多くの人が思い浮かべる幕末の乱世に翻弄された江戸幕府の将軍と言えば、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)ではないでしょうか。
しかし、実はその先代である第14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)もまた、継嗣争いに巻き込まれるなど激動の時代に振り回された将軍だったのです。そのようななかで徳川家茂は、将軍家として初めての内親王との結婚、229年ぶりの上洛など「公武合体」(こうぶがったい)運動を進めるために尽力しました。
ここでは、13歳の若さで14代将軍の座に就いた徳川家茂が、青年将軍としてどのような功績を残したのかについて、その生涯を振り返りながらご説明します。
徳川家茂
「徳川家茂」(とくがわいえもち)が誕生したのは、1846年(弘化3年)。
父親は「紀州藩」(きしゅうはん)の11代藩主「徳川斉順」(とくがわなりゆき)であり、徳川家茂は元々徳川将軍家ではなく、紀州藩の跡継ぎだったのです。
しかし、徳川斉順は徳川家茂が生まれる16日前に亡くなっていたため、紀州藩の12代藩主には、徳川家茂の叔父にあたる「徳川斉彊」(とくがわなりかつ)が継いでいました。
ところが、徳川斉彊も30歳の若さで亡くなり、まだ4歳であった徳川家茂が、紀州藩13代藩主の座に就くことになったのです。
1851年(嘉永4年)に元服した徳川家茂は、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)より「偏諱」(へんき:貴人などの名前2字のうちの1字)を賜り、幼名の「菊千代」(きくちよ)から「慶福」(よしとみ)へ改名します。
紀州藩主継嗣として育てられた徳川家茂ですが、生まれてから将軍になるまでの期間を、江戸にある紀州藩邸(現在の東京都港区)で過ごしており、紀州藩に行ったことは1度もなかったのです。
この当時の江戸幕府では、13代将軍の「徳川家定」(とくがわいえさだ)に子どもがおらず、後継者問題で揺れていました。
その次期将軍の候補には、譜代筆頭であった「井伊直弼」(いいなおすけ)を中心とした「南紀派」(なんきは)が推した徳川家茂と、「水戸藩」(みとはん)の9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)ら「一橋派」(ひとつばしは)が推した「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が挙げられ、両派の間で熾烈な争いが繰り広げられたのです。
1858年(安政5年)4月には、南紀派の井伊直弼が将軍に次ぐ最高職である大老に就任。幕府における井伊直弼の発言権が強大化したことにより、同年6月には徳川家茂を、徳川家定の継嗣とすることが決定されます。
ところが同年7月、徳川家定が病没したことを受け、徳川家茂は同年10月、14代将軍に就任。徳川家茂は、継嗣となることが決められたわずか4ヵ月後に、将軍の座に就くこととなりました。
晴れて14代将軍となった徳川家茂は、このときまだ13歳。幼い将軍であったため、政務を補佐する人物が必要になりました。そこで、その任務にあたる「将軍後見職」(しょうぐんこうけんしょく)という役職が、臨時に設けられることになりました。
徳川家茂が将軍に就任した当初は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつに数えられる「田安徳川家」(たやすとくがわけ)の5代、及び8代当主であった「徳川慶頼」(とくがわよしより)が、将軍後見職に任命されます。しかし、徳川慶頼は南紀派であったため、実質的には井伊直弼の政治的権力が大きく影響していたのです。
ところが、1860年(万延元年)井伊直弼が「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺されたことにより治世の様相が一変。1862年(文久2年)、徳川慶頼は将軍後見職を罷免され、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の意向が汲まれた形で、一橋慶喜が就任することになったのです。
