一


 どこか仄暗いよどみをはらんだ風が、そよ、と弱々しく行き過ぎる、かぐざかの街路である。

 人力の車輪のきしむ音と俥屋くるまやの声、旦那衆を迎える番頭の挨拶、嬌としたたおやかな声と柔らかな笑い声、そして粉黛と髪油のもったりとした匂い。それに絡む三味線のまだどこか拙い音が、少し湿しって隅に転がる。

 まだ宵の口、白い夕刻の光が残る薄青がかった灰色の曇天には、それでも雨の気配はない。今日の客足はいかがなものか。

 今日は一段と冷え込むようだ。そろそろ冬の気配が近づいてきている。

 今年の冬はひときわ冷えそうだねえ、という声が耳を打つ。そうかもしれぬと、彼は軽くため息をついた。

 神楽坂は花街、夜が一際華やかだ。料亭や高級妓楼の立ち並ぶ街は、高級官僚や御大尽が夜に遊ぶ。

 妓楼は旦那衆を迎える支度を終え、不思議な仄明るさで人々を待ち構えている。

 ふと料亭の玄関先から声がかかる。

「ああ、まさの旦那! 久しぶりじゃねえですかい。今日は何用で?」

 気軽に声をかけてくる者もいる。この界隈には頻繁に足を運んでいるため、それなりに顔馴染みがいるのだ。──決して妓楼の客として訪れているのではないのだが。

「仕事さ、仕事。遊びに寄っただけならいいんだけどなあ」

 ひょいと中折帽子を掲げてみせ、苦笑をこぼしながら適当な返事をする。お前の店に寄るわけにはいかないのだ、と肩をすくめてみせる。

 それは男も判っているのだろう、こちらも苦笑で返される。

「旦那にはうちも世話になってますけどねえ、たまには仕事抜きで来てくだせえよ」

「そのうち、な」

 軽く返す。向こうもそう期待しているわけでもないだろう。こちらが忙しくしているのは、ちゃんと理解しているのだ。そう、小さくとも評判の会社を構えているので。

 と、先の路地で小さな悲鳴があがる。何だ、と目を向けてみれば、使いにでも出ていたのだろうか、小路から風呂敷包みを抱えた禿かむろが飛び出してくる。

 その後ろを追ってくるのは、黒いもやっとした霧がこごったような何か。

 はあ、と彼は息をついた。最近、増えている。裏路地の隅に凝る、悪い何かである。今は通りがかった人を追いかけて気を食らう程度だが、放っておけば育っていって、人そのものを喰らうようにもなる。

 ただ働きだが、放っておくわけにもいくまい。

 背広の内衣嚢ポケットからするりと札を取り出す。さして高価ではない紙で作った、丈夫ではあるが大層な力のあるものではない。が、これにはこれで充分だ。軽く〝気〟を絡めると口の中で真言をつぶやき、ぴっと札を飛ばす。

 軽いはずの札は過たずに一直線に飛んでいき、鋭く黒いそれを貫く。

 ざ、と軽い瘴気を残し、それは散った。

 ぺたりと座り込んだ禿は、怯えた目でふり返った。そして、助かったのが判ったのだろう、べそべそと泣き始めた。

 ああ、弱ったぞ。彼はため息をついた。子供相手が不得意なわけではないが、しかし泣く子をあやすのが得手というわけでもない。無限に時間があるわけでもない。

 と……。

 するり、と動いた黒いものがあった。裏路地の闇を切り取ったような、黒い黒い二重回しの外套に、その下に覗くのは黒いかすりの着物とはかま。決して高価ではないそれは、この街に客として訪れる者ではなく、訪れる者を楽しませる側の人間であることを物語っている。

「お嬢ちゃんは確か、かぶらさんの──立てますか?」

 抑揚のある、しかししっとりとした静かな声。二重回しの袖から差し出された手は白く、しっかりしてはいるが、まだどこか若いもろさを捨てきれていない繊手だ。

 涙を滲ませた目が、ぽかんと見開かれる。あ、という声。

「冬至さん──!」

 呼ばれた青年は、うっすらと微笑む。

「このところはとみに物騒ですからね……裏路地はできるだけ使わない方が吉だ」

 差し出された手をつかみ、禿はやっと立ち上がる。

「大事ありませんか」

 子供は涙をおさめて健気に頷く。

あねさまのご用事なんでしょう。早くお帰りなさい」

「ありがとう」

 しっとりとした諭し声に頷き、ひと言礼を云うと、子供は駆け出していこうとする。

「礼を云うなら、私じゃありませんよ。そちらの旦那が助けてくれたのでしょう」

 ふい、と青年は顎をしゃくって彼を指し示した。

 お、と彼は目を見張る。

「別に構いませんがね」

 おろおろと青年と自分を見比べる少女に、彼は苦笑してみせた。

「無事で何より。さ、用事の途中なんだろう? くお戻り」

 笑ってみせると、はい、と子供ははにかんだ。もう一度ありがとうと頭を下げると、子供は彼を見上げた。

「柾木さん、うちにご用事ではないの?」

 おや、と今度は青年が目を見張った。

「お嬢ちゃんのお知り合いでしたか」

 ううん、と子供は首を振った。

「知り合いじゃなくて、恩人、というのですって。姐様を助けてくれたひとなの」

 言葉の端々に尊敬と親しみが感じられるのは、この子供の性質たちが良いからか。素直に可愛く思いながら、愛らしく結われた頭をそっと撫でてやる。

「いや、今日は姐さまのところではないよ」

「お仕事? うちには来てくれないの?」

 一端いっぱしに誘うようになったか。苦笑しつつ、彼は首をふった。

「そのうちに、ね。姐さまや鏑屋の旦那にも宜しく云っておくれ」

 はい、と元気よくいらえを返し、風呂敷包みを抱えなおして子供はきびすを返して駆けていった。

 ふう、とため息をつく。

 こんな形で出逢う予定ではなかったのだが。

 彼は、青年に向き直った。

かのうとうさん──ですね」

 ふ、と青年が眉をひそめた。

 まだ若い。否、若く見える。さして背も高くなく、これからまだ少し伸びるのかもしれないと思わせる成長しきらない体躯は、折れそうに細い。かといってするりと真直ぐな姿勢は気負うでもなく自然体で、あっさりとしてそこに突っ立っている。抜けるように白い面立ちは繊細で、まだどこか少年の色を拭いきれていない。

