学園祭学園一万字雑感
佑磨さんへ
学園祭学園の新しいアルバムを心待ちにしながらいくつか曲の感想を書きます。的外れな見方かもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。
きみのせい
この曲について第三者が何か言うのは無粋だと思いますが、とはいえ第三者以外のどなたももはや何も言ってくれない気がするし、第三者にしてもむしろ私のような浅いところにいるうちじゃなければわざわざ言及しようとしないのでは?ということで勇気を持って書きます。
まずもってこの歌の主人公の弱さたるや!非常に魅力的です。しかしこの文章を書くために改めて歌詞を確認したら、この歌の主人公がそこまで弱いところを直接的に自白しているわけではないことに気付きました。ずっと暗いは暗いけど。(ところで「shooting starが今、消えました」ってすごくないですか?流れ星は一瞬夜空にきらめくもので、今消えたと思ったことがありません。)
自白してないならじゃあどうしてこの主人公が弱いなんて言い切れるんでしょうか。でも分かるんだから仕方ない。この人の、自分で自分の気持ちに気付くより先に涙が滲み出てしまう感じ。一度自罰的な気分に駆られると際限がなくなる感じ。言葉を飲み込むときにぎゅって唇の裏を噛むからいつでも口の中に血の味がしてそうなところ。仮に少しでも傷つけばしばらくの間は頭の中がびっくりマークとはてなマークで埋め尽くされて、傷をしげしげと眺めたりちょっとだけ触わってみたり傷の意味についてあれこれ考えたりしているうちに一生涯を終えそうなところ。
そして、このどう考えても陰気で傷つくことを恐れてて「きみ」に手を離されでもしたらおんもで野垂れ死んでしまいそうな人が、何もかもが「きみ」のせいって甘えた声で言えることの凄まじさ。そのくせ笑ってくれることしか望まないこと。怖いラブソングは良いラブソングです。
「避雷針のモニュメント」ってフレーズを日常生活の中でもたまに思い出します。これって曲中ではネガティブな存在として描かれているんでしょうか。安全と安心は韻を踏んでるところがいやらしいけど全くの別物ですよね。安全だけど安心できないことと、安心してるのに実は安全じゃないことのどちらがマシなのかは時と場合によりますが、でもこの人に必要なのは絶対的に安心の方だと思うんです。それさえあればこの人はどんなことだってできる。だからその避雷針が実際に用をなさなくても、この人が信じられるんだったらそれでいいです。たぶんすっごくかっこいい避雷針型モニュメントだったから信じられたんだろうし。
それにしても「暗い部屋で出会ったすべてが今 ここから引きずり出そうとしている」という歌詞はあまりに完璧に美しくて、しかも何度聞いても美しいまま、ずっと本物の驚きと怯えと期待を湛えているから否応なしに心が動きます。恥ずかしながら時々涙も出ます。引きずり出そうとしているなんて口では言うが、実際にはこの人が自分の足で外に出ている。本当は自分でそうすると決めたんだけど、この人は全部「きみ」のせいだっていう口実を手に入れて今やっと外に出れた。これからたぶんやっぱり転ぶんだろうけど、でもそのとき初めて大抵の傷はいずれ治ることや、人に笑い飛ばしてもらったり慰めてもらったりすると本当に痛みが和らぐこと、多少傷ついても歩き続けられることを知るんですね。暗い部屋で出会った「きみ」と真夏の太陽を楽しむこともできるし、「きみ」の傷の手当てをすることだってできるようになるんですね。出会えてよかった。
それから、この曲と同じアルバムに「銀河ヒッチハイクガイド」や「ユープケッチャ」が入っているのが好きです。私まで暗い部屋に入れてもらったみたいで。あざます。いい本棚ですね。暗い部屋を捨てたわけじゃないんだし、たまには帰るのも良いですよね。
ベントラーベントラー
声を大にして言いたい。もうとにかく歌詞がかっこよすぎる!しかも佑磨さんにぴったり似合う種類のかっこよさです。正直歌詞の意味は私には分かりません。思い返せば意味を理解しようとしたことすらなかった。漫画を読んだら分かりますか?でも、歌詞の意味なんて見当がつかなくても私はこの曲のかっこよさを十二分に楽しんでいるって自信があります。「きみは世界でひとりのテレパス だから気持ちは誰にも届かないよ」とか「無理矢理のデラシネ」とか「ニライカナイから告げる お前はここで果てる」とか、どんな登場人物がどんな文脈で言ってるのか全然分からなくたって、ただただかっこいいことだけ自明です。私が表紙のBLEACHの単行本の巻頭詩にしてほしい。うっとり。そして、こういう理解不能な世界観を当然みたいな顔して歌うのが佑磨さんには本当によく似合う!
