幕末の人物一覧/ホームメイト

幕末の人物一覧

幕末の人物一覧

幕末の人物達を一覧でご紹介しています。江戸時代の終わり頃からは、それまでの鎖国政策が終わりを告げたり、倒幕への動きが進んだりと、激動の時代が始まりました。このあたりの時代はファンも多く、漫画、ドラマなどの題材にもなっています。 刀剣ワールドでは、幕末の人物一覧から気になる人物名を選択すると、その歴史上の人物についての詳しい解説を表示。偉人達は、徳川慶喜をはじめとした幕府に関連する人物から孝明天皇・明治天皇といった朝廷の人々、近藤勇、土方歳三などの新選組まで、幅広く取り扱っています。幕末を掘り下げたい方におすすめです。

幕府・幕臣

多くの人が思い浮かべる幕末の乱世に翻弄された江戸幕府の将軍と言えば、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)ではないでしょうか。 しかし、実はその先代である第14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)もまた、継嗣争いに巻き込まれるなど激動の時代に振り回された将軍だったのです。そのようななかで徳川家茂は、将軍家として初めての内親王との結婚、229年ぶりの上洛など「公武合体」(こうぶがったい)運動を進めるために尽力しました。 ここでは、13歳の若さで14代将軍の座に就いた徳川家茂が、青年将軍としてどのような功績を残したのかについて、その生涯を振り返りながらご説明します。
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江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の実父であり、水戸藩(現在の茨城県)9代藩主として知られる「徳川斉昭」(とくがわなりあき)。 「青天を衝け」(せいてんをつけ:2021年[令和3年]度放送)や「西郷どん」(せごどん:2018年[平成30年]度放送)など、幕末を題材にした歴代のNHK大河ドラマに何度か登場しており、そのほとんどにおいて頑固者であった人物像が描かれています。 実際に徳川斉昭は、「烈公」(れっこう)と称されるほど苛烈な性格であった史実が残されているのです。また、徳川斉昭ゆかりの場所として「偕楽園」(かいらくえん)があります。この偕楽園は、現在でも多くの観光客や大河ドラマのファンが訪れて賑わいを見せている名所のひとつ。 今回は、徳川慶喜との関係や家系図を交えて徳川斉昭の半生と功績をご説明すると共に、徳川斉昭が鍛えた「刀剣ワールド財団」の所蔵刀「刀 銘 葵紋崩[烈公]」(かたな めい あおいもんくずし[れっこう])、そして偕楽園についてもご紹介します。
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「勝海舟」(かつかいしゅう)は武士、そして政治家として幕末から明治維新へと激動する日本で重要な役割を果たした人物のひとりです。 とりわけ、「戊辰戦争」においては幕府軍の軍事総裁となり、「江戸城無血開城」を実現させた功績は大きく、江戸の町が戦火に焼かれることを防ぎました。 少年時代より剣術を学び、「直心影流」(じきしんかげりゅう)の免許皆伝を受けるほどの剣豪である一方、旺盛な向学心によって蘭学にも精通していた勝海舟。 どんな人物であったのか、その生涯に迫ると共に、「刀剣ワールド財団」が所蔵する勝海舟の愛刀「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)について詳しくふれていきます。
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1868~1869年(慶応4年/明治元年~2年)に、薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)・土佐(とさ)藩を中心とした新政府軍と、旧江戸幕府軍が対立した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)。 その最終戦となった「箱館戦争」(はこだてせんそう:現在の北海道函館市で勃発。別名・五稜郭[ごりょうかく]の戦い)において、旧幕府海軍のトップとして、最後まで新政府軍に徹底抗戦した武人「榎本武揚」(えのもとたけあき)。 幕末の敗者となりましたが、その後、日本を近代国家に生まれ変わらせるべく動き始めた明治政府から、予想外の処遇を受けています。 そこに至るまでの榎本武揚の半生と、彼の戊辰戦争後の日本とのかかわり方について、武揚が愛用していた短刀「銘 越前康継」と共にご紹介します。
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「ペリー」による黒船来航をきっかけに、日本は開国へと向かい激動の時代へ突入します。幕末動乱のさなか、江戸幕府の再建のために奔走していたのが、天才と言われた幕臣「小栗忠順」(おぐりただずみ)。 のちに「明治の父」と讃えられた忠順の功績を振り返ると共に、青年期に買い求めたと言われる日本刀「山浦環正行」(やまうらたまきまさゆき)についてご紹介します。