大きな権力を握っていた井伊直弼や、将軍後見職である一橋慶喜が中心となって幕政に取り組んでいたため、自身の政治的手腕を振るう機会にあまり恵まれなかった徳川家茂。そのため、将軍としての逸話はそれほど多く残されていません。
しかし、育ちの良い温厚な性格で、家臣達からは慕われていたと伝えられているのです。そのなかでも、徳川家茂が親同然に信頼を置いていた家臣が「尾張藩」(おわりはん)15代藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)。そんな2人の深い絆は、次のような逸話からも窺えます。
あるとき「江戸留守居役」(えどるすいやく)に任命された徳川茂徳。これは、幕府において老中の配下に属し、通行手形の管理や大奥の取り締まりなどを行なうだけでなく、将軍が不在のときには「江戸城」(えどじょう)の守衛を担当する役職です。
このため、主君である徳川家茂と離れることになった徳川茂徳は、徳川家茂の肖像画を制作しました。これは、徳川茂徳が徳川家茂に対して深い思慕の念を抱き、親愛なる情があったことがその背景にあったと推測されています。
また、徳川茂徳は徳川家茂亡きあと、13代将軍であった徳川家定の正室である「天璋院」(てんしょういん)通称「篤姫」(あつひめ)や、徳川家茂の正室であった「和宮」(かずのみや)と共に、この肖像画を眺めて在りし日の姿を偲んでいたとも伝えられているのです。
1853年(嘉永6年)に、アメリカからペリーが日本に来航して以降、江戸幕府は開国を前提とした政策を打ち出すようになります。その一方で朝廷は、外国人を追い払い入国させないとする「攘夷」(じょうい)の立場を取るようになり、両者の間に亀裂が生じました。
そんななか大老であった井伊直弼が、1858年(安政5年)、天皇の許可である「勅許」(ちょっきょ)を得ないまま「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結。これにより、幕府と朝廷の関係はさらに悪化することになったのです。
また、幕藩体制の弱体化により、それまで強気であった江戸幕府の立場が維持できず、「攘夷派」(じょういは)である朝廷の立場が強くなっていきます。さらには、前述した一橋派と南紀派による将軍後継者争いも、「薩摩藩」(さつまはん)や「土佐藩」(とさはん)などの、いわゆる「雄藩」(ゆうはん:勢力の強い藩)を分裂させる引き金となり、幕藩体制を揺るがす要因となっていました。
このような江戸幕府の弱体化を、朝廷との連携によって安定させようとする運動が起きます。これが「公武合体」(こうぶがったい)と呼ばれる政治運動です。公武合体運動は井伊直弼の暗殺後、老中に就任した「久世広周」(くぜひろちか)と「安藤信正」(あんどうのぶまさ)によって推進されました。強権を振るっていた江戸幕府でしたが、朝廷の権威を必要とするほどにその威厳を失っていたのです。
公武合体運動の一環として「内親王」(ないしんのう:天皇の直系である子、もしくは孫である女性)の将軍家への「降嫁」(こうか:皇女が臣下のもとへ嫁ぐこと)が図られます。本来、内親王の嫁ぎ先は「宮家」(みやけ:宮号を賜った皇族の一家)や「摂家」(せっけ)に限られており、武家に嫁した前例はありませんでした。家格を重要視するため、ふさわしい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かったのです。
このとき、降嫁する内親王として候補に挙がったのが、孝明天皇の妹である和宮でした。和宮は1846年(弘化3年)に生まれ、徳川家茂とは同い年の女性。しかし、和宮は6歳のときに、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのです。
そのため和宮は、この降嫁について再三固辞しましたが、孝明天皇の意向により和宮の降嫁が決定。そして、有栖川宮熾仁親王との婚約も解消されることになります。