 見たところ、十代後半か、二十歳にはまだ届いていないだろう、そう思わせる青年である。

 ──見た目どおりの青年ではないことは、彼の生業界隈では知れたことなのだが。

 左肩に背負った革張りの細長い雫形の箱をそっと揺すり上げて──いつも携えていると聞くそれは、評判のとおり舶来の楽器の箱だろう──青年も彼に向き直った。

「何か、ご用でしょうか」

 丁寧な口調には、育ちの良さが見え隠れする。彼は、内衣嚢ポケットから今度は札ではなく、名刺を取り出した。そろそろ在庫が乏しい。このところ使いすぎているような気がするのは、吉か凶か。

「私、こういう者でして」

 軽い緊張を押し隠しながら、彼はそれを差し出した。青年は訝しげに目を細めながら、それでも受け取ってはくれる。

ひいらぎ通信社、所長──」

 つぶやくように、青年は読み上げた。それに少し微笑んでみせながら、彼は帽子を取った。

まさとう、と申します。ええ──お会いするのは初めてかと。お噂は予々かねがね、聞き及んでおりますが」

 彼──柾木は、口の両端を軽く上げるだけの微笑みを浮かべてみせる。

「──貴方が」

 青年はつぶやいた。少し青鈍がかった虹彩が、ちかりと店先の提灯の光をはじく。

「柊通信社」

 歌うように、青年は続ける。

「最近評判ですね。よく耳に入ってきますよ。呪術に強い、腕のよい探偵社。自分たちで解決可能な依頼なら何でも請け負うと称しているが、その実、請け負う仕事はほぼ呪術が絡んだもののみとか」

「限定しているわけではないのですが……」

 柾木は苦笑した。

「持ち込まれる依頼が、最近ではほぼ呪術関連になってしまった、というだけですよ。ひとつ大きな事件を解決すると、あっという間に広まる業界です。たまたまそういう事件に行き遭った、それだけのことなんですがね。確かに呪術に強い所員はいるのですが……」

 ふ、と青年は薄く笑った。

「ご謙遜を。所長も、相当な腕だと聞き及んでおりますよ。最近では、裏通りを通ればもうりょうに行き遭う──そんな世の中だ。そういう探偵社があれば、庶民も心強いでしょう」

「そうでしょうか。事務員を入れても総勢たった六人の、弱小会社ですよ、うちは」

「御一新から三十余年、元号がめいに変わって久しいのに、渦巻く魍魎は増えこそすれ、減る気配など全くない。いくら科学を振りかざしても、魍魎はいなくなりはしないのだから──小回りの効いて実力あるところが門を開いておれば、いざとなれば駆け込める。それは、庶民にとっては充分に心強いことですよ」

 ふむ、悪感情は持たれていないようだが──かろうじてそれだけは判る。内心を推し量りづらい人だ。柾木は、そんな印象を抱く。

 それはそうだろう、この外見で彼は、長い長い時を生きている。このひとの容姿は、もう三〇年も変わっていないのだ。

 そう──この青年は、流しのヴィオロン弾きと自称してはいるが、術師としても名高く〝不死人〟として知られる男なのである。

 不死人。

 それは、呪術師界隈では彼ばかりではない。数十年、数百年も年老いぬまま生きている術師は、いくつかの記録に散見する。この明亀の年号の時代でも、幾人いくたりかの伝説的な不死人が、長い時の末にいまださまっているという。

 ごくまれなことではあるのだが、強力な呪術師を多く排出するいくつかの家系──あやななそうくらなどの家々から、彼らのほとんどは生まれた。

 彼らが不死人となったのは、複雑かつこの世の理をねじ曲げるような強大な呪術を行使した〝返し〟のせいであると伝えられる。歳を取らず、斬られても死なず、病すらまたたく間に治ってゆく。死なない。否、死ねないのである。

 死ねない者を造り出してしまうそれらの呪術は、各家だけではなく全ての呪術師の間で禁忌の術として固く戒められてはいるが、やはりこうして目の前に存在するということは、禁忌を犯す者はどの時代にも絶えぬ、ということなのだろうか。

 何故この青年が不死人となったのか、その経緯は誰も知らぬ。

 維新から数年経った頃、突如として夜の東京へ現れ、舶来の楽器を片手に遊郭や花街をあちらへふらり、こちらへふらりとしているうちに、あそこここで片手間に魍魎やしゅの絡む出来事に関わり、絡まりを解き、あるいは切り、滅し──いつの間にか、夜の街で魍魎に悩まされたなら彼を頼れ、と囁かれるようになった。

 夜の街の者はみな、どこかしらで彼の恩を被っており、もはや誰も彼を害そうとも取り込もうともしない(数十年前はそのようなことがあったようだが)。しがない楽器弾きだと自称しつつ、尊敬の視線を集めている。

 にもかかわらず、富も名声も求めず、受け取るのは相応の報酬のみだ。ひとところに留まろうともせず、その日のねぐらさえ、その日に決める。ただ、人々と浅く擦れ合っては、ヴィオロンの音とともにまたふらりとどこかへ歩み去ってゆく。彼はそんな青年だ。