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「佐久間象山」(さくましょうざん)は19世紀の思想家・兵学者です。日本が外国から開国を迫られていた幕末期に、佐久間象山は海外事情を研究し、現実的な思考のもと、開国を提唱しました。佐久間象山の思想は「勝海舟」(かつかいしゅう)、「坂本龍馬」(さかもとりょうま)、「吉田松陰」(よしだしょういん)などに影響を与えましたが、馬で移動している最中に襲撃にあい暗殺されたのです。
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朝廷

幕末(1853~1869年)に活躍した歴史的人物と言えば、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「坂本龍馬」(さかもとりょうま)など、階級の違いはあれど、武士出身の「志士」(しし:社会や国家のために、自らを犠牲にして尽くそうとする高い志を持つ人)たちを思い浮かべる方が多いかもしれません。 しかし、朝廷側にも幕末における日本の行方を左右する鍵を握る人物がいました。それは、幕末時代の朝廷側のトップであった「孝明天皇」(こうめいてんのう)。 江戸時代最後の天皇が、理想の日本を守るために行なったこととは?孝明天皇の佩用していた刀「無銘 伝正宗」と共に、その詳細についてご紹介します。
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「明治天皇」は、愛刀家としても知られていました。そのコレクションは、古刀、新刀を含めて約300振にも及び、いずれも「業物」(わざもの:名工が制作した切れ味の鋭い刀)揃い。そこで、日本屈指の刀剣収集家でもあった明治天皇が愛した刀剣から、選りすぐりの名刀をご紹介します。 ここでご紹介するのは、「岡田切」(おかだぎり)、「平野藤四郎」(ひらのとうしろう)、「一期一振」(いちごひとふり)、「小竜景光」(こりゅうかげみつ)、「鶴丸国永」(つるまるくになが)、「獅子王」(ししおう)、「太刀:無銘 伝則宗」(たち:むめい でんのりむね)、「小烏丸」(こがらすまる)、「宗瑞正宗」(そうずいまさむね)、刀「会津正宗」(あいずまさむね)、「徳用守家」(とくようもりいえ)、太刀「鶯丸」(うぐいすまる)、太刀「銘 宗近」(めい むねちか)。 さらには明治天皇が常用刀として用いていた新刀の祖「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の作品、菊紋入りの太刀(和泉守国貞:いずみのかみくにさだ=井上真改作:いのうえしんかいさく)、国宝「太刀」(綾小路定利作:あやのこうじさだとしさく)の15振です。
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「有栖川宮家」(ありすがわのみやけ)は、江戸時代から大正時代にかけて存続した、由緒正しい宮家(宮号を与えられた皇族)です。 特に、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と「有栖川宮威仁親王」(ありすがわのみやたけひとしんのう)は、刀剣好きと知られています。 有栖川宮家の歴史と有栖川宮家にまつわる刀剣について、詳しくご紹介します。
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第120代「仁孝天皇」(にんこうてんのう)は、江戸幕府が外国船の来航による対外問題を抱え始めた江戸時代後期の天皇です。 当時の日本は対外問題だけでなく、「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)による農民一揆、深刻な米不足、激しい打ちこわしなど、各地で事件が頻発した時代でした。 無策な幕府への不満を爆発させた「大塩平八郎の乱」も、この時代の出来事です。泰平の世が崩れ始めた頃、朝廷は幕府との関係を保ちながら朝廷権威の復活を目指していました。 幕末動乱の予兆を感じさせる時代に在位し、父「光格天皇」(こうかくてんのう)が遺した様々な思いを受け継いだ仁孝天皇についてご紹介します。
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幕末の志士

2018年(平成30年)にNHK大河ドラマ「西郷どん」が放送され、再び脚光を浴びることになった西郷隆盛。日本人であれば、一度は西郷隆盛の名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。 東京都の上野公園や鹿児島市の鹿児島市立美術館、鹿児島県霧島市の西郷公園など、いろいろな場所に西郷隆盛の銅像が建てられており、西郷隆盛は、誰もが認める偉人である一方、「西郷さん」などと親しみを持って呼ばれています。 そんな西郷隆盛の詳しい生涯や人物像、それにまつわるエピソードについて、まとめました。 また、少年時代に喧嘩の仲裁に入った際に、右腕に負った傷の影響で刀剣をうまく握れなくなってしまったにもかかわらず、趣味としていた刀剣収集についてもご紹介します。
