テキストボックスとは

about us

テキストボックス(TEXTVOX.)は東京近郊で活動する同人文芸サークルです。
実験小説だったり百合小説だったりするものを定期的に公開しています。
本人たちはロックバンドか劇団のようなものと捉えているそうです。

member

村雨シスタ(Cista Murasame)

4月3日生まれ。埼玉県出身。
テキストボックスの首謀者。
担当パートは執筆、演出、製本、デザイン、プログラミングなど。
好きな食べ物はパスタ全般、たこの刺身、かすたどん
X(Twitter) https://x.com/cistavox

・ミカンヅ(Mikanz)

4月17日生まれ。群馬県出身。
テキストボックスの主犯格。
担当パートは執筆、演出、製本、作画など。
好きな食べ物はチョコレート。
X(Twitter)  https://x.com/indoahanara

X(Twitter)

https://x.com/textvox_info

biography

2024年秋、村雨シスタが当時サポートメンバーだったミカンヅを正式に誘う形でユニット結成。
2025年5月、文学フリマ東京40にて『アナザー・モーニング』および『ペーパー・ムーン(体験版)』を頒布(完売)。
現在は『アナザー・モーニング』および『ペーパー・ムーン』のネット頒布に向けて準備中。

いよわさんの新曲がよかった、と言い忘れた日記

果汁7%の甘い汁をすすって満たされてきた人生なので、「本物」はちょっと怖いんですよ。
ニセモノぐらいがちょうどいいというか。
それはわたし自身にも言えて、結局わたしはJポップのサンプリングでできていて、
うすっぺらいまがいものなんです。ティッシュのようにうすっぺらい、パスティーっシュ。

なにを言い訳してるんだろうね。

  ◆

昨日の夜、劇団ままごとの『わが星』を見返しました。よかった。
なんだかんだ月ちゃんのお手紙のシーンでこみ上げてきてしまう。思ってるより単純なので。
とはいえ、ままごと、というか柴幸男さんの作った劇作品のなかでは「反復かつ連続」がずば抜けて好きです。あれこそマスターピースだ。
わたしは自分の創作においてルールというかスローガンが3つあって、それは
 1. 物語はベタに
 2. 台詞はリアルに
 3. 演出はトリッキーに
というものなのですが、
それら全てをハイレベルで成し遂げているのが柴幸男さんの演劇作品だと思っています。
あんな、16分で人をあそこまで感動させる作品なんてなかなかないですよ・・・!
このブログをわざわざ読んでくださっている皆さんにはぜひとも『四色の色鉛筆があれば』という短編演劇集のDVDを注文していただきたいです(ダイレクトマーケティング)。
絶版になってた時期もあるので、お早めに!

  ◆

それはそうと、文学フリマ東京というイベントがありました。(お疲れ様でした!)
わたしたちテキストボックスは出店側で参加したわけですが、
ありがたいことに新刊が完売いたしました。やったー!
(まぁ例によって自家製本なので小部数しか取れなかったというだけではあるんですが)

内容についての振り返りはもう少し先にやるとして、
とりあえず「ネット通販をやる意気込みだけはある」と表明しておきます・・・。
まぁ自家製本なので刷り直すだけといえばそうなのですが、
ちょっと手直しもできたらなーって思うとなかなか進まない。

目標は年内の販売です!
あわよくばクリスマスプレゼントにでもなればいいなぁと。
期待せずに期待しててください!(自信なさげに)

  ◆

そんなわけでもう12月ですね。
っていう感じの日記をしばらくやってみようと思います。
新しいキーボードを買ったので、そこに指を慣らすためにですね。
さて何日坊主かな。

