ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 その16」をお届けする(第1481回)。
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今号も前回に引き続き、中国共産党の「桐一葉」について触れたい。中華人民共和国つまり現在の中国を独裁支配している中国共産党は、その正当性の根拠として二つの歴史的業績を挙げている。一つ目は中国共産党が戦前の大日本帝国に勝利し、日本軍国主義を駆逐したこと。 二つ目は毛沢東という偉大な指導者によって中国は大国となったということである。
言うまでも無く、この二つは「ほとんどウソ」と言っていい。とくに一つ目の「中国共産党が大日本帝国に勝った」というのは、中国国外でちょっと調べれば中学生にもわかることである。
一九四五年(昭和20)八月十五日に日本がポツダム宣言を受諾し降伏したのは連合国に対してであるが、その一員であった「中国」は蒋介石の国民党率いる中華民国であり、毛沢東の中国共産党では無い。そもそも、その時点で中華人民共和国はまだ成立していなかった。その後、日本との戦いに疲弊した国民党軍に内戦で勝つことによって、中国共産党は中国本土に中華人民共和国を建国したのだ。
しかし、私も体験者に取材したことがあるが、かつての指導者トウ小平や江沢民によって中国共産党支配を正当化するために始められた反日教育では、子供のころから「共産党軍の兵士が日本兵をやっつける」という映画や連続テレビドラマを繰り返し視聴させられ、「中国人民が幸福であるのは共産党のおかげ」ということが幼心に叩き込まれたという。まさに「子供だまし」であり、そんなことにいつまでも騙されている中国国民もどうかしているが、中国共産党にとっては「日本軍国主義を駆逐したのは蒋介石の国民党」という歴史的事実に国民が気づくような真似は、絶対に避けたいはずだ。
ところが前回紹介した毛寧報道官の見解は、よくよく読み込めば、この歴史的事実の「証拠」になってしまう。公式発表のなかに、中華人民共和国の成立がいつであったかを明記してしまっているからだ。もちろん、中国人にとっては初等教育で教えられる知識ではあるだろう。だが、すでに述べたようにここに国民の意識が集中するのはまずい。ウソがバレるきっかけになるかもしれないからだ。
先ほど「中国国民もどうかしている」と述べたが、もちろんあの国には言論の自由が無いことを忘れてはならない。早い話が、われわれ日本人はSNSでいくら「高市早苗首相は愚かだ」と叫んでも罰せられないが、中国人が「習近平主席はバカだ」と叫べば処罰される。そういうことがあるから、本当は真の歴史に気がついていても黙っているのかもしれない。
最悪なのは中国外交部の報道官たちで、アメリカ留学の経験があるような人間が真実の歴史を知らないはずがない。彼らは内心どう思っているのか? 自分たちは共産党のエリートだからバカな国民を騙すのは当然で、それが正義だと思っているのか? それとも真実の歴史を誤魔化していることに少しは良心の呵責があるのか?
形の上では今回の毛寧報道官の公式見解は「墓穴を掘った」ということになるのだが、果たして外交部の単純なミスと考えていいのかどうか。私はもっと深い意味があるような気もしている。いずれにせよ、このことは今後の「中国共産党崩壊史」の進行のなかであきらかになるだろう。
中国共産党「二つ目のウソ」についても少し述べておこう。これは一つ目のウソと違って、一〇〇パーセントのウソとは言えない。毛沢東率いる中国共産党によって中華人民共和国が建国され、世界の大国となったのは間違いの無い事実だからだ。ただし、その後がいけない。大躍進政策や文化大革命のように狂気としか言えない政治で多くの国民を地獄に追いやった。「地獄」というのは誇張では無い。ためしにGoogle AIに「文化大革命とはなにか?」と聞けば、次のような答えが返ってくる。
〈文化大革命(ぶんかだいかくめい、略称:文革)とは、1966年から76年まで中国で毛沢東が主導した大規模な政治運動・権力闘争で、社会主義の純粋性を保ち、権力基盤を強化するために、紅衛兵(若者)を扇動し、劉少奇・トウ小平ら政敵を失脚させ、「四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)の破壊や文化財の破壊、知識人の迫害、社会の混乱を引き起こし、多くの死者を出した歴史的事件です。
【背景と目的】
・大躍進政策の失敗と毛沢東の権威低下