佑磨さんの声って乾いていて重力から自由でぱあんとした響きがあるから内包できるフィクション量が多いです。ものすごい虚偽を述べても虚偽負けしない声です。佑磨さんが歌うとどんな歌も寓話めきます(そのせいもあって、学園祭学園って私はブレーメンの音楽隊のイメージです。ちょうど4人ですし。ユーモラスユーモラスのアルバムジャケットと「ユートピアをさがして」のメッセージに影響されすぎてますかね。でも、みんなで一体の怪物を装ってあいつらをギャフンと言わせるところが本当にぴったりです。一緒にブレーメンを目指すんだけど、結局ブレーメンに辿り着くんじゃなくその道中で安住の家を見つけるところなんてまさに学園祭学園そのものです!)。寓話めくというのはつまり聴き手がその中に真実を見出せるんじゃないかって気持ちになるということです。伝わっていますか?佑磨さんがどれだけ意味の分からないことを言ってもナンセンスに聞こえるんじゃなく、その中に紛れた本当をこっちで勝手に探しては納得する感じです。分からないならこっちが悪いんです。いや、ナンセンスを感じる人もたまにはいるのかもしれないけど、でもナンセンスをやる人ってそれが鼻についてダサかったりこっちが冷めたりしますが、佑磨さんの声って全然そんなことになりようがないです。そもそもナンセンスを感じさせにくいし、ナンセンスだって成功しやすいです。
そういう佑磨さんの声で聞くベントラーベントラーはすごく良いものです。私には具体的な情景は全く思い浮かびませんし、これ以上曲の解釈もできませんが、ただただ寂寥と諦念と祈りと友愛を感じます。歌い方もすごく好きです。変にスカさずかっこつけてくれるから私は嬉しい。佑磨さんに似合うのはさりげないかっこよさとか引き算のオシャレとかではなく、過剰で誇張で大風呂敷の大言壮語です。表裏一面お好きな模様でギチミチのキッチュなデカい旗をケレン味たっぷりに振ってください。そしたら我々は多少近寄ってそれを楽しむので。
サナギマン
この曲に傷つけられました。しかしそれは人が傷つけられたと言うとき大抵そうであるように、別に傷つけられたわけではなく元々あった傷にこの曲が触れただけです。痛んだからって優しく触れられたことまで傷つけられたって言わないようにしたいものですね。
幼稚な人に嫌悪感があります。それはいつまでも幼稚な自分に対する単純な自己嫌悪の尻尾です。幼稚さは生理的な感覚に根差していて、ただ欠けていることよりも随分嫌です。でもそうなるべき時期に順調に育たず未熟なまま長い時間が経ったから、私のこれはもう妙なかたちに固まってしまって変形しません。私は固く醜い。私は矯正不能である。しかし当たり前のことですが、そんな顔をしなければ別に誰も気付かないものです。だからもう私も知りません。私はまともで、私は誰に恥じる存在でもありません。
なのにこの曲は抜け抜けとサナギマンとか言うわけです!そんな名詞を作るな!この世には青虫とサナギと蝶しかいないと思って生きてきたのに。自分だけが異物だと思っていたのに。途中のはずの状態で止まった自分を無様だと、しかしこれが成体だと、君が羨ましいとあっけらかんと明るい声で歌う人のことを許せません。そんなことを臆面もなく言わないでほしい。もしかして隠すようなことじゃないって言ってる?