「で──」

 彼は軽く首を傾げた。少し癖のある長めの前髪が、はらりとその額へ落ちる。猫めいた少し尖った瞳はつと細められ、しげしげと柾木を見た。

「もしかして、貴方は私をお探しでしたか。かの評判のひいらぎの方がまた、私なぞに何用でしょうか」

 柾木は曖昧あいまいに笑った。云い出しづらい。

「あなたにお会いしたい、という方から──依頼を受けました」

 笑いをおさめて、柾木は真摯な目を向けた。この人には、ごまかしも何も効かない。こちらが真摯でなければ、のらりくらりとどこまでもかわされる。そう直感するからだ。

 ──おそらくは、逃げられるだろう。だが。

 依頼人は、そう云った。

 そうだろうか。

 見つめる先で、壁のように此方と彼方を隔てていた仄かな笑みが、冬至の顔から消える。

どなから」

 低く、つぶやくように冬至は問うた。

「貴方がよくご存知の方からです。高輪の」

「──高輪」

 それだけで、冬至には通じる。高輪といえば、彼に縁の深い者が屋敷を構えている地だ。

 ふ、と冬至は真直ぐに視線を向ける柾木からうろり、と目を逸らした。

「高輪の方──ですか」

 落とすつぶやきは、まるで独言のようだ。

 そのまま冬至は、どこへ向かうともなく曖昧に歩き出す。柾木はそれに従って、左側に半歩ほど遅れてついてゆく。ちょうど、冬至から見ればかのえの位置とも取れる角度だ。そんなことをどこか可笑おかしく思う。暗喩する気はないのだが。

「あの方の、そう、遣いと云えば遣いなのでしょうか。一度、お会いしたい、と。まずはそうご伝言を承りました」

「そう──そう、ですか」

 吐息をつくように、冬至は囁く。深い、深い夜のような吐息だと思った。黒とも濃紺ともつかない、光をはじかない天鵞絨ビロードのようなその深さ。

「会いたい、と。あのひとが。私に」

 その言葉に内在する意味をまるで無視し、柾木は頷いた。

「ええ。ですが、無理を云う気はありません。何の強制もいたしません。貴方から拒まれればそれまで、とそう申し上げました。それで良ければお引き受けします、と。ただし──」

「……ただし?」

 柾木は大きく息をついた。

「ただし、期限があります。来月の二十二日までが期限です。それまでに了承を得られなければ依頼は終了でよい、と──そのようなお申し出でしたので、契約いたしました。当社も忙しくなってきましたからね、それ以上はかかり切りになってはいられない。好都合でした」

「二十二日……ですか」

 冬至は、どこかあやふやな口調で眉をひそめた。

「そう、三週間と少しですね。正確には二十五日間、ですか」

「──師走の、二十二日」

 どこか茫洋と繰り返す冬至に、素知らぬふりで柾木は頷いた。

「繰り返しますが、強制はしません。ですが、期限までは貴方の説得に努める所存です。少々鬱陶うっとうしく感じられるとは存じますが、ご容赦願いたい」

 しばらく、冬至は無言だった。ただ、漠然と足を進めている。

 徐々に空の色が変わる。薄淡い灰青が青に、紺青に、そして少しずつ漆黒に近づいてゆく。そろそろ冬の声を聞く時節、夜が早い。通りかかる店から声がかかるが、冬至は見返りもせずに道をゆく。

「私が」

 ややあって、冬至がつぶやいた。小さな呟きを聞き落とすことなく、柾木は目顔で冬至を促す。

がえんじるとお思いか」

「いえ」

 即座に、柾木は返した。

「今の貴方は、決して肯んじられますまい」

「……」

 何か云いたげなような、しかし何を云えばよいかわからぬような──まるで迷子のような気配がする。柾木はふっと笑ってみせた。

「しかし、貴方の了承の有無に関わらず依頼料は支払われるとのことですので、その点はお気になさらず」

 肩をすくめてみせれば、冬至は柾木を見、いくつか瞬きを繰り返し──そして、笑った。

 うっすらと、決して心からたのしんでのことではない、しかしふと零れ落ちた、笑み。かといってそれは、決して偽物ではなく──。

「ああ……そうですか」

 くく、と声までもらして、冬至は笑う。

「貴方は面白い人だな」

「そうでしょうか」

 しれっとして柾木は応えた。まあ、どちらでもよい。少しはこちらに興味を持ってもらえれば。そうすれば、こちらだってやりやすい。

「とりあえず──私は、今は所用があるので」

「所用、ですか。本業の方ではなく?」

 冬至が本業は流しのヴィオロン弾きだとうそぶいているのは、有名な話だ。そのつもりで、柾木もちらりとヴィオロンの入っているであろう箱にちらりと視線をくれた。

「本業」

 面白そうに冬至は笑った。

「私がとやかく云う前にこれ﹅﹅を本業だと仰る方は、初めてですよ」

「そうなんですか?」

 ええ、と冬至はうっすら苦笑する。

「術師だの呪術家だの、皆好き勝手に云いますよ。果ては、化け物やら魍魎もうりょうの子やらと」

 は、と今度は柾木が失笑する番だ。

「魍魎! それはそれは……妄想の激しい表現ですねえ。そもそも、魍魎に子など生まれるのでしょうか?」

「……さあ」

 くつくつと冬至は笑う。

「知りませんが──大金や労力をかけて良からぬことを企んだ上阻止されれば、そう見えるのかもしれませんね。少なくとも、敵には見えましょうから」

「なるほど。しかし、八つ当たりで云うにしては、想像力がたくましすぎることだ。良からぬことを企むくらいなら、作者さくしゃにでもなればいいに」

 きっと成功したでしょうに、などと軽い口を叩いてみせる。異端の存在に口さがないことを云う輩は、どこにでもいるものだ。それで傷ついてやる義理は、云われる側にはないのだから。

