【HF士弓企画】君の勇気に栄えあれ
HF士弓webアンソロジー企画参加作品。
企画の詳細は企画用記事をご参照ください。
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企画に参加いただいた執筆者のみなさま、並びに本企画を応援いただきお楽しみいただいたすべての方々に、心より感謝申し上げます。
本作をもちましてHF士弓webアンソロジー連続投稿期間は終了となります。
なお、本企画は開催記念になるよう、同人誌としても発行しています。(詳細は企画紹介用記事をご確認ください)
よろしくお願いします。
版権元:Fate/stay night
注意事項:腐向け(士弓)、ねつ造、設定改変、独自設定、重大なネタバレ
タイトルはyour brave shineをもとにさせていただきました。
HFのトゥルーエンドまでプレイ済みの方にお読みいただける前提で執筆していますので、未プレイの方はご注意ください。
※私に誤解があり、一部原作の設定と異なる部分がありましたがご容赦ください。
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突然だがこの家には幽霊が出る。
いや、サーヴァントも幽体なので区分的には幽霊なのだがライダーのことではない。もっとこう、魔術師ではなく一般人が想像するような幽霊だ。うらめしやーとか、そういうの。
そいつは決まって俺が一人でいるときに現れる。あと、うらめしやとか言ってしまったが何かを恨んでいるような様子は微塵もない。古い鏡を通して見る鏡像のように薄ぼんやりと、湖面に浮かぶ自分の姿のように輪郭を滲ませて、何を伝えるわけでもなくそこにある。
そう、ちょうど、今みたいに。
いつもと同じように、変哲もない朝だった。
部活に出かけていった桜と藤ねえを見送って、離れに引っ込んでいったライダーに茶を差し入れてやって、さあ俺は今日一日どうしようかと腕まくりをするような頃合い。台所に戻って茶道具を洗い、もしかしたらまたいるかもな、と思ってふと顔を上げて居間を振り返ると案の定男の幽霊がそこにいた。
最初はさすがに驚きもしたが、今はすっかり慣れたものだ。
こちらに危害を加えるどころか何の反応もしない、実体を持たない映像に一々警戒を抱いているのも馬鹿らしい。
男は写真のように、残像のように、ただそこに立って俺を見ている。
「…………」
俺の感覚としてはバッチリ目が合ってしまったような状態なので少々気まずい。なんとなく会釈をしてみたが、男は例によって瞬きすらしない。
どうやら他人がいる時には現れないらしいことも、話しかけても返事も反応もないことも、最近になってようやく確かめられてきたことだ。最初は普通にあれこれ話しかけて気恥ずかしい思いもした。色々試してみた結論としては、特に危険はなさそうだが、こいつが何者なのかはさっぱりわからない、といったところか。
「俺に何か用でもあるのか?」
何度目かもわからない問いを投げかけてみる。どうせ返事はないとわかっているので、独り言に近い。
幽霊がそこにいる理由なんて、やり残したことがあるとか未練があるとか、そういうものだと相場が決まっている。決まって俺の前に現れて呼吸すらなく俺のことを凝視してくるのだから、俺と何か関係がある人物なのだろう。
姿形は判然としない。見上げるほどに背が高く、体の厚みは鍛えられた筋肉を想像させる。肌の色は浅黒く、髪の色はおそらく白。瞳はもうほとんどわからないが、鮮やかな色ではなさそうだ。色彩に乏しい身が纏う装束の赤が余計に目立って見えた。それから――これが如何にも幽霊らしいのだが――彼には左腕がなかった。
洗い物をしたままだった手の先からぽたりと一滴雫が落ちる。
俺は彼が一体何者なのか確かめるべきなのかもしれない、と不意に思った。
*
「それはおそらくアーチャーでしょうね」
聞き込み候補一人目にして正体は早くも判明した。
「弓使い? ってことは、聖杯戦争のサーヴァントか」
「ええ。リンの従者が彼でした。特徴を聞く限りは間違いないかと」
ふうん、と頷く。もちろん俺も遠坂のサーヴァントがアーチャークラスだったことは聞いているが、細かい容姿までは知らされていない。
ライダーは急に部屋を訪ねてきた俺を嫌がることなく、読み途中だった本にしおりを挟むとパタリと閉じた。
「その様子では覚えていないようですね」
「うーん、そうみたいだなあ」
聖杯戦争。
それは今からちょうど一年前に勃発して、数多の犠牲を伴いながらもあくまで秘密裏に収束していった一つの魔術儀式の名称だ。
〝秘密裏に〟という言葉が与える印象ほどには大人しくなかったし、最後の解決手段は遠坂のコネと幸運と実力によるごり押しだったようだが、とにかくすでに終わった話なのだ。
ただ、そこでは本当にいろいろなことが起きて、失われた。衛宮士郎だって聖杯戦争の終結とともに死亡している。そりゃあもう遠坂お墨付きの死亡判定なのだから、完全無欠の死なのだろう。
……じゃあここにいる俺は何なのだ、という話に当然なるのだが。
正直俺自身にもどう説明したものかよくわからない。俺の感覚としては半年ほど前に目覚めて今に至るのだけれど、遠坂に言わせると俺は半年前に再誕したらしい。死んで生き返ったというよりは死んで生まれ直した、というべきだそうだ。
そもそも俺には死んだつもりはないのだが、俺が死ぬらしい時期の記憶――つまりは聖杯戦争あたりの記憶――がほとんどないのもまた事実。変に虫食いだらけの自分の記憶を以てようやく、俺は俺が一度死んだらしいということが実感できたわけだ。
ライダーのことだって一目見て「こいつは味方だな」という印象は覚えたがどういう会話をしてきたのかはさっぱりだったし、桜のために手を組んだとかいうエピソードだって、教えてもらったからそうだったらしいと覚えただけだ。俺自身が記憶していたわけではない。
「死んだことまで思い出したら生き返った傍からまた死んじゃうでしょうが。思い出すことで肉体と精神が破綻するような記憶なんて思い出すべきではないのよ。今の士郎にある記憶こそが、あなたの魂が〝衛宮士郎〟の再定義に必要であると認証した、あなたにとって本当に必要な記憶なんだから」――と、眼鏡を光らせて解説してくれたのは遠坂だ。彼女は散々っぱら俺の身体を調べあげた挙げ句に、大切な人が誰か見失わなければそれでよし、と結論づけた。
俺もそう思う。だから俺の聖杯戦争当時の記憶に穴があるのはいつものことだし、一々動揺したりもしない。
「けど、遠坂のサーヴァントのくせにあいつはなんだって俺の前に姿を見せるんだ?」
ただ、そう。アーチャーらしき幽霊は俺の前にしか現れない。
それってつまり俺に何か言いたいこととかがあるということで、その未練の対象である俺が相手のことをこれっぽっちも覚えていないというのは、流石に不誠実ではなかろうか?