じゃあ、恥ずかしい傷を晒し合って殻の中に飛び込んで浅ましい嘘で騙し合って腕の中でよみがえって、秘密の変身といびつな全身を見せてください。こんなことを言うとギョッとされるかもしれませんが、でもこの歌が先にそう歌ったんです。私だって初めて聴いたときギョッとしました。なんでこんな大胆なことが言えるんだろうって。恥ずかしい傷とか言いながら本当はあんまり恥ずかしくないんでしょうか。ただの恥知らず?それとも恥ずかしいのに見せられる?私には絶対に分からない感覚です。不可解です。口だけで言ってるなら不愉快です。
そう言えばサナギマンってヒーローみたいな名前ですね。なんかあんまりかっこよくなさそう。せっかくならカブトムシや蝶のヒーローに救われたいけど。でも、もしこの情けないヒーローが何かと戦ったり友情を育んだり恋に踏み出したり社会と何とか折り合いを付けたりするのを見たら、そのとき私は。
チョーリキショーライ!ゴーリキショーライ!私に見せられないなら別の誰かになら見せられるんだってところを見せていてください。いつか私にもそういうことができるかもって思わせてください。
嘘
さすがに絶対みんながもう感想を言い尽くしている。フィクションに心を打たれたことがある人ならどうしても何か言いたくなる曲ですものね。そして大抵の人はフィクションに心を打たれたことがある。何も目新しいことは言えないけど、言いたいから私も言います。
まずタイトルがかっこいい!フィクションを嘘と言い切ってしまう乱暴さにむしろ強い愛情を感じます。確かにフィクションって嘘です。でもこれは、フィクションはどうせ嘘、どうせ作りごとだといくら言っても損なわれない絶対的な価値を信じている人の言い方ですね。「嘘を真に受け 生きる人よ」と呼びかけてくれるだけで、佑磨さんがこの点で信用に足る人物だと確信します。
フィクションの一番良いところは本当じゃないところですね。カーテンコールでヒーローとヒロインとヴィランが3人にこにこ手を繋いでご挨拶してくれると、今までのは全部作りごとなんだよってちゃんと教えてくれるみたいで興奮します。作りごとというのはすごい。正直何にもならない。誰のお腹もいっぱいにならないし、誰の病気も治らない。掛けている労力は確かに現実のものなのに実るものは個々人の頭の中にしかありません。しかも心を打つフィクションが私たちに残してくれるものは往々にして、友情は素晴らしいとか、勇気を持って生きるべきであるとか、愛は時に残酷であるとか、要約して他人に伝えたらふーんで終わるような陳腐なものです。自分で体験しないと意味がない。でも、どこまで行っても個々人の体験に過ぎないけど、フィクションはそれこそ作者も侵すことのできない自分だけの持ち物をくれます。
こうした素晴らしいフィクションに胸を打たれた人の描写が良い!「街灯はきらめき」「へたくそに踊る」「空想を纏って駆ける帰路」!物語のせいでこの現実まで愛とか夢とか希望がそこここに実在する世界になっちゃって、本当に街が輝いて見えて、物語の主人公の心臓が自分の体の中に脈打つみたいに感じて、いても立ってもいられなくなる衝動に駆られている感覚が私の身の内にも蘇ります。
その1番に対して2番の現実パートの対比がうまーい!現実に戻ることを指して「最悪の幕が上がる」、「モブと見紛う主人公」だって!憎いね!しかしフィクションは嘘と言いながら、実は本当なんですよね。本当のものは強いです。だから冴えない現実が始まってもずっとその人のことが、その場所のことが頭の中に残り続けるし、人がそこに縋ったって倒れないだけのものがありますね。
この先いつどこで生きていてもずっと私の中にだけ存在するグリーンゲイブルズがあり、アナザーヒルがあり、西暁町がある。素晴らしいことです。いや、私の頭の中にずっと西暁町があるのって怖すぎるかも。消したいけど絶対消えない。これもフィクションの実力ですね……。
コーダ(bushitsu ver.)