「……何、戯作で成功するような輩でもありませんでしたよ。何ともお粗末な筋立てでした」

「それはそれは」

 計画を立てて良からぬことを行った──となると、冬至の関わった事件のどのあたりのことだろうか。記憶をひっくり返してみる。前もって渡された小山のような資料は、事前に予備知識としてざっと見てはみたが──何せ、冬至の関わったと思われる事件は多すぎるのだ。規模の大小取り混ぜて。それだけを手がかりに見当をつけるのは、大層難しい。

 まあ、今はそれはよい。

「本業ではない所用となると、あちら、ですか」

 あくまで軽く、柾木は問うた。ええ、と冬至はため息をつく。

「忙しないことです。年の瀬が近づくと、いろいろと──そう、世間はいろいろと騒がしくなりすぎる」

「年の瀬は、街の〝気〟も乱れますからね。我々にとっては書き入れ時ではあるのですが……多くは人の不幸が種となって起こるものです、手放しで喜んでもいられません」

 それは本音だ。仕事が切れず、所員に給金を払ってやれるだけの収入があるのは有り難い。かといって、人の不幸が世に満ちるのを望んでいるわけではないのだ。もしできることなら、その不幸を少しでも減らす手助けができるなら──時にろんな目で見られる会社を、わざわざ立ち上げた甲斐もあるというものを。

 冬至の目がじっとこちらを観察しているのを感じる。

 見られて困るものもなし、観察するだけすればよい。こちらは、冬至に嘘を吐くつもりは欠片もないのだからして……。

「──高月楼こうげつろう

 思考が流れてゆきそうになり、危うく聞き逃すところだった。目顔で冬至の言を促してみせる。ちらりと冬至は空へと視線を流し、そしてまた戻した。

「と、いう妓楼は、ご存知で?」

「え? ええ。高月楼さんですね、存じ上げていますよ。一度、仕事で話を伺いに行ったことがあります。この先しばらくいった路地を、右に入ったところですね?」

 かなりの高級妓楼である。神楽坂でも一、二を争う格の高い店で、花代だけではなく、それ相応の身分がなければ客として上がることはできない。店の方で客を選ぶ、そんな妓楼だ。

「そこに呼ばれまして」

「と、いうことは」

 高月楼で何かがあった、ということだ。

 厄介だな、と思う。高月楼の客は、相応の身分のある御方々ばかりだ。関わり方によっては、政争に巻き込まれかねない。が……。

「ええ、妙なものが見つかった、と。処分を頼まれてはくれないか、とのことです」

 妙なもの。わざわざ冬至に処分を依頼する、それは。

 つまりは、呪物、である。



 高月楼は、瀟洒しょうしゃな色がらめ込まれた扉の美しい、舶来風の玄関をもつ楼閣である。

 洋風建築というわけではないが、あちらこちらに舶来の建具や置物があり、それが人気なのだと聞く。

 このような格の高い店に、彼らのような者が表から入るわけではない。云わば御用聞きの身分なのである。そっと横道から裏に回り、裏手口から声をかける。

「番頭さんがご用だとのことですが」

 あくまでも冬至の口調は丁寧だ。端々はしばしに育ちの良さが見え隠れするのは、やはり生まれが生まれだからなのだろうか。二重回しに包まれた痩せた背を見つめながら、柾木はぼんやりとそんなことを思う。

「ああ、冬至さん。お待ちしていたんですよ! と……おや」

 取り次ごうとしていた下働きの男を押しのけるようにして、出てきたのは番頭の大津である。

「何と、柾木の旦那も──!」

 ひょいと柾木は帽子を掲げてみせた。顔見知りなのである。さて、どう云ったものか。

「お久しぶりです、番頭さん。今日は、その」

「私の助手ですよ」

 柾木が適当な説明をしようとする前に、するりと冬至に言葉を取られてしまった。

「行き掛かり上、とでもいいますか。少々事情がありまして。しばらく私のお手伝いをしてくださるそうですよ」

 ふ、と口元だけで冬至は笑った。──なるほど、そういうことにしたいのか。乗ってやろうではないか。面白そうだ。

「ええ、その通りで。ただの助手と思ってください。お気を遣わず」

 にい、と悪戯っぽく笑ってみせると、何やら察したのだろうか、大津もにやりと笑い返した。

「面白そうなことになっていますねえ。しかし、お二人がお知り合いだったとは──柾木の旦那もお人が悪うございますな」

 先ほど知り合ったばかりだ、とは云わないでおく。ただ肩をすくめるだけで返し、ちらりと冬至に視線を流す。助手というなら、指示をもらおうではないか。

 その内心をどこまで読んでいるのかは知れぬが、冬至は軽く頷いた。

「では、早速なのですが」

 空気が、変わる。

 すう、と細められる冬至のその目の光は茫洋とした辻楽師のものではなく、万象をはるかす術師のものとなっていた。



 広い妓楼の中、裏手口から回ったとて、現場は座敷。人目に触れぬようにというのはなかなかに難しい。

 来客はまだこれからという時刻なのも悪かったのか、見世全体がざわついてゆくのがわかる。大津に案内されている冬至の姿を目にし、あれ、と声を上げる者もいる。しっ、という大津の叱責も大して効いているようには見えない。見世より外には滅多に出られぬ女たちは、当然のことながら物見高い。くすくすと笑いさざめいては、形ばかり恐れ入るふりをする。

 大津は、そんな彼女らを追い立ててはため息をつく。決して無能なわけでも無慈悲なわけでもなく、この手の妓楼の番頭としてはかなり娼妓に心を砕いており、相当に好かれてはいるのだが。

