世界の果てはいつも足元に在る。
そこは鳥篭のような場所だった。
温室のようにガラスで出来た外壁は丸く、天頂部は鉄骨が蜘蛛の巣のように覆っている。
常識的な大きさではないその内部には大きな樹が根付いており、青々とした葉が中をこんもりと満たすように茂っていた。
だがその鳥篭も、視点を引けば底抜けの欠陥品であり、その一番下にできた穴からはサラサラと中身が零れ落ちるだけ。
大樹の足元は荒れ果てた大地が広がり、何か無数の影が見えたが、青々とした緑に阻まれて見ることは出来ない。
ある意味それだけで完結しているかのようなこの場所に、一人の男が居た。
大樹の中ほどに在る大きな枝に腰掛け、半ば寝そべるような姿勢で手にした紙束に目を通している。
そしてそこに、先とはまた別の男が現れた。
ぼさぼさの髪に、くたびれたコートを羽織った、どこにでもいそうな男だ。
「ここは……」
何故自分がここに、と呟きながら男は小ぶりな枝から身を起こした。
あともう少し気づくのが遅れていれば、枝ごと下に落ちていたかもしれないほど、その身を支えていた枝は細かった。
細い上に、枝自体に生気がないのか、分枝した先も細く、葉もほんの僅かにしか茂っていない。
まさに枯れ落ちる寸前の枝から恐る恐る動き、ほんの少しでもマシであろう太さの枝に足を乗せて、ようやく彼は安堵した。
そして安堵した彼のその目の前を、ひらりと白い紙が横切っていく。
そこでようやく、彼は自分以外にもそこに人間が居ることに気づいたのだった。
頭上を見上げれば、遥か上の枝に赤い服を着た男が居て、その男の手からひらひらと舞い落ちているのが先ほどの紙だったのだと理解する。
ここがどこかも、あの紙が何なのかも、男が何者なのかもわからない。
彼の手には使い慣れた拳銃がひとつ。
身を守るものが少しでもあれば、大体は何とかなる。
何とかしてきた自信が、彼を動かした。
何故か疲れきっている体に檄を飛ばしながら、最低限の動きで枝を上へ上へと登っていく。
生い茂る葉は青々と輝き、瑞々しい空気を彼の体に注いでくれる。
胸の空くような清々しさとは裏腹に、上に行けば行くほど、白い紙が舞い散る数が増えていた。
どうやら上に居る男は紙を投げ落とす速度を上げたようだった。
あるいは彼が見えていなかっただけで、近づいたから数が増えて見えただけなのだろうか。
息が少しあがるくらいになって、ようやく間近に男の姿が見えてきて、彼は一旦足を止めた。
白い髪に褐色の肌、無骨な体つきは鍛え上げた鋭さを持っていて、もしかしたら拳銃ひとつでは間に合わないのではないかと言う危惧を抱く。
だがほんの数メートルという近くにいるというのに、相手は彼に気づかなかったように機械的に紙を舞い散らしていく。
手の中の拳銃を強く強く握り締め、覚悟を決めると、数本の枝を蹴って男の真横に張り出した枝へ飛び乗った。
「失礼」
拳銃をつきつけるようなことはしない。最初から相手を警戒させるなんて下策だからだ。
「ここはどこだろうか」
出来る限り人当たりの良さそうな声を取り繕って話しかける。
間近に見れば、男は下から見た印象よりも遥かに鍛えた体をしていた。
だが男は彼に気づかず、ただパラパラと紙を落とし続けている。
「あー……」
無反応という一番困る反応に、思わず頭をガリガリ掻いた。
「君は誰かな?」
仕方なく言葉を重ねても、男の手は止まらない。
浪費される時間のように紙が捨てられていき、実力行使してでも反応を得なければいけないかと半ば覚悟を決めた頃だった。
「何故他の生き物が私の座にいる」
聞こえてきたのは、聞き覚えのない若い男の声だ。
思わず視線を戻せば、相変わらず紙束から目線を動かさないものの、無反応だった男が口を利いたのだとわかった。
「ここは守護者の閉じられた座だ。何処から入ってきた」
ざらざらとした違和感を感じさせる声に、恐らく長いこと声を出していなかったのだろうと推測する。
相変わらず視線こそよこさないものの、己の存在を意識されていることを肌で感じながら、彼は――――衛宮切嗣は考える。
守護者。座。私の。
座と言う言葉には多少縁がある。自分が最後に携わった戦争で武器として扱ったサーヴァント。
その元々の存在は英霊であり、彼らが居るといわれていた場所が、座だ。
そして守護者と言う言葉にも嫌と言うほど聞き覚えがある。
それは根源を目指す真っ当な魔術師達の敵であり、人類と言う総体を生かすための安全弁だ。
幸か不幸か真っ当な魔術師ではない切嗣にとってあまり縁がない存在だが、彼が最初に殺した魔術師である父には、多少身近な存在だっただろう。
たとえそれが、始末する側とされる側の身近さであっても。
目の前の男がその守護者であり、彼がいるのがその座であるとするのならば、全くもって何故自分がここにいるのか謎である。
そもそも、どうして自分はここにいるのか?