ずれていく「先輩」の話


              。                    、             。           、                 。    、           。
「だーれだっ」
         。        ……  、                  、      。    ?          ?       。         。
「んー? もしもーし?」
              、              。                 、          。  、              。
「あ。そっか、……じゃあもう一回、」
              、           。                  、
「だーれだっ」
 音もなく忍び寄ってきた先輩に雑に視界をふさがれて、その指のすき間から射し込む半透明の明かりと温もりをまぶた越しに感じながら、わたしは少し息を吐いた。だって心臓がばくばくいうんだもん。っていうの先輩に悟られたらまたいつもの感じでにやーってしてきそうだし、普通にする。普通にするの。──こんなことしてくる暇人、先輩ぐらいですよ。
「もう、つれないなぁ。でもほんとは玲奈ちゃんも期待しちゃってたり~?」
 してません。
 ってわざわざ口にするのもだるいし、ほっぺた突いてくる先輩の指を払って無言でその場にしゃがみ込んだ。先輩も一緒に腰掛けてくれる。高校の東校舎の三階からさらに上ったとこ、だいたいいつも閉鎖されてる屋上への入り口。お昼休み、どこにも居られないわたしの居場所はいつもここだった。
 なのに、遥香先輩に見つかってから、もう全部めちゃくちゃだよ。
「お、今日も玉子焼きじゃーん。ねぇ一口いい?」
 つまもうとしてくる先輩の指からお弁当箱をよけて、膝の上に置き直す。それでも伸びてくる指先をパシッと払う。先輩、お行儀わるいです。
「いいじゃん一口ぐらいさあ! 玲奈ちゃん家のお弁当おいしいんだもん!」
 先輩のためのお弁当じゃありません。……でもまぁ、ほんとは食欲あんまないし先輩にあげちゃってもいいんだけど、そしたら調子乗って唐揚げとかデザートのオレンジまで手を出してくるから気を許しちゃいけないんだった。ついでに言うと先輩の一口は結構おっきい。だから先輩にエサをあげてはいけません。なついてくるから。
 言ってるそばからそんなしょんぼりした顔してくるし。
「むぅー、玲奈ちゃんは先輩に対する〝敬意〟ってやつが足りないんじゃないかなっ」
 ほっぺた膨らませて敬意とか言ってくる。どこに敬意があるんですか。先輩のおっきな目から視線をそらすと、無駄にスタイルのいいセーラー服姿も見ないように……あれ、赤?
「ん、どしたの玲奈ちゃん? あっ、ぱんつみてた? えっち!」
 違いますよ!
 ていうか見えそうな座り方しないでください! こっちが恥ずかしいです!
 わたしが目に入ったのは、そっちじゃなくって、胸元できゅるっと結ばれた学校指定のスカーフの方で。そう、赤。わたしと同じ学年の色。
 ……先輩って、三年生になったんじゃないんですか?
 わたしがスカーフの端っこをつまんで問い詰めると、先輩ったら目を泳がせながら、「いやー、その、ね? うっかり留年しちゃった……的な? あははっ」とかって。やっぱり、なんか今日違和感あったんだ。わたしはげっそりとため息をつく。留年って、うっかりとかそういう問題じゃないでしょう。
「ちょっと玲奈ちゃーん? ため息つくと幸せが逃げちゃうんだよ?」
 うわあ。うざ。
「ま、おいしいものでも食べて、元気だしな?」
 ってお弁当を差し出してくる。先輩それはわたしのお弁当です。あと玉子焼き食べたでしょ。こら。
「まぁでもさ、考えてみてよ! これで玲奈ちゃんと同級生になるんだよ? 憧れの先輩と同じ教室でお勉強、うれしくない?」