「まあ、当の部屋を見ていただかないと、旦那衆においでいただくのもままなりませんからな。小雀どもが騒ぐのも、申し訳ないがご容赦いただきたく」

「構いませんよ」

 鷹揚に冬至は頷く。太夫や年若い新造らのさんざめきも視線もまるで気にかける様子もない。

「とにかく、うちは誠実に信用を積み上げてきております。国政に関わる御方々も、忍んでおいでになるほどだ。安全でなくては、商売になりません」

「それはそうでしょうね」

 やれやれというため息を飲み込み、気を取り直して大津はひとつの部屋へと彼らを案内した。

 そこは、高級妓楼である高月楼の中でも一、二を争うであろう格の高い座敷であった。

 膝をつき、す、と大津が襖を開く。脇に避けた大津が促すがままに、冬至はその真正面に立つ。そっとその脇から、座敷をのぞき込むと──。

 隅々まで磨き立てられたその座敷には、らんや柱などの細工、掛け軸、飾られた花器や花々にまで、高級品の品格があった。

 まだ青々とした畳は掃除が行き届き、縁すら高級な、おそらくは博多織だろう。ふいと床の間に目が吸い寄せられる。飴色に磨かれた床柱は、黙っていても光をはじくほど。同じく磨き込まれた床板は対照的に白く、その真中に置かれた黒檀の花台はどこか舶来風を感じさせる、それは見事な細工だった。縁に連なっているのは百合の花だろうか、細かに彫り込まれたそれには、中央に銀の糸が埋め込まれている。おそらくそれは本物の銀細工だ。細い細い銀の糸で、花粉を表現しているのだ。そして四隅に優美な曲線を描く猫のような足がついており、よく見ればその先には銀色の爪までが嵌め込まれている。よくぞここまで凝ったものだ。百合と、猫。不思議な組み合わせだ。

 その花台の上にすっと首をもたげているのは、一輪挿しの花器である。ほっそりとしたそれはがら細工だろうか、繊細なそれはおそらくは舶来物。薄青と緑青と、そして半透明の乳白色が交叉し、細く細く優美にその首を天井へと向けている。そこへ差し込まれた、薄く紅の差し色が花弁に散ったざんは……。

 ぐん。

 首が引っ張られる音がした──ように感じた。

 その瞬間。

 ごう、と耳鳴りがした。

 山茶花だ。

 山茶花が──。

 ぐ、と視界の中で、紅の散った白がふくらむ。ぐ。ぐ。何度も何度も、白がふくらむ。視界を埋めてゆく。膨れ上がってゆく──。

 ──いかん。

 目が離せないまま、柾木は右手で小さく印を切った。

 と──その瞬間に、視界は元に戻った。

 そこには──華奢な花器にぽつんと、ただ活けられた花が静かに佇んでいるだけだ。

 これは。柾木は眉をひそめた。

「これ、ですか……」

 低く、柾木はつぶやいた。

 そう──この花器である。

「さすが、柾木の旦那はお鋭くていらっしゃる。そうです、そのビードロの一輪挿しです」

 大津は難しく眉をひそめて、重々しく頷いた。



 物見高い女たちの視線を遮るためか、冬至と柾木が座敷へと入ると、ぴしゃりと音を立てて大津はふすまを閉めた。

「あの部屋で床の間を見ると、まいがする。誰が云い出したか知れませんが──そう噂になりましてね。あの部屋はこのところ何かおかしいおかしい、皆が皆、そう云うのですよ。ある日、誰ぞがもうこの部屋に入るのは嫌だ、とそう云い出しましてね」

 何やかにやと騒いでいるうちに、特別な上客を迎えるために禿たちを引き連れてこの部屋に入った人気の太夫が、気づいたのだという。この花器が、皆の目を回している、と。

「上客。というと、御職の東雲しののめ太夫ですか?」

「いえ、東雲ではございません。ここのところ評判をあげてきている、がすみという者でしてな。才気あるのは良うございますが、かんも強くて困っております」

「癇、ですか」

「癇といいますか、癇性でしてねえ。時折体調を崩しては周りに八つ当たりを仕掛ける。困ったものです」

 この花器に気づくくらいだ、癇性というより、おそらくは直感が鋭いのであろう。もしかしたら、術者の能力があるのかもしれない。御一新の前、諸外国に向けて国が開いたあたりからだろうか、その筋ではない庶民の出の者にそういった力のある者は増えているのだから。現に、柾木自身もそうなのだ。

「あれこれ気がつく性質たちのようですがね、気分にむらがあって困ったものですよ。やれ頭痛がするの吐き気がするのと──それで周りに当たるのですから、禿などは怖がってしまって」

