【『ケアと演技』上田公演レポート後編】 「私」と「あなた」を救い、人と人が共に「いる」ための実験場 (文:ざこうじ るい)
この場所に流れる人の営みに、この作品はどう重なるか
『ケアと演技』上田公演の会場となった「犀の角」は、困りごとを抱えた人がだれでも1000円で宿泊できる駆け込み場「やどかりハウス」の拠点にもなっている。
「やどかりハウス」のメンバーたちは、定期的に「女性の自立のためのお茶会(通称”お茶会”)」をしていて、私も何度か参加してきた。
※公演レポートは前編からどうぞ▼
上田公演初回の終演後、公演と連動したお茶会が開催された。
いつもは2時間ほどゆるゆるとじっくり時間が流れるお茶会だけれど、今回は30分程度とアナウンスがあり、普段ののんびりスタートするお茶会とは少し違う雰囲気を感じた。
「子供の頃介護を手伝わされたことが嫌だったけれど、演技をすることで乗り越えていたのかもしれない」
「年を重ねて自分と親の関係性が逆転していくことは、演技をするように自分を変えなければならないことだった」
ある人は子供の頃に経験した介護の思い出を。ある人は、両親を看取ったときの心境を。ある人は、自分の親との確執を。そしてある人は、自分の演技的なふるまいに辟易とした胸の内を語った。そして、言葉にならない違和感のようなものを感じる人もいるようだった。
途中人の出入りもありながら、一人、また一人と自身の体験を語っていく時間は、この場所で起こっている日常としてこの作品をどう受け止めるべきなのかを模索するような時間だった。残念ながら、こたえのようなものにたどり着くには時間がなかった。
改めてじっくり語る場があったら良いな、と感じながら夜がふける。夜の上田はすっかり冷え込んで、薄い長袖のTシャツだけでは足りないと思った。
「福祉とアート“いい感じ”だけじゃない話」に人が集まる
2日間にわたる上田公演の最後は、上演に伴って企画された「ラーニングルーム」でしめくくられた。
そもそも今回の公演は、作品そのものというよりも、それをきっかけに「人が集まるという現象に意味を見出すことに重点を置いた」という竹中さん。芸術鑑賞という高尚なものとは無関係に、街の公民館のような場所でありたいと、無料で開いたトークイベントが「ラーニングルーム」である。
「ラーニングルーム」は3都市でのツアー開始前からスタートし、各地での公演ごとにトークテーマとゲストが設定され、作品鑑賞の有無にかかわらず広く参加者を募った。
上田公演での「ラーニングルーム」では、福祉の現場にアートを取り入れようと奮闘している二人が登壇。
ひとりめは、『ケアと演技』が生まれるきっかけとなった「デイサービス楽らく」の施設長、武田奈都子さん。そしてもう一人は、上田市内で福祉施設を運営し、アートを取り入れて様々な実験的取り組みをおこなう「NPO法人リベルテ」代表の武捨和貴さんだ。
上演を見終わった観客に加え、ちらほらと後から参加しにきた人たちの姿もあった。今、福祉の現場においてアートに何ができるのか、関心のある人は少なくないようだ。
不確実な出会いを楽しむたたずまい
ラーニングルームではそれぞれのぶっちゃけトークが披露され、様々な論点が浮かびあがった。ぶっちゃけトークは会場にいた方の特権として守りつつ、ここでは3つの点にわけて紹介したい。
他者を想像する力としての演技
トークは「不確実な出会いを楽しめる介護職員たちはすばらしい俳優になれる」という竹中さんの気づきと、そこから生まれた「演技というものを自己表現のためではなくて、他者を想像するためのツールとして捉え直せないか」という提起から始まった。
今回、男性である太田さんが女性である竹中さんを演じることによって、ある種の違和感やわかりにくさが生まれていた。太田さんにしてみれば、劇中に登場する生理のことも、セックスのときに挿入される女性の感覚も、想像することしかできない。つまり、わかりづらい。
