この記事は、

「シン・エヴァンゲリオン劇場版 ネタバレ徹底心理解析1」「その2」「その3」「その4」「その5」「その6」「その7」「その8」の続きです。

 

これまでの「エヴァンゲリオン心理解析」シリーズのまとめはこちら。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のレビューはこちらです。

最後までネタバレです。ご注意ください。

 

4/11舞台挨拶について

4/11に行われた庵野秀明監督、鶴巻和哉監督、前田真宏監督舞台挨拶生中継付き上映を観てきました。

庵野監督が何度も口にしたのは「感謝」で…本当に誠実な人なんだな、という印象があらためて、強かったですね。

 

NHKでも言ってた「一人で作りたくない」「自分だけの世界にしたくない」との発言は、自分の個性が強すぎるからこそ、放っておくと自分自身だけで世界を構成してしまうから…ということだと思うんですが。

だから他の人にひとしきりやらせてみて、散々試行錯誤させて、その結果大半の場合では「そうじゃない」ことがわかる。そして、結局自分でやる

…ってなるから、現場はさぞかし大変なんだろうなあと思います。

 

まあそれが「才能に差がある」ってことで、宮崎駿監督なんかも同じですね。

それでも最初から一人でやったのでは得られなかった何かは残るのだろうし、ストレスを溜め込んだあげくひっくり返す庵野監督も大変だろうけど。

 

それでも僅かに残るところはあって、「ゲンドウが脳みそを拾って頭に戻すシーン」は脚本にはなく、前田監督の発案だったそうです。

で、これ、後付けみたいになっちゃうけど、やっぱり全体の中ではどこか異質な、浮いているシーンでもあって。(そんな不合理な意味のないことをするのがゲンドウらしくなく思える)

 

「シン・ゴジラを経たからこそできた、実写とアニメのハイブリッド」という話も面白かったです。

NHKでもやってた通り、役者を使ってシミュレーションしたり、ミニチュアを作ったりしてアングルを決めている。

結果、第3村の部分はあらゆるアングルが凝りに凝っている。

人物の頭越しとか股抜きとか、床にカメラ置いてるような極端なローアングルとか煽りとか、黒電話ナメのショットとか、実相寺昭雄監督を思わせる変態ショットが目白押しになってるわけですが。

でも、後半のパートではあえてその手法は使わず、従来のアニメ寄りのアングルになっている。

 

つまり、庵野監督の中では、第3村が実写的現実、後半のエヴァ的展開部分がアニメ的虚構であるという、そういう住み分けになってるんですね。

カヲルがシンジに「イマジナリーではなく、リアリティの中で立ち直っていた」と言ってるのは、エヴァ的世界と第3村の対比。

第3村もエヴァ世界の中…だけどポイントはそこではなく、人々が汗水垂らして働き、仕事をして食い物を作り、生活をしているところを指して「リアリティ」と言っているわけです。

そして、旧ではそうだった内面世界の自問自答ではなく、リアリティの中で生きることこそが、立ち直るための唯一の方法だということを言っている。

 

小ネタについて聞かれたところで、前田監督は13号機の中にカヲルがいる話、鶴巻監督は脳みそを拾うのはゲンドウがユイを忘れたくないからだという誰かアナウンサーの人の解釈が面白い、という話をしていました。

前田監督が話してるのはエヴァの物語内部の設定の話で、演出上アスカが誇張されてカヲルはほとんど見えないくらいになってしまった…という話。鶴巻監督のは前田監督が作ったシーンへの第3者の後付け解釈の話で、逆に庵野監督はそういうことにはまったく興味がなく、どっちでもいいと思ってることが分かります。

 

庵野監督はここで、「エヴァの画面は、物語上必要なもの、絵として美しいもの、僕の人生に関わりあるもの、そしてスタッフの好みがちりばめられている」と語っています。

庵野監督は「俺だけじゃない」と強調したがるけど、庵野監督個人の人生に関わりのあるものが物語に必要なもので、そして庵野監督がこれまで愛してきたもの(鉄道やウルトラマンを含む)が絵として美しいものでもあるわけだから、そこはもう小ネタじゃなく不可分なものなんじゃないのかな。

逆に、ゲンドウが脳みそ拾うかどうかとか、13号機にカヲルのコピーがいるのかどうかなんてところは庵野監督にとって「どうでもいい」ということ。個人的にはそこが分かって、良かったです。

 

宇部新川駅空撮のラストカットについて、「ものすごくお金をかけて僕の好きなものを入れている」と言っていまそたが、これは「クモハ42型」のこと…ではなくて「式日」にも登場していた「太陽家具のビル」のこととの情報もあります(未確認)。