最後に自分はどこにいたかを思い出そうとして、切嗣は不意に体が重たく感じるような気がした。
一番最後に残る記憶――――あの縁側で、まだ小さな養い子を遺して、自分は一体何を言ったのだろうか。
爺さんの夢は俺が。
そう言っていたのは子供の声だ。
それを聞いて、自分は何と答えたのだったか。
「お前は誰だ」
声が再び聞こえて、切嗣は己の内面から反射的に目を逸らした。
「ここに居る以上、生者ではあるまい。であれば、何を縁にここへ来た」
「何を、と言われても」
そもそも男が何者なのかも、切嗣は知らない。
「僕は確か、寿命で死んだはずだった」
「殺害されたのではないのか」
淡々とした質問の間も、男はけして切嗣に顔を向けない。手は機械的に動き続け、無数の紙が地面へと零されていく。
そういえば落としていった枚数に比例して減っていなければいけないはずなのに、男の紙束は一向に減ったように見えないのも不思議だ。
「いや、病だ。アンリマユの呪いを受けたせいで……」
端的すぎる説明だが、何故かそれで男には通じると切嗣は思い込んでいたし、そもそも見知らぬ相手にペラペラと喋る性格ではなかったはずの自分なのに妙に口が軽くなっていた。
そんな自分にすら、切嗣は気づいていなかったが。
そして対する男はといえば、そんな切嗣の説明で何故か納得するものがあったのか、成程と一度頷いた。
「あれが縁ならば仕方ない。俺もアレには一度体を貸した縁がある」
「体を?」
「正確には殻だな。私の人格と存在を外殻として貸した。事後承諾ではあったが、何人か救われたから問題ない」
己の存在を犯した存在を、数人の救済であっさりと甘受したと言う男に、切嗣はぎょっとして心理的に後ずさった。
物理的に後ずさらなかったのは、単に足場がなかったからだ。
「君は、恐ろしくないのか」
己の存在を侵食されて、自分ではない自分が動き回って自分の周りに触れていくということが。
呪いに蝕まれていた間に感じていた、存在の否定よりもある意味恐ろしい成り代わりの脅威を、しかし男は顔色ひとつ変えずに受け入れた。
「アンリマユはそれで何らかの救いを得た。ならば私に否やはない」
それどころか、己を犯した存在ですらも救われて良かったと男は言う。
なるほど守護者になってしまうほど、この男は異常だ。
「しかし困ったものだ。死者を送るにしても、その手段があったかどうか」
バラバラバラと紙が束で落ちていく。
一気に数が増えたそれに視線を取られていると、ふいに自分のものではない手が目の前へ伸びてきてぎょっと仰け反った。
手にしていた紙束をそのまま落とした男が、切嗣へ手を伸ばしていた。
ゆらゆらと揺れる指先もまた褐色だったが、しかし揺れるだけで切嗣に触れることはない。
訝しく思い顔を向ければ、男はこの段になってもまだ切嗣のほうを見ようとはしていなかった。
見ないで触れようとは随分とチャレンジャーだな、と思いかけてはたと気づいた。
男の目は紙束のあった場所から動いていないが、どこかその文面があっただろう場所とは微妙に視線がずれているように見える。
もしや男は、最初から目が見えていなかったのではないか?