 留年する先輩にどう憧れろって言うんですか。
「ほらほら、そんな顔しなーいの、あっなんなら玲奈ちゃん今度からタメ口にしてみない? 同級生だし! 距離縮まりそうじゃん!」
 ……いいんだね。本当にそれで。
「怖っ?! なんか逆に距離が開いた感じしたんだけど!?」
 というか、先輩も距離とか縮めたいなら先輩らしいとこ見せてくださいよ。わたしは言ってやる。先輩が先輩らしいとこ、今年入って見たことないです。
「そんなあ!」
 泣きそうな顔で抗議してくる先輩。でも唇の横にごはんつぶ付いてる。もう絡まない方がいいのかもしれない。ていうかわたし、こんなキャラじゃなかったはずだ。ほんとはもっとこう、だめな先輩でも尊敬できるところを探して、というか変な先輩とは絡まないで、学園生活とか、いい感じにこう、
「ま、でもこれも玲奈ちゃんのキャラ的には愛情の裏返しだもんねぇ」
 無視して口に詰め込んだ唐揚げが喉に引っかかる。うぐ。先輩が午後ティー渡してくれる(わたしのだけど)。ありがとうございます。でも「ごほうびのちゅー」とかくだらない発言は無視する。先輩のことは無視するに限る。
 と、その時。
 階段の下の方でザラザラした笑い声が上がった。
 肩がこわばる。指が震える気がする。息の仕方がわかんなくなる。やばい、隠れなきゃ。
 お弁当をしまって階段の陰に身を潜める。こんなとこ、見つかったら……わたし、ここにも居られなくなる。ただでさえどこにも居られないのに。こんな姿、誰にも見られたくないのに。
 そしたら、先輩までわたしの隣にしゃがみ込んで身を隠した。先輩はばれたって平気なのに、わたしに付き添ってくれる。先輩は他の人のことなんてどうでもいいはずなのに、わたしが変に震えてくる手をそっと取って、重ねてくる。なんでだろ、先輩の手の感触が伝わって、そこだけ大丈夫な感じがしてくる。
「……かくれんぼ、みたいだね?」
 急に耳元でささやかないでください。
 顔が熱くなってきて、もう何がなんだかわかんなくなるけど、なんかそれでもいいやって気分になってくる。ふざけてると見つかりますよ。それだけ、わたしが言うと「へーきへーき! 誰にもバレないって」と笑ってくれる。ああ、そういう顔するから、先輩のこと夢にも出てきちゃうんだってば。うざいなあ、ほんと。まぶしくって。
 そんなことしてたらチャイムが鳴った。昼休みが終わってしまう。もう行かなきゃいけない。行くって、どこへ? ……教室へ。そうだ。わたしは授業を受けなければならない。教室へ行かなければならない。
「いいじゃん、サボっちゃいなよ! お外、桜もきれいだし、あったかいよ~?」
 そんなことしてるから留年するんじゃないですか。とかってツッコミたくなるのをこらえて、とにかく先輩の言葉に耳を貸さないようにして屋上の入り口を後にする。ひらひらと手を振る先輩から目をそらして階段を降りてく途中、窓の外に目が行ってしまう。校庭の桜は満開で、真っ白く見える花びらがひらひら落ちて点描みたいに地上を染めていて、そんな木陰をちろちろ走る小鳥が弾みでまぶしい空へと飛び立っていく。……だめだ。わたしは、教室に、行かなければならない。
 人の騒ぐ声が苦手だった。
 耳を突き刺すような笑い声は苦しくなる。
 二階の暗い廊下を抜けて、女子トイレと水道の前を通り抜けて、教室ひとつめ、教室ふたつめ、あと一歩、だめだ、着いてしまう、あと一歩先の教室の扉をいままさに開けようとした時──中で誰かの叫び声がした。固まる。窓の向こう、教室の中でクラスの女の子が手をばたばたさせてる──虫、たぶん蜂かなにかが入ったみたい。窓の外に追いやろうとしてる、ただそれだけ、なのにわたしの足がもう動かない。いけ、開けろ、先生が来ないうちに教室に入って五時間目の授業を受けるんだ、早く、変な目で見られないように、はやく、