「そうですね。私も詳しくはありませんが、心当たりが一つ」
首を傾げる俺に対してライダーはいつもの落ち着き払った静かな声で返すと、徐に窓横に設置した椅子から立ち上がった。
こちらを見下ろす薄紫の神秘的な瞳が、俺の身体の頭から足先までをじっくりと観察する。
「リンを呼びましょう。あまり、良い兆候ではないかも知れませんから」
*
留学準備に忙殺されている遠坂を呼びつけるのは正直忍びなかったのだが、事の次第を話すと彼女はすぐに駆けつけてくれた。
「左腕がなく赤い装束を身に纏った長身の男の幽霊、ねえ……」
ここは離れの二階にある、今や遠坂の出張工房と化した客室の一つだ。遠坂は山と積まれた書物や触媒の間を上手にすり抜けて一つしかない椅子に腰を下ろしている。一方の俺は物に溢れて寝具の用途を果たせていないベッドに小さくなって座っていた。遠坂の険しい様相に影響されてなんとなく正座だ。
ライダーは部屋の入り口のところで立ったまま、俺たちの会話に口一つ挟まず控えている。
「ライダーの言うとおり、ほぼ疑いなくアーチャーでしょうね。観測できない以上憶測でしかないけど」
ブツブツと、そこから先は小さくくぐもった独り言となって聞き取れない。
今や俺自身よりも俺の体に詳しい疑惑まである遠坂だ。彼女が真剣に考察しているのを邪魔するわけにもいかず、俺はそわそわと正座した足を崩したりしながら続きを待った。
軽く握った拳の爪先を唇に寄せて長考していた遠坂だったが、突然顔を跳ね上げてこちらを見ると口を開く。
「で、士郎の方はどうなの?」
「へ? ……えっと、どうって?」
あまりに急だったのでちょっと変な声が出た。顔を赤らめつつももごもごと問い返す。
「だから、そいつを見てどう思ったのかとか、何かなかった? 私やライダーを見て思い出すものがあったように」
彼女たちを見て思い出すもの、というのは、ライダーでいうところの「こいつは味方だな」というやつのことだ。遠坂に関して言うと「頼もしく安心できる」になる。
「いや、何もないな。ライダーに聞くまで名前と姿が結びつくこともなかった」
「体の変化は? 痛みはない?」
「ない。まったく」
「頭痛や悪夢」
「ない」
「気づいたら時間が過ぎて間の記憶がなくなっていた」
「ない」
立て続けの質問に答えていくと、遠坂は「そう」と頷いたきりまた沈黙してしまった。
似たようなやりとりは俺が目覚めてから五ヶ月の間何度も繰り返されてきたことだ。遠坂は主治医か何かの如く、俺の肉体や精神に異常がないかを頻繁に執念深く確認していた。実際彼女による調整がなければ今ここでのんびり過ごしている俺はいなかったので、主治医という言い方はそうおかしなものではないと思っている。
「……それじゃあ、重ねて聞くけど。今から言う名前に何か思い出すものがあったら教えてちょうだい」
この前置きも慣れたものだ。だが、何度繰り返しても遠坂は異常に緊張した様子で俺にそれを問いかけるので、俺も崩しかけていた正座を戻して姿勢を正して問いを待った。
「アーチャー」
「ない。さっきと同じだ」
「セイバー」
「覚えはない。俺のサーヴァントだったってことは、教えられて知ってる」
「イリヤスフィール」
「知らない。俺を、助けてくれた人らしいけど」
できる限り淡々と返す。
俺はこの質問をされるのがあまり好きではなかった。いつもと変わらない答えを返す度に、遠坂が心臓にナイフでも突き立てられたかのような痛そうな表情で、そのくせそれを隠すように目を閉じるからだ。
覚えていないのだから、俺自身は痛くも痒くもない。なんせ自覚の上では寝ていた間の出来事に等しい。だがこうして遠坂が傷つく様を目の当たりにする度、忘れるというのはひどく残酷なことではないかと思い知らされる。
「何度も言うけど、思い出せないものを思い出す必要はないわ。思い出せないそれらは、今の士郎にとっては思い出すだけで毒になるということだから。
――さ、幽霊に話を戻しましょうか。結論を言えばそいつ自体にはきっと害はないと思う。だから一番まずいのは、士郎がそいつのことを思い出そうとすることよ」
固く張り詰めた空気も、遠坂が一つ手を打って明るい声を出せば霧散した。女教師よろしく、人差し指を立てた遠坂が解説と忠告をしてくれる。
「やるべきことは一つ。忘れなさい。見えてしまっているのなら見ないようにしなさい。アーチャーという存在は、あなたにとっては猛毒よ。――それこそ、命を落としかねないほどのね」
春の空にも似た碧眼が鋭く細められる。命を落とす、というのが脅しのための冗談ではないとわかった。
思い出すだけで死ぬというのは害があるというのではないかとか正直思わないでもなかったが、とにかく俺は素直に大きく頷いて返事をした。
*
しかし、見ないようにしようと思っても幽霊はそこにいるのである。
「見ないふり……って言ってもなあ」
見えているものを見えないと思い込むその思考行程がすでに幽霊の存在を認めてしまっていると思うのだがこれ如何に。
難しい要求だと眉間にシワを刻みながら、ブンブンと首を左右に振って思考を切り替える。
数ヶ月単位の長さで寝ていて鈍った体(遠坂に言わせると生まれたばかりの未熟な体)を鍛えるため、目覚めてからの俺は早朝深夜の鍛錬に加えて昼間も道場で竹刀を振るうようにしていた。というか、学校への復学は来学期からだし、正直今の俺は時間を持てあましているのだ。同じように自宅待機をしていることが多いライダーはたまに話し相手になってはくれるが、互いにそう言葉数が多いわけでもない。
藤ねえは当然仕事。桜も学校に行くし、卒業後の進学先――時計塔を進学先と言うのには抵抗があるが――まで確定している遠坂は学校への登校はほとんどないが留学準備で忙しく街中駆け回っている。ライダーは私室として使ってもらっている客間で過ごしていることが多い。
つまり、俺一人になる時間というのは結構長かった。昨日遠坂からの忠告を受け取ってから今までわずか一日程度の時間しかないが、掃除洗濯料理鍛錬と、そういう合間にふと視線を巡らせてみれば長身の男性がぬらりと立っているのだ。これを無視しろというのは中々に難易度が高かった。
見ないふり見ないふり、と心の中で唱えつつ竹刀を振る。空気を切り裂く風切り音も、二月の冷え切った道場だと余計に高く澄んで聞こえる気がする。
板張りの床を踏みしめる音と、ヒュンと竹刀が立てる音、それから自分の呼吸音だけが混ざり合う。
より重く、速く、鋭く、丁寧に、絶え間なく。大切なものを守れるほどには強くありたい。これ以上何も失わないで済むくらいの力が欲しい。せめて、この目に映る人達くらいは――
「――っ?!」
集中する視界の端、何かが動いたような気がして振り返った。気配の主へ竹刀を突きつける。
「…………」
急に動きを止めたせいで、自分の呼吸が乱れているのが余計に耳についた。一気に噴き出した汗が額の端から顎までを伝う。
真っ直ぐ構えた竹刀の先には、今や見慣れた男がいた。
(動いた、のか?)
道場には俺以外には虫一匹だっていやしない。唯一俺の目にだけ映る男は、しかしいつものように、微動だにせずそこに立っているだけだった。使い込まれた刀にも似た鉄色の瞳が真っ直ぐこちらを見据えている。
俺は息を整えながら竹刀を下ろした。肩を上げて邪魔な汗を服に吸わせる。
動いたように思ったのは気のせいかも知れないが、瞳の色がこうもはっきりわかるようになったのは――前より彼の姿が少しだけ鮮明に捉えられるようになっているのは、きっと気のせいではないだろう。
固唾を飲み下し乾いた喉を無理矢理湿らせる。竹刀を持つのとは逆の左手をおそるおそる、幽霊のような男へと差し伸べる。
輪郭は未だ不鮮明だが、それでも周囲との境界線くらいは読み取れる。アーチャーに残された右腕にそっと触れようとする、その間際。
「……消えた」
気づかぬうちに瞬きでもしてしまったのだろうか。注視していたはずの男は、電源を切ったテレビ画面のように唐突に、忽然と姿を消していた。
いつもは気づいたら消えていたので目の前で消える瞬間を見たのは初めてかも知れない、と。俺は呑気にもそのようなことを考えていた。
*
「なによそのカバのあくびより間の抜けた感想は。そんなことよりも『忘れなさい』っていう私の忠告を覚えるのにその頭を使ってくださる?」
口調の丁寧さと引きつった笑顔が遠坂の怒りの程を窺わせる。
昨日の相談を心配して今日も俺の家にまで出向いてくれた遠坂に、昼食の話のネタにさっきの出来事を報告してみたのだが怒られてしまった。
「う、すまん。でもあいつデカいし、何もしないけどよく出てくるし、無視するのも難しいものがあるっていうか……」
「無視できなかったからって触ってみようとする馬鹿が普通いる? なんで一歩進んだコミュニケーションを取ろうとしてるわけ?」
「それは、その、なんとなく」
「……はあ」
海溝よりも深ーいため息で返された。……これは相当怒ってらっしゃる。
昼飯を食べる手を一旦止めて俺はいそいそと正座をした。せめて反省は示さねば。
「いや、本当になんでかわかんなくてだな。今になって思えば触ろうとするのはまずいよなってわかるんだけど、そのときはこう、気づいたらふらふらーっと」
「手を出しちゃったってわけね」
神妙に頷く。
遠坂は難しい顔で唸りながら、箸で摘まみ上げたコロッケを口に放り込んだ。咀嚼中も両目を塞いで悶々と悩ましそうな顔をしている。
怒っている感じはなくなったので俺もそうっと正座を崩した。まだ温かいコロッケを同じく口に運ぶ。
「双子以上に合致する魂、ねえ……。こういうこともあるものなのかしら。困ったわね」
「双子? 魂? なんの話だ」
「こっちの話。とにかく、士郎は無視を継続! でも、それも難しいっていうなら当然別の対処が必要になるわけだから――ライダー?」
「なんでしょうか、リン」
「アイツ、士郎が一人の時しか出てこないらしいし。二十四時間つかず離れずのボディーガード、お願いできる?」
「うぇっ?! いや、待てよ遠坂、それは俺が困るぞ、すごく」
「仕方ないでしょう、あんたがふらふらーっとしてるのが悪いんだから」
「……ふむ。私としても思春期の少年につきまとうのは心苦しいところではありますが、それが人命救助のためとあらば致し方ありません。ええ、サクラの許可が出ればすぐにでも」