大好き!この後、絶対にリビングの感想が言いたいからコーダは諦めようかなって思ったんですけど、でもやっぱりこっちも絶対言いたかったです。アルバムのバージョンも華やかで好きなのですが、bushitsu ver.はそれよりも狭い場所でぽそぽそとインスタントに、だからこそ切実に歌ってる感じがして大変グッドです。佑磨さんの声のフィクション性の話をしましたが、こうやっていつもより緩いテンションで歌ってくれると実在男性感が増しますね。好きな食材好きな味付け丼。これはもう大満足です。
ベントラーベントラーと正反対の具体的で分かりやすい歌詞です。愛しい相手と暮らす人の生活の歌。誰も誤読のしようがありません。でも、例えば、帰ったら家に愛しい人がいることってもはや陳腐になった一つの幸福のかたちの定型表現で(別に陳腐で悪いことなんて一つもありませんが)、同棲の歌を書こうって考えたときにアイディアとしてたぶん簡単に出てきますよね。しかしそれを表現するのに「きしむ階段をのぼれば 風呂のあたりからの灯りが見える」って歌うのめちゃくちゃ良くないですか?生活の切り取り方が上手すぎる!帰ったら部屋に電気がついていることの喜びとかもよく言うわけだけど、違う!ひとり暗い夜道を歩いて一緒に住んでるアパートの階段を登ったら、家に入る前に風呂の!あたりからの灯りが!!見える!!!すごい!!!!!愛しい人が自分の家で自分の知らない間も生活している。しかもお風呂とか入ってリラックスしているわけです。疲れ切って帰ったとき、その人の顔を見る前から、ふと目に入ったその灯りに救われる日がある。この歌詞だけでこのときこの歌の主人公の心がほどけたのが分かる。どうですか?分かりやすいって言ったって、ありきたりとは一味違うわけです。あと、この曲って歌詞が基本的にはずっと具体の話をしてるからぼんやり聞いていても映画みたいに二人の生活が映像的に頭に流れていきますが、それがこの人が家に帰るところから始まり、この人が家に帰るところで終わるのがすごく良いです。繰り返される日常。まるで容易には変わらない、失われないものみたいに見えて安心します。この人が望んでいるのはこの繰り返しの果てなんですね。
しかし、この曲の歌詞が具体的であることって決して歌われるものが小さいってことではないです。この歌の主人公がパートナーに向けているラブとずっと一緒にと願うライフを、愛とか未来とか永遠とかの大きい言葉を使わなくてもこんなに明白に示すことができてすごいって話です。「合わす呼吸がなければ 僕には何も気付けないな」ですって。みんなもう愛してるとか言ってる場合じゃないね。
リビング
「誰かとLiving(リビング、暮らし、人生)を共有していくのはきっと一人で生きるよりも随分余計に手間のかかることで、どんなにお互いを理解し合ってても、そのことにあぐらをかいて注意を払わなくなったら二人の鍋は焦げ付いてしまうんだろうと思う。でもだからって両方ともがずっと張り付いて掛かり切りにならなくてもいい。どちらかができそうにないときはもう一方がちゃんと見ていよう。時々かき混ぜたり味見したり火加減を調節したりしながら、二人の鍋を二人で大切にしていこう。大丈夫だから、心配しないで目を離して。そうして毎日一緒に食事をして排泄して眠る。日々の絶え間ない新陳代謝の中で抜け落ちていくものは確かにあるし、その繰り返しで僕たちは老いていく。たとえ奇跡的にこの関係がずっと続いたとしても遠く先を見渡せばいつか必ず死んで終わるわけだし、その前に呆けて忘れられちゃうかもね。それって当たり前のことで、なんなら幸せなことだけど、悲しくてたまらない。でも、願わくばさらにその先でまた君と一緒にと望む気持ちがあって、それら全部を一緒くたに感じながら今、ここで君と日々の食事を共にし、喜びも苦しみも時間の流れも噛みしめていこう。言葉にするって大事だと思うから聞いていて。僕のリビングは君のリビングなんだ。」っていう楽曲のメッセージが素晴らしいです!あと、恋愛ソングにおいて「冷めたら味は染み込むものさ」ってオシャレすぎる〜!どんな恋もいつかは醒めると聞きますが、そのとき味は染み込んでいるんですね。食事をフックにした作品ってこの世にたくさんありますが、こんなにかっこよく鍋のモチーフに呼応する言い回しって聞いたことない!すごい!この世で佑磨さんが初めての大発見では?倦怠期に思い出したいフレーズ堂々の第1位です!
