ーーすすり泣きが聞こえる。
女の泣き声だ。
若い、けれども少女と呼ぶような歳ではない。何が悲しいのか呻くような嘆きの途中で喘ぐように息を継ぎ、ぐすぐすと洟をすすってはとめどなく涙を流す。
姿は見えない。
だから泣き方と声だけで若い女性だと判断しているのだけれど、姿も見せずにただ泣いている彼女は、どうしてそうも悲しそうに泣いているのだろう。
オレは泣き声を聞くことはできるけれど、そのつらくさびしげな涙の粒を拭ってやることすらできないのに。
時折小さな声で誰かの名を呼びながら、悲壮な嗚咽を垂れ流す。
定期的にオレの様子を見に来る、見回りの男に泣き声のことを聞いてみたりもした。
だが、時間通りに現れる不機嫌そうな男たちには、この泣き声は聞こえないものであったらしい。
ある者は風の音だろうと適当に答え、ある者は女の泣き声が聞こえるというオレの言葉ごと聞こえなかったことにした。またある者は幻聴の類が聞こえているようだと報告したらしく、不定期に打たれる鎮痛剤の注射の数が途端に増えた。
オレを訪う人間たちは、皆一様に嫌悪と侮蔑をたっぷりとへばり付かせた顔付きでロクに身動きが取れぬオレの芋虫のような動きを好奇と憎悪をもって観察しては、オレが無力であることに安堵して去っていく。
拘束衣に覆われた手足も、自殺防止に何かを噛まされていることの多い口も。己の意思ではろくすっぽ動かすことが出来ないものだから、周囲の様子を知覚するのは霞んだ視界とそれを補うように研ぎ澄ました聴覚だけが頼りだった。
自身の外傷と内部崩壊から発する血臭と腐臭のせいで、鼻はあまりアテにならない。換気の良くない地下の淀んだ空気は据えた臭いが篭ってしまうなと、長らく身体も洗えていない、脂でべたついた髪を薄汚れたシーツに擦り付けながらそう思った。
……悲しげなすすり泣きは今日も止まない。
今までオレは、泣いている誰かを見たくないと思ってひたすら歩いてきたのだけれど。その時が来るのを待つばかりの短い時間に、自身に注がれるのが見えない誰かの泣き声だなんて随分と皮肉が効いている。
けれど、此の期に及んでひどい、つらい、と思うよりは仕方がないと思う気持ちの方が強かった。
だって、これまでずっと見知らぬ誰かを泣かさない為にとったオレの行動で、別の誰かを泣かせてきたのだから。
オレは泣かせた誰かに謝る訳にはいかない。謝ることは出来なくて、けれども己は誰かの泣き声を聞くと衝動的に走り出したくなるような焦燥と罪悪感に駆られて。拘束された腕では耳を塞いで泣き声を遮断することも出来ず、昏い個室の片隅で、沈痛かつ痛ましい嗚咽を聞かされ続けている。
ーーいよいよ明日に決まったぞ、と。
見回りの男が、いささか興奮気味にそう告げてきた。
そうか、明日か。
柵越しに投げ付けられた通告にも、大して驚くようなことはなく。死は恐ろしくて仕方ないけれど、今更避けられるようなものでもない。
今此処で死ぬ訳にはいかない、という段階は、とうに通り過ぎてしまった。
何度も何度も、痛烈に恐怖し、目に映るすべてに降りかかるものだと諦め、抵抗する術もなく突き刺され、それでも何もなさず斃れる訳にはいかないと。
そう、歯を食いしばって生きてはきたけれど、もうこの命が限界であるのは自分でもわかっている。
救うなどという名目で、傍らで見つめ続けた死が己に降りかかってくるのも怖かったが、常に己と共にあった苦痛が終わってしまうことも怖かった。
痛みや苦しみを耐え続けようが、罪を命で贖おうが。
己が為した罪禍は消えないのに。
罪はこの手に。
他の誰にも明け渡すことはない。
もうほとんど見えはしない目を開き、視界に映るものを数えて、ともすれば泣き叫びそうになる己の恐怖心を慰める。
死ぬのはこわい。
自分がもう生きていられないことはわかっているのに、死ぬのがこわい。
冷たいコンクリートの壁のシミ。
使ったことのない洗面台と、蛇口の痕跡。蓋のない便器。
己の押し込められている部屋の設備が一朝一夕で変わるようなはずもなく、日に何度も繰り返して見慣れてしまったものたちを視界に収めては、何の感慨もなくただパチパチと瞬きをして少しものを見るだけで霞む瞳の疲れを癒す。
ーーけれど。
けれど今日は、……ああ、もう自分に明日の夜は来ないのだから、今日これきりの出来事なのだろう。
その声を耳にするようになってはじめて、己の部屋ですすり泣く女が、淡くその姿を現していた。
電球の外された昏い部屋の隅。
こちら側に背を向けて座りこみ、嘆き悲しみすすり泣く、短い髪の女。
その髪色も、背格好も。長らく会わずともその姿をすぐに思い出せるし、オレが彼女を見間違えたりなどするはずがない。
熱い火のなかで生まれ直した己の、姉替わりであった大事なひと。
喜怒哀楽の激しい質で、大泣きしている現場にだって何度も居合わせたけど。あの彼女がこんな風に静かに泣き続ける姿は、今まで一度きりしか見掛けたことなどなかった。
しゃくり上げる背中は記憶より幾分小さく、保有している水分を全部吐き出してしまうんじゃないかと思えるほどに悲しげに泣き続ける彼女の背を、役立たずの己はただ見つめることしかできない。
黒い服を着てぐすぐすと泣き続ける彼女の口から、小さく誰かの名がこぼれ落ちる。
それは多分、今こうやって彼女を泣かせている己が、真っ先に切り捨ててしまった男の名なのだろう。
懐かしい女の口からこぼれる懐かしい響き。
すすり泣きの合間に聞こえる「しろう」という呼びかけは、己が罪を呼び起こし続ける呪詛に近い。
泣かせた誰かに謝る訳にはいかず、助けられなかった己を後悔することの出来ない、不自由な自分。
その傲慢を責め立てるような幻の泣き声を聞きながら、あと数時間で訪れるヒトとしての終わりのときを待っていた。
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