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幕末の志士として人気の高い「坂本龍馬」。小説をはじめ、ドラマ・映画で何度も取り上げられ、好きな偉人や尊敬する歴史上の人物といったアンケートでも、坂本龍馬は必ず上位にランクインしています。 江戸で勝海舟と出会い、外国に負けない海軍を創設して対等に渡り合っていきたいと考えた坂本龍馬。坂本龍馬が書いた手紙に記載された「日本を今一度洗濯したい」という名言は有名です。 享年31歳で暗殺されるまでの坂本龍馬の生涯と、坂本龍馬という人物について、坂本龍馬の愛刀とともにご紹介します。
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幕末期の長州藩(現在の山口県)にあって、討幕派を牽引した「高杉晋作」(たかすぎしんさく)。 抜群の決断力、行動力、度胸の持ち主であり、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された疾風迅雷の如き人物でした。 高杉晋作がいたからこそ、長州藩は「第一次長州征伐」で幕府に降伏しつつも、藩論を武力討幕に転換させることができたのです。 剣術に関しても「柳生新陰流」(やぎゅうしんかげりゅう)の免許皆伝という腕前。幕末期に彗星の如く出現し、29年の生涯を駆け抜けた高杉晋作についてご紹介します。
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「吉田松陰」(よしだしょういん)は、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)や「伊藤博文」(いとうひろぶみ)など、数多の俊英を輩出した私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)の指導者として知られる人物です。 しかし、指導にあたった期間はわずか2年。「安政の大獄」により捕縛されてしまい、29歳という若さで死罪に処されます。しかし志は塾生達に引き継がれ、討幕や維新の原動力となるのです。 吉田松陰の人物像や思想、そして松下村塾での指導法などに着目し、その生涯を紐解いていきます。
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「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「木戸孝允」(きどたかよし)と共に、幕末維新期の「三傑」のひとりに数えられる「大久保利通」(おおくぼとしみち)。 幕末期は薩摩藩(現在の鹿児島県西部)の指導者として武力討幕を推進。明治初期には明治政府の全権を有して日本を牽引しました。 その指導力と先見性を考慮すると、大久保利通なくして日本の近代化はなかったと言えます。 武芸や日本刀に関するエピソードは伝えられていませんが、切れ味抜群の頭脳こそ大久保利通の最大の武器でした。 逸話と共に、偉業や人となりを追っていきます。
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西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)の3人は、「維新の三傑」(いしんのさんけつ)と呼ばれています。 それぞれが倒幕と明治維新において大きな功績を残しましたが、1877年(明治10年)5月に木戸孝允が病死し、同年9月には西郷隆盛が西南戦争に敗れて自刃(じじん:自ら命を絶つこと)。 そして翌1878年(明治11年)5月には大久保利通が暗殺され、相次いで志半ばの最期を遂げています。 そして同時期、明治維新の最高指導者であるこの3人に代わる世代として、にわかに存在感を示し始めたのが伊藤博文(いとうひろぶみ)・山県有朋(やまがたありとも)・板垣退助(いたがきたいすけ)・大隈重信(おおくましげのぶ)の4人です。 そのひとりであり、日本で最初の内閣総理大臣となった伊藤博文の生涯を見ていきましょう。
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伊藤博文(いとうひろぶみ)と同じく、低い身分から内閣総理大臣にまで上りつめた山県有朋(やまがたありとも)。 しかし、政治家としての両者のキャリアは対照的で、伊藤博文が政府官僚としての道を選び、立憲制による近代国家の成立を目指したのに対して、山県有朋は軍人としての道を選び、主に日本の軍制の整備を進めました。 西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)という「維新の三傑」(いしんのさんけつ)に代わる世代として伊藤博文らとともに大きな足跡を残した山県有朋の生涯を振り返ります。
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幕末期は長州藩を主導して国事に奔走し、明治初期は新政府内にあって日本の近代化を推し進めた「桂小五郎」(かつらこごろう)こと「木戸孝允」(きどたかよし)。 この人物なくして長州藩の武力討幕はなく、明治政府による国家経営の刷新もありえませんでした。 現在、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)と共に「維新三傑」の一員に数えられていますが、この2人と大きく異なる点は、桂小五郎が剣豪であったことです。 愛刀や剣豪たるゆえんを踏まえて、その生涯をご紹介します。
