かつて徳川斉昭が推奨した水戸徳川家独自の学問「水戸学」の影響を強く受けたとされています。
そのきっかけとなったのが、1853年(嘉永6年)「黒船来航」と1858年(安政5年)に米国と幕府の間で交わされた「日米修好通商条約」。14歳にして商売の才能を発揮していた渋沢栄一は、20歳になる頃に、学問と武芸の腕を磨くため、度々江戸に出向くようになります。
1863年(文久3年)は、尊王攘夷運動が過熱していた時代。渋沢栄一は、家族の反対を押し切り、「海保漁村」(かいほぎょそん:幕末の儒学者)の私塾に通うため、江戸に4ヵ月もの長期滞在をしたのです。渋沢栄一はこの頃に「水戸学」を知り、尊王攘夷運動にのめりこんでいくようになります。
実際、同年の1863年(文久3年)10月に、渋沢栄一は仲間を集めて、横浜港の「異人館」に火を放つ計画を立てたのです。結局、京都に滞在していた「尾高長七郎」(おだかちょうしちろう)の説得により異人館焼き討ち計画は中止に。家族に迷惑がかかることを恐れた渋沢栄一は、江戸に逃亡します。
その後、開国に動き出し混乱する日本の情勢を目の当たりにした渋沢栄一は、日本国のために自分にできることはないかと模索し始めるのです。
NHK大河ドラマ青天を衝けで、渋沢栄一と徳川慶喜の出会いの場面が描かれています。本編の脚本を担当する脚本家「大森美香」(おおもりみか)さんは、「ドラマの前半は徳川慶喜と渋沢栄一の2つの物語を軸に描いていく」と語っているように、2人の出会いはとても劇的で印象的な場面に。
この出会いの場面は、渋沢栄一の著書「雨夜譂」(あまよがたり)でも描かれていることから史実と言えます。異人館焼き討ち計画を中止し、従兄の「渋沢喜作」(しぶさわきさく)と2人で江戸へ逃亡。そんなとき、江戸に滞在していたときに交流のあった「平岡円史郎」(ひらおかえんしろう)から、一橋徳川家(徳川慶喜)への仕官の提案を受けたのです。
一晩話し合った末に、2人はこの提案を受けることに。ただ、困っているから召し抱えてほしいと願い出るのはあまりにも残念だと考えた渋沢栄一は、徳川慶喜に当てた意見書を書いて、平岡円史郎に渡します。意見書を一読した平岡円史郎はその意見書を、直接徳川慶喜に渡すことを約束。
しかし、それでも渋沢栄一の不安はぬぐい切れません。今度は、一度、徳川慶喜に拝謁したいと提案します。3人は話し合いを重ね、ひとつのアイデアを思いつきます。徳川慶喜は、2、3日中に「松ヶ崎」(まつがさき:京都府京都市)に遠乗り(馬で外出)の予定がありました。渋沢栄一は、その機会に、遠くからでも拝謁してもらおうと考えたのです。
徳川慶喜
そして、徳川慶喜が遠乗りに出た当日、渋沢栄一は、騎乗する徳川慶喜が遠目からでも、自分を目視できるように、懸命に走りました。渋沢栄一は、このときのことを「雨夜譚」の中で、「自分は太っていて、背も低いので、大変困った」と語っています。
後日、渋沢栄一は改めて徳川慶喜に拝謁することが叶い、一橋徳川家に仕官したのです。この場面もNHK大河ドラマ青天を衝けで描かれています。現在の日本においても、企業に入社する前に、直接社長に会い意見を述べるというのは大変なことですが、江戸時代にそれを実現した渋沢栄一の行動力は並外れていたと言えるでしょう。
幕末期の名君と呼ばれた徳川斉昭。現在でも残る徳川斉昭ゆかりの史跡として有名なのが、偕楽園。この偕楽園は、「兼六園」(けんろくえん:石川県金沢市)、「後楽園」(こうらくえん:岡山県岡山市)と並ぶ「日本三名園」のひとつに数えられ、1842年(天保13年)に徳川斉昭によって造園されました。
徳川斉昭は水戸藩士に、弘道館で文武を学んだあとに、鋭気を養い心身ともにリラックスできる教育施設のひとつとして偕楽園の創設に着手。偕楽園創設に対する徳川斉昭の趣旨を記した「偕楽園記」(かいらくえんき)には、「余(徳川斉昭)が、衆と楽しみを同じくするの意なり」とあることから、偕楽園は、水戸藩士だけではなく、領民にも広く開放する考えがあったことが分かります。