1958年の「大躍進政策」の失敗による大飢饉で、毛沢東の権威が低下し、国家主席の劉少奇らが権力を強めました。
・権力奪還と階級闘争の継続
毛沢東は権力を取り戻し、社会主義が資本主義化するのを防ぐため、党内の「実権派」を打倒しようとしました。
【主な内容】
・「紅衛兵」の動員
毛沢東は若者たちを「紅衛兵」として組織し、「造反有理(謀反には道理がある)」のスローガンで扇動しました。
・「四旧」の打破と文化破壊
資本主義的・伝統的な「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」を批判し、寺院や書物、伝統的な習慣などが破壊されました。
・政敵の失脚と粛清
劉少奇やトウ小平などの党幹部が「実権派」「走資派(資本主義の道を歩む者)」として批判され、迫害されました。
・社会の混乱
紅衛兵同士の対立や武力衝突(武闘)が全国に広がり、社会は大混乱に陥りました。
【終結と評価】
・終結
1976年の毛沢東の死後、江青ら「四人組」が逮捕され、1977年に終結宣言が出されました。
・中国共産党の総括
1981年、中国共産党は文革を「党と国家と人民に重大な災難をもたらした内乱」と全面的に否定する決議を出しました。
【影響】
・10年以上にわたる混乱で、多くの人が命を落とし(1000万人以上とも)、国家・社会・文化に甚大な被害をもたらしました。
・毛沢東の個人崇拝と権力集中が極端に進んだ時代であり、その反省から後の中国では集団指導体制が重視されるようになりました。〉
おわかりだろう。じつは、歴史上もっとも中国人を殺した人間は毛沢東なのである。これは歴史上の事実だ。じつは中国共産党ですら、文化大革命の犠牲者は百万人を超えていると推計している。そして、これは内乱であると断定している。にもかかわらず、毛沢東は「功績」が七〇パーセント、「失策」が三〇パーセントだとして、相変わらず建国の父として認めている。同胞を一千万人以上殺したのだから、その功績は「帳消し」になると考えるのが常識なのだが。
ちなみに、共産主義には同胞を虐殺するという致命的な欠点がある。歴史上もっともロシア人を殺したのはソビエトのヨシフ・スターリンであり、現在も同胞の朝鮮民族を餓死など人間にとってもっとも惨めな死に追いやっているのが金正恩である。この金一族は三代(祖父・金日成、父・金正日)にわたって同胞を苦しめ続けている。しかし国内では英雄であり、むしろ「神様」に近いと言っていいかもしれない。
このうちスターリンだけはソビエト連邦の崩壊によって英雄の座から転落したが、毛沢東も金一族もそうでは無い。これが共産主義の恐ろしさであり、これがあるからこそ現在まともな国家は共産主義とは一線を画しているのだ。
とにかく、大日本帝国を破ったのは蒋介石の中華民国であり、毛沢東の中華人民共和国では無い。ところが、最近の習近平体制ではまるで日本に勝ったのは中国共産党であったかのように内外で叫んでいる。そんな見え透いたウソを声高に叫ばなければならないような状況が国内にあるのかもしれない。
参勤交代の思わぬ「副作用」
さて、話を病魔に冒され孫文が逝去した一九二五年(大正14)三月に戻そう。孫文は死の直前、史上初めての共産主義国家であるソビエト連邦に強い共感を抱いていた。「大日本帝国は覇道を進む国家だが、ソビエトは王道を進む国家」だからだ。これも何度も説明したように、当時欧米列強の帝国主義は人種差別を基本とした残虐非道なものであったからだ。
日本は、この人種差別を撤廃することによって新しい帝国主義を模索しようとしていた。だが孫文はそれではじゅうぶんでは無く、根本的に帝国主義にとって代わる新しい思想が必要だと考えていた。多くの若者が共産主義を信奉したのもそのためだった。
いまでこそ、ヨシフ・スターリンや毛沢東が共産主義とはそんな理想とは程遠いものであるということを「証明」してくれたが、彼らが馬脚を露す前はそんなことはわからない。日本は尼港事件の被害者となったことによってそうした共産主義の暗黒面を垣間見ることはできたが、それはむしろ例外といっていい現象である。
ところで、孫文の欠点は、これも何度も述べたように「戦争に弱い」ことである。つまり孫文の死後、その革命路線の継承者となるためには軍事的才能があるということが絶対の条件になった。そこで頭角を現してきたのが蒋介石である。彼は前に経歴を紹介したように、もともと軍人志望で日本に留学し、新潟県高田市の陸軍第十三師団野砲兵第十九連隊の士官候補生となっている。東京で孫文に初めて会ったのもこのころのようだ。