「決まりね。よかったじゃない衛宮君。聖杯戦争でもないのに英霊を護衛として連れ歩けるなんて、最高の贅沢だわ」
うんうん、と上機嫌で頷く遠坂さん。普段食事中ほとんど口を開かないライダーも、珍しく饒舌に何やら言うだけ言って満足したのかそれきり元の寡黙さに戻ってしまった。
「…………トイレと風呂だけは勘弁してくれよ」
残された俺にできるのは、最低限のプライバシーと尊厳の確保くらいであった。
*
「ずるい、ライダー。姉さんも。私がお昼学校に行ってるからって……」
ぶつくさと全く納得のいっていない様子の桜であったが、学期末試験も控えたこの時期に気軽に欠席するわけにもいかない。俺ほどではないが桜も一年前欠席をしまくったことになっているので、出席日数に余裕がないのだ。
「体には気をつけてくださいね、先輩。何かあったら言ってください。ライダーも、教えてね」
「ええ、お任せを。霊体化も駆使して常に士郎の傍にいることにします」
そんなこんなで後ろ髪を引かれる様子ながらも、なんとか桜も登校していった。ちなみに桜は今朝の朝練をサボったからこの時間になったのであって、藤ねえはとっくに出勤している。
三和土に降りて鍵を閉める。ふう、と一息吐いて振り返ると、一段高い廊下に控えていたライダーと目が合った。小さく会釈される。
「それでは、今日はよろしくお願いします、士郎。邪魔をしないようにしますので、いつもどおり過ごしてください」
「うーん、いつも通りって言われてもなあ」
人一人連れ歩いたまま日常を過ごせといきなり言われて実行できる人はそういないと思う。
じっとこちらの動きを待っているライダー(心なしか楽しんでいるように思えるのだが気のせいだと信じたい)を見上げてしばし悩む。もういっそ今から霊体化してくれた方が気持ちとしては楽だけど、それでライダーの魔力消費が減ってしまうのは桜に悪いし……。
「どうしましたか、士郎。何やらもの言いたげな視線で……、ハッ」
そこで何かに気づいた風になったライダーは、そわそわとしながら三和土にいたままの俺のところにまで降りてきた。
見上げる首の角度をちょっと緩めて場所を譲りながら、なんだなんだと様子を見守る。
「くっ、同じ高さに降りても、――いえ、降りるとなおさら際立ってしまいますね。気を遣わせてしまいすみません。みなまで言わず大丈夫です、わかります、ええ、私のような大女が控えるのは邪魔でしょうとも。霊体化しておきますのでどうぞこちらのことは空気とでも思ってください」
「いや、別にそんなこと一言も――って、待てライダー。言ってないし思ってないから!」
すうっ……と悲しそうに消えていこうとするライダーを慌てて掴んで引き留める。
ライダーと四六時中一緒で困るのは単にサーヴァントとは言え女性にずっと着いていられると緊張するとかいう話であって、身長が高いから圧迫感があって邪魔だとかそういうわけでは断じてなかった。
……まあ、俺だってライダーを大きく下回る自分の身長に思うところがないわけではないが、ライダーの方がよほど気にしているのを見ると間違っても口には出せない。
「あれだ、掃除をしよう。蔵の掃除。ちょうど人手が欲しいと思ってたし、うん。手伝ってくれると助かる」
「……そうですか。そういうことでしたら、否やはありませんが」
すうっと戻ってくるライダー。やれやれと冷や汗を拭いつつ、いい加減冷える三和土から廊下に上がる。ライダーのおかげか今朝までの段階ではいつもの幽霊の姿は見ないが、前途は多難そうだった。
*
ライダーは力持ちだ。サーヴァントだし当たり前なのだが、そのサーヴァントの中でも力は強い方らしい。
長い髪を手品みたいに器用にまとめ上げたライダーは、重い荷物も高いところもなんのそので働いてくれている。正直口実の面が強かった蔵掃除だったのだが、ものすごく捗っていた。
俺が全力で押してもまともに動かない重量の三段積み段ボール箱をライダーが難なく持ち上げている間に、箒を差し入れて手早く掃く。上から下へさっきからひたすらこれの繰り返しだが、積もりに積もった埃たちは容赦なく舞い上がり土蔵内に充満した。布で口に覆いはしていたのだが、喉に引っかかる感じにケホケホと咳き込む。
「少し休憩しますか?」
ライダーが咳やくしゃみを繰り返す俺を見かねてそう提案したのは、掃除のおよそ半分が過ぎたあたりだった。外を見てみれば、知らぬ間に随分日が高くなっているようである。
「そうだな、ここらで一旦埃も落ち着かせた方がいいか」
土蔵は風通しが悪いので一度浮かび上がった埃はまた落ちてくるのを待つしかない。高いところと奥まったところは大体手をつけたので、今のうちに休憩するというのは悪くない提案だった。
空気の悪い土蔵を出て、入り口の段差に腰を下ろす。立ったままのライダーにも隣を勧めてみると、一応座ってはくれた。
何をするでもない沈黙の時間に、なんとなく周囲に視線を巡らせる。辺りに誰もいないことを確認してから、いつの間にかそれが自分の癖になっていると気づいた。
「アーチャーってどんなやつだったんだ?」
前を向いたまま、隣のライダーに問いかける。
突然の口火を切った俺にも動じることなく、ライダーは冷静に「今もまだいるのですか?」と返してきた。
「いや、いない。けど気になるだろ。アイツ、何を喋るわけでもないし」
「リンには無視しておけと言われたのでは」
「む。それは、そうなんだけど」
どうにも気になってしまうのだ。遠坂には散々脅されたが、別に現時点であいつに何をされたわけでもないし。たまに目が合ったかなってときにはヒヤリというかツキリとするような感覚があるが、それくらいだ。
悪い感じはしないが、気になる。遠坂のサーヴァントだという彼は、なぜ決まって俺のところに現れるんだろう?
「……あなたの彼には左腕がないのでしょう?」
と。思考がちょうど一つの疑問に行き当たったタイミングで、ライダーが唐突に言った。
それが俺からの質問の回答だと気づくまでの間少し。考え込むのを止めて顔を隣に向けると、ライダーもちょうどこちらを見ているところだった。俺を、というより、俺の左腕を見ているような気もする。
「彼はあなたの命を救うため、自らその左腕を切り落とせと私に言いました。それは同時に彼の脱落を意味しましたが――、あなたには脱落したサーヴァントたちが影として立ちふさがってきた話はしたことがあったでしょうか?
……ああ、セイバーの話のときに。そうでしたね。
その点アーチャーは、脱落したきり敵として現れるようなことはなかった。――最後まで主人を守り、無関係のはずの士郎の命を繋ぐための置き土産まで残したことについては、好印象を抱いています」
ライダーにしては珍しい人物評だった。
眼鏡の奥の瞳はにこりともしないが、声音には確かに、アーチャーというサーヴァントに対しての敬意が込められている。
「だから、今は少々残念に思いますね。折角潔い退場を見せたというのに、今更になって士郎の前に恨めしそうに現れるというのは……。そう。少々女々しいのではありませんか?」
*
意識の覚醒は、言葉が耳に飛び込んでくるのと同時だった。
「女々しいなどという評価をよくもしてくれたな、ライダーめ。私が好きで現れているとでも思っているのか」
聞き覚えのない声だ。 (本当に?)
不思議に思って首を巡らせる――つもりだったが、なんでか視界はがっちりと固定されていて自分の意思じゃ動かせない。かといって俺はそれに危機感を覚えるわけでもなく、なんというか自然体で納得していた。うん、これは多分夢だ。
「まるで私の方に未練だの責任だのがあるような言い方は完全なる事実誤認だ。むしろ私は被害者ではないか。くそ、なんだって今になってこんな七面倒な目に遭わねばならんのだ。全く納得がいかん」
声の主はそんな愚痴を吐き捨てながら、苛々とその場をうろつき回っている。
その場、とは言ったが正直ここがどこなのかはよくわからない。人気も飾り気もない、荒野のようなところに思える。日本ではちょっとお目にかかれなさそうな風景だ。
「む。その様子、もしや私の声が聞こえているのか?」
一生一人で愚痴ってそうだった男は、唐突に顔を上げるとこちらを見て鼻を鳴らした。やれやれと肩をすくめて馬鹿にしてくる仕草までセットである。
「馬鹿者が、こんなところにまで来よって。余計な知識を仕入れるからこうなる」
……なんだろう。俺はこいつのこと知らないけど、本当に全然知らないけど、なんかものすごくムカつくぞ、コイツ。
「いいか、小僧。死にたくなければ凛の忠告に従え。
私のことは忘れろ。私の姿を確かめようとするな。私の声に耳を傾けるな。さもなくば、私は絶対におまえを殺す。
……以上、忠告はしたからな。やれやれ、迷惑しているのは私の方だというのに――」
まだ男は何やら喋っている風であったが、そこで音声が一気に遠ざかる。
ふざけんな、言い返してやらなきゃ気が済まないぞ、と拳を握って吠えたところで、目が覚めた。
*
ガバッと勢いよく跳ね上がった体に押しのけられて足下にずり落ちていったのは、昨夜俺が被って寝た掛け布団だ。
起きたばかりだと言うのに乱れた息を整えながら状況を整理する。整理するまでもなく、俺は掛け布団と敷き布団と間に挟まれていて、向こうには朝日を透かす障子があるので、ここは自室であって、つまり、さっきまで俺は夢を見ていた。
腹が立つ夢だ。大体こっちの声を聞くなとかいっておきながら忠告をしてくるって、どっちなんだよ。矛盾してるじゃないか。こっちが喋れないからって好き放題に――。
「どうしましたか、士郎」
隣の部屋から控えめな声。
誰もいないと思っていたのでちょっとビクッとしながら顔を上げると、小さく開いた襖からライダーが顔を覗かせていた。
「おはよう、ライダー。そうだった、おまえが隣にいたんだな」
言いながら時計を確認すると、もう朝の七時だった。魚を焼くいい匂いもわずかに香ってくるので、桜は先に朝食の準備をしているのだろう。寝坊してしまった。
俺もすぐ向かおうと布団の上で立ち上がると、ライダーも襖を開ききって部屋の方へ入ってきた。その場で軽く辺りを見渡すと、「何か夢でも見ましたか」と尋ねてくる。