歌詞のあちこちに趣向が凝らされた曲だから基本的にはずっとその完成度に惚れ惚れしていて、素晴らしい作りものとして鑑賞しているわけですが、Living,Living,Living,Living……って繰り返すところだけ急に、本当の本当は特定の誰かに呼び掛けてるんじゃないかって気配がして胸が詰まります。同棲三部作でフィクションなんですよね。「きのう何食べた?」の二人がモデルなんですよね。知っています。分かります。ね、佑磨さんの愛しい人にきちんと届いていますように。
明日のイヴ
しっかり心を預けて愛おしんだものが終わりを迎えてしまうときの歌ですね。悲しいことを明るく歌われるとすぐに泣いちゃうって言ってたのって佑磨さんでしたっけ、それとも鷲崎さんでしたっけ。分かっててやるのはずるなんじゃないですか?
ディズニー映画「ポカホンタス」には、こんなに自分たちも周りも苦しむことになるなら私たち出会わなければよかったと言うヒロインに対して、「あした死んだっていい。君を知らずに100年生きるくらいなら」ってヒーローが返す名場面があります。ひゃあかっこいい。どうしても人はネガティブなことにばかり注目しがちですが、人生は単純な足し算引き算じゃないし、どんなマイナスも帳消しになるような何にも代えがたい一瞬の輝き、束の間の喜びが存在しますね。これまで日々与えてもらった喜びを、その終わり際の苦しさを踏まえて全部偽物だったって再解釈するのは愚かなことです。しかしそれでもなお!失うことは悲しい!終わってしまうのは悲しい!悲しいものは悲しい!マイナスがゼロになるのは幸せで、プラスがゼロになるのを不幸だと思うのは人間の認知の変なところですが、分かっていても納得できない。悲しい!寂しい!置いていかないで!要らないってしないで!ずっと変わらない姿でそこにいて!
こういう頑是ない気持ちに寄り添ってくれるのがこの曲です。フィナーレはある意味で一番の晴れ舞台で、卒業式の君ははっとするほど綺麗でいつもどおりにチャーミング。明日はきっと楽しく笑って最後は泣いて君にとっても私にとってもメモリアルな日になるんだろうし、それが確約されていることはもう分かっている。だから楽しみな気持ちも嘘じゃない。でも、その最高の明日が始まってしまったら本当に終わってしまう。最後に一番素敵な君を見せてくれて、その後に魔法は解ける。夢から覚める。終わらないで。だから始まらないで。こんな風に爽やかに明るくそう歌ってくれるから、私は私の悲しみをきちんと悲しむことができます。この曲が一緒に終わりを惜しんでくれるから、清らかな気持ちで明日のイヴを過ごせます。
それにしても「明日に控えた学園祭が訪れないように」って、ねえ。「学園祭」をこの歌でこんな風に使われたら胸にぐっと来てしまう。絶対満を持して使ってるって分かるのに!悔しい!ずる!