そして次第に孫文にその軍人としての能力を買われるようになり、辛亥革命(1911年)以後、軍事畑で活躍するようになった。とくに孫文が長年の同志である陳炯明と路線対立で争ったときに孫文に味方し、勝利に導いたことで評価が高まった。孫文は蒋介石を「孫文博士ソ連訪問団」の団長として訪ソさせ、ソ連軍の武器・規律・組織を学ばせた。帰国後の一九二四年に蒋介石は中華民国初の黄埔軍官学校校長となり、翌年から自ら鍛えた卒業生を中心に広東軍の中核を形成した。
ここで、多くの日本人が意識していない問題点を挙げておきたい。じつは孫文は、早い時期から自ら保持する唯一と言ってもいい軍団「広東軍」の指揮を蒋介石に委ねようとしたが、当初はうまくいかなかった。そこで孫文は蒋介石をソビエトに留学させて新しい軍人養成機関を作らせ、卒業生を活用することによって、ようやく広東軍を掌握させることに成功したわけだ。
なぜ、こんなに手間をかける必要があったのか? 『蒋介石神話の嘘 中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』(明成社刊)の著者である台湾人の黄文雄は、蒋介石の伝記にある、孫文と蒋介石が日本で初めて会った時意気投合し夜を徹して語り合ったという「エピソード」について、次のように疑問点を指摘している。
〈私は蒋介石の伝記作家たちの記述に疑問を抱いている。その最大の理由は、孫・蒋対話の言語問題である。革命同盟会の三派連の間で、最大の問題の一つは、この言語問題であった。広東語、湖南語、浙江語はほとんど互いに通じない。彼らの対話は通訳を介するか、日本語か英語で行うしかなかった。革命家たちに共通語はなかったのである。孫の広東語と蒋の浙江語は通じるはずもない。(中略)果たして徹夜長談など可能だったろうか。それとも、日本語で話したとでも言うのだろうか。〉
われわれ日本人は、同じ民族なのだから同じ言語で話していたのだろうとついつい思い込んでしまうが、じつは皮肉なことにそれが中国で常識となったのは毛沢東の統一以後なのである。文章は全部同じなのだが、発音は違う。オールドファンなら、台湾の歌姫だったテレサ・テンのレコードの中国語版には「台湾版」と「北京版」があったのをご存じだろう。
清国のころから共通語はたしかにあった。「北京官話」といい、科挙に合格して各省から集まって来た高級官僚が用いた公用語で、「北京方言」の発音を標準にしたものだ。日本で言えば江戸弁を標準語にしたようなものだが、それは宮廷の一部で使われているものにすぎなかった。
ここであなたは不思議に思わないだろうか? 日本でも薩摩弁と土佐弁はかなり異なる。近代以前の日本の「六十余州」でも言葉はかなり違った。それなのに明治維新はなぜ成功したのか? 坂本龍馬はどうやって西郷隆盛や桂小五郎と「徹夜長談」ができたのか?
参勤交代があったからである。参勤交代は言うまでも無く幕府の大名に対する圧迫政策であり、江戸時代の大名はこれで苦しんだことは間違い無い。しかし、この制度には思わぬ「副作用」があった。どんなに江戸から遠く離れた辺境の藩であっても、必ず藩士の何分の一かを江戸に住まわせなければいけない。それも一月や二月では無い。在勤期間は二年で一区切りである。
彼らは当然江戸の町を散策しただろうし、商店で物を購入したり芝居を見物に行ったりしたかもしれない。学問や剣術を特定の塾で学ぶこともあっただろう。同門とは言え、出身地は皆違う。意思を疎通するためには「江戸弁」でしゃべるしかない。おわかりだろう。日本もたしかに標準語という形で共通語が成立したのは明治維新以降だが、それ以前に共通語の生まれる土壌が参勤交代によって培われていたのである。
中国の軍閥についてこれまで述べてきたことでもわかるように、その単位は地方の省であることが多い。なぜそうなるか、逆に言えばなぜ地域を超えたまとまりを作れないのか。「言葉が互いに通じない」からなのである。
中国とくらべれば日本はさまざまな文化的蓄積があり、近代統一国家を作るのにじつに有利な状況であった。しかし、それがあたり前であったが故に、逆に中国の苦しさが理解できなくなる。だからこそ他国の歴史との比較は、自国を知るためにもきわめて重要なのである。
(第1482回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2026年2月27日・3月6日号
外部リンクNEWSポストセブン
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