「夢? ああ、うん。見た見た。アーチャーが出てきて腹立つこと言われたよ」
「……言葉を交わした、と。どのような?」
「えーっと、確か――」
ついさっきの出来事を思い返す。夢の中でのアーチャーは、こっちで見る幽霊と違って表情豊かに、俺の想像よりずっと饒舌に、何やら一方的に捲し立てて……、
「あれ?」
まだ鮮明なはずの記憶を辿りながら首を傾げる。
「何を言われたんだったかな。俺は何も言えなくて、あいつだけがなんか腹立つことを言ってたような……」
幽霊で見慣れていたからか姿はそれなりに浮かぶのだが、言われた内容だけがすっかり思い出せなくなってしまった。
ライダーは呆れるでもなく、俺につられたように首を僅かに傾ける。
「……どうも、悪化している気がします。リンに言わねばなりませんね」
*
ところ変わって離れにあるおなじみの一室。俺はウンウンと唸る遠坂先生の見解を待つ。
部屋は俺の一連の騒ぎの調べ物のせいか、前に来たときより一層エントロピーが増大していた。いよいよ足の踏み場もない。
「……よくわからないんだけどさ、俺はそんなにまずいのか」
自分では特に異常はないのだが、遠坂があまりに悩むので少々心配になってきた。
「まずい、と私は思うわ。でもわからないことが多すぎて、ここからどう対策すればいいのかさっぱりわかんないのよ。……そもそも、なんだって遠坂である私が第三魔法のことまで研究しなくちゃならないわけ?」
第二だけで手一杯だってのにー! と椅子に座ったまま地団駄を踏んで暴れている。周囲に積み上がった書籍がぎりぎり崩れ落ちていないので最低限の理性は残っていると信じたい。
ところでこちらは上半身の服を引っぺがされたままなのでいい加減寒いのだが、服を着てもよかろうか。
「ああ。もういいわよ、着てちょうだい。これから長い話になりそうだし」
「長い話かあ……」
昼食までに済めばいいが、難しいかもしれない。
とりあえず許しを得たので脇に放っていたTシャツをいそいそと着込む。遠坂がこの部屋唯一の椅子を使っているので、俺は定位置と化してきたベッドの上だ。
「いい? 今から、何か見えたり聞こえたり痛くなったり思い出したり――ええい、とにかく何かあればすぐ言いなさい。あとになって『そういえば体が痛いとは思ってた』みたいな頓珍漢なこと言ったらぶっ飛ばすから。私の話を遮ろうがなんだろうがすぐ言うこと」
「おう」
「絶対だからね。あんた基準の大丈夫は大丈夫じゃないから。判断するのは私だから」
「わかったって」
念を押されるのにしっかり頷く。ただでさえ忙しい時期の遠坂に迷惑をかけているのだ、ここまで言われなくても俺だって指示にくらい素直に従う。
「よし。じゃあ、あなたが幽霊と呼んでいる、あなたにしか見えないアーチャーのことから話しましょう」
優雅に足を組み直した遠坂は、癖なのか、いつものように教鞭よろしく人差し指をピンと立てて話し出した。
「まずもってそれは幽霊なんかじゃあないのよ。ちなみにこれは『幽霊なんてオカルト存在しない』、なーんて話ではないわよ? 世に噂される怪奇現象、その原因としての幽霊は存在するもの。幽霊とはすなわち肉体ではなくエーテル体で以て現実に干渉するものたち。サーヴァントもこの区分ね。
だけどそういうものを幽霊と定義するのなら、あんたの見るアーチャーは幽霊と呼ぶことはできない。どんな観測機にも測定されず、ライダーですらその出現を察知できない。そんな幽霊はあり得ないのよ。
だから、あなたの見るアーチャーは正真正銘あなただけが見ているアーチャー。つまり、妄想、幻覚、思い込みといった類のものになるわ。ここまではいい?」
確認されるのに首肯で返す。
感覚としては『思い込み』と言う言葉の印象よりかはずっと自律している存在に思えるし、あれが俺個人の妄想の産物というのは違和感があったが、遠坂の説明も理論的には納得がいく。肉体もエーテル体も持たず、俺にしか見えない存在というのは、確かに俺の妄想と呼ぶのが相応しい。
「そう。そいつは幽霊じゃない、あんたの単なる思い込みだから気にするな――で、話が済めばよかったんだけどね。思い込みや妄想ならば精神の治療までで話がつく。魔術的にも現代医学的にもアプローチ可能だし、いくらだって手は打てた。
……だけど、あなたは知らないはずのアーチャーの姿を正確に幻視している。腕のことなんて私たちの誰も話してなかったのに、最初から左腕のないアーチャーの姿が見えると言った。予知能力者じゃあるまいし、幻覚や妄想では説明がつかなくなってくるわ」
腕、と言われて思わず左の拳に力が入る。
俺の上半身の服を剥いだ遠坂は、痛みや違和感がないか執拗に尋ねてきていた。今のところはなんともないのだが、やはり何かあるのだろうか? アーチャーは左腕を無くしているようだったが――。
「あなたは再誕のときに切り捨てたはずのエピソードを、今になって思い出そうとしている。――ううん、『思い出す』というのは正しくないわね。あなたは第三魔法の成功例。だったらこれは、魂からの侵略現象と呼ぶのが相応しい」
「侵略……? いや、おかしくないか、それ。だって、魂っていうのは誰にも触れない、生命固有の不変のものだ。ここにいる俺よりも確かな俺っていうのが、魂なんだろ。魂からの侵略現象で肉体が死ぬなんてのはおかしいぞ」
魂とはこの世界で唯一永劫不滅なもの。欠陥のない完璧な高次元体。肉体が死んでも魂そのものは星幽界に還り、自然界に干渉はできないが永遠に損なわれないものとしてそこにある。
肉体よりも魂の方が常に汚れなく正しいものだ。死んだはずの俺が無事でいるのも、魂が瑕疵のないものであるからこそ。肉体の死が魂の昇華を招くことがあっても、魂が肉体を損ねるようなことはない。そう教えてくれたのは他ならぬ遠坂だ。
「そうね。通常ならその理解で正しいわ。外法に手を染めたってならともかく、自分の魂が自分を害することなんてありえない。こんなことが起こりうるのなら、私たちはみんな常に自分にこそ怯え続けなければならないもの。
だけど、あなたは例外なの。アーチャーと士郎の腕のこと、ライダーから詳しくは聞いてない?」
「いや、俺のためにアーチャーは腕をなくした、ってことくらいしか……」
答えながらふと気づくが、思えばこれもおかしな話だ。アーチャーが腕を失うことと俺の救命とに、一体なんの関係があるというのだろう。
「そうよね。どう説明したものかな……。聖杯戦争中のある時にね、私たちはとある敵に襲われて壊滅状態に陥った。アーチャーは一発で再起不能。私は庇われたおかげで無事だったけど……あなたはね。
ちょっとかするだけで致命傷になるような攻撃に、左腕一本持ってかれたっていうんだもの。あの頃はあんたが死にかける程度日常茶飯事だったけどね、あのときばかりは話に聞いた私も『ああ、それじゃあ衛宮君は死んじゃったんだな』って思ったものよ」
吐息混じりにしみじみと言う。
俺は遠坂の声を聞きながら自分の左手に視線を落とした。握れば動く。一度喪失したなんて想像もできないほどに馴染んだ己の肉体だ。
「だけどあなたは生きている。ここまで話せば予想はつくかしら? そう。アーチャーに左腕がないのは、あなたの損失に宛がうために譲り渡したから」
左腕のない衛宮士郎と、左腕だけが無事だったアーチャー。そこから先は、子供でもわかる簡単な足し算だ。足りないのならば補えばいい。いかにも魔術師的な、合理的な発想である。
「アーチャーの遺体から切り出された左腕は、一流の霊媒魔術師の手によって、あなたの体へ移植された。そうしてあなたは命を繋ぎ、人でありながら英霊の腕を手に入れた」
「英霊の――」
想像する。この腕が、あの男のものに取って代わられる感覚を。
この肉体自体は半年前稼働を始めたばかりの新品だ。〝衛宮士郎〟がかつて腕を失った事実があったとしても、ここにいる俺の腕は最初から今まで至って健康体である。だから、他人の腕をぶら下げる違和感も、内側から食い破られる痛みも、自分が他人に押しつぶされる苦しみも、俺が知るはずのない辛苦であるはず――なのだが。
「異なる霊体同士をつなぎ合わせるなんて素人魔術師でも知っているような禁術よ。真似をするやつだっていない。だって、絶対に失敗するからね。だけど幸いにしてあなたとアーチャーは双子以上の魂の適合率を見せたとかで、移植手術はうまくいった。
だけど問題なのはそこから先。繋がったはいいけども、あなたとアーチャーじゃあ霊格がまるっきり違う。しかもそのままでも危ないのに、士郎は戦うためにと言ってアーチャーの力を引き出していってしまった。
アーチャーを思い出してはいけないっていうのはね、最後のあなたが死んだ理由が――」
「待て、遠坂」
「――ん? どうしたの」
「ちょっと、これは、まずいかもしれない」
見下ろす腕に染み一つないことが急激に眩しく感じられる。淀みなく動いていたはずの指先が重く痺れて、痺れは瞬く間に腕全体へと波及した。咄嗟に抑えようと無事な右腕を左肩の繋ぎ目に宛がって強く握りしめた。
「……うそ。待って、本当に? 待ちなさい、想像しちゃ駄目よ、士郎! 今のは全部前の体の話。今のあなたの体は頭のてっぺんから足の先まで全て、あなた自身のものなんだから!」
そうは言っても、俺の左腕は容赦ない。気づけば腕の重さに負けるように、上体は左へ傾いでいた。
外からではなく中から。痺れるような予兆もすぐに失せ、俺の心の準備が整うより先に、一瞬で最高地点にまで達した痛みが俺の神経を蹂躙した。
「あ、……ガッ――!」
馬鹿言え、遠坂。これが俺のものだと言うのなら、この腕の痛みはなんなんだ――。そう問おうとしたのだが、自覚した途端に痛みが強まり言葉にならない。
呼吸が途切れる。
俺はようやく、自分の腕が己のものでなかったことを思い出した。
「やだ、どうしよう、聖骸布ももうないのに……!」
痛みに耐えかねて丸まった俺の背に縋り付いた遠坂が泣きそうな声で言う。何か返事をしようと思うがそれどころではない。
熱い。熱い。熱くて痛い。鋭い痛みが何度も絶えまなく俺を苛む。接続された神経から融解した鋼がせり上がってくる。早く、早く、切り落とさねば、覆わなければ! 俺ではない肉片が我が物顔で居座っている!