 全く、と大津はため息をつくが、その実どこか心配げなのは、本気でその太夫を案じているのだろう。柾木は口元を緩めた。

「それは、太夫には呪術師の才があるからかもしれませんね。癇性というのは、そういった力や気がうまく廻らなくて、それが身体に出るという場合がありますから」

 十代だった頃の自分を、思い返してみる。そういった事象に明るい友人がいなければ、自分も今頃どうなっていたやら。

「それで酷くお困りのようでしたら、また別の時にでもご相談くださいよ。うちの所員に、得意なのがおりますから」

 売り込むつもりでもないのだが──ただ、そういうままならない自分を抱えているのは、それは辛いものだろうから。

 大津はもうひとつ、大きくため息をついた。

「お願いした方が良さそうな、そんな気がしますねえ。また今度、相談させてもらいますかねえ」

「いつでもどうぞ」

 とはいえ、これから年末に向けて、今現在受けている依頼だけでも柊通信社は手一杯なのだが。

 どうせ妓楼だって書き入れ時だ、話があるなら年が明けてからだろう。そう高を括り、柾木は呪器に向き直った。

 冬至はというと、花器の飾られた床の間の前に膝をつき、手を伸ばすこともせずにじっと花器を見つめている。

「──どうです?」

 柾木もその傍らに膝をつき、冬至の肩越しに花器をのぞき込んだ。

 これは……。

 柾木は眉をひそめた。

 それは、巧みに隠されては──いなかった﹅﹅﹅﹅﹅

 隠しているように見せかけて、わざと瘴気が漏れるような隙間を開けている。そんな印象だ。

「これは、少しさんなのではないか」

 つい、口を突いて出る。それに、ふと冬至は視線を揺らした。

「杜撰。貴方は、それ﹅﹅をどう思われますか」

「それを? この杜撰な術を、ですか?」

 柾木は、瀟洒な花器を見つめた。そして──いや、これは。

「……違いますね」

 何とつぶやいたのかも自覚せず、感覚に引かれるがままに、柾木は立ち上がった。

 ぐるりと部屋を見回す。違う。上か。

 天井を見回した。違う。もう少し、下。いや。

 床の間から、右。違い棚の、そのもう少し上。天袋だ。

 勢いよく天袋の戸を開け放つ。何もない。何の道具も入っていない、空っぽだった。ほこりひとつない。

 埃も、ない──? 使われていない天袋に?

 いや──ここではない。ここではなく、ここはただ単に経由地であって、もっと上だ。さらに上。

「台か何か、ありませんか。届かなさそうだ」

「ど、どうするんですか?」

「いや、少し──天井板をですね」

 慌てる大津を後目に、伸び上がってのぞき込む。

 まさか、地袋に足をかけるわけにもいくまい。下手をすれば踏み抜いてしまう。この、いくらかかっているかわからない建具を。適当な台があればいいのだが──しかし、探すためにそこから目を離す気になれない。

 す、と動く気配。

「柾木さん、これを」

 足下に音もなく置かれたのは、踏み台である。おそらくはそうだろう。よく見もしなかったが。

 ためいもせず、疑うこともなく柾木はそれを踏んで、乗り出すようにして半ば天袋に頭を突っ込むようにして更に上を見つめる。

 とはいえ、そこには天井板しかない。

 惹かれるように柾木は左手を伸ばした。いや、左では駄目だ。右手で、この──そう。これが。

 背広の内衣嚢ポケットを探る。小さな、小さな道具を引っ張り出す。これがあれば。

 細い紐を指に絡め、その手を伸ばす。天井板を、押す。

 ばち、と指先がはじかれる感覚。が、何のことはない。そのまま天井板を押し上げた。

 かたん。軽い音がして、板は押し上がった。何かが、ある。

 右手で板を押し上げたまま、少し躊躇する。左手で──いや、それは。

 思った瞬間、ぐっと台の端に足をかけて、冬至が割り込んできた。その伸ばされた手が柾木の顔をかすめ、思わず柾木は天井板を取り落としかけた。

「そのまま──落とさないで。左手を出してはいけない」

 柾木は息をのんだ。

 ほとんど密着するように、身体が触れる。

「動かないで。貴方が今動くと、ひっくり返る」

 踏み台が、か? それも正しいが、それだけではないだろう。うっすらそう感じて、柾木は凍りついた。云われるまでもなく、動けない。

 ぐ、と柾木よりも小柄な身体が伸び上がる。

 片手をぽっかり開いた天井板の穴へとかけ、もう片手を伸ばし──。

「冬至さん──!」

 思わず警告の声を上げた瞬間、冬至の右手はそれを掴み取っていた。

 ずる、と引き出される、それは。

 黒々としたもやを引き連れて──は、いなかった。



 一瞬の見間違いか。

 それは縦長の、人の手の先から肘ほどの長さだろうか。紫の風呂敷に包まれた、平たい不格好な菱形をしていた。

 丁寧に包まれ、結び目はしっかりとしていて、解けぬようにか固い。いや、それだけではない。黒い絹糸で縫い止められている。一箇所、二箇所……全部で七つ。

「なるほど」

 冬至は、口元だけで薄く笑った。

「──なるほど」

 軽くそれを振ってみせると、ゆっくりと冬至は踏み台から降りた。ほっと息を吐き、ようやく右手を下ろす。ぱたん、と軽い音がして天井板が落ちた。それはもはや、何の術も纏ってはいない。見返りもせず、柾木も踏み台を降りた。

「柾木さん。右手は大丈夫ですか?」

「え? ──ああ」

 柾木は苦笑した。呪物より、こちらの右手か。いや、それとも。

 さっと手を振ってみせる。

「何ともありませんよ。これで防ぎました」

 はらり、と示してみせたのは、淡い褐色の紐である。いくつかの結び目が飾りのように見えるだけの、ただの紐。──術師ではない只人にとっては、だが。

 これを指に絡め、天井板にかけられた呪からの攻撃を防いだのだ。もしこれがなければ、手のひらに火傷くらいはしただろう。

「……ただの小物ですよ」

 じっと見つめる冬至に決まりが悪くなり、さっと懐に仕舞う。

「それよりも、冬至さん」

「──ああ」

 右手に視線を落とす。この厄介な呪物より、こんな小物が気になるのか。つい、ふ、と笑いが出てしまう。

「これ、何なんです?」

 恐る恐る伺う大津は、襖ぎりぎりまで逃げていた。賢明なことだ。逃げ足が早い者は長生きする。

「これが本体ですよ。この一輪挿しは、おそらくはおとりでしょう。誰かが何かに気づいても、この一輪挿しが原因だと思う。一輪挿しだけを始末しても、この呪物は残る。しかし──」