でも、わかりづらいからこそ、想像力を働かせる。当事者ではない人の想像力が他者を巻き込み、巻き込まれた観客たちは自分たちの体験を想像するという連鎖が起きる。竹中さんは、これが現代社会における争いや断絶に対してできることではないかと考えたのだ。
福祉はわかりにくさと共存できるのか
福祉施設としては、文化芸術のわかりやすい効能の説明を求められ、現場に芸術が入ることの現実的な難しさに直面しているという武田さん。
これに対し、「なにをやっているかさっぱりわからない」と言われるイベントを続けてきたというリベルテの武捨さんは「表現はそもそもわかりにくいものだし、簡単に分かってたまるか、という思いもあります」という。
武捨さん「自分は他者になりきれない中で、どんな深さでどういう世界をみているかというのは、本当に丁寧に追っていかないと近づいていかないと思うんですね。大事なのは、すでにないものを深堀ることよりも、一緒にいるということなんだと思います」
いくつかの対話を経て、「デイサービス楽らく」施設長の武田さんはこう話した。
武田さん「福祉の世界では寄り添うケアとか共感とかが多用されるけれど、どこまで行ってもその人にはなり得ないから、分かりづらさを抱えたままどう一緒に共存できるかを考えたくて、私は、クロスプレイをやってるんじゃないかなと、今日思いました」
善意に流されない芸術の批評性
竹中さんは「善意によって芸術が批評的分析から免れることがあってはならない」という美術史家、クレア・ビショップ氏の言葉を引用し、福祉施設での滞在という環境がいかにその実現を難しくしていたか、ということにも触れた。
これについて武田さんは、「専門職が専門性の鎧を脱いだ先にケアがある」という考え方を紹介し、普段専門性が高い集団である施設職員の中に、異質のアーティストが存在することはとてもハードルが高いと指摘。
竹中さんも滞在中の感情を思い出しながらうなづいた。
竹中さん「なにもせずにそこにいるっていうことが本当に難しくて、『とにかく職員の人たちに嫌われたくないし、邪魔をしたくない』という気持ちが強くなってしまいました」
武捨さんは「私」を主語に対話をすることの大切さをさまざまな言葉を駆使して話してくれた。一方の武田さんは、「アート」や「ケア」という言葉の概念が広くて便利すぎることの弊害を実感していると吐露し、「解像度を上げていく事が必要なのでは」と結んだ。
無意味だから意味があるアートについて
アートは、本来社会的に無用なものであるべき、と個人的には常々思っている。結果的に様々な変化を引き起こすことはあっても、最初からアートに意味を求めてしまうのはそもそもアートのあるべき姿から離れてしまうのではないか――。いつからかそう考えるようになった。
この「アートの無用性」はラーニングルームで出てきた「芸術の批評性」に置き換えることができるかもしれない。
その時代、その時代の社会的文脈や有用性から解き放たれた場所にあるからこそ、芸術に人間性が宿る。そしてその人間性こそ、予測不能なもの、不確実なものを肯定し人間を人間たらしめているものなのではないか。つまり、「無意味だから意味がある」のがアートであり芸術であると考えられはしないだろうか。
人間を人間たらしめているもの
「ケア」という言葉は昨今あまりに膨張してしまい、慎重に使わなくてはならない言葉だと思うけれど、敢えていえば、その予測不能で不確実な人間性を許容することが「ケア」なのかもしれない、とも思う。だとしたらケアは、人間を人間たらしめるために、なくてはならないものであるはずだ。
4月に初めてこの作品を見た時、なぜだかよくわからないけれど涙が溢れた。一緒に見ていた友人もしばらく動けないくらいになり、二人でその後3時間ほど話し込んだ。その殆どの時間は、この作品の話題を入口として、それぞれ自分自身の体験や思いを語っていた。