「……やれやれ、やはりこうなるか。貴様のことは心底どうでもいいがな、凛にまで心労をかけるな、この愚か者」
熱さで赤く染まりつつある視界の後ろ側で、そんなため息が聞こえてきた。
それが一体誰のものであったか。記憶を探るよりも先に、何かに断ち切られるような唐突さで俺の意識は闇へと沈んだ。
*
「さて。どうにも凛は一つ誤解をしているな。いや、正確には無知なだけか。そして彼女のもとに推理のためのピースが揃うことは二度と無い、と。……わかるか、小僧。つまり、他人を頼っていてはこの問題は永遠に解決には至らないということだ」
気がつけば、辺りはどこか見覚えのある荒野へと移り変わっていた。
俺の前にはアーチャーがいて、いつものムカつく口調で何やら述べている。はて、誤解とは一体なんのことか。
「魂はこの世で唯一減衰から別たれた存在ではあるが、外界からの影響を全く受けないわけではない。この世すべての悪のように、魂までを汚染するものとて中にはあるさ。ちょうど貴様が死にかけた例のように」
そうだな、そんなこともあったのかもしれない。腕を失ったあの喪失感、断面に蟻の集るような不快感を覚えている。
今の俺が覚えているということは、それは魂が記憶した出来事ということで、つまりは魂すらも時には疵を負うことの証明だった。
「魂の復元は困難だ。ましてや魂にかけられた呪いの解呪など、魔法使いにだってできるものはそうおるまい。だがおまえは腕一本繋ぐだけで生き残った。それはつまり、腕一つが衛宮士郎の魂の汚染を食い止めたということに他ならない」
「それって、あんたの腕が魔法以上のことをしてくれたってことか?」
と、呟いたあとに驚く。てっきり喋れないものだと思っていたのだが、今回は俺もきちんと話せるらしい。
しかしアーチャーは最初から聞く耳を持たないとばかりで、俺の疑問は無視して先を進めた。
「イリヤスフィールの魔法が肉体と精神の全ての疵を帳消しにして見えるのは、瑕疵なき魂を参照元にしているからだ。その前提が崩されれば如何に彼女の魔法でも復元は敵わない。汚染された魂からでは、汚染された生命しか生じないのは自明の理だろう?
だから、衛宮士郎を生き残らせたい彼女が照会するべき魂は、その汚染が払われたものでなければならない。イリヤスフィールは私の腕もひっくるめて衛宮士郎の魂であると判断したのだろうな。
……はあ、まったく嫌になる。腕を一つ貸し出しただけだと言うのに、これで私という分霊はおまえの魂に寄り添わなければならなくなった」
「なんだよ。最初から愚痴ばっかなやつだな、あんた。嫌になったなら出てけばいいだろ」
「そういうわけにもいかないさ。オレは別におまえを殺したいわけではない」
「む……」
語る声は俺の知るどのアーチャーよりも穏やかで険がなかった。もっと言いたいことはあったはずなのだが、そんな態度を取られると調子が狂う。
「だから見つからないよう大人しくしているつもりだったが、おまえはここに来てしまった。ここまで至れば来てしまえば引き返すのは困難だ。思い出したくなくても、おまえがおまえである以上、――おまえがおまえであるために、魂の形に嘘はつけない。
ああ、そうだ。凛にはあまり気に病むなと伝えてやってくれ。遅かれ早かれ、私がここにいる以上私たちはこうなっていたさ」
「伝言は、覚えてたら伝えるけどさ。なあ、それよりあんたは一体誰なんだ? 英霊であるあんたが、なんだってただの人間である俺のために、そこまで手を貸してくれるんだ?」
俺からの当然の質問に、アーチャーは不意を突かれたかのようにきょとんと目を丸くした。顔のパーツの一部じゃないかって思うほどだった眉間のシワもそれで解れて、こう見るとどこか見覚えのあるような顔つきをしている気がする。
「……愚問ここに極まれり、だな。それを私に聞いてどうするんだ貴様は」
しかし俺がその正体を探るより先に、男はいつもの気難しい表情に戻ってしまった。「私から言えることは一つ、」と続けて言う。
「私はおまえを殺す者だが、同時におまえの味方でもある。私がここに立つ限り、衛宮士郎の魂はなにも損なわせはしない。凛は考えすぎなんだ。これはおまえが越えるべき壁を越えてなお、自己を保てるかどうかというだけの問題に過ぎない。
だから、死ぬ覚悟ができたなら思い出せ。おまえが一体、何者であるのかを」
「何を……?」
こいつはさっきから何を言おうとしているのだろう。
要領を得ない忠告に苛立って、もう直接問いただそうと足を一歩前へ踏み出す。途端、ごうという籠もった音とともに体が後ろへと強く押された。
――風だ。とても強い風が吹いている。
目を開けるどころか呼吸も難しいほどの強風に、姿勢を低くして顔を腕で庇った。なんとか覗き見る男の姿は風の向こう、揺らぎもせずにそこに立つ。
「――――」
彼がおそらく何かを言った。
何一つだって聞き取れなかったそれに、なぜだか俺はひどく腹を立てて、食らいつくように叫んでいた。
「ふざけるな、おまえの方こそ――――!」
重力が一気に向きを変えた。
あまりの落差にビクリと体が跳ねる。風は気づけばすっかり止んでいて、立っていたはずの自分はなにやら横になっているようだった。荒野を見ていたはずの視界には蛍光灯の灯る天井が映る。俺は状況変化についていけず、開いたばかりの目を瞬かせた。
「起きたぁ!」
そして現状把握が終わるより前に、視界の端にいた人物が手に持っていた荷物を放り投げて歓声を上げた。走り寄ってくる彼女に目を白黒させる俺に構わず、そのままずずいと顔を寄せてくる。
「さあ答えなさい。あなたの名前は?!」
「え、衛宮士郎」
「次、わたしの名前!」
「えーっと、遠坂だな。元気で何よりだがちょっと落ち着いて――」
「この場所はどこ?」
「……ここ? 遠坂の部屋じゃないのか? いや、正確には俺の家だけど」
「今日の日付!」
「二月の十九日」
怒濤の質問に連続正解していく俺に、遠坂はようやく満足したのか「よかったぁー」とこちらを覗き込んでいた腰を落としてへなへなと座り込んだ。優雅さはどこへ行ったのか、顔面をベッドに突っ伏して安堵の息を吐いている。
さて、遠坂に答えていく内に俺の頭もようやく目覚めてきた感じだ。とりあえず目の前に遠坂のつむじがあるのは落ち着かないので上体だけ起こしてベッドの上で座位を取る。
「万が一があったら、ホント、わたしどんな顔してあの子に会えばって……。はあ、寿命が削れていった気がするわ」
「なんだ、その。心配かけたようですまん」
「まったくよ。……と、言いたいところだけど。今回は私が迂闊よね」
そこでようやく遠坂は伏せていた顔を上げて体も起こした。やれやれと立ち上がって、膝についた埃を払っている。
「イリヤスフィールを過信した――というか、英霊を甘く見ていたわ。やっぱりアンタの耳にはこれ以上アイツの話は入れないようにするのが一番みたい」
「あいつ……?」
少し頭を捻ってみて、すぐに誰のことか思い当たる。アーチャーのやつのことだろう。なんとなく辺りを見回してみたが姿は見えない。ただ、一つ思い出すことがあって手を打ち合わせた。
「あ、そうだ。そのアーチャーだけど、悪いのは遠坂じゃないからあんまり気にすんなって言ってたぞ」
「……なんですって?」
「だから、おまえのせいじゃないって」
「そっちじゃなく……、ああ、いや。そっか、夢か。また見ちゃったんだ?」
「夢? いや、夢じゃなくて、俺はさっきまであいつと会って話を――」
言い返すと遠坂の顔つきが俄に険しくなる。そこではたと気づいて言葉を止めた。
「いや、違うな。そうか、あれは夢なのか」
「……そうね。あなたが寝たまま私の監視の目を逃れて英霊の座へアクセスできる技でも編み出したのでない限りは」
疲れたように返した遠坂は、俺が気を失う前よりも更に混沌さが増した室内の荷物をかき分けていつもの椅子に戻っていった。振り返って腰掛けると、ベッドに座る俺と目を合わせる。
「それで? 他には何か覚えてる?」
「いや……。なんだったかな、小難しいことをウダウダ言っていたような……?」
記憶を辿って首を捻るがどうにもその辺りあやふやだ。遠坂への伝言を覚えていたことの方が奇跡に近い。
遠坂は何も有力な証言を返さない俺に『呆れて何も言えません』といった様子で閉口していたが、やれやれと首を振ると気を取り直したようだった。足を組むとそこに肘をかけて前のめりになり尋ねてくる。
「それじゃあアイツ、私のことどんな風に言ってた?」
旧友の近況を尋ねるような口調だ。アイツというのは言うまでもなくアーチャーのことだろう。
「どんな風って言われてもな。気にかけてるみたいだったとしか……」
「それじゃわからないわよ。もっとこう、アーチャーっぽく。あ! そうだ、真似して言ってみてよ」
「ええ? なんでさ、いやだぞあいつの真似なんて」
「案外解決策のヒントになるかもしれないじゃない。ほらほら、減るもんじゃなし。ぱぱっとやった方が気が楽よ?」
本人も信じてなさそうな適当な建前とともに繰り出される無茶ぶり。
普段なら俺だってこんな不当要求には屈しないのだが、最近遠坂にかけている迷惑と心配とを思うとどうも強気に出られない。ぐぬぬとしばし唸ってなけなしの抵抗としてみたが、あかいあくま相手ではそんなもの児戯に等しいのである。
「こほん。だから、嫌味ったらしく『凛に心労をかけるな』とか、『凛にあまり気に病むなと伝えておけ』とか、そういう感じだよ。ほら、これで満足か?」
気恥ずかしいので目を閉じてリクエスト通りにモノマネをする。自分で言っててあれだが思い出してちょっと腹が立ってきた。
笑いたきゃ笑え、と捌かれる鯉のつもりで遠坂の笑い声を待つ。
