知れば知るほど謙虚になるのがふつう
数ヶ月で英語がペラペラとか、英語が一撃で聞こえる、のような、実態とあまりにもかけ離れた訴求を英語マーケティングの文脈で平然とする人がいます。そして、それらが、「言い過ぎ」であることはほとんどの人に納得していただけるはずです。数か月で誰もがペラペラになるのであれば、もうすでに日本人全員がペラペラになっていなければおかしいんですよね。
ところで、そのような過激なマーケティングのなかではよく、「科学的」という言葉が多用されるのですが、そのことに僕は前から小さな疑問を持っていたので、今回はそれを記事にします。
だんだん謙虚になる
僕がこの記事でもっとも伝えたいことは、「ある言説に関連するデータが手元に集まれば集まるほど、謙虚になるのがふつうである」ということです。データがあつまる、主張を裏付ける証拠が手元に集まれば集まるほど、「ほら、正しいでしょ」と何かを言えるようになると考える人もいそうですが、実際はその逆で、これはダニング=クルーガー効果と呼ばれているそうです:
リンゴを手から離したらそのリンゴが落下したという事実から、「支えのない物体は落下する」という説を出せますし、その論理は極めてクリアです。ただ、飛行機や雲、星はいずれも支えられていないが地面に落ちてこないという「事実」をさらに追加で集めた場合、当初の説はとたんに説得力を失います。これは、データを追加した結果、いままで言っていたことが言いにくくなってしまったということで、「謙虚にならざるをえなくなった」ということです。
リンゴの例で示したかったことは、データがひとつだけしかない場合に何か言うことはかんたんだが、だんだんそれはできなくなるということです。現実をつぶさに観察するほど謙虚になる、といえるのはそのためで、事実をすべて加味したうえで何か言う、すべての事実を肯定してから何か言うという仕事は、その現実を知れば知るほど、データを集めれば集めるほど難しくなります。
一方、現実の話ではなくフィクションであればきれいでシンプルな説明をいくらでもできます。フィクションということは、現実を何も観察せずになんでも言えるわけですから、「ありありなんでもあり」で言いたい放題言えます。
僕は、ショート動画は「ドーパミンヒットさせるだけの工業製品」のようなものだと考えているのですが、ショート動画がやっていることのなかには、「シンプルな因果関係」をフィクションとして示して、大衆をいい気分にさせることがあります。○○だから××なんです!のように、シンプルな因果関係で何かを説明されると人はわかったような気分になるのですが、それを人為的に、そして量産体制でやっているのがショート動画です。
「はい論破」のようなしょうもないネットスラングがなぜしょうもないかも、今回の話の流れからわかるはずです。事実をフラットにながめて何か言うべきであるところで、「自説にとって都合がいい事実のピースのひとつ」を見せて勝ったような気分に浸ることが、「はい論破」の文化になっています。
議論や話し合いは論理で殴り合うバトルではなく、共通の落としどころを探る共同作業ですから、「今目の前にどのような事実があるか」を確認することは必須です。議論というのは、それをすることよりも議論のテーブルをつくることのほうが大仕事ですし、難しい仕事になります。X(Twitter)で議論がほとんど成り立たないのは、議論のテーブルをつくることが(プラットフォームの都合上)きわめて難しいからです。
論点をきれいにととのえてこれをシェアすることは、複数人の議論をするうえでの最低限の要件であり、それは前提になります。複数の参加者が想定する前提がずれていたり、あるいはまったく異なっていると、議論はいつまでたっても平行線をたどることになり、まったく収束する気配がでてきません。
科学と反証可能性
事実を幅広く肯定しようとすればするほど、謙虚にならざるを得ないということです。それをしたくない人は、それをしなくてもいいフィクションの世界に逃げるわけで、冒頭で示した、「これだけで英語ペラペラ!」の類でも、フィクションに逃げることをしています。
長いこと「そっちゃそ」をフォローしている方ならわかると思うのですが、僕は世の中でまかり通っている言説をちょくちょく否定しており、シャドーイング、瞬間英作文などの「これだけでオッケー」のような甘い言説を否定しているのがその一例です。じっさい、「○○はどうでもいい」とか、「○○はやらなくてもいい」みたいなタイトルの記事や動画を、僕は過去にけっこうつくってきました:
では僕がなぜ、断定的な世の言説を崩そうとしているのかというと、この記事のタイトルの「知れば知るほど謙虚になる」という話の通りで、僕が謙虚になりたいからです。謙虚である、なるべく広く肯定したくなる、というのが心の習慣であり、「それを断じるのは無理では」という謙虚な姿勢があるからです。
冒頭で示した、「科学的」という言葉が口癖になっている人はしばしば、反対意見を受け付けないことの盾をみせつけるためにその言葉を言うのですが、ここまでの話からわかるように、それはむしろ逆効果では、と感じませんか。科学的であるとは反証可能であることである、と述べたのはカール・ポパーです。科学的=もしかしたら間違っているかもしれない、ということであり、「支えのない物体は落下する」という説が科学的でありなおかつ反証できるという話と同じです。皮肉なことですが、科学的と銘打って反論を許さない態度こそが、非科学的です。
心の問題
データをあつめて「謙虚になる」という流れがある一方で、世の中に、「データを誇示してアピールしたがる」人がいるのも事実です。なぜ似たような景色をみているのにそこまで態度が変わるのだろう、と疑問に思うのですが、そのようになる背景にあるのは、「心の問題」であると僕は考えます。
