公開日:2025年6月13日

男性性を暴く物語としてのBL──マンガ『10DANCE』(井上佐藤)が描き込む、唯一無二のクィア・ロマンス(評:高島鈴) 

Netflixでの映画化も決定している話題のBL作品を、ライター、アナーカ・フェミニストの高島鈴がレビュー

『10DANCE』1巻 ©︎ 井上佐藤/講談社

「演じられる」男性性

タイトルにもなっている10ダンスとは、競技ダンスにおいて通常は別々に競われる2つの部門、「スタンダード」5種目と「ラテン」5種目の計10種目すべてを踊って競う、非常に過酷な競技である。ラテンの日本チャンピオンである鈴木信也は、あるときスタンダード世界2位を誇る「ダンスの帝王」杉木信也から、この10ダンスに挑戦するべく互いをコーチングしないかと誘われた。最初は乗り気でなかった鈴木だが、すまし顔でこちらを煽ってくる杉木を前に「こいつを負かしてやりたい」とヒートアップし、それを引き受けてしまう。こうしてお互いのダンスパートナーを連れて夜のレッスンを始めた鈴木と杉木だが、その過程でふたりはどうしようもなく惹かれあっていく……。

これだけ読めば「シンプルにダンスを題材にしたラブストーリーなんでしょ?」と思われるかもしれないが、本作のページをめくれば、決して話は単純ではないとわかるはずだ。そこには男性性という虚構が「演じられるもの」であることの証左、そして「理想の男性像」と現実の自己との間でもがく等身大の人間の葛藤が描き込まれている。

具体的にどういうことか? まず、物語が競技ダンスというものの性質を最大限活かしている点に注目せねばならない。競技ダンスは「男役」(リード)の男性と「女役」(フォロー)の女性が組になって踊る競技だ。少なくとも作中世界の競技シーンにおいて同性同士のペアが出場することは不可能であり、実際鈴木には田嶋アキ、杉木には矢上房子という女性のダンスパートナーがいる。そしてダンサーたちは、ダンスを通していかに魅力的な男女のラブストーリーを伝えるかに腐心するし、観客もそれをつねに期待するのだ。バラ園で運命的に出会った王子様とお姫様? 町外れの酒場で熱を交わす奔放な女と旅の男? どんな筋書きであるにせよ、そこには求められるキャラクターがあり、演じるべき型がある。そしてその「役」は、つねに、そして過剰に、ジェンダーに基づいて形作られているのである。

この「過剰に」という部分が肝要だ。ドラァグクイーンがそうであるように、徹底して性別役割に従ったダンサーたちの演技は、性がパフォーマンスであることをはっきりと浮き彫りにする。杉木の「男役」を学ぶべく「女役」に回った鈴木は、杉木のリードにうっとりして「ちょ‥センセ♡/なんかバラ見えてきましたぁっ」「今なら子供いっぱい産めそうです!」(1巻4話)と口走るシーンは極めて象徴的だろう(*1)。『10DANCE』は性の規範がじゅうぶんに往来可能な構築物であることを熟知している。そして鈴木と杉木は、おのれの身体すべてを使ってその行き来を味わった果てに、次第にお互いへの関心を抑えられなくなっていき、「この感情は恋なのか?」と悩み始めるのだ。

井上佐藤『10DANCE』1巻、講談社、pp.138-139

ここで始まる「恋」は極めてフィジカルである。杉木は鈴木への気持ちに関する戸惑いを「(…)今日踊ってる時 鈴木先生にちょっと興奮し」たと表現するし(3巻12話)、鈴木も最初は「男となんてセックスしたくない/触れたいなんて思わない/キスをしたいわけじゃない」と己に言い聞かせることで、「だからこれは恋なんかじゃない」と結論づけようとする(2巻10話)。ここで恋愛的関心以上に肉体関係が問題になるのは、本作の大きな特徴だと言えるだろう。それは決して、本作が「性的なシーンを魅力的に読ませることが目的のBL作品だから」というようなシンプルな理由ではない。ふたりがダンサーであり、つねにふたりを仲立ちするものが身体であるから、そのように描かれる必然性がある。

「優れたダンサーには/身体に歴史やストーリーがある」と杉木が言うように(3巻12話)、身体の使われ方はその身に現れる。どのような所作で食事をし、どのように人と触れ合い、あるいは踊ったのか。それら生きるためにしたことのすべてが、地層のごとく身体に蓄積する。そのように考えるとき、杉木も鈴木も全身で学んできたのは、あらゆる意味で「理想的な男になる」ためのパフォーマンスであった。

井上佐藤『10DANCE』3巻、講談社、p.49

杉木信也。言わずもがな、世界トップクラスを誇るスタンダードダンサーにして「帝王」。幼少期から伝説的なダンサーであるマーサ・ミルトンのもとで育ち、「皆が憧れる最高の紳士」になるようダンスを叩き込まれた。

鈴木信也。キューバ生まれで、故郷に残る9人の妹たちを養うために日本にやってきたラテンダンサー。才能あるダンサーにばかり恋し続けた母の恋人たちに影響を受け、幼少期からダンスに親しんできた。

このふたりの人間に明確に共通していることがふたつある。ひとつは、競技ダンスの「男役」であること。そしてもうひとつは、女性ばかりに囲まれた環境で、自分が「男」であろうと努力してきたことだ。

ふたりの身体に叩き込まれた所作は、つねにふたりの行動を規定する。杉木は大荷物を抱えて歩く女性を見れば見知らぬ相手でも自分が荷物を持とうとし、鈴木は女性と見れば見境なく食事に誘う。それが「あるべき男」──杉木にとっては〈紳士〉、鈴木にとっては〈ラティーノ〉──であると信じて生きてきたからである。ではその、ふたりが生きようとしてきた「男」の物語のなかに、果たして男同士の恋愛・性愛については記載があっただろうか? まるでない、どこを探しても、ないのだ!

この世が支配的に扱ってきた「男」という物語におけるクィア・ロマンスの欠如を、『10DANCE』は大胆に描き込む。言ってしまえば当たり前ではある。だらだらと有徴化されてきた「女」の物語にだってクィア・ロマンスは平然と存在してこなかったし、ノンバイナリーはそもそもまだ歴史的な筋書きがないに等しい(そんなもんなくていい、と言うこともできれば、歴史的に存在が無視されてきた悲惨さの証とも言える)。それでもクィアの不在が暴かれることに、絶対に意味はあると言いたい。それは何が世界の中でなかったことにされてきたか、誰がいないことにされてきたかの証左なのだ。

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