「おっちゃんらは自由」夜は釜ケ崎の居酒屋店主、もう一つの顔は冤罪テーマのルポライター

釜ケ崎こもごも

ライブが行われる中、グラスを手に接客する店主の尾崎美代子(中央)=大阪市西成区の居酒屋「集い処はな」(安元雄太撮影)
ライブが行われる中、グラスを手に接客する店主の尾崎美代子(中央)=大阪市西成区の居酒屋「集い処はな」(安元雄太撮影)

大阪・釜ケ崎の「ションベンガード」と呼ばれる高架下のそばに、居酒屋「集い処(どころ)はな」はある。

店主の尾崎美代子(67)が一人で切り盛りするこの店は客席数15席ほどと大きくはないが、料理や酒などを安価な値段で提供する、釜ケ崎の労働者たち御用達の店だ。月に一度程度、ライブハウスに様変わりし、沖縄民謡などが鳴り響く中、常連客に飲み物を提供する尾崎の姿を見ることができる。

「おっちゃんらみんなええやん。群れないし自由やん。偏見ないやん」

40年近く釜ケ崎で暮らし、「群れないし自由」とその魅力を話す(安元雄太撮影)
40年近く釜ケ崎で暮らし、「群れないし自由」とその魅力を話す(安元雄太撮影)

「組織なんか絶対入らん」

新潟県に生まれ、地元の女子高から進んだ中央大で過ごすうち、日雇い労働者や野宿者の支援に関わるようになった。中退後はアルバイトをしながら新左翼系の団体で、機関紙を発行する部局で働いていたが、そこでセクハラ行為を受けたという。口封じのためか逆に「糾弾」され、団体を離れるという理不尽な仕打ちに「もう組織なんか絶対入らん」と誓った。

昭和63年に大阪に移り住み、一人で労働者や野宿者の支援に携わろうと釜ケ崎へ。以来この地に住み続けている。

「集い処はな」前。かつては繁盛したが「今はぼちぼち」(安元雄太撮影)
「集い処はな」前。かつては繁盛したが「今はぼちぼち」(安元雄太撮影)

「はな」を開いたのは平成13年のこと。新型コロナウイルス禍まではカラオケ付き居酒屋として繁盛したが、「今はぼちぼち」と笑う。

「おかしい」声あげる勇気

尾崎のもう一つの顔が、冤罪(えんざい)事件を主なテーマとするルポライターだ。居酒屋を開く前の時間を取材と執筆にあてている。

茨城県利根町布川で昭和42年に男性が殺害された布川事件など21の冤罪事件を取材し、雑誌にルポを寄稿してきた。

近年でも横浜市の機械製造会社を巡る冤罪事件で、起訴された元顧問の保釈が認められず、被告の立場のまま病死したケースが世間から強い批判を浴びた。警察と検察が謝罪し、最高裁も保釈の判断について議論するための研究会の開催を決めるなど異例の経過をたどっている。

「集い処はな」の開店前が取材と執筆の時間だ(安元雄太撮影)
「集い処はな」の開店前が取材と執筆の時間だ(安元雄太撮影)

今は亡き尾崎の祖父には従軍経験があった。当時のことを多くは語らなかったが、理不尽な目にも相当あってきたはずだ。冤罪事件を取り扱うとき、祖父のことも思い出す。「『人間だから間違うよね』じゃない」とその罪深さに憤りを見せる。

著書『日本の冤罪』には、布川事件で再審無罪が確定し、一昨年亡くなった桜井昌司との対談が収められている。ライター人生の恩人だという桜井は対談で、「ほとんどの圧倒的な人が『それはおかしい』という勇気がない」と日本社会の〝弱さ〟に怒りをあらわにしていた。

その言葉を胸に、今日も取材を続ける。「店をやりながら取材して、ひとつでも冤罪をなくしていきたい」。ペンの力を信じている。=敬称略

大阪市西成区の「釜ケ崎」。かつて「労働者の街」と呼ばれたが、今では高齢化が進む。労働者向けの安宿「ドヤ」も、インバウンド(訪日客)の増加でゲストハウスとなるなど景色も一変した。故郷を離れ、名を変え、この街で生きる人々の悲喜こもごもの姿を追った。(写真報道局 安元雄太)

会員限定記事

会員サービス詳細