我が道を行く

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興味深いことは、私のところには”誰も欲しがらなかったものがたまる”。実に不思議。ずいぶん長いこと備前の焼き物ばかり買っていた。飽きると売る。この場合、飽きるというのは、どこか気に入らないところが出て来たり、使い勝手が悪いところを見つけたり、わざとらしいところが鼻についたり、人に譲ったり、道具屋に持って行ったりする。

私はものは買って手元に置いて、一緒に生活して見ないとわからないと思っている。上の備前も、”いい味だな”と思って買ったのだが、お茶をいれて、お茶の色がわからない。暗闇でお茶を飲んでいるようが気がする。やがてあまり使わなくなったので、これも食器戸棚のこやしと思って処分を決めた。

ところが誰も欲しがらない。まあ、それなら仕方がないと、何かに使おうと、甘酒、酒粕専用にしてみた。これがピッタリはまった。備前は多孔質なのでさめない。持った感じもまことに具合が良い。しかも、白い甘酒が備前の土の色に映える。使ううちに、ぐい呑みのように、だんだん何とも言えない”てり”と深みが出て来た。3年、5年、7年と使ううち、まだまだそうとう育つに違いない。こうなるともう手放せない。茶托は名のある鉄瓶の作家のものだが、2枚しかなく、千円ぐらいで買った。最初は粉を吹いたようだったのが、これもしだいに手の油がついて育ってきている。ものは使わないとよくなりません。

こうじを60度ぐらいで炊いて、一晩置く、さらにカシューナッツとアーモンドをすりおろしたものを、認知症予防に入れる。ほんのちょっと黒砂糖をいれる。これがおやつです。この器以上に甘酒がうまく感じる食器を私は知らない。いままではカフェオレのカップなどで飲んでいた。もう戻れません。

さて、私はいつも”順列組み合わせ”で食器を使うことを考えている。たまたま”汲み出し”を捜していたのだが、やはり、誰も欲しがらないものがあった。昔はたいへんな窯元だった鍋島の汲み出し。6客セット。石焼き芋2本分(爆)。窯印で、『ああ!鍋島!』とピンときた。白がいい白なのです。『これはアレに合うのでは?』とやってみた。みごと!ウェッジウッドの白と何の違和感もなく決まった。白は窯元によってかなり違うので、ほとんどの場合は合いません。

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ヨーロッパでは、元来ティーカップに取っ手(ハンドル)はなかった。18世紀のスポードでもコールポートでも、みんな”ティーボウル”といって、日本の湯呑のような姿をしている。そのあたりの物は、とてつもなく高い。焼きが日本の物ほどよくないので、使っているとすぐニュウが入ったりパッカリ割れる。鍋島なら安心だ。エリオット・ガーディナーの指揮の英国の18世紀の室内楽を聴きつつお茶をするのに最高。英国では18世紀、こういうカップで紅茶を飲んでいた。

和食の時には、下の茶托と合わせられる。まさに一粒で二度おいしい。

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これは、自転車でもまったく同じで、いつも、誰も買わないものを買ってきた。私が英国車をやり始めた時、へチンズはジャック・デニーのロウ付けした”おおわざもの”(日本刀の用語)の未使用の紙の巻いてあるものが5万円から変えた。60台しか制作されなかったクロス・シートのヘレニックでも十数万円だった。私がそうしてクロード・バトラーとかへチンズ、ベイツを買っていた時、あるフランス製のパリの宝石と言われる自転車のオーナーに『僕は英国の自転車には美を感じない』と言われた。私は『それはお気の毒さま』とこたえた。

そういう人は『知識と頭でものを見ていると思う』。あるとき、『泥除けの付いていない自転車は美しくない』という人がいたので、『貴方は19世紀のアリエルとかラッジとかを見たことがあるか?すばらしく美しいから、英国の王立交通博物館に見に行くといいよ』とかえした。

ある人がイタリアのスポーツカーが好きだったとする。その人が彼が欲しがっているイタリアのクルマを見ると『いい趣味ですね』という。何のことは無い、『自分の好み、自分の趣味を自画自賛しているに過ぎない』。誰か権威が『しきたりの約束の美の基準を決めると、それから外れた美がまったく見えなくなる』。フランスのブガッティのアトランティック・クーペの美とベントレーのブルー・トレインの美とはまったく別の種類のものだ。見方は自由であるべきだ。

