2025.12.18
竹内県議の優しそうな笑顔は報道特集だけにある
ツイッターで竹内県議についてツイートしていたらロックされてしまった。正しいことを書くと口を塞がれる時代である。そもそも竹内県議はとても威圧的な人間である。われわれは竹内県議のそういう言動だけを知っているわけである。おそらく、報道特集では竹内県議の優しい笑顔が繰り返し流されているのだろうが、それは北朝鮮の指導者の優しい笑顔と同じであり、この地球上の現実の何処でその優しさが実行されたかは杳として知れない。兵庫県問題については、選挙の当落で天国と地獄であるし、稲村さんが落選したので、竹内県議は貝になってしまった。(稲村さんが当選していたら、竹内県議は今でも威張っていた)。彼の居丈高とした態度は地球上から消え失せたのだが、それでも優しさは見えなかったし、ただひたすら沈黙し2ヶ月後に自殺したのである。これを立花孝志さんのせいにするキャンペーンが日本社会至る所で張られており、そう書いてもまったく規制されない。しかし「立花孝志さんはまったく悪くない」と書いたりすれば検閲コードに引っかかるのである。われわれは竹内県議の優しさに何処で触れたのか、実は一度も触れてないのではないか、そこを考えなければならない。威張っていた人間がノックアウトされて完全沈黙、という現実しか見てないはずで、竹内県議の強面の背後にある優しい笑顔は捏造なのである。どんな悪人でも、写真撮影のときには優しそうに笑うだろうし、せいぜいそれだけのことである。写真の笑顔は本物の優しさではない。写真が笑顔なら優しいというのなら、立花孝志さんの写真も笑顔に溢れている。写真はそういうものなのである。大事なのは本当の言動であり、斎藤知事を無理して失脚させようとしてた竹内県議と、それを食い止めに来た立花孝志さんでは、どちらの言動に優しさがあるかは明らかである。立花孝志さんは現在留置所にいるが、吹き荒れる言論統制の中で、われわれは物事の本質を見極めなければならない。兵庫県問題をいくら追いかけても、竹内県議の優しさは見当たらない。写真では笑顔、それはどんな悪人でもそうなのだし、竹内県議もそうなのである。竹内県議はとても怖い人である。
2025.07.28
理想という病。教祖・信者・宗教二世。
腐臭がする畜群たちは理想主義者である。理想から著しく遠いように見えても、人間は、他人に理想を託しながら生きている。卑近な事例で言えば、自分は遊んでいても、子どもには勉強しろとか、そういう構造がある。それを露骨にしたのが宗教二世である。信者(親)は教祖に理想を求め、そして、宗教二世(子ども)にも理想を求める。御本人はただの暇人である。教祖とか子どもに理想を求めるよりは、自分が頑張ればどうかと思うが、端から見て暇人でも御本人の主観では推し活を全力で頑張っているのかもしれないし、これも病である。ともかく、宗教二世問題はかなり極端だとしても、人類の多くは、他人に理想を求める病気である。どうすれば解決できる、という話ではなく、病気だから病気なのである。「他人に理想を求めるのではなく、少しは自分で頑張れ」と言うことはできるし、そうした方が良いが、本質的に理想をこじらせる病を拭い去ることはできない。そもそも理想的な人物が本当に実在するのか判然としないし、偉人の伝記は大げさになりがちである。聖徳太子は実在しているが、そのエピソードの大半は作り話と思われる。さすがに聖徳太子は度が過ぎるとしても、理想化された偉人は多かれ少なかれ、そういうところがある。虚無から逃げる行為としてこの病気があるなら、せめて、自分の無力さと向き合うとか、治らないことの自覚、無知の知という姿勢は欲しいものである。
2025.05.29
昔はよかった
「御成敗式目」佐藤雄基(中公新書)
最近はどんどん便利な世の中になっているので、われわれは進歩史観を持っている。とにかく便利だから、「昔はよかった」という発想は消えつつある。科学は積み重ねが可能である。ゼロから発明しなくても(むしろゼロから発明しては駄目であり)これまでの科学の業績に追加していけばいいわけである。もちろん、スマホがない時代のほうがよかった、という懐古趣味も可能ではあるが、不便な時代に本当に戻りたいというのはない。われわれはそういう利便性に飼いならされており、便利さに引き摺られながら生きている。さて、冒頭に引用した話だが、科学が発展する前だと、「昔はよかった」というのが普通ではあった。だんだん悪い世の中になっている、と思われていたのである。利便性が横這いであるなら、「昔はよかった」と過去を美化する認識は当然ありうるだろう。理想から転落した現在という歴史観はむしろ自然に思える。こういう嘆きはある意味理想主義者のものであり、人間に絶望しながらも人間の可能性は信じているようにも思える。こういう古臭い理想主義も、昨今の便利な世の中によって駆逐された。「歴史の終わり」という言葉があるが、人跡未踏の地が消滅し、すべてがクリア済みのマップになったということである。3次元空間がすべてクリアされても、量子力学とか相対性理論とか、その上まで射程にしているし、その科学の成果は積み重なるが、いくら便利になっても人間そのものが進歩しないという憾みはある。