「妙ですよね」

 眉を潜める冬至に、柾木は頷いた。

「この程度の囮でごまかせるものなど、大したものではありませんよ。それに、一輪挿しに気づいて始末しに来た術師なら──その道の玄人くろうとなら、この天井裏の印などすぐに見つけてしまう」

「でしょうね。そもそも見つからないようにしたいなら、囮など使わずに、天井裏の呪物の隠蔽を完璧にすればいいだけの話です。──もし、隠したいのであれば」

「え……隠したい、んじゃないんですかね?」

 不思議そうに、大津は柾木と冬至を見比べる。

「隠したいわけではないのではないか、と──そう云っているんですよ、冬至さんは」

「え、ええ? じゃあ、こいつは……何のために?」

 冬至は軽くため息をついた。

「ここに呪物が仕掛けられた、ということを知らしめたい──それが目的ではないかと」

「同感です」

 そうとしか考えられないだろう。雑に呪がかけられた一輪挿し、天井に仕掛けられた雑な隠蔽、小物で押し開けられる程度の封、そしてこの呪物。

「ところで──それ、どんな感じです?」

 右手で指し示す。紫色の風呂敷に包まれた、それ。やはり冬至も左手で触れようとはしない。

「……大したものではないですね。ただ、左手で触れると危険です。おそらくは、心臓にきますよ」

「心臓に。やはりか」

 不用意に素人が触れれば、運が悪ければ一人くらいは死んだかもしれない。が、それだけだ。

「しかし、何かが連動して動くような、そんな複雑な気配もありません。本当に、これだけで何がしたいのか」

「ふむ……」

 柾木は考え込んだ。

「呪物が仕掛けられたことを、知らしめる。だったら、ここをご利用の旦那衆の誰かへの警告か、脅しか──あるいは」

「あるいは?」

 柾木は首を横に振った。判断材料が少なすぎる。

「これだけでは何とも──次の〝何か〟が出るまで、答えは出せないでしょう」

「なるほど」

 鷹揚に頷く冬至に、えええ、と大津が声をあげる。

「なるほどって──呑気なこと云ってないでくだせえよ。それよりもですよ、それ、どうすりゃいいんです? この一輪挿しは?」

 ふ、と同時に、柾木と冬至は大津を見た。

 その眼差しにか、鼻白んだように大津は一歩下がって襖にぶつかった。

 柾木は冬至と目を見合わせた。苦笑して、冬至は呪物を軽く掲げた。

「これは引き取ります。妙な呪物が出てきたようなので始末してほしい、というだけの依頼でしたからね。適切に始末しますよ」

「で、これ、この一輪挿しは? こいつはどうしたらいいんで?」

「ああ、それは──割ってしまえばそれ以上の悪さはしませんよ」

 さらりと言い切る冬至に、途端に大津は情けない顔になる。

「ええ……勘弁してくださいよ、高かったんですよ、これ。舶来物ですよ? らん西の最新流行の型だっていうのに──」

 おやおや、と柾木は笑いたくなる。触るのも嫌だと片づけることもせずにいたくせに、解決できるとなると惜しくなるのか。気持ちはわからんでもないが、現金なものだ。

 笑いを押し殺して助言をする。

「一番早いのは、何日か清い流水に晒しておくことですね。あとは、風通しのいい陽の当たる場所に十日ほど置いておくか。その間、なるべく触れないようにすること」

「清い流水? そんなもの、この大江戸東京のどこにあるんで?」

 さあ、と肩をすくめる。

「だったら、陽の当たる場所、ですかねえ」

 困ったように笑って、ちらりと冬至の右手の呪物に目をやってみせる。

「冬至さんはそれ﹅﹅の始末で手一杯でしょう。それくらいなら、この見世でもできるのでは? 柊通信社で引き受けて、綺麗にしてお返ししてもいいですが、別料金ですよ?」

 ううむ、と考え込んでしまう大津に、今度こそ柾木は笑い声をあげた。



 もう陽はとっぷりと暮れ、黄昏の色はすでに空にはない。

 結局、冬至は風呂敷に包まれた呪物だけを引き受け、一輪挿しは置いたまま妓楼を出た。勝手口から、柾木も共にだ。

 かなり、冷えてきた。もう何日かすれば師走だ。もう冬といってもいいだろう。

「これ──どうしますかね?」

 そっと、冬至の手にある呪物に視線を向ける。

 さすがに呪物をそのまま持ち出すことはなく、更に風呂敷に包んでいる。無論、その内側には呪封じの札が貼ってあるのだが。柾木が提供した当社社員謹製の札である。効果は保証付きだ。