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「岡田以蔵」(おかだいぞう)は、天皇を尊び外国を排斥する思想「尊皇攘夷思想」のもとで「武市瑞山」(たけちずいざん、武市半平太[たけちはんぺいた]とも)によって組織された過激派組織「土佐勤王党」(とさきんのうとう)の党員で、敵対勢力に属する人間を何人も斬殺した人物です。
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「武市瑞山」(たけちずいざん:武市半平太[たけちはんぺいた]とも)は、幕末の土佐藩(現在の高知県)の優れた剣術家であり思想家です。尊王攘夷論(天皇を敬い外国を排除すること)を掲げる長州藩(現在の山口県)の「久坂玄瑞」(くさかげんずい)や「高杉晋作」らとの交流を経て、「土佐勤王党」(とさきんのうとう)を結成しました。
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新選組

「芹沢鴨」(せりざわかも)は、筆頭局長として草創期の新撰組を牽引した人物です。 京都での破天荒な振る舞いや、同志に暗殺されるという非業の死を迎えたことで、その名を知られていますが、江戸幕府が京都の治安維持のために募集した、「浪士組」(ろうしぐみ)参加以前の前半生は、謎に包まれています。 また、剣術の腕前は相当な人物だったとも言われ、「近藤勇」(こんどういさみ)と「土方歳三」(ひじかたとしぞう)も、芹沢鴨の暗殺に際しては、周到な策を講じました。 酒乱や自制心の欠如など、致命的とも言える短所が、命取りとなった芹沢鴨。その破天荒な生涯を、愛刀の逸話と共にご紹介します。
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幕末期、新たな政局の中心となりつつあった京都では、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を敬い、外敵を排除する思想)を掲げた過激派による、「天誅」(てんちゅう)と称するテロが横行し、治安は極度に乱れていました。 この治安回復のために新設されたのが、会津藩(現在の福島県)が務めることになる「京都守護職」。 さらには、会津藩による支配のもと、実働部隊として「新選組」が新設されます。この新選組に局長として君臨し、並み居る猛者達を束ねたのが、「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)宗家4代の「近藤勇」(こんどういさみ)でした。 ここでは、近藤勇の足跡や愛刀、そして天然理心流剣術などについてご紹介します。
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土方歳三(ひじかたとしぞう)は、幕末に京都の治安維持のために結成された「新撰組」の副長。新撰組を盤石な組織にするために、規律を破る者は容赦なく切腹させたため、土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれていました。 様々なドラマや小説、漫画やゲームなどの登場人物としても取り上げられた土方歳三は、没後100年経っても愛されています。 土方歳三が出会った数々の人物とのエピソードや、土方歳三の愛刀が持つ逸話とともに、土方歳三の生涯についてご紹介します。
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「新選組」(しんせんぐみ)草創期における中心人物の中でも、「新見錦」(にいみにしき)ほど、謎に満ちた存在はいません。 水戸藩(現在の茨城県)脱藩を自称しておきながら、水戸藩の史料には名前が確認できず、一時期は局長格、次いで副長の地位にあったとは伝えられていますが、確たる活動が分かっておらず、判明しているのは、剣の腕前が確かであったことのみです。 新選組二番隊組長を務めた「永倉新八」(ながくらしんぱち)の回顧録「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)、幕末の「西本願寺」(京都市下京区)において、侍臣(じしん:主君のそば近くに仕える者)を務めていた、「西村兼文」(にしむらかねふみ)の手による「新撰組始末記」など、同時代にまつわる史料に基づき、謎めいた新選組の隊士・新見錦の姿に迫ります。
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「沖田総司」(おきたそうじ)は、江戸時代末期の武士で、幕末の京都の警察組織である「新選組」(しんせんぐみ)最強の剣豪です。 若くして天然理心流道場「試衛館」(しえいかん)に入門し、近藤周助(新選組局長・近藤勇の養父)の内弟子となりました。 沖田総司は、近藤勇・土方歳三とともに「新選組一番隊組長」として活躍していましたが、労咳(ろうがい:結核)により病床に伏します。 療養の甲斐なく夭折(ようせつ)した天才剣士という沖田総司の悲劇的な生涯は、小説や映画などの世界で「薄幸の美青年」と脚色されて描かれてきました。 ここでは、沖田総司の生涯と、沖田総司の愛刀についてご紹介します。