その一方で徳川家茂も、紀州藩主時代に「伏見宮貞教親王」(ふしみのみやさだのりしんのう)の妹である「則子女王」(のりこじょおう)と婚約していましたが、将軍家を継承したことにより、その話が立ち消えになっていたのです。そして、和宮の降嫁の動きと共に、この婚約についても正式に解消しています。
江戸幕府からの和宮降嫁の申し出を受ける条件として、孝明天皇は鎖国攘夷の方針を政策に盛り込むことを要求。公武合体運動において和宮の降嫁と鎖国攘夷は、不可分のことだったのです。孝明天皇から具体的な攘夷策を挙げるように言われた江戸幕府は、しっかりした見通しもないまま、10年以内に鎖国攘夷の政策を実行することを約束。それほど江戸幕府は公武合体の実現を求めていました。
しかし、このあと江戸幕府は自ら結んだ鎖国攘夷の約束に苦しめられることに。日本の歴史を振り返れば分かる通り、開国の流れを止めることは不可能だったのです。鎖国攘夷を、現実のものにできずにいた幕府の立場はますます弱まり、朝廷が強気に出る足掛かりになってしまいます。
公武合体と鎖国攘夷の約束を背景に、徳川家茂と和宮の婚儀は、1862年(文久2年)2月江戸城内で執り行なわれ、婚儀に先立ち和宮の関東下向が約25日間に亘って実施されました。
このとき、和宮の行列は危険の多い東海道を避けて、中山道(なかせんどう)を通って江戸に向かっています。12の藩が和宮の御輿(おこし)を護衛し、29の藩が沿道の警護にあたっており、和宮の御輿入れでは、万を超える人馬・調度の大行列となったのです。
和宮の降嫁により朝廷の権威を借りる形になった幕府は、その実現に困難を極めていた鎖国攘夷を、いよいよ実行しなければならなくなりました。朝廷側から求められていた鎖国攘夷について回答するため、徳川家茂は孝明天皇から上洛を打診されます。
徳川将軍家からの上洛は、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が、1634年(寛永11年)に行なってから途絶えていました。公武合体のために徳川家茂は、1863年(文久3年)に229年ぶりに上洛することとなったのです。
上賀茂神社
上洛した徳川家茂は、朝廷から攘夷決行の協議を持ち掛けられますが、思うように進展しません。
孝明天皇は鎖国攘夷の実現を祈願するため「賀茂神社」(かもじんじゃ:上賀茂神社[かみがもじんじゃ]と下鴨神社[しもがもじんじゃ]の総称)に行幸された徳川家茂と一橋慶喜は、これに供奉(ぐぶ:行列に加わること)しています。
このときの孝明天皇の行幸は、108代天皇「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)が、1626年(寛永3年)に「二条城」(にじょうじょう)へ行幸されて以来、実に237年ぶりでした。
この上洛の際に徳川家茂は、朝廷より鎖国攘夷の期限決定を迫られます。開国を目指していた江戸幕府でしたが、朝廷の権力に頼っている以上は、鎖国攘夷を決行する約束を果たさなければいけません。そのため、徳川家茂はその期日を5月10日にすることを、4月20日に朝廷側へ伝えてしまいます。約束の期日までは1ヵ月もなく、混乱を招くのは明白でした。
徳川家茂が江戸に帰ってから成し得たのは、横浜港の鎖港のみ。そして徳川家茂は、鎖港の状況を報告する名目で、1864年(文久4年/元治元年)正月に再び上洛し、孝明天皇から公武合体作の勅命を賜ったのです。
朝廷による鎖国攘夷の圧力が高まる一方で、外圧も強くなります。1865年(慶応元年)9月には、イギリスやフランス、アメリカ、オランダの4国連合艦隊が大坂湾に来航。条約の勅許や兵庫港の早期開港、関税率改正などを要求。
そのなかで老中達は、兵庫港の開港について急いで回答しようとしましたが、一橋慶喜に止められます。何の相談もせずに決定しようとした老中に対して、朝廷から官位の剥奪と国許(くにもと:主君の領地)での謹慎を命じられました。
江戸幕府の人事にまで介入してきた朝廷に対して、徳川家茂は決然とした態度を取ります。大坂にいた徳川家茂は、将軍職の辞意を朝廷に上申。直ぐさま江戸に帰ろうとしました。