「燃やしてしまえばよい」

 冬至の答えは明快である。

「しかし──燃やしてしまうと、相手にも判ってしまうのでは?」

「何がです? 呪物が発見されたことがですか? それとも、呪が無効となったことですか?」

「……その両方です」

「それが相手に判って、何か悪いことでもあるんですか?」

 虚を突かれて、思わず柾木は冬至を見た。

「……ないですね。今のところは」

「そう、ないんです。他の誰から依頼を受けたというわけでもない。これに連なる者を探し出す依頼も受けていない。だから、これを今ここで潰してしまっても」

 ふ、と冬至は右手で包みを掲げた。

 ぐら、と界が揺らいだ──気がした。一瞬、ほんの一瞬だけ、視界がぶれた。

 と──その瞬間だった。

 ぼ、と包みが燃え上がった。

「──!」

 手が焼けてしまう──! 思わず叩き落とそうと手を上げたが、左手で遮られた。その手の甲と柾木の手のひらが、ぶつかる。

 ──氷のように冷たい手だった。

 柾木は、凍りついた。何だ、この手は。この手の──温度は。

「大丈夫ですよ」

 青白くも見える炎は、ごう、と大きな音を立てたかと思うと、その瞬間、ぼとり、と地に落ちた。

 息をのむ柾木に、うっすらと冬至は笑った。

「この火は、私の手は焼かない。おそらく、貴方の手も」

 無言で、柾木は火が急速に消えゆくのを見つめた。

 これは。

 柾木は、冬至の手首を掴んだ。その、右の手首を。

 熱かった。人の体温とは思えないほどに。

「……無茶をしますね」

 肺が空っぽになるほどに、大きなため息をつく。

「もっと安全に、負担のない方法で燃やせたでしょうに」

 何を思ったのだろう。何を考えて、この青年──に見えるひとは、いきなりこんな無駄な力を手に集めてみせたのだろう。

 わからないまま、柾木は視線だけで冬至を咎めた。

 じっと、その視線を冬至は見返す。柾木も、その視線を真っ向から受け止めて、動かない。

 どのくらい時間が経っただろうか。

 先に目を逸らしたのは、冬至だった。

「──呪物は始末しました。もう今日のうちにやらねばならぬことは、ない」

 するりと柾木の手から手首を抜くと、ふらりと冬至は歩き出す。

 しんしんと冷える夜の空気に、どこかから三味の音が流れてくる。夜の神楽坂の裏道である。三味の音などそこかしこから流れてくるのに、耳に入ってもこなかったのは不思議と言うべきか。それだけ緊張していたということなのだろうか。

 ゆらゆらと頼りなげに歩く冬至の背に、柾木はゆっくりと声をかけた。

「本業の方は、いいんですか──?」

 ふと驚いたように冬至は柾木をふり返った。

「本業? ああ──これですか」

 左肩に背負ったままだった黒い箱を、そっと冬至は揺すり上げた。この楽器箱を、中身の楽器ごと、冬至が甚く大事にしていることは有名な話だ。

「そうですねえ──」

 立ち止まり、いきなり冬至は箱を下ろした。かがみ込み、そっと留め金を落として箱を開く。

 そこには、優美な曲線を描く飴色の楽器が、青い天鵞絨ビロードに囲まれて眠っていた。

「これが──貴方のヴィオロン、ですか」

「ええ」

 そっと、その首を取って持ち上げる。恭しいとも、慈しむとも取れるような、その優しい仕草。

 生のヴィオロンを、こんなに近くで見るのは久方ぶりかもしれない。そう、昔、高校の同級生がこれを持っていた。金満家の、某男爵家の子息だったが──。

 弓を取り出し、張りを調節し──ぱたん、と蓋を閉じ、再び留め金をかけると、いきなり冬至は箱を柾木へと差し出した。

「──はい?」

「持ってください。どうせ、ついてくるのでしょう」

「や、確かにそうですが──」

 荷物持ちに使おうというのか。

 ふ、と思わず声を出して笑ってしまう。

「まあ、いいですよ。私も今日はこれ以降やることがない。お供しましょうか」

 冬至の繊手が弓を取り上げ、四本の弦の上をさらりと滑らせる。優美な形だ、と思った。昔、同級生にヴィオロンを触らせてもらったことのある柾木は、知っている。ヴィオロンを奏でる正しい手の形をとることはとても難しく、しかしそれができるなら──それはとても典雅で優美なものであることを。

 軽く木製の螺子ねじをひねって音合わせをする手つきは、慣れきっている。

 ほんの音合わせの間の短い音ですら、それは柔らかく、美しかった。

 三味線の鋭く闇を切り裂くような音とは違い、ただひたすら柔らかい。

 ふ、とひとつ軽い呼吸を置いて、冬至はヴィオロンを弾き始めた。曲は、何だったか。珍しい三拍子の、最近流行している歌だ。そうだ、美しき天然。そんな題の曲だった。

 ゆっくりと、もの悲しい旋律を、ヴィオロンは歌う。静かに。

 その旋律にそっと従うように、静かに冬至は歩き出した。そのあとについて、柾木もゆっくりと歩を進める。

 その黒い二重回しの背を見つめながら、柾木は思う。

 冬至は、こうやってそぞろ歩いているのだろう。毎晩、毎晩。いずへか、帰る先を求めて。

 不死人の帰りつく場所とは、どんなところなのだろうか。

 柾木は、漠然とその孤独を思った。

 生きても生きても、己は変わらず、その終わりが見えない。それは、いったいどういう心地なのだろう──。

「この先には」

 つぶやきにふと我に返ると、未だヴィオロンを弾く手を止めないまま、冬至は闇の向こうに視線を投げた。

「ああ──」

 柾木は頷いた。いつの間に、こんなところまで来ていたのか。

「赤城神社、ですね。牛込うしごめ総鎮守の」

 未だに力ある、信仰を集める古い神社である。

「江戸東京にとっって、この神社も重要だ」

「……ええ」

 それは知っている。呪術をかじる者なら誰でも。

「ここは──まだ大丈夫だ。何ものにもまだ、汚されてはいない」

「……」

 不意に冬至は立ち止まった。ふ、とヴィオロンの音が止む。

 と──少し、冬至のまとう空気が変わった。

 今までとは全く違った旋律の曲を、冬至は弾き始めた。

 日本の曲ではない。おそらくは欧州の作曲家の──どこかで聞いた曲だ。何だったか。

「──〝夢見る人トロイメライ〟」

 そうだった。確か、かの級友がよく弾いていた──。

「よくご存知ですね」

 弾きながら、うっすらと冬至が笑った気配がする。

 そうか。唐突に、柾木は悟った。

 冬至は、奉納しているのだ。この神社におわす神に、この曲を。

 柾木は口をつぐんだ。

 邪魔してはいけない。この柔らかい、優しい、美しい静寂の音を。

 一歩下がり、柾木はヴィオロンを弾くその姿を、見守り続けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る