ミサトの特攻

乗員を全員退艦させ、艦長が一人で敵に体当たりする展開は「さらば宇宙戦艦ヤマト」ですね。

「惑星大戦争」も実は同様で、最後に艦長が一人で特攻して敵の大魔艦を倒します。

「さよならジュピター」も主人公が…特攻するわけじゃないけれど、地球を救うための犠牲になります。

 

特攻精神はヤマトの頃から批判されることもあったけど、今回のポイントはミサト以外の全員が生き延びることじゃないかなと思います。

「今は生き残るのが俺たちの仕事だ」ってところですね。みんなその重要さをわかっていて、「一緒に死にます!」とはならない。

華々しく散って終わり…ではなく、その後もずっと世界は続いていく。

生き残った命、子供たちを守っていくことが大切で、それはこの先にずっと続いていく。

それが、前は全滅エンドにした世界に対しての落とし前なんだろうと思います。

ゲンドウの背景としての宇部

シンジに「父さんは何を望むの」と冷静に聞かれて、「お前の選ばなかったATフィールドの存在しない差異のない世界」と答えるゲンドウ。

これは、明らかに旧劇場版を踏まえた発言ですね。

少なくともゲンドウは、旧劇場版の世界を覚えている。

そして、その答えに戸惑わないシンジも同様。

 

シンジとゲンドウが語り合う列車は、テレビ版の時からシンジの内面描写で度々登場してきた旧式の一両編成の列車。

第3村で銭湯や図書館に使われて、「式日」にも映されていたクモハ42型の車両です。

戦前から国鉄で活躍し、日本の多くの路線で引退した後も、山口県の宇部線では2003年まで現役で運行されていた。

つまり、庵野秀明監督が幼少期から大阪芸大に進学するまで、ずっと日常的に利用していた列車庵野監督の少年期/思春期を象徴する舞台だと言えます。

 

若いゲンドウが悩みを抱えて彷徨う背景には、工業地帯

これは宇部港に面する、宇部興産のセメント工場群ですね。「式日」でも、ラストシーンのラストカットでも、この工場群が映されていました。

宇部で青春を過ごしたのはゲンドウじゃなくて庵野監督だけど、映像からはゲンドウが宇部育ちであるようにしか見えない。

 

シンジの誕生シーンでも、同じ工場群が描写されています。

海と、海を超える橋が見えているその景色は、やはり宇部の風景に見えます。

エヴァの設定では、シンジが生まれたのはセカンドインパクトの後であるはずです。

しかし、海は青いし、地軸が曲がり季節が失われ湾岸都市が水没し東京も爆弾で壊滅…というような大災害があった後のようには見えない、極めて楽観的な、日常的な描写がされています。

 

だからもう、この辺で描かれているのはエヴァという虚構を離れた「現実」なんですね。

エヴァ世界の外側にある、庵野監督や我々自身が存在する側の現実。セカンドインパクトが起こっておらず、聖書の記述がそのまま事実にはなっていない世界の現実です。

アディショナル・インパクト/世界創生の仕組み

これはまさしく「虚構と現実が溶け合い全てが同一の情報と化した」状態で、エヴァンゲリオン・イマジナリーの効果として語られていたものです。

シミュレーション仮説的には、常に現在の世界より上位の「より現実に近い」世界が想定できるわけで、そういう世界をイマジナリーの力で想像して出現させれば、現在の世界はフィクションの世界ということになって、「書き換え」が可能になる。

これがアディショナル・インパクトの仕組みですね。

 

これはアニメであるエヴァ世界をメタ的に踏まえた設定ではありますが、エヴァ世界を現実として考えても成り立つのが面白いと思うんですよね。

つまり、第3村を現実とする視点から見れば、宇部の世界を虚構と捉えることもできるわけです。

宇部の世界、庵野監督や我々が属する「この世界」は、この時点でゲンドウによってイマジナリーの力で創造され、シンジの力で虚構から現実へと書き換えられた、「この時点で作られた世界」である、とする解釈をすると、エヴァはまさしく「創世記」だったことになりますね。

 

「世界5分前仮説」っていうのもあります。この世界が5分前に、すべての歴史や記憶もコミで創造されたということを、原理的に否定することはできない。

その視点で見ると、キリストの磔刑などの聖書の記述は逆に、世界創造以前の神の世界=エヴァ世界で起きた事象を反映して作られた伝承である…なんてことも想像できますね。

ゲンドウの自分語り

ゲンドウがいよいよ自分語りを始めて、何を言い出すかと思えば、「知らない友達の家に行くのが嫌だった」「親戚の集まりが苦手だった」という等身大にも程がある発言なのでビックリします。

すげえよく分かるけど! 僕もそうなので!