これに慌てた孝明天皇は、徳川家茂の辞意を却下し、条約の勅許も下します。このとき20歳であった徳川家茂でしたが、朝廷の言いなりにならず、将軍としての意地を見せたのです。
政略結婚で結ばれた徳川家茂と和宮でしたが、実は心温まる暮らしを送っていたと伝えられています。京都から和宮に付き従っていた女官「庭田嗣子」(にわたつぐこ)が著した「御側日記」(おそばにっき)には、2人が仲睦まじく労りあっていた様子が記されているのです。
そのなかのひとつが、徳川家茂が和宮に金魚や鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を贈ったという逸話。徳川家茂が和宮に対し、細やかな愛情を持っていたことが窺えます。さらには、上洛の前夜には夫婦で夕食を取り、ひとときの別れを惜しんだことが伝えられているのです。
この他にも、「江藤淳」(えとうじゅん)の「勝海舟」(かつかいしゅう)を題材にした評伝「海舟余波 わが読史余滴」(かいしゅうよは わがどくしよてき) には、和宮の心遣いが分かる逸話が記されています。
それは、徳川家茂と和宮、そして天璋院の3人で、踏石から履物を履こうとしたときのこと。徳川家茂の履物だけが踏石より下にありました。その際、和宮が下に降りて徳川家茂の履物を渡したとされ、和宮が徳川家茂を大事に思っていたことが分かります。
徳川家茂と和宮の結婚生活が続いたのは、たった4年余り。その年月の間に徳川家茂は、3回に亘って上洛しており、2年以上も江戸城にいませんでした。徳川家茂と和宮が江戸城で一緒に過ごせたのは、実質2年6ヵ月という短い期間だったのです。
そんな短い結婚生活の間に、2人は夫婦の絆を固く結んでいました。それが分かるのが、徳川家茂の上洛にまつわる逸話です。
増上寺
徳川家茂の上洛が決まると、和宮は「徳川家」(とくがわけ)の菩提寺である「増上寺」(ぞうじょうじ)のお札を勧請(かんじょう:神仏の分霊を、別の地に移して祀ること)し、お百度参りを行なっていました。
和宮は、妻として夫である徳川家茂の無事を祈っていたのです。
公武合体を実現させるための駆け引きのなかで、翻弄された徳川家茂でしたが、和宮との結婚生活は幸せな時間を過ごせた良き結果となったと言えます。
幕末の時代に突入し混乱している世情のなか、独自の動きをする「長州藩」(ちょうしゅうはん)へ兵が送り出されることに。この「長州征伐」(ちょうしゅうせいばつ)は、1864年(元治元年)と1866年(慶応2年)の2度に亘って行なわれ、2回目の長州征伐の際には徳川家茂も参陣するべく、大軍を率いて3度目の上洛を果たします。
大坂城(大阪城)
しかし、徳川家茂の上洛はこれが最後となり、生きて江戸に帰ることはありませんでした。
幕府の征長軍と長州軍とが戦っていた最中に、徳川家茂は「大坂城」(おおさかじょう:現在の大阪城)において、21歳の若さで病没したのです。
徳川家茂のご遺体は海路で江戸に送られ、増上寺に埋葬されました。
徳川家茂は公武合体の行く末を見届けることなく、無念の死を遂げてしまったのです。
江戸幕府にとって、長州再征の戦況は思わしくなかったうえに、将軍・徳川家茂の急死は大きな打撃となり、将軍不在のまま、長州征伐は中止になったのです。
3度目となる上洛の前夜に、徳川家茂は大奥の老女「滝山」(たきやま)に、次期将軍には徳川慶頼の三男「田安亀之助」(たやすかめのすけ)のちの「徳川家達」(とくがわいえさと)を指名するように伝えていました。
滝山はこの徳川家茂の遺言を和宮に告げますが、和宮はすぐには賛成しません。時局が重大であることを鑑みて、わずか4歳の幼い田安亀之助を将軍にするよりも、年長の適材を選ぶことを望んだのです。
これは、和宮が徳川家茂の遺言を無にした訳ではなく、時局を冷静に判断した結果であると考えられています。そのため、15代将軍となったのは徳川慶喜でしたが、その継嗣には、田安亀之助が立てられたのです。このとき、田安亀之助はその名を「家達」(いえさと)と改名し、徳川家を相続します。田安亀之助に跡を継いで貰いたいという徳川家茂の遺言は、和宮の賢明な判断によって形を変えて守られたのでした。
徳川家茂の家系図