「……?」
が、いつまで経っても笑い声はおろかリアクションすら返ってこない。そっちがリクエストしたのに無視はちょっとひどくないか? と思いつつおそるおそる片目を開けてみた。
椅子に座ってこちらを見ていた遠坂のまん丸に開いた水色の瞳と視線がかち合う。口まで開けてポカンとしていた遠坂は、俺に見られているのに気がつくと少し顔を赤くした。
「あ、っと。ビックリした。全然似てないって笑ってやるつもりだったのに、思ったよりそれっぽいのね」
「似ててもまったく嬉しくない。……で? 何かの解決策が思いついたかよ」
「ううん、全然」
「おまえなあ、やらせといてそんなあっけらかんと……」
「士郎ったらどこでアーチャーの振りなんて覚えてくるのかしらーとか、アーチャーのやつまるで私たちのこと見てきた風に言うんだなーとか、そういうよくわからない疑問が増えたばっかりで、解決策なんてさっぱりだわ。アーチャーも気にするなとか言ってるし、私はもうこの件から手を引いてもいいかなとか思っちゃうくらい」
お手上げだ、と宣言している割には妙にさっぱりとしている。悔しがったりする素振りはない。俺としては遠坂の助言を得られないのはこの先色々と困るのだが……。
「だって、聞いてる限りではアーチャーはこっちに協力的じゃない? 起きてからは士郎の腕の調子もいいみたいだし、なんだかちょっとほっとしたわ」
言われて思い出したが、俺は腕の痛みに耐えかねて意識を落としたのだった。確かに今は不快感を忘れるくらいには調子がいい。試しに左手を開閉させてみるが、少し重いくらいで問題なく動かせる。
「けど、俺が見てるあいつはただの妄想ってことなんだろ? 結局あれも夢に過ぎないし、遠坂のそれはぬか喜びにならないか?」
「どうかしらね。もう私の常識が役に立たないくらいの異常事態だし、案外あなたの話しているアーチャーは私の知ってるアーチャーと同じなのかも知れないわよ?」
「そんなもんか……? 遠坂に対してはともかく、俺にはあんまり協力的って感じじゃなかったけどな」
「うんうん、それが余計にソレっぽい」
遠坂は俺とアーチャーが不仲であることこそが喜ばしいらしく、くすくすと笑いを漏らしている。なんだかなあ、思わないでもなかったが、落ち込まれるよりこっちの方がずっといいので我慢して黙っておいた。
会話が一段落したところで、ひどい散らかりようの室内をなんとかしようと二人で片付けに取りかかる。遠坂は俺にあれこれと指示を飛ばしつつ、間にこんな風に語った。
「――アーチャーのことなんて思い出すなってうるさかったのは、あいつがあなたの死因だったからよ。
士郎は一年前、彼から左腕の移植を受けて命を長らえた。だけど、英霊と人間では存在としての格が違う。結局腕の移植なんてのはその場凌ぎの延命でしかなくって、腕一本であってもあいつの存在はあなたという生命を浸食して食らい尽くしていってしまう。魂が似ているならなおさら、流入してくる英霊の記録に人間であるあなたは耐えきれない。
だから当然の帰結として、衛宮士郎はアーチャーという英霊の左腕からのフィードバックに耐えかねて自壊した。あなたはあいつに一度殺されたのよ。
教えたわよね。今のあなたという生命は、魂に刻み込まれた記憶に基づいて生まれ直した再現事象にすぎない。魂が死んだことを思い出したなら――魂が『死こそが衛宮士郎の現在である』と納得しているのなら、きっと、再現のとおりにあなたは死ぬ。
かつての私はあなたがアーチャーの腕なんかに殺されない方法をあれこれ模索してみたけどね、あなたが英霊に匹敵する霊格に到達しない限り、死は避けられないと結論した。だけど当然人の身のあんたがアーチャーに敵うはずないんだから、――ま、つまりは絶対に死んじゃうってことよね。聖杯戦争と違って戦う必要もない今なら、あと数年くらいなら生きられるのかもしれないけど……。
……アーチャーの言う『心配するな』ってのはどう捉えたらいいのかな。士郎なんか死んでも私は気にするなってことかしら。それとも、士郎は死なないから心配するなってこと?
どっちなんだろう。後者だったらいいのにって思うのは、もう何もできることが思い浮かばない私の、弱気な願望に過ぎないのかな――」
*
久しぶりに一人で過ごす。道場で思う存分鍛錬をして、日も暮れたのでシャワーでも浴びようと母屋に戻っているところだった。
火照った体に冬の風が心地よい。汗を流してさっさと布団に入ってしまえば、すぐに眠気もやってくることだろう。
「――ッ、またか」
考えながら歩いていた足が止まる。鍛錬の心地よい汗を上書きするように冷や汗が伝った。左腕を抑える。痛みが変わることがないとわかっていてもそうしてしまうのは、何かに縋りたいという心理なのだろうか。
これは俺の腕だ、この体は俺のものだ。何度も唱え繰り返す。蹲ろうとしたがる足を叱責して、歯を食いしばり無理矢理歩き出した。
遠坂は自分の手には負えないとはっきり宣言しつつも、結局俺のために魔除けや呪避けの類いを多く準備してくれた。しかし、どうにも効果があるようには思えない。今すぐ死ぬという感じもないが、不意の痛みは日に日に強くなっている。
長いときには何十分と続いて俺を苦しめる左腕の痛みだが、その場に立ち止まるよりも無理にでも動いている方がマシだと気がついたのは最近のことだ。今も、縁側を突っ切って居間の中に転がり込んだ辺りで、糸が切れるかのようにフツリと疼痛は消えていった。
両膝をつき背を丸めた。上擦る呼吸を抑えて大きく息を吸うと、冷たい外気が肺を満たした。長い安堵の息を吐き、爪を立てていた左腕からも手を放す。
仮に死なないのだとしても、一生これが続くというのはあまりに気が滅入る話だ。何の外傷もないというのに、痛みだけで意識が遠のきかけるほどである。これが更に強くなっていけば、いつか痛みだけで命を落とす日が来るかもしれない――そんなことを本気で危惧するくらいには。
いっそこの腕切り落とせば楽になるだろうに。そう思うのも一度や二度ではないが、遠坂の反対により実現していない。「今度は〝もうない腕が痛む〟になるだけじゃない? そうなったら切り落とし損よ」ということだ。確かにあり得そうな話なので、限界までは我慢するつもりではある。
まだ少し震えの残る膝に手をつき立ち上がる。左腕は鈍く重い。まるで他人の腕が無理矢理繋がっているかのような――、
「ばか、そんなはずあるか」
ブンブンと首を振って自分の考えを否定する。よくない思い込みだ。痛みなんかに負けて、気が弱っているに違いない。
余計な手間を取ったが、今度こそシャワーを浴びることにしよう。今さっき歩いてきたばかりの廊下に出ようと踵を返す。
〝――まだ思い出さないのか〟
その背中を、引き留めるような声が一つ。
拳を強く握り込む。無視をしてもよかったし、そうするべきだとわかっていたが、堪らず振り返っていた。
―― 頭が痛む。
「……またおまえか」
ついさっきまで無人だった居間の片隅に、幽鬼のように男が一人立っている。俺より頭一つ分高い身長を睨んで唸りを上げた。
―― 何かが軋む音がする。
「何か言いたいことがあるなら言えよ。思い出せって、そればっかだ。何を思い出せって言うんだ? 夢の内容か? セイバーってやつのこと? それともおまえのことかよ?」
夢はきっとまだ見ている。その中で俺たちは、なんらかの言葉を交わしている。それを俺が覚えていないだけで、こいつはまだ俺に何かを伝えようとしている。
冗談じゃない。俺を殺すつもりがないのなら、もう放っておいてほしかった。こいつがいると頭が痛んで思考がバラける。一瞬前のことすらあやふやになる。いいことなんて何一つない。
現実に現れるこいつは何も語らない。思い出せと繰り返すだけだ、俺を糾弾するかの如く。喪失した左腕を庇いもせずただ立っている。ただ立って、俺のことをじっと見定めている。
―― 狭い容れ物の中に、
切っ先がひしめき合っている。
「これ以上何を思い出せっていうんだ! 苦しむってわかっている記憶を? そんなものなくたって、今のままでも俺は生きていける。俺は、」
思考が雑音に埋もれている。自分でも何を口走っているかわからないままに叫んでいる。強い頭痛に堪らず頭を抱えた。指の間から見る男は、藻掻く俺を凪いだ瞳で見下ろすのみだ。
―― 灯の落ちた炉に猶も鋼が満たされる。
見渡す限りの剣の丘は地平線までも暗く沈み、
二度と省みられることはない。
「死にたくないと、思うだけのことが罪なのか? そりゃあ悪いことだとは思ってるよ! だけど、俺はまだ、この先だって生きていかなきゃいけないんだ! ――ッ、づ、痛ッ、……くそっ」
たたらを踏んだ。
平衡感覚が無茶苦茶だ。
立っているのか倒れているのかすらあやふやな世界で、俺の苦悶を眺める男の静かな眼差しだけが真だった。
―― ザクザクと串刺しにされる。
行き場を亡くした剣の群れが、
抗議を叫んで内から俺を貫いている。
星に別れを告げてまで築き上げた、
安寧という俺の財産が、
一つ一つ念入りに磨り潰される。
この世のものとは思えない絶苦。グ、と圧される蛙のような声で鳴いて、口の中を満たす鉄の味を頼りに現実にしがみついた。血を吐きながら叫ぶ。
「全部自分から手放したことだ! もう今だけでいっぱいなんだよ! 俺のためを思うってんなら、二度と俺の前に現れるな!」
叫声が白々しく木霊する。自分が何を言ったのか気づいて弾かれたように顔を上げた時には、もう男は姿を消すところだった。
文句の一つもなく滲むように風景へ溶けていく。その顔に物寂しげな表情を垣間見た気がしたのは、俺の罪悪感が見せた幻覚だろうか?