「目が……?」
思わず言葉少なに問いかければ、男はゆったりと数回瞬きして頷いた。
「座にあるのは全て私の中身だからな。目など必要とされないものだから、機能していない」
それほど切嗣のような存在が現れるのはイレギュラーなことなのだと、男は言う。
この大きなガラスの球体のような場所が男の体そのもので、己の体の中身を見る人間などいないだろうといわれて、切嗣は納得しないまでも頷かざるを得なかった。
そんな感覚はそれこそ男と同じような守護者か英霊でなければ、きっと心底で理解できないのだろう。
とりあえず伸ばされた手を恐る恐る取れば、思ったよりも弱い力で指が握られる。
「ふむ、……なるほど、大体わかった」
触れたことで何らかの解析を行ったのか、男は相変わらずの無表情で明後日の方向へ呟いた。
「どうやら純粋に紛れ込んでしまっただけのようだな。ここを出せば自動的に輪廻の輪へ戻れるだろう」
「輪廻……」
改めていわれると、自分が死んだ存在なのだと感じられてまざまざとその欠落感に膝が折れるような気がした。
指先に触れる暖かな体温はまるで生きているようなのに、これは単なる幻にすぎないのだと思うと、無性に悔しくて悲しい気がした。
全て気のせいなのだ。もう切嗣には体なんてないのだから。
無造作に握られた指先を引っ張られて、そんなに力が入っていないように思えたのに、切嗣の体はオモチャのように男へ引き寄せられた。
そのまま男の体の上へと引きずり上げられると、失望と絶望がない交ぜになって混乱しているのをいいことに、子供をあやすように背を叩かれた。
「案じなくとも、全て忘れる。生きていた間のことも、ここのことも」
だから安心して眠ればいいと、淡々とした声がいう。
安心していた筈だった。全て遺してきた子供に託したはずだった。
なのに、触れている体温が未練を呼ぶ。
まだ自分には出来ることがあったのではないかと、可能性を模索してしまう。
人間は強欲だ。魔術師はもっと強欲だ。
己が抱える欲と記憶が消えることを恐れて、切嗣は男から逃れようと握り締めていた拳銃を相手の米神につきつけた。
「僕は生きる」
「無理だ」
「僕は帰る」
「出来ない」
「僕は、まだ遣り残したことがある」
「お前はお前がやるべきことを、全て終えた」
「諦めない」
「無駄だ」
「死にたくなんて、ない」
「そうか」
駄々のような言葉ばかりを吐き出す切嗣に、しかし男は抵抗しなかった。
ただ黙って拳銃をつきつけられながら、切嗣の言葉を最後の一つ以外全て否定した。
「……消えるなんて、嫌だ」
「だがお前は死んだ」
顔をしかめて息を吐き出す切嗣に、男は無慈悲なことばかりいう。
切嗣の背中を叩いていたはずのその指先が天上の鉄骨を指し、その付近のガラスが罅割れていくのにも気づかず、切嗣は引き金を強く意識する。
「これは夢だ」
「お前は死んだ」
「夢だ、まだ僕は死んでない」
「死んだんだよ、切嗣」
男に名を呼ばれて、切嗣は思わず手を引いた。
反射的に、引き金を引いてしまって、轟音が耳を劈く。
耳のすぐ傍を弾丸で掠られながら、耳も聞こえていないだろうに、男は言う。
「お前は死んだんだ、切嗣」
相変わらず男の目は切嗣を見ない。
初めて真正面から見下ろした男の顔は、どこかの誰かに似ているような気がして、その類似点を絞り込もうと頭が勝手に働きだす。
「でなければ、お前が私に会うことなどない」
パラパラと紙ではなくガラスの破片が上から落ちてくる。
どこからか風が入り込んで、男の白い髪を乱して後ろへ流していていた前髪が落ちた。
誰かに、似ている。
「ではさようなら、衛宮切嗣」
不意に男の手が切嗣の胸を押した。
いつの間にか、握りこまれていたはずの指先は離されていて、押されるままに重力を振り切り切嗣の体が上へ引っ張られていく。
「貴方の来世が良いものであることを、祈っているよ」
淡々とした声に感情など篭らない。
だと言うのに、何故か切嗣の胸には恐ろしさと懐かしさが溢れ出していた。
触れ合っていた体温もなくなり、反射的に眼下の男へと手を伸ばす。
だが男は切嗣を見ない。
最初から最後まで、男は切嗣を見なかった。
「君の、名前は――――」
何故かそんな言葉が口をついて出た。
それにも男は顔色一つ変えずに、再び生み出した紙束を捲った。
「おやすみ、爺さん」
感情の欠片も感じなかった声なのに、その言葉で切嗣は遺してきた子供をまざまざと思い出す。
そして思い出した瞬間に、彼は輪廻へ辿り着いてしまい、そのまま思い出したことまで忘れてしまった。
天井の壊れた鳥篭の中で、男は何事もなかったようにパラパラと紙を落としていく。
そして大樹の根に到達するよりも早く、紙は無骨な刃物たちへと姿を変えていく。
大樹の根には砂と朽ちた剣たちばかりがあり、紙など一枚も落ちていない。
鳥篭の抜けた底から、砂と朽ちた剣だったものがボロボロと抜けていくことさえも気に留めず。
男は静かに紙を捨てていく。
男の記憶も感情も、そうやって捨てていったのだ。
そしてたった今触れていたはずの養父の記憶も、紙となって落ちていく。
地面に触れる瞬間に、紙は拳銃となって砂に沈んだ。
コンテンダー。
それは養父であった衛宮切嗣が愛用し、男の米神につきつけられていたそのものの姿を写し取っていた。
エミヤと切嗣の会話は読みたかったものなのでありがとうございます。