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新撰組結成当初の中心メンバーであり、のちに「総長」を務めた「山南敬助」(やまなみ/さんなんけいすけ)。 「局長」の「近藤勇」(こんどういさみ)、「副長」の「土方歳三」(ひじかたとしぞう)から一目置かれた存在でありながら、晩年、屯所脱走による罪で、切腹を余儀なくされました。 不可解な脱走を企てた理由は、今も解明されていません。しかし、山南敬助の愛刀「摂州住人赤心沖光」(せっしゅうじゅうにんせきしんおきみつ)に、屯所脱走の鍵が隠されているという説もあります。 ここでは、山南敬助が愛用していたこの刀にまつわる逸話や、その生涯についてご紹介すると共に、切腹の引き金となった、屯所脱走の謎にも迫ります。
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「永倉新八」(ながくらしんぱち)は、「新撰組」(しんせんぐみ)の二番隊組長を務めた人物。「池田屋事件(池田屋騒動)」をはじめ、新撰組の隊士の中でも、第一線で活躍を続けた、同組きっての剣豪です。 明治維新後は、新撰組の記録作成に専念し、「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)や、「同志連名控」(どうしれんめいひかえ)などの著書に記録を残しました。 これらは、新撰組や、その往時を知る貴重な史料として、現在も重要視されています。つまり永倉新八は、歴史的な貢献度も高い新撰組隊士とも言えるのです。 愛刀「播州住手柄山氏繁」(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)を手に戦い、幕末期を駆け抜けた姿や、晩年の著作活動に焦点を当て、永倉新八の実像に迫ります。
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「新撰組」(しんせんぐみ)の「三番隊組長」を務めた「斎藤一」(さいとうはじめ)は、「溝口派一刀流」(みぞぐちはいっとうりゅう)と、「聖徳太子流」の剣術を修めた剣客です。 「沖田総司」(おきたそうじ)や「永倉新八」(ながくらしんぱち)らと並ぶ、新撰組屈指の腕前であったと評されています。 そんな斎藤一は、業物(わざもの:切れ味の良い刀)として名高い名工、「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)が鍛えた日本刀を手に、京都の治安を乱す志士達を始め、新撰組内に潜入した間者(かんじゃ:敵方に潜み、その動向や様子を探る者)から裏切り者まで、次々と始末した人物でした。 明治維新後は警視庁に奉職(ほうしょく:公職に就くこと)し、東京の治安維持に尽力。1877年(明治10年)に起こった「西南戦争」では、「警視隊」として従軍するなど、後年にも剣の実力を発揮。 幾度もの修羅場を経験しながらも天寿を全うした齋藤一。その生涯を、愛刀にまつわる逸話と共にご紹介します。
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「新撰組」(しんせんぐみ)にその草創期から参加し、「八番隊組長」を務めた「藤堂平助」(とうどうへいすけ)。 「池田屋事件」(池田屋騒動)などでも活躍した新撰組きっての剣客でありながら、のちに新撰組を離れ、同組の参謀であった「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)が結成した、「御陵衛士」(ごりょうえじ)に参加。 その後、「油小路の変」(あぶらのこうじのへん)において、非業(ひごう)の最期を遂げました。 藤堂平助の新撰組への参加から離脱までの経緯、そして、愛刀「上総介兼重」(かずさのすけかねしげ)にまつわる逸話を軸に、その数奇な生涯を辿ります。
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「新選組」(しんせんぐみ)の「十番隊組長」であった「原田左之助」(はらださのすけ)は、直情径行(自分の感情をそのまま言動に表すこと)の快男児として知られている人物です。 「池田屋事件」(池田屋騒動)での働きなど、武闘派としての側面が取り上げられがちですが、「長州征討」(ちょうしゅうせいとう)に際して、「兵站」(へいたん)と呼ばれる主要な後方支援の任務を託されるなど実務処理能力も高く、新選組内でも希有な人材でした。 晩年は「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)で転戦を続け、「上野戦争」で戦死したとされていますが、生き延びて中国の馬賊(ばぞく:騎馬を駆使する武装集団)になった伝説も残っているのです。 ここでは、破天荒な原田左之助の人物像について、愛刀の逸話などを交えて掘り下げていきます。
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