でも、世界がどうなるかのこの局面に来てそれかよ!っていうね。

 

よく陽キャとか陰キャとか、社交的かそうでないか…みたいなことが言われるけど、微妙に違うんですよね。

ゲンドウが言った、「興味のない相手に合わせて、興味のない情報を吸収させられるのが苦手、好きじゃない、気持ち悪い」という感覚。そこなんだと思うんですよ。

 

実際、舞台挨拶とか見てても、庵野監督は喋るのも上手だし、ちゃんと人とコミュニケーションできる人だと思うし…ってそれは、結婚などを経て変わった部分もあるでしょうけど。

ただ、たぶん今でも根底として変わらないのは、「興味がない情報を入れたくない」というところ。

「『プロフェッショナル』は見ない」ってのが顕著だと思うんですよ。自分が取材された番組で、映画の宣伝にもなってるわけで、最低でも見るのが礼儀じゃないかって気がするけど、はっきりと「見ない」と言い切る。

たぶんそれは、取材時に「面白いところを撮ってない」様子を度々見ているから。作られたものが自分にとって面白がれるものだとは、どうしても思えない。

そういう時に普通だったら、適当に見て、まあ良かったんじゃないですか〜なんて適当にお茶を濁すんだけど、それが出来ない。見ると、激しく自分の内面を掻き乱されてしまう。

それが分かってるから、最初から見ない。

 

自分の基準で「しょうもないもの」に巻き込まれたくない、巻き込まないで欲しいという感覚。

どれだけ傲慢なんだ…と思われそうですが。実際、極めて傲慢なんですが。

本人も自分が傲慢であることに気付いてる。自分を嫌な奴だと思うし、自己嫌悪もする。だからしんどいし、でもそう感じてしまうことを避けられないし…っていう堂々巡り。

学生時代は、同級生に対してこういう態度をとってしまうわけだから。そりゃ孤立もするし、生きづらくなっていくんですよね。

ゲンドウとユイの関係

そんな自分を、ユイだけがありのままに受け入れてくれた…というあまりにもストレートな告白。

ただユイの胸で泣きたかった…という、甘えきっただらしない発言。

ここでゲンドウがユイに見出して、救われてしまってるのは対等なパートナーではなく、母性ですね。

ダメな自分をそのまま受け入れて、無条件の愛を注いでくれる存在。まるで女神さまのような。

「ガキに必要なのは、恋人じゃなくて母親よ」というアスカの言葉がそのまま当てはまってしまう。これ、シンジじゃなくゲンドウのことですね。今となっては…だけど。

 

この辺の「情けない告白」が宇部をバックに描かれていくのは、庵野監督があえて自分自身の精神分析をして、さらけ出していっている印象があります。

他者に寛容にできず、それを自分で矯正しきれず、ありのままに受け入れて甘えさせてくれる母性を求めてしまうという、自分の中のダメなところ。それを劇中の憎しみを一身に集めるゲンドウに託して、断罪している。

そういう一方的でいびつな関係は、壊れる。劇中設定では、ユイはシンクロ実験の失敗で初号機に同化した…ということになってるけど、事実としてはゲンドウの前からいなくなっている。

女性に母親を見出して依存するような態度は決して上手くいかないと、はっきりと否定しているんですね。

 

ただ一方で、そういう心理的にいびつな部分が、庵野監督の作家性の源泉になっていて、エヴァという作品を生む原動力になっていることも事実であって。

人間、向上心を持って変わっていくものではあるけれど、そんな洗脳でもされたみたいにガラッと変わってしまうのも不自然なことで。

実際、プロフェッショナルでの安野モヨコさんの発言を聞いていても、創作上で刺激を与え合う対等なパートナーでもあり、「私がいないとこの人死んでしまう…」と言わせちゃうような「母性」で支えてる部分も垣間見えちゃう。

 

そういう意味では、0か100ではなく、自分の弱点もほどほどに引き受けながら、いい塩梅のバランスをとっていく…ということが、大人になることなのかもしれないです。

 

(ところで、回想シーンでユイとゲンドウが付き合う後押しをしてるのはマリですね。

ということは、マリがユイを好きという漫画版の設定は映画では踏襲されていないと言えるんじゃないでしょうか。)

 

(ゲンドウは言動…とどこかで書いたけど、「原動力」ってのも出てきましたね。ゲンドウはシンジに選択を促す原動力になっている。良かれ悪しかれ…だけど。)

現実と虚構というテーマ

第3村の現実から見れば、宇部の世界を虚構と見なすことも出来る。

宇部を作品内に取り込んで並列で扱うことで、逆に第3村の現実性を高めようとしている、そういう意図もあるんじゃないかな…と思えます。

 

庵野監督は旧エヴァ「虚構を脱して現実に生きるべき」と(特に虚構に逃げ込みがちなオタクの)観客に突きつけたわけだけれど、この新劇場版で変化しているのは、虚構の価値というものにも重きを置いていることじゃないかと思うんですね。

