突破する日本

戦前・戦中・戦後、一貫して世論煽った朝日 戦後は方向性を変え安全保障の強化にことごとく反対…今や「笛吹けど踊らず」

国際連盟のリットン調査団の報告書は日本に理解を示していたのに100社以上の新聞社が連名で国際連盟を批判し脱退を求めた。NHKは国際連盟糾弾の国民大会を全国放送した。

昭和7(32)年の「5・15事件」は、海軍の青年将校らが首相官邸を襲って犬養毅首相を殺害したが、その裁判の過程で新聞は容疑者らを浪花節調で「赤穂義士」のように称えた。

昭和12(37)年に始まった日中戦争では新聞が「膺懲支那」(中国を懲らしめろ)と強硬論を煽った。戦争は泥沼化していった。

昭和15(40)年の日独伊三国同盟も、ナチスドイツの欧州戦での快進撃に目がくらんだ新聞が「バスに乗り遅れるな」(東京朝日新聞6月2日付)と締結を求めた。同盟はほとんど機能しなかったものの、日米開戦を不可避とした。近衛新体制運動や大政翼賛会も新聞に煽られた世論が導いた。日米開戦も政府や軍中枢にドイツという「勝ち馬」に乗るべきだとの判断があった。

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