今回5ヶ月ぶりに同じ作品を見てみると、前回とまったく同じ部分で心が揺さぶられつつ、前回は素通りしてしまった部分でも、新たな思考が広がった。
作品を鑑賞するということは、企画者や演者の状態ももちろんだけれど、演じられる場所、そして鑑賞する自分自身に起きているさまざまな変化が、その体験に乗っかってくることなのだと改めて実感した。
尊厳を守るとはどういうことなのか
劇中では、「尿瓶」が男性や目上の人の尊厳を考えるための象徴としてあつかわれていた。最初に東松山でこの演劇を鑑賞したとき、尿瓶を見ながら私が思い浮かべたのは、男性でも目上でもない、重度心身障害がある自分の次女のことだった。
尿瓶に入った尿の黄色を隠すのか隠さないのか。おそらく一生オムツで過ごす次女の尊厳ということを考えた時、長時間オムツをあてておかざるを得ないときについてしまう尿のにおいを、消すのがいいのか、堂々としていればいいのか。
でも今回、時間を置いてもう一度作品を鑑賞し、作品に登場する尿瓶をみながら考えていたのは、また別の出来事だった。浮かんだのは、つい最近有罪判決を受けた友人のことである。10年に渡る彼との交友関係と、「有罪」といういわば強烈なおしっこの黄色のようなものは、私にとっては同時に存在している。彼は罪を償わなければならないけれど、同時に生きていかねばならない。
尊厳を守るとは、結局どういうことなのだろう。そして、不確実な人間性をそのまま許容するとは――。
竹中さんを救い、「私」と「あなた」を救う
演劇は、言葉を選ばずに言うならば、とてもあけっぴろげな表現だと思う。その場にいる他者や場所自体が作品を変化させるという意味でもそうだし、個人の体験を元にした作品の場合、その人の胸の内を公開するという意味でもそうだ。
さらに、モチーフにした体験が、掴みどころがなかったり答えがないものだったりした場合でも、その開かれた性質によって、答えのなさを提示することそのものが一つの回答になりうる。だから演劇作品はそれ自体が、関係性や見え方を”救って”いるかのようで、それは誤解を恐れずに言えばとても「ケア的」だ。
この作品はおそらく、父を亡くし、ケアについて考え始めた竹中さんにとってのセルフケアの物語という一面も多分にあるのだろう。
私が尿瓶をめぐって次女や友人のことを想起したように、ある人は介護の記憶を、ある人は親子関係の確執を、またある人は社会制度への疑問を思い起こしていたかもしれない。
人と人が共に「いる」ための実験場
作品の終盤では、竹中さん父娘のあふれんばかりの愛情が表現される。おのずと私も、自分の父との記憶が思い起こされ、様々な感情が同時多発的に溢れ出るのを感じた。
たぶんそれも、私だけではない。竹中さんの物語が作品を通じて開示され、竹中さんが救われる姿を目撃することで、観客はそれぞれに異なる記憶を呼び起こされる。そこからそれぞれ新たな”作品”のような対話が生まれていくのだろう。そんな循環の始まりが、ここにはあるような気がした。
尊厳とはなにか。この共通の問いに立ち会う力が、この作品には秘められている。答えは簡単には出ないけれど、少なくとも不確実な人間性をそのまま許容することと尊厳を持って生きることは、無関係ではないように感じた。
『ケアと演技』が上演される場所には、それぞれが生きてきた物語を立ち上げる循環が芽生える。それはまさに、人と人が共に「いる」ための実験場のようだ。
※前編はこちら▼
執筆・撮影 ざこうじるい
長野県在住フリーライター。WEBメディアでの企画執筆の他、広報・レポート記事やフィクションも時々執筆。数字やデータでは語りきれない人間の生き様や豊かさを描くことで、誰もが社会的に健康でいられる社会を目指す。重度心身障害児含む4児の母。夫と次女が住むパプアニューギニアでは、殺し合わないための踊りがあるらしい。なにそれ最高。



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