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STUDY

2026.2.19

【ロシア】エルミタージュ美術館とエカテリーナ2世。“大帝”と呼ばれた彼女の隠れ家とは?

ロシア・サンクトペテルブルクに君臨する世界最大級の国立美術館、エルミタージュ。

この美術館の基礎を作ったのは、18世紀ロシアの為政者・エカテリーナ2世(1729-96)。
ロシアの歴史上、たった2人しかいない“大帝”のうちの1人です。

彼女は生涯を通じて膨大な美術品を収集し続け、ロシアの国力を誇示しながら、現代まで続く優れた文化を築き上げました。そんなエカテリーナ2世の生涯は、非常にドラマチックで壮大なものでした。

本記事では、エルミタージュ美術館の魅力に迫るとともに、偉大な女帝の人生を紐解きます。

エルミタージュ美術館とエカテリーナ2世

1024px-Hermitage,_Leningrad_(St._Petersburg)エルミタージュ美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

エルミタージュ美術館は世界三大美術館のひとつに数えられ、ロシア旅行では定番の観光地として知られています。

18世紀半ばから収集が始まったコレクションは実に300万点にも及び、展示室の数はなんと400室。全室を回るには27キロメートルもの距離を要すると言われています。

エルミタージュ美術館の本館である「冬宮」は、歴代皇帝の宮殿でした。1764年、エカテリーナ2世がドイツの画商ゴツコフスキーから美術品を買い取ったことから、エルミタージュの膨大なコレクションが始まったのです。

1851年には、これまで国王の私有財産として一部の特権階級しか鑑賞できなかった美術品の数々が、公共美術館として広く公開されるようになりました。

本館となる冬宮をはじめ、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュの3つの離宮を擁するこの美術館は、周辺地区も含めて世界遺産に登録されています。

現在のエルミタージュ美術館には、以下の作品があります。

クロード・モネ『庭の女』

1024px-Claude_Monet_022クロード・モネ『庭の女』, Public domain, via Wikimedia Commons.

アンリ・マティス『ダンス』

1024px-Henri_matisse,_la_danseアンリ・マティス『ダンス』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エミール・ジャン・オラース・ヴェルネ『死の天使』

1024px-Émile_Jean-Horace_Vernet_-_The_Angel_of_Deathエミール・ジャン・オラース・ヴェルネ『死の天使』, Public domain, via Wikimedia Commons.

時代や国を越えたありとあらゆる優れた美術品・絵画がコレクションされています。

世界有数のコレクションによって、ロシアの文化・芸術に黄金時代をもたらしたエカテリーナ2世とは、一体何者だったのでしょうか。

ヨーロッパで活躍する女帝たち。エカテリーナ2世の登場前夜

まずは、時をエカテリーナ2世が歴史上に登場する少し前へと戻しましょう。

エルミタージュ宮殿を建設したエリザヴェータ女帝(1709-1761)は、フランスのベルサイユ宮殿に憧れていました。そのため、当時のサンクトペテルブルクの多くの宮殿は、ベルサイユと同じくバロック様式で造られたといいます。

Elizabeth_of_Russia_by_V.Eriksenヴィジリウス・エリクセン『ロシアのエリザヴェータ』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エリザヴェータ女帝は、ドレスや調度品、宝飾などのさまざまな贅沢を楽しんだ女性でした。これまでのロシア宮廷にはなかったサロン文化を取り入れるなど、華やかで豪華な宮廷生活を好んだと言われています。

彼女の生涯で特筆すべきは、プロイセンのフリードリヒ大王(フリードリヒ2世、1712-1786)を倒すため、フランス・ロシア・オーストリアの3国が結託した“7年戦争”です。

1024px-Friedrich_Zweite_Altアントン・グラフ『フリードリヒ2世の肖像』, Public domain, via Wikimedia Commons.

当時、ロシアではエリザヴェータ女帝が、オーストリアではマリア・テレジア(1717-1780)が、そしてフランスではルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人(1721-1764)が実権を握っていました。
そのため、この7年戦争は別名「3枚のペチコート作戦」と呼ばれることもあります。ペチコートとは、女性がドレスの下に身に着ける下着のことです。

1024px-Kaiserin_Maria_Theresia_(HRR)マルティン・ファン・マイテンス『マリア・テレジアの肖像』, Public domain, via Wikimedia Commons.