煙草を吸う人に、「煙草がいかに身体に有害であるかを示す客観的事実」を力説しても、その人は煙草を吸います。人の行動選択は必ずしも合理的ではなく、「それをしたいからする」という目的ありきでことが発展することはあります。煙草の話は今回の話にもあてはめることが可能で、自説ありきですべてのことをすすめたがる人にとっては、自分らの周りにある都合のいい事実やほかの言説を固めることがことのすべてであり、また、都合の悪い事情はなかったことにするかあるいは例外として処理します。
以前、「世の中にはノンネイティブがうじゃうじゃいるのに、『ネイティブ英語』を一直線に目指すことを良しとするのはおかしいのでは」と指摘したのですが、その話とも同じで、そこには、「ネイティブ英語に恋焦がれてほしい、ネイティブ英語を一心不乱に目指してほしい」という、英語商材マーケティング側の都合ありきでメッセージングがすすめられる景色があります。
…ノンネイティブスピーカーは当然地球上にうじゃうじゃいるのですが、それを見なかったことにするのも、「現実をただしく把握する」という仕事をできていないことになりますし、また、「チェリーピッキング」になります。(中略)「ネイティブ発音を100%聞き取れる」ようにしても、のこりの8割の人たちはネイティブスピーカーとは異なる話し方をするわけですから、ネイティブスピーカーに適応することは、多数派のノンネイティブスピーカーに適応することと重なりません。
すべてにいえることですが、そうであってほしい、そうでないと困るという無根拠な願いがその人、あるいはその人たちの心のなかにあるかどうかが、ことを分かつ基準です。今回述べたかった、「現実を素直に受け入れて肯定する」という、本来であれば子供でもできそうな仕事は、目的ありきの人たちにはできません。
どこまで踏み込めるか
謙虚になろう、とここまで説明したのですが、それは、「弱気になる」ことではありません。「謙虚かつ強気になる」ことは可能であり、「少なくともここまでは言えます!」のような形で、ラインを示しつつ何かをびしっということは可能です。
この、「ラインを示す」というのは、何をどこまで示すかに相当します。一次情報をメタ化してなにか言う場合、それはメタ情報になりますが、これはどこまでも繰り返すことが可能で、「メタメタ情報」をつくることもできます。
ただ、当然ですが、一次情報から離陸してテイクオフするさい、その高度がたかくなるほど「言説がちょっとあやしく」なるのが通常です。このメタ化、抽象化をどこまで踏み込むかで、謙虚さが効いてきます。
人の考察にその人の個人的な信念が混じってしまうのは仕方のないこと、通常のことなのですが、その際。「なるべく机上の空論にしたくない」という、程度の問題がからみます。大胆で攻めた考察や仮説を「事実に基づき」つくるのと、「妄想で」するのとでは、見た目は似通ったものになるかもしれませんが、クオリティには天と地ほどの差が出ます。
僕がいつも、一次情報を優先しよう、現場を観察しようと言っている理由の一つに、「現実からの乖離をなくしてフィクションをつくらないようにつとめるため」というものがあります。事実を昇華させてつくる抽象度の高い情報の中には妄想が混じってしまうのですが、混じりけの程度は、一次情報をはじめとしたぶれないアンカーをまず固めることで低くすることができます。妄想が混じるというのは、フィクションをつくってしまうということと同じ意味であり、それを抑制するもののひとつが、「ぶれない事実情報」です。それは今回述べたい、事実を広く肯定することに合流します。
フィクションや妄想が一概に悪いわけではありません。現実の話をしているのに妄想を持ち込んで、それを現実に替えてしまうのがまずい、ということであり、現実の話をするなら、現実の確認をしてから話をしないといけないということです。
信じたいものを信じる活動というのはそれすなわち、「宗教」のことなのですが、現実の話をしているときに避けたいことのひとつが、「信じたいものを信じて話す、宗教的な説明」です。読み手を楽しませるのがフィクションの作家の役目なのですが、フィクションではない作品の場合、「読み手を楽しませる工夫」というのは必要なく、「事実、場合によっては不都合な真実に基づいた説明」が必要です。
さいごに
「無知の知」や、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」などの言葉からもわかるように、自分が知っている領域と知らない領域の境界を把握し、そして、「知らないこともある」というのを自覚しつつ謙虚になるのがいいよね、というのが、この話の幹です。
なにか現実の話をする、したいときの最低限の態度として、「謙虚になること」と、「現実をひろく肯定すること」があります。「強気で自説にしがみつくこと」をしていると、世の中でパラダイムシフトが生じたときにとたんに何もできなくなります。
…those who foolishly sought power by riding the back of the tiger ended up inside.
虎の背にまたがり力を求める者は、最終的には虎に食われる。
▼この記事を書いた人▼
そっちゃそ
フリーランス英日翻訳者。本業で培った知識や経験をもとに、発音指導をはじめとした語学指導もやっています。noteは、僕の思想や考えをひろく公開するために使用しています。僕の思想や考え方については、考察と思想哲学のマガジンにまとめているのでこちらをぜひご覧ください。詳しいプロフィールはこちらから。
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さいごに
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