お茶の世界では、利休が使ったものと寸分違わない黒い棗(なつめ)の複製を有難がったりする。自転車でもそうで、見分けのつかない写しを作る。アメリカのグラント・ピーターセンが彼の本JUST RIDEの中でそのことを徹底的に批判している。

レオナルド藤田が『思いがけない偶然の効果を生み出すことが一番面白い』と言っていた。禅の世界の書や禅画は迷わず、一気呵成(いっきかせい)にかく。それは”無意識で生み出したものに、頭でひねくりまわして意識で作ったものは決してかなわない”ということが仏教としてわかっているからだ。

私は、真似をしたもの、なぞったものには、何とも言えない背中が痒くなるような感じがする。まず、自分が本で見たり聞いたりしたものを捜している人には、ほんものの美は見つからないのではないか?

村田珠光は、青くならなかった失敗作の茶色い青磁に、渋い落ち着きのある味わいを発見した。これこそ”草庵の茶にピッタリだ”と、それを大切にした。珠光は見方の自由さから多くの人が気が付かなかった美を見つけ出している。

ある方から、宙極茶の急須はカタチ、比例が厳格に決まっている、という話を聞いた。それから外れたものは正統でないということなのだろう。私もそのようなものを20個以上買ったが、ひとつも手元に残さなかった。まさに、そこが”つまらなく感じるところ”なのだ。泥がどうだと言いつつ、表面に詩を彫ったりする。土の上の文字は、私には邪魔なものだ、焼き物の土味を眺めたい。『詩はこころに浮かび、焼き物の表面に書かれた詩は火に焼かれて乾いた楽譜のようなものだ』。詩はこころにあればよい。それでこそが風流。

福島には染付の”北限”の窯元がある。そこの急須をよく使っている。なんということはない急須で、しかもスパウト(注ぎ口)が欠けている。それでも、その急須ほど持ってバランスが良く、お茶がうまくはいるものはほかに無かった。味が露骨に違う。取っ手は後ろ手でしかも、中空になっている。熱くならない。こうしたことが抽出温度の具合に好影響を与えているのに違いない。宙極茶の急須はうしろにまで漏れた湯がまわることが多い。そこで、日本の泡瓶には、内側に半月形の”かえし”が付いているものがある。日本ならではの細かいこころづかいの改良だろう。宇治の老舗のところのものにも、この半月形のかえしが付いていた。今、私が使っているすべての泡瓶には、このかえしがある。福島の窯元のものは、同様の効果を狙って、前が5mmほど高くなっている。しかも、カタチが破綻していない。

岡本太郎が『富士山の模様』をバカにしていた。富士山は日本一だ、富士山は末広がりで縁起がいい、そうした理由で、日本家屋の欄間とか、襖の模様、お茶道具の模様、ありとあらゆるところに『記号』として富士山がけっこうなものとして登場する。しかし、それらは美とも富士山とも関係がない。

めでたい時に”昆布”を出す。”よろこんぶ”だそうだ。なんだか憂鬱になるほどつまらない語呂合わせだ。ところが、煎茶や宙国茶の道具にはその手のものが実に多い。コウモリが付いていたり、茶托に喜ぶとか壽とかが透かし彫りで入っていたり。

あまり細かく書かないが、一部の自転車のきまりごとにも、コウモリ模様とか壽の透かし彫りと同様のあまり意味のない”文法”が多い。どこぞの自転車が発電機(ダイナモ)の取り付け台座をシートステーの内側に穴をあけ、ネジをロウ付けしている。あれはダメなものです。ソービッツとシビーで、もうすでに位置が違う。使ってみるとソービッツのほうがCIBIEよりはるかにうるさい。しかし、CIBIEは、ほんの4mmほどの差でうまく付かない。そういう工作は私はよくないと思いますね。自転車はもっと”ツブシが利く”設計であるべきだ。

フランスの某工房のオリジナル・ブレーキはひどい音を発する。なんだか養豚場の断末魔のような音。一緒に走っていてすごくストレスを感じたことがある。音は出来る限り出ない方がいい。

臨済録に『無事はこれ貴人。ただ造作するなかれ。』とある。ここに到達して、ひょうひょうと趣味を行うのは、おそらく人生の半分、いや3分の2が必要なのではないか?などとこのごろよく考える。

プロフィール

roughton

自然と調和して、自転車の上のEthicalな生活をして、健康長寿。

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