1024px-Madame_de_Pompadourフランソワ・ブーシェ『ポンパドゥール夫人の肖像』, Public domain, via Wikimedia Commons.

勇猛果敢に国を治めたエリザヴェータ女帝。そんな彼女が見出したのが、後のエカテリーナ2世となるドイツの小公女・ゾフィーでした。

ドイツからやってきた皇太子妃

1024px-Coronation_portrait_of_Peter_III_of_Russia_-1761ルーカス・コンラート・プファンツェルト『ロシア皇帝ピョートル3世の戴冠肖像』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エリザヴェータ女帝は即位後まもなく、ホルシュタイン公国の首都・キールに特使を派遣しました。甥のペーター・ウルリヒを後継者として迎え入れようとしたためです。

生涯独身であったエリザヴェータ女帝は、後継者を定めることで権力を安定させようと考えました。
ピーターは当時、ロシアと敵対していたスウェーデン国王の後継ぎ候補でもあったことから、血縁者同士の戦争を防ぐという狙いもあったと言われています。

こうして、当時14歳のペーターは皇太子としてロシアに入国し、ピョートル・フョードロヴィチと名乗ることとなりました。

このピョートルこそが、のちにエカテリーナ2世の夫となる人物です。

lossy-page1-423px-Peter_III_and_Catherine_II_of_Russia_(Anna_Rosina_Lisiewska)_-_Nationalmuseum_-_15939.tifアンナ・ロジーナ・デ・ガスク『ロシアのピョートル3世とエカテリーナ2世』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エリザヴェータ女帝が皇太子の妻として狙いを定めたのは、ドイツ生まれの貴族令嬢・ゾフィーでした。ゾフィーはピョートルから1年遅れてロシアに入国し、名をエカテリーナ・アレクセーヴナと改めました。

外国人でありながら皇太子妃となったエカテリーナでしたが、ロシア語を猛勉強し、ロシア正教に改宗するなど徹底してロシアの文化に同化するよう努めました。

エカテリーナの勤勉さとロシアへの愛国心には高い評価の声が多くあがり、一部ではエカテリーナを摂政として国の実権を握らせるという意見もあったほどでした。

一方で、同じく外国で生まれ育ったピョートルの方は、ロシアに対する愛国心もなく、酒浸りで堕落した日々を送っていました。
エカテリーナか、ピョートルか。どちらを後継ぎにするかはっきりした答えを出せないまま、エリザヴェータ女帝は1761年に急死してしまったのです。

倒したのは自分の夫。33歳で皇帝の座へ

Coronation_portrait_of_Catherine_II_by_S.Torelli_(1763-6,_Russian_museum)ステファノ・トレッリ『エカテリーナ2世(戴冠式の肖像)』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エリザヴェータ女帝の死後、皇帝・ピョートル3世が誕生しました。新しい皇帝は、エリザヴェータ女帝とは対照的にプロイセン式の流儀を宮廷に取り入れていきました。

当時、プロイセンとの7年戦争で、ロシアの勝利は目の前に迫っていました。しかしピョートル3世は、対立していたプロイセンのフリードリヒ大王と突然和平を結んでしまったのです。

エリザヴェータ女帝がマリア・テレジア、ポンパドゥール夫人とともに進めていた同盟は、勝利を目前にしてあっけなく終了してしまいました。

外国人でありながらロシアへの愛国心を抱き、努力を続けたエカテリーナ。そして、ロシアよりもプロイセンに同調したピョートル3世。

価値観の違いからか、夫婦の間には冷たい風が吹き続けていました。

ついにエカテリーナは夫に反旗を翻し、彼を皇帝の座から引きずり下ろしました。諸説ありますが、ピョートル3世は退位を迫られた直後に殺害されたと考えられています。

こうして、のちに“大帝”と呼ばれるエカテリーナ2世が誕生したのです。

エルミタージュは女帝の“隠れ家”

1024px-Catherine_II_after_Roslin,_Rokotov_(1780s,_Kunsthistorisches_Museum)アレクサンダー・ロスリン『ロシアのエカテリーナ2世の肖像画』, Public domain, via Wikimedia Commons.