「違う……」
起きたまま夢でも見ていたのか。一瞬の夢遊を過ぎれば、左腕の痛みも男の声も、何もかもが偽りのものだったかのように失せている。
俺は言い訳のように自分の口から漏れた声を聞いた。
――違う? 何が違うというのだろう? 痛みは去った。男は俺の懇願を聞いてくれた。それでいいではないか。
――だけど今の台詞は間違いだった。だってやつはおそらく、俺のためにああして姿を見せたのに。
……自分の考えが自分のものではないみたいだ。自我を規定する境界線は穴だらけで、息をするだけでも崩れ落ちていきそうなほど。もう痛みはないはずなのに、まだ頭がぼうっとする。中身が全てこぼれ落ちていくような幻覚を恐れて、頭を抱える手の力を強くした。
「……士郎」
呼吸を整えようと獣のように蹲る背中に戸惑いに満ちた声が落ちた。
表情を取り繕うだけの十分な間を取ってから振り仰ぐと、廊下には見覚えのある長髪の主が立っていた。
「ライダー。おかえり、帰ってたんだな」
「……ええ、今し方。桜ももうすぐ戻りますよ。立てますか?」
「大丈夫だ、立てる。顔見たらなんか安心した」
強がりではなく本当のことだった。さっきまではまるでなかった現実感というものが帰ってきたのがよくわかった。踏みしめる畳の目の感触だって十全に把握できる。
「痛むのですか?」
「何がさ」
「……腕、でしょうか。いえ、どこでも構いません。痛みがあるのでは?」
「まさか。腕なら平気だ。痛くないし、ちゃんと動く。体だって問題ない」
喋っていると、直前までの自分が何をあれだけ取り乱していたのか不思議だった。あの幽霊男がああして姿を見せるのは今に始まったことじゃない。
一人だというのにあれだけ騒いでいたのだからライダーもさぞや驚いただろう。今も俺の自己申告を訝しげに聞いている。
「大したことじゃないから、本当に」
こうしている内にも、そもそも俺はさっきどんなことを叫んだのだったかも忘れてきたくらいだ。
また四六時中監視されてはたまらない。ライダーに念押しすると、俺は桜が戻ってくる前に当初の目的を果たすことにした。嫌な汗もかいたことだし、いい加減シャワーを浴びてこよう。
*
「…………」
もう何度目かの剣の丘。いつもどおりの無愛想男。
しかしやつはいつもと違って俺から随分距離をとり、なんとも気難しい顔をして黙り込んでいた。
「おーい?」
ちょっと声を張り上げないと届かなさそうな距離だ。首を傾げて呼びかけつつ、ざくざくとアーチャーの元へ近づいていく。
夢の中の方が体が軽くて調子がいい。剥き出しの台地に砂が舞うような足場は本来歩きにくいのだろうが、俺は軽快に歩を進めた。
「――?」
しかし順調だったのも途中まで。顔に何かの陰が射した気がしてふと頭上を見上げる。
陰の正体はすぐに知れた。幅が俺の両手一杯広げた分くらいはある大きな剣が、切っ先を下に向けた上で、俺のいる地上目がけて一直線に落下してきているのだ。
「――――!?」
大慌てで飛び退く。落下物はその大きさに見合った重厚な音(効果音を当てるならズドーン)を立てて直立した。
「な、な、なにしやがる! 殺す気か?!」
「フン。私とて貴様の顔など見たくもない。ここの住人として快適な生活を送るための当然の権利行使だ」
「はあ? なんだよ、急に拗ねやがって」
心当たりがちっともないところでのこの仕打ち。むかっ腹が立ったので聳える剣の壁を迂回して接近してやろうとしたのだが、次の瞬間、足先に今度はもっと切れ味がよさそうな剣が連続して振ってきたのを見て止めた。夢の中とは言え死にたくはない。
立ち止まると剣一枚隔てた向こうのアーチャーの様子はこちらからはさっぱり窺えない。ただ、聞き慣れた声だけは問題なく届いた。
「繰り返すが、私は何も好き好んでここにいるわけではない。こんな不自由なところからわざわざ趣向を凝らしておまえを苦しめるほど暇でもない」
「? なにさ、改まって。知ってるよ、そんなことは」
「……さて。だといいがな」
いつもよくわかんないやつだが今日はいつにもまして要領を得ない話をしている。最初の暴挙もあるし、俺は何かやつを怒らせることをしたのだろうか? こんな二人ぼっちの丘で相手の機嫌を損ねるのも困る。こっちが悪かったのなら謝るのも吝かではないのだが、何が悪かったのかわからないまま謝るのは逆効果になるか……?
顔が見えない分余計に不安になる。どうしたものかと意味もなく口を開け閉めして悩んでいると、アーチャーは毎夜の如く俺のことなどお構いなしに、俺にはよくわからないことを語り始めた。
「忘失を苦しめるうちはまだ幸福だ。問題はそれすら過ぎたとき。忘れたことすら忘れること――そうと意図しない裏切りほど、罪深いものはそうあるまい」
「……裏切るって、一体誰を?」
「だからそういうことを私に訊くんじゃあない。そも、こっちだって高説を垂れられるほど物持ちがよくないんだ」
「あのなあ。そう言われたって、あんたの話はいつもちんぷんかんぷんなんだよ。何か言いたいことがあるからわざわざ言葉を尽くしてるんだろ? 肝心の俺に伝わらないようじゃ意味ないぞ」
端的に言ってアーチャーは俺との会話というキャッチボールが下手くそだ。こいつ相手に謙る意味もないので率直に指摘すると、アーチャーは壁越しでもばっちり聞こえるくらいの舌打ちを一つ打って、
「では、今のおまえでもわかるように、こういう風に尋ねようか」
渋々といった様子でこう切り返してきた。
俺はどんな嫌味が飛び出すのかと反射的に身構える。しかし予想に反して、続く男の台詞は随分と柔らかな暖かみを帯びていた。
「私は剣を鍛える者。星の光を望み、果てに英霊の座へと至った者。それでは君は一体何者だ? この先何を望み、どうやって生きていくのか――」
二人の間を別つ剣のせいで顔が見えない。俺は本当にあのアーチャーが話しているのか不安になって、遠慮がちに目の前の鋼の壁へと手を添えた。
言葉は優しく続く。耳慣れた声が、知らない温度で、――知っている人に似た声色で、語りかけてくる。
「――士郎。君は、大人になったら何になりたい?」
瞬間、天啓とともに俺は空を見上げた。
――夜だ。
脈絡もなくそう思った。頭の中で繰り返し、呆然としたまま呟いた。
「夜が足りない」
目覚めなければ。
ここは痛みもなく安らかだが、この世界に落日は訪れない。この丘に留まる限り月は昇らない。
涙が出るほどの月夜でなければ、俺はあの人に会えないのに。
*
寒い。
体の中の熱という熱を背中から引っこ抜かれるような震えとともに俺は目を覚ました。辺りは暗い。まだ夜だ。
重たい布団から這い出して立ち上がる。冬の凍てた空気は肌に痛く、足を前に進める度に俺を苛んだ。それでも前へ。部屋を出る。もっと空に近いところを目指して。
眼前の風景が、ノイズに満ちた記録と重なる。今、昨日、一年前、五年前――。いくつもの層が重なって判然としなかった景色は、その場所へ近づく都度不要な記録が剥がれ落ち、最後にはただ一つの昔日のみが残った。
冷えた外気の入らないよう縁側の外戸は閉めていたはずだったが。誰かが開けていったのか、庭へ続く空間は開放されていて、月光は何に遮られることもなく板張りの床に射していた。彩度の落ちた夜間では月影の落ちたところだけ白く見える。その白と黒の境界線で、俺はついに足を止めた。
左腕が軋んでいる。見覚えのない――だけど誰よりも知っている――幽霊が縁側に腰掛けていた。月見でもしているのだろうか。
「爺さん――」
知らずの内にそんなことを呟いていて、そう口走った自分の罪深さに吐き気がした。咄嗟に口を押さえる。幻覚から逃れようと首を振るっても彼は変わらずそこにいた。
「――う、あ――。そんな、俺は――」
堪らず膝をついていた。吐き気が強くなる。左腕が切り裂かれていく。頭が痛い。
口から飛び出しそうになる無責任な謝罪を飲み込もうと、唇を噛みしめて唸った。
どうして忘れていられたのだろう。こんな大切な夜のことを。忘れたことすらも忘れるだなんて、親不孝にもほどがある。