庵野監督自身、思春期の辛さを乗り越える時に、アニメや特撮などの多くの虚構に救われ、力をもらってきているはずで。

アニメや特撮は作りものであって、そこに耽溺してしまうのには問題はあるけど、でも我々に力を与えたり、我々の現実を変える力も持っている。

そんな虚構の価値を、旧エヴァのように「気持ち悪い」と卑下してしまうのではなくて、あらためてはっきりと示すこと。そこが、あえてエヴァをもう一度作り直した強い動機だったのではないでしょうか。

神/ウルトラマンからの人類の自立

ミサトが槍を届けるシーンでの、「知恵と意思を持つ人類は、神の助けなしにここまで来てるよ、ユイさん」というマリの言葉。

エヴァ世界は神なき世界です。というのは、セカンドインパクトで神であるアダムスが十字架にかけられてしまっているから。

そして、アダムスはウルトラマンです。セカンドインパクトにおいて、ゾフィーから新マンまでのウルトラ4兄弟がゴルゴダで処刑されている。

神なき世界は、ウルトラマンのいなくなった世界です。ウルトラマンの助けを借りず、人間だけで怪獣や宇宙人に対処しなくてはならない世界。

 

ウルトラ4兄弟を失って、人類はアダムのコピーであるエヴァを作りました。

初号機を始めとするエヴァンゲリオンは「人造ウルトラマン」であると言えます。

特にマリのエヴァ8号機は、マイナス宇宙に突入するウルトラマンエースと、オーバーラッピングするウルトラマンタロウのイメージを持たされてますね。

 

ウルトラマンシリーズで、度々最終回のテーマになるのが、「ウルトラマンに守られている状態から脱して、自分たちの力で怪獣をやっつける人類の自立」です。

「ウルトラマン」の最終回では、ウルトラマンを倒したゼットンを科特隊の新兵器が倒しました。

「ウルトラセブン」の最終回では、地球人の代わりに戦ってボロボロに傷ついてしまったセブンの姿が強調されます。

「帰ってきたウルトラマン」の最終回では、初代ウルトラマンが勝てなかったゼットンを相手に、主人公が人間のまま特攻をかけていきます。

ここに出てくる「ウルトラ5つの誓い」にも、「他人の力を頼りにしないこと」というのがありますね。

 

この辺、ウルトラマンのメインライターだった金城哲夫沖縄出身だったり、またウルトラシリーズ放映時の時代背景的にも、米軍との関係を中心にした日本のあるべき姿がテーマになっていると言えます。

庵野監督のフェイバリットムービーに、岡本喜八監督の「激闘の昭和史 沖縄決戦」というのもありますね。

「シン・ゴジラ」でも、軍備を持たない日本がゴジラに対して何ができるか…が焦点になっていました。

 

「現実vs虚構」というコピーは「現実の政治vsゴジラ」というイメージだったけど、「現実の危機vs誰かが守ってくれるという幻想」という見方もできますね。

米軍や、神や、ウルトラマンの助けを借りず、自分たちの力でどこまでできるのか。「シン」はそういうことを問う作品にもなっている。

そしてそこは、「アニメなどのフィクションの助けを借りず、個人が現実に立ち向かう」という旧エヴァからのテーマも内包しているのだと思います。

大人になったな

ミサトが自爆を遂げて、シンジは槍を受け取る。

その様子を見ていたゲンドウは、「他人の死と思いを受け取れるとは…。大人になったな、シンジ」

全ての人が「お前が言うな!」と突っ込むシーンじゃないでしょうか。

 

ママに会いたくていつまでも駄々をこねてる、幼児性むき出しのゲンドウに対して、シンジはとっくに大人になっていて、理不尽な運命も受け入れる覚悟を持っている。

いつの間にか、子供は親を超えていくもの、ですね。

 

エヴァ世界のすべての登場人物を庵野監督の分身とするなら、「シン」におけるシンジは大人になった庵野監督の、ゲンドウは子供のままである庵野監督の分身と言えるんじゃないでしょうか。

ボクにしんどい思いをさせるこんな世界は消えてしまえ!と世界を呪う、エヴァという作品の原動力にもなっていた幼児性。それをゲンドウに託して「成仏」させている。

 

幼いシンジに歩み寄って抱きしめ、「そこにいたのか、ユイ」と気づくゲンドウだけど、これもうシンジにとっての癒しにはなってない。ただゲンドウにとっての癒しなんですよね。

シンジはもう、お父さんに抱きしめてもらうことを必要としてない。ゲンドウのために、抱きしめられてあげてるだけ。

これが「子供が大きくなる」ってことですね。ある意味、切ない。

 

その10に続きます。

 

 

 

 

 

 

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