ハック
一番大好き。本当に好き。この歌を聴いているとき、ずっと気持ちいいです。
最初の方のゆっくり歌ってくれるところ、頭を撫でてくれる指が髪の中を通って何度もすいてくれることを連想します。疲れているのに上手く寝付けなくて機嫌が悪いときに慰めてくれる。わざと不機嫌に唸れば低く笑って宥めすかしてくれる。キスと頬擦りの間で、背伸びのついでのハグで、胸郭の上下にこっそり自分の呼吸を合わせて眠りに落ちるのを待つ間で、寝物語で、それら全部を目をつぶって享受するだけの親密な時間です。別に全然そんな歌詞じゃないんだけど。でも、たとえ部屋の外で世界の全部が終わろうとしていても、私はこのベッドで眠ります。
テンポが速くなってからのところはもう夢の中です!同じベッドで眠った私のハックルベリー・フィンが一緒に旅に出ようって誘ってくれる。そこには海があって道があって昼と夜があって遠い故郷があって二人しかいない。言葉は二人の間でだけ通じてればいいから花も歌も勝手に名付けてしまおう。自由な時間だけが無制限にあって予定はなくってどんな過去も大切な人のこともずっと忘れていていい。どこまでも逃げようかって言って一緒に行こうとしてくれる人がいたことを夢から覚めても忘れずにいたい。
いつかライブで聴きたい曲です。よく聴ける時期を逸していますか?でも聴きたいです。YouTubeのライブ版がたまらなく好きですが、ちゃんと音源化したものも欲しいです。何卒よろしくお願いします。
ライカヒューマン
早く手元に新しいアルバムが欲しいです!ひとまずYouTubeのMVを繰り返し観ながら感想を書きます。
とにかくヒトモドキの描写が良いです。人間みたいに「まず」生きて「みて」いる。ずるずると長引く終わりのない条件付き留保。こんな留保をしていることは自分以外の誰も知りようがないですが、でも他ならぬ自分にこそこういう言い訳をしておかないとやってらんないですよね。
「食べ物はだいたいうまい」は微笑ましく、「誰も殴ったことがない」には思わず笑ってしまいました。女の私には暴力を振るったことがないということがどのくらい切実な欠落感に繋がるのか想像がつきません。殴ったことがない方が圧倒的に真っ当で立派な人間です。でも暴力が間違いなく悪いことだっていう前提で、それでも生涯誰も殴ったことがないとなると激情に欠けるというか意気地がないというか、大切なイベントを踏んでない感じに思うんでしょうね(でも絶対にそんなことないです。暴力は情けなく、卑小です。)。
「だからくだらないからだになった」は切ないです。当然ですが、このヒトモドキは脚がジェットで腕がビームじゃないから自分の身体にくだらなさを感じているってわけじゃない。そんなことは誰にでも一目瞭然バレバレなのに、こういう風に誤魔化されるとたまらなくなる。自分がうっかり忘れてただけで願ったら欲しいものが手に入っていたはずなんだけどね、みたいな言い振りにも胸が苦しくなります。しかし、返す刀ですぐに「くだらない肉に命をたまに宿しているから嫌いになれないね」とかっこよく言い切ってくれるのでほっとします。「魂のゆくえはわからないけれど ソウル・ミュージックは詳しいぜ」って強がり方も好きです。ちょっとポアロのキラキラやクワシイを思い出します。人によってはだからなんだと言われてしまうようなご自慢ポイント。でもそう考えるとソウルミュージックに詳しいことは他と比べてだいぶ余裕があるし強がり方として洒脱で粋ですね。
一番好きなのは「ここで種明かしさ 我ら落ちぶれたヒューマン」です。やはりこの世にヒトモドキなど存在しなくて、ただそういう人間なんですよね。そう、何が足りなくても不恰好でも人間は人間で、そういう自分を受け入れて日々を生きていかなくては。しみじみ。……えっ待って、今我らって言った!?ほんとに?え〜!仲間がいたの!ずっとI’m だったのにどうして!よかったねえ!
ここが特別いいのって、複数であることに何の仕掛けもないところです。別に最後まで自分と君の歌だったとしても曲全体のメッセージを全く損ないません。じゃあなんで複数なのか。それってつまりただ単純に事実として複数だったから我らって言っただけってことですね?うわーん!嬉しい!理由もなくただ仲間と一緒にいるならそれに越したことはないです。よかった〜!ところで、この人がひとつだけ忍ばせた願いってなんなんでしょう。きみに関すること?うーん。
でも、主語を複数形にするのって少し勇気がいることなんじゃないかと思いますが、願わくばこれから先もずっとこの人が自信を持って我らって言い続けられますように。
色々と勝手なことを申し上げましたが、本当に学園祭学園の音楽が好きです。新しいアルバムも早くたくさん聴いてあれこれ考えたいです!楽しみにしてます!


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