大人になったら何になりたいか? 決まっている、そんなもの。俺はあの日からずっと、ただ、正義の味方になるために――。
「違うだろうが、このたわけ」
――頭上から、呆れた叱責が降ってきた。
「全く最後まで世話の焼ける。死にたくないと思ったんだろう? あの啖呵はどこへ行った」
声だけだというのに、やれやれと嫌味に肩を竦める仕草まで想像できるくらいだった。
恐ろしいのは、その声音には決して俺を糾弾する意思が込められていないことだ。俺は恐怖に身を縮めた。そんなことはあってはならない。このような罪が許されていいはずがない。彼は絶対に間違っている。
痛みの渦中に置かれながらも、俺は話し始めた。否定しなければならなかった。だけど、と口火を切る。
「俺は殺される人々を見捨ててしまった」
「だが、人を殺す怪物は、おまえの大切な家族だった」
「俺はみんなの犠牲を忘れて自分の幸福のためだけの選択をした」
「覚えてなどいられなかった。あのときおまえは何かを切り捨てなければ、未来へ進むことすらできなかった」
「俺は、俺を育てた人との約束を裏切った」
「……そうだな。おまえは彼女と生きるために、正義の味方を諦めた」
俺の悔悟への反論をようやく諦めて、男は一つ息を吐いた。
「確かにそれはおまえの罪だ。忘れることは許されない。己の選択から目をそらすことだけはできない」
「そのとおりだ。俺はこの罪を決して忘れない」
「そうとも。だが、忘れさえしないのならば、罪も裏切りも認めた上でなら、――自分が幸せになるためにならば。そんなもの、笑い飛ばしてしまっていいんだ」
――幸福。
ああ。確かにそれは、俺が願って止まなかったものだ。
「そう。そしてきっとそれこそが、人として生きるということだった。
死にたくないなら大いに結構。私は親心には詳しくないがね、あの人が、子が幸せを願うことを疎う親でなかったことくらいはわかるさ」
声は僅かながら弾んで聞こえて、彼はらしくもなく喜んでいるらしかった。多分、俺が幸福を願うことを尊んで。
痛みも苦しさもどこかへいって、急に思考が冴えた気がした。コイツはどんな顔でこんなことを言うのか、不意に知りたくて堪らなくなった。ああ、なんだって俺は顔を伏せてなどいるのだろう。軋む体を持ち上げて顔を起こす。
だが、そこにはすでに何者の影形もなく。
「――――」
息が詰まるほどの満月が、這いつくばる俺の頭上に輝いていた。
「――先輩!」
桜がそう言って駆け寄ってきたのは、俺の体が冷え切るよりも前だった。
とても心配そうな慌てた様子であるのに首を傾げて、そういえば四つん這いなままだったと思い出す。深夜に廊下で蹲ってりゃあ桜も驚くだろう。急いで立ち上がって、何も問題ないことをアピールする。
「悪い、桜。起こしたか?」
「いいえ、少し喉が渇いただけです。それより、先輩はどうされたんですか? その……腕、痛むんですか?」
「痛まないよ。大丈夫だ。おかげさまで、これからもずっと大丈夫な目処がついたところだ」
今度こそ本当に問題解決の自信がある。事情を話せば、遠坂基準でも大丈夫認定がもらえるはずだ。
「それより、桜はもう四月から同級生なんだから。その『先輩』っての直さなきゃな」
「……むう。それ、今しなきゃいけないお話ですか?」
話を逸らそうとしたのだがバレたらしい。桜の眉尻がキリリと持ち上がった。
しかし本当にもう大丈夫なのだ。急ぐ理由もないのだから、こんな深夜に話し込むようなこともない。とりあえずお互い寝直そう、と桜に帰室を促す。
「もう、明日になったらちゃんと話してくださいね。――って、あれ?」
渋々ながら部屋へ戻ろうと身を翻しかけた桜だったが、途中でぴたりと動きを止めた。何か見つけたのか、縁側にしゃがみ込んで庭の方へと手を伸ばす。
「先輩、これ……。落とされましたか?」
はい、と差し出されるのに目を丸くする。
こちらに伸ばされた桜の手には、どこかで見覚えのある赤い布が握られていた。
* * *
「遠坂、チケットは持ったか? 搭乗口はわかるよな。あ、パスポートも忘れるなよ」
「わーかってるわよ! もう、アンタは私の母親かっての!」
もう何度目になるかわからない持ち物確認にいい加減声を荒げる。こやつは私を一体なんだと思っているのか。
「飛行機くらい一人で乗れるわよ。ったく、士郎だけ見送り拒否すればよかったわ」
「まあまあ。先輩も心配してのことですから」
「あのなあ、遠坂。おまえはつい最近卒業証書を教室に置き忘れて帰ったやつなんだぞ? 検査場を通ったあとのトイレにパスポートを忘れるくらいはやりかねん」
「やらないってば!」
……卒業証書の件は、あれだ。急いでたのだ。あと忙しかったし。
折角忘れかけていたというのにこうやってわざわざ話題を掘り返してくるところとか、士郎って『ぼく人畜無害です』みたいな顔しといて実は結構いい性格してると思う。
「はあ。このまま喋ってたんじゃ飛行機に乗り遅れそうだし、私はもう行くわね」
「気をつけてください、リン。あなたはまだまだ敵が多い」
「ええ、十分気をつけるわ」
「ロンドンは冷えるらしいですから、風邪を引かないようにしてくださいね」
「桜こそ体には気をつけなさい。まだ不安定なんだから」
「一人でも朝はちゃんと起きるんだぞ。あと、朝飯も食べること」
「はいはい、心得ております」
三人から次々と心配の言葉がかけられる。いよいよ上京する一人娘を見送る図みたいになってきて、なんだかちょっと笑えてきた。一人暮らし経験はウンと長いのだからそんなに心配しなくても大丈夫なのだが、気遣われて悪い気もしない。
だけど私からすれば彼らの方がよっぽど心配だ。桜もそうだし、士郎だってつい一月前は中々ひどい有様だった。
――アーチャーの腕を移植された後遺症、と呼ぶべきか。
一連の騒動をあえて客観的にいうなら、こいつは自分の妄想による幻肢痛だけで死にかけたが、自分の妄想による赤原礼装の投影で、その窮地を乗り越えたということになる。
……なんだそりゃ、という話だが私だってなんだそりゃ、という気持ちである。そもそもあんなものを投影魔術と言い張る規格外と同じ目線で私のような生粋の魔術師が物事を考えられるわけもない。
だけどあんなさっぱりした顔で「もう大丈夫だ」と言われてしまえば、誰だって「ああ大丈夫なんだな」と納得するしかないだろう。
今もあの長袖の下にはグルグルと巻き付けられた赤い礼装があるはずだ。本人はお守り代わりくらいに思っているみたいだけど、私から言わせればあの聖骸布は生命線。自分の投影魔術の力量に感謝しつつ、もっと大事に扱ってほしいものである。
「向こうに着いたら連絡してください。国際電話だからって無精しちゃ嫌ですよ?」
「う。するわよ、もちろん。電話くらいケチケチしないわ」
桜も最近の空元気は綺麗さっぱり消え去って、今は本当の元気を見せてくれている。
士郎の腕の異常のこと、詳細をあの子に伏せていたのは心配をさせないための気遣いのつもりだったのだけど、どうにも逆効果だったみたいだ。私のせいで桜には気づかない振りを強要させてしまい、余計心細い思いをさせてしまった。こういうとき、私はまだまだ『姉さん』にはなれないなあと思う。
桜の体にもまだ不安は多いが、こっちは一朝一夕でどうにかなる問題ではない。不安定な似たもの同士、この街でうまくやっていってもらおう。幸いしっかりもののライダーがいるので、私も少しは安心できる。
……さて、いよいよ時間が迫ってきた。飛行機を逃して笑いものにされないためにも、名残惜しいがそろそろ行かないと。
「じゃあ、今度こそ行くからね。みんな元気で」
「ああ。達者でな、遠坂」
「お気をつけて」
「約束、忘れないでくださいね。お待ちしてますから!」
手を振る三人に見送られながら、重たい荷物をひきずって歩き出す。
寂しくはない。電話だってたくさんかかってくるだろうし、なんたって私たちには〝約束〟があるのだ。
だから、幸せそうな彼らに負けないよう、私も笑って別れを告げた。
「それじゃあね! また来年――桜の花が咲くころに!」