女帝となった1762年、33歳のエカテリーナ2世はさまざまな行動を起こしました。

エルミタージュのメインとなる冬宮に沿って、小エルミタージュを増築したのです。この小エルミタージュが、現在のエルミタージュ美術館の基礎となりました。

エカテリーナ2世は、1764年にドイツ画商ゴツコフスキーから225点の美術品を一括購入し、小エルミタージュに飾りました。

先ほど登場したプロイセンのフリードリヒ大王は、なんとしてもこのコレクションを購入したいと考えていました。しかし資金の用意が出来ずに泣く泣く諦めていたところ、エカテリーナ2世がすべてのコレクションを購入してしまったのです。

この出来事は、ロシアの財力をヨーロッパに広く知らしめる一大事件となりました。

エルミタージュとは、フランス語で“隠れ家”を意味します。小エルミタージュは、いわゆる王宮の「別館」のような位置づけで、18世紀の宮殿によく見られたスタイルでした。

エカテリーナ2世はこの“隠れ家”について、親しい友人への手紙に「エルミタージュの宝物を鑑賞しているのは、ねずみと私だけ」と書きました。

エルミタージュは、女帝にとって友との親交を深めるサロンであり、自分だけの安息地でもあったのです。

その後もエカテリーナ2世は、死の直前まで積極的に美術品の収集を続けました。彼女の死後もコレクションの収集は続き、現在の膨大なコレクションを作り上げたのです。

文化・芸術・教育の発展を促進した“大帝”へ

1024px-Profile_portrait_of_Catherine_II_by_Fedor_Rokotov_(1763,_Tretyakov_gallery)フョードル・ロコトフ『エカテリーナ2世の肖像』, Public domain, via Wikimedia Commons.

エカテリーナ2世は、プロイセンのフリードリヒ大王、オーストリアのヨーゼフ2世とともに“啓蒙専制君主”として知られた人物です。

啓蒙思想とは、理性を重んじ、人権や自由、平等といった概念を広めた思想です。エカテリーナ2世はこのような啓蒙思想を自身の統治に取り入れつつも、身分制度や自分たちの権力は手放しませんでした。

フランスの啓蒙思想家ディドロ、ダランベール、ヴォルテールなどの知識人たちに経済的援助を行い、一気に文化や芸術の発展を推し進めたエカテリーナ2世。彼女の治世には教育の水準が引き上げられ、女性教育の機会も増大したのです。

さらに多くの本が出版され、演劇、音楽、絵画、建築などさまざまな文化が花開いた豊かな時代となりました。

まとめ

エカテリーナ2世は、エルミタージュの入口に次の言葉を掲げていたといいます。

“この扉を通るもの、帽子とすべての官位、身分の誇示、傲慢さを捨て去るべし、そして陽気であるべし”。

そのほかにも、“ため息、あくびはご法度”、“いずれの器物も破壊、破損、あるいは齧(かじ)り付かないこと”など。

ユーモアに溢れながらも、芸術鑑賞の本質を捉えた言葉ではないでしょうか。

エカテリーナ2世の治世は実に34年にも及び、ロシアの近代化・強国化に大きく貢献しました。

彼女は“大帝”と呼ばれていますが、ロシア、ロマノフ王朝の歴史の中でその名を冠したのは、ピョートル1世とエカテリーナ2世のたった2人です。

参考文献:
『華麗なるロシア ロマノフ王朝の至宝』家庭画報特別編集(世界文化社)
『興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地』著:土肥恒之(講談社)
『集英社版 学習まんが 世界の歴史 8 ヨーロッパの主権国家絶対王政と啓蒙専制君主』監修:君塚直隆(集英社)

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糸崎 舞

糸崎 舞

元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。

元舞台俳優。現役時代、さまざまな演劇作品に出演した経験を通じて、世界中の歴史や文化、芸能への深い理解を培いました。俳優としての経験を活かし、アートの中に息づく文化や歴史を解説します。 好きなアーティストは葛飾北斎とアルフォンス・ミュシャです。

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