その考えは偕楽園の名前にも込められており、「偕楽」とは、「孟子」(もうし)の中国古典の一説「古の人は民と偕に(ともに)楽しむ」から取られているのです。「陰」(いん)と「陽」(よう)を風景に取り込む造園演出「借景」(しゃけい)や、「玉龍泉」(ぎょくりゅうせん:噴水の一種)など、偕楽園は徳川斉昭のこだわりや趣向が随所に見られる名所として、現在でも多くの観光客が訪れる人気のスポットとなっています。
偕楽園
偕楽園の中で、ひときわ目を引くのが、好文亭ではないでしょうか。好文亭は、徳川斉昭の別墅(べっしょ:しもやしき、別荘)ですが、この屋敷も、水戸藩士や民衆に広く開放されており、「偕[とも]に楽しむ」と言う徳川斉昭の思いが反映されているのです。
「好文」とは、梅の古称「好文木」(こうぶんぼく)を意味しており、中国の「晋」(しん)の武帝による古事記の一説「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」から取り、徳川斉昭が好文亭と名付けたとされています。
偕楽園は、梅の木がいたるところで見られる梅の名所としての一面も。1945年(昭和20年)、好文亭は、水戸空襲により焼失しましたが、1955年(昭和30年)より修復作業を開始。およそ3年をかけて修復を完了し、現在に至ります。
偕楽園(好文亭)
好文亭は、本館と奥御殿が太鼓橋廊下で繋がる造りになっており、太鼓橋廊下の出入り口の前にある広間が東塗縁広間。広間は、総板張りで漆塗りが施されており、天井は網代張りが美しい清雅な広間です。
この東塗縁広間は徳川斉昭が、80歳以上の水戸藩家臣、90歳以上の領民を招いた「養老の会」(ようろうのかい)を催した場所として知られています。この「養老の会」では、徳川斉昭から家臣や領民に「錦羽織」などの記念品が贈呈されたそうです。
好文亭の本館、東塗縁広間から「御座の間」(ござのま)を挟んだ広間にあるのが、西塗縁広間。ここは、徳川斉昭が「詩歌の会」(しいかのかい:和歌や俳句を詠む会)を開いたとされている部屋です。
広間はおよそ36畳の広さで、東塗縁広間と同じく、床も総板張りで漆塗りが施されています。仕切り戸の杉戸(すぎと:杉の一枚板を鏡板として差し込んだ戸)には「四声別韻字」(しせいべついんじ:漢字を表す音節を声調などによって4種類に分類して記した文字表のようなもの)などが記され、俳句や和歌を詠む際に、現在で言う辞書の代わりとして使われていました。
西塗縁広間と東塗縁広間の間にあるのが御座の間。この部屋は、水戸藩主が、直接的に家臣や客人を招き対話できるように造られています。床の間を設けず、1本の竹の柱で仕切られているシンプルな造りで、左右の網戸より西塗縁広間と東塗縁広間の様子が透けて見えるように工夫されているのが特徴的。
部屋の入口にある縁長押(えんなげし:縁板に接する柱に打ち付けられた長押し)には、徳川斉昭直筆で好文亭と言う文字が描かれています。
好文亭の本館の3階にあるのが、楽寿楼。3方向に広がる絶景を眺め、鋭気を養う目的のために造られた部屋です。
この部屋に入った途端に、視野が拡がり思考も研ぎ澄まされる感覚になると言われています。景色を妨げないように、戸袋(とぶくろ:引き戸の収納部分)が配置されているなど、徳川斉昭の心遣いが細部にまで施されているのです。
好文亭から太鼓橋廊下で繋がる奥屋敷が奥御殿です。全部で10室の植物の名前が付けられた部屋からなる平屋造りの建物で、主に水戸藩主の婦人が休養のために過ごしていた屋敷と言われています。
また、城中で火災など緊急事態が発生した場合の備えの場所としても利用されたのです。
水戸空襲で焼失したあと、復元された奥御殿の襖絵には、昭和時代を代表する日本画家「田中青坪」(たなかせいひょう)や、「須田珙中」(すだきょうちゅう)による部屋名ごとの植物にちなんだ日本画が描かれており、現在でも、奥御殿を巡る楽しみのひとつとして、観光客に人気を博しています。
奥御殿(つつじの間)
所蔵刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