古代は聖人たちの理想の時代で、現在は乱れているという歴史像は、中国の儒教だけではなく、おそらく古今東西で普遍的な見方であり、人類史上ではむしろ近代の進歩史観のほうが少数派なのだと思う
最近はどんどん便利な世の中になっているので、われわれは進歩史観を持っている。とにかく便利だから、「昔はよかった」という発想は消えつつある。科学は積み重ねが可能である。ゼロから発明しなくても(むしろゼロから発明しては駄目であり)これまでの科学の業績に追加していけばいいわけである。もちろん、スマホがない時代のほうがよかった、という懐古趣味も可能ではあるが、不便な時代に本当に戻りたいというのはない。われわれはそういう利便性に飼いならされており、便利さに引き摺られながら生きている。さて、冒頭に引用した話だが、科学が発展する前だと、「昔はよかった」というのが普通ではあった。だんだん悪い世の中になっている、と思われていたのである。利便性が横這いであるなら、「昔はよかった」と過去を美化する認識は当然ありうるだろう。理想から転落した現在という歴史観はむしろ自然に思える。こういう嘆きはある意味理想主義者のものであり、人間に絶望しながらも人間の可能性は信じているようにも思える。こういう古臭い理想主義も、昨今の便利な世の中によって駆逐された。「歴史の終わり」という言葉があるが、人跡未踏の地が消滅し、すべてがクリア済みのマップになったということである。3次元空間がすべてクリアされても、量子力学とか相対性理論とか、その上まで射程にしているし、その科学の成果は積み重なるが、いくら便利になっても人間そのものが進歩しないという憾みはある。
2025.05.27
軟禁されたいのが人間
多くの人間がカフェに群がって勉強しているのを見ると、たとえば発達障害だから怠けるという話ではなく、人間誰しも怠け癖があり、モチベーションが足りてなくて悩んでいるのである。カフェに軟禁されることで、ようやく勉強が出来る。モチベーションがなくてもそこそこできるのが健全さの証であるが、やはり、立派な健常者でも、たゆまずに動き続けるマシーンではない。誘惑が遮断されるに越したことはなく、だから衆人環視のカフェに軟禁されて勉強したいのである。時間が余っている人間というと、障害者だけではなく、専業主婦というひとたちがいるが、たいていはろくなことをしない。専業主婦が偉大なことを成し遂げたということはない。なにかしら軟禁され、強制されないと、健常者でも不善をなす。自宅軟禁というのがあるが、あれはまさに専業主婦的なものであり、自宅という自由空間の恐ろしさである。この手の自由の混沌を削ぎ落としたいからスタバに行くのであり、われわれがいかに自由を苦手としているか、なのである。独学がよくないというのも、独学だと成果が上がらないのではなく、「自宅」がよくないのである。カフェみたいなところで独学すれば、それなりに結果が出るかもしれないし、カフェも安くはないが、授業料よりは安い。授業料がリーズナブルであれば、軟禁される場所として、教室に通うのもよいかもしれないが、授業料は高額すぎるのが現実であり、気軽に払えるひとだけではないので、独学の可能性も広げたいところである。われわれの社会は完成に近づいているが、その結果息苦しいのは、授業料の高騰も一因である。自宅で怠けるのを回避するために高額な授業料を払うとすれば、無駄な生活苦である。
2025.05.09
運動コンプレックスと学歴コンプレックス
低学歴の親が「自分の子どもを大卒にして見返したい」というのはよくある。だが、運動が出来なかった親が「自分の子どもをスポーツマンにして見返したい」というのは、ほとんどない。運動が出来ないコンプレックスはおとなになっても一応は残るものであるが、運動より学歴ということになるし、おとなには体育の時間がないので、恥をかく機会もない。さて、ここで問題になるのは、学力は可視化されないので変な全能感があることだ。いかにも運動ができない奴を思い浮かべてほしい。そいつを小さい頃から鍛えたらスポーツマンになるかというと、極めて難しい、というより完全に不可能である。30点を50点にするとか、それくらいならできるだろうし、頑張ればいいと思うが、運動音痴は運動音痴。努力で少しはマシになるとしても、30点を100点にすることはできない。しかし、学力に関しては、運動音痴がスポーツマンという具合の転生が可能らしいのである。運動音痴が「恵まれた家庭環境に産まれていたら自分は運動ができた」と思うのはあり得ないが、学力では「本当は自分は~」という勘違いが可能なのである。おそらく「未知の自分」の話であり、運動に関しては、まさしく現在のこの肉体という生々しい現実なので、「まだ知らない自分がいる」という勘違いは出来ないが、学力に関しては、なぜか勘違いができる。肉体はこちらの世界にあるが、頭脳はあちらの世界であり、まだ見ぬ自分が壁の向こうにいるらしい。外見の良し悪しとか運動能力は、本能的なものであるのに対して、頭脳は本能的に把握できないので、あちら側に本当は天才の自分がいたりとか、そういう妄想が起こる。肉体に関しては絶対に有り得ない発想だし、生まれ変わるなら文字通り(家庭環境などではなく)恵まれた肉体に生まれ変わるしかないが、オツムに関しては、現在のオツムのまま環境を入れ替えればいいらしい。そんなことあるだろうか。