 ──高嶋さん、授業始まるわよ?

 あ、
 みられた、
 みんなが、こっち、みてる

 っ、すみません、(だめだ普通にしろ普通にするんだって)だいじょうぶ、大丈夫です、(いいから普通になれ大丈夫になれ)っ、ごめんなさい、先生、ちょっと(先生まで顔色悪そうなんて言ってくる、本当に無理になる、ちがう、)そう違うの違うんですこれは別にわたし変になったとかじゃなくってただちょっと息ができなくて気持ち悪くて今すぐ吐きそうな感じしてるだけで大丈夫です大丈夫です大丈夫です先生気にしないで見ないでくださいすみませんちょっとトイレ行ってきますすみません次の授業には戻りますから(身体がおちる、しゃがみ込んでしまう)、大丈夫です、大丈夫だから大丈夫なんです──

 あぁああ……

 ──便器を抱えながら、流れてく水をぼんやり見つめながら、口、ゆすがなきゃなぁって思ってた、気づいたら。さっき食べたお昼、ほとんど全部出しちゃった気がする。こんなことなら、先輩に全部あげればよかったのに。お母さんに悪いと思わないの? うるさいうるさいうるさい! 胃液か何かで喉がひりついて涙が出そうになる。
 もう授業は始まってるし、今更あんなやばいとこ見られて教室になんて入れないし、結局わたしはどこにも居られない。あの目がだめだった。みんなの、名前も知らないクラスメイトたちの、先生の、わたしの身体を突き刺すような目がもう無理だった。……またぶり返して、少し出す。もう一度流す。いつまで続くんだろう、こんな人生。もうやめようって決めたのに、それさえも無理だったから。
 ああ、また今日もだめだった。午前中はまだ大丈夫だったのに。今度こそ普通になろうとしたのに。
 洗面所で口をゆすぐのにも慣れてしまった。トイレから出て、余ってた午後ティーのぬるいのを喉に流し込んだ。うんざりするくらい晴れてて、逃げ場なんてなくす勢いで陽が差してて、廊下の窓に映ったわたしの顔はほとんど透明で消えそうだった。なんとなく先輩のこと思い出して、こんな姿見せたら先輩にも失望されちゃうんだろうなって、それだけだった。
 先生、すみません。気分が、悪くって。
 保健室に着いて、もう落ち着いて嘘なのかわからない言葉を投げたら、先生は奥のベッドを貸してくれた。わたしがどういう生徒か分かっていて、もう諦められてるんだと思う。いつものことだから。どうせわたしは変われないから。外の光から逃げるようにして、ベッドの中でシーツを頭からかぶった。目を閉じても、光の残像が消えずに痛めつけてくるの。指先の震えがずっと止まらなくって。ていうか、なんで生きてるの?
 わからなかった、なにもかも。わたしの人生どっから間違えたんだろうって思っても、最初っから、生まれてきたことが間違いだったような気がしてくる。
 誰かに何かを伝えようとして、でもうまく伝えられなくって、言葉だけが増えていって、いつの間にか相手が去ってしまう。友達だった子とそんなことを繰り返しているうち、いつしか何も言えなくなった。ひとりで遊んでたら、変わってる子だって、小学五年生の時の担任の先生は通信簿にそう書いた。個性を尊重するなんてこともたしか言ってたし、わたしのこと褒めてるつもりだったんだと思う。だけどそれは、どこにも居られなくなっていくわたしの姿を告発していた。
 中学に入ってから余計に居場所がなくなって、本当に生きていられなくなった。唯一の友達と一緒の女子テニス部に入ったけれど、わたしだけ先輩とうまくやり取りができなくて、気付いたらわたしだけ連絡が来なくなってた。地区大会の日も、お弁当を持っていくことを知らされてなくて、でも分けてほしいだなんて誰にも言えなかったから、お昼休み中ずっとトイレにこもってた。誰にも見られたくなくて、今すぐ消えてしまいたかった。
 部活のうわさが教室まで染み込んでくると、もうどこにも居られなかった。誰かが笑ってる気がする。いや、本当に笑ってる。誰も居ないのに誰かが〝消えろ〟って耳打ちしてくるの。担任の先生に打ち明けたこと、次の月曜日にはみんなに知られてた。あの子、ちょっとあれだから。そういう言葉でどんどん世界が遠くなって、わたしは教室に居られなくなった。
 いじめられたわけじゃない。
 殴られたり蹴られたり物を捨てられたり、そんなことは起きなかった。
 わたしが勝手に壊れただけ。
 わたしが一人でおかしくなっただけ。
 先生がたもお母さんもみんなそう思ってたから、わたしが勝手に壊れたことになってたから、わたしだって自分のことわかんなくなってたから、結局、放っておかれることになった。夢の中でもわたしはずぶずぶ沈んでいくの、遠くの楽しそうな声がザリザリ耳を刺す中で、かき分けても追いつかない砂の海で、わたしだけ沈んでいくの。そういう系の悪夢をずっと見続けて、お昼もどうせトイレで吐くから食べれなくなって、教室に入れなくなった。
 集中してれば誰とも話さなくても許される。そういう存在だってことになれば、そういう事情を掲げておけば、社会的に正しいってことになる。勉強に熱中してたのは、わたしの存在が一応正しいってことになるからで、あと、どこか遠くに行けそうな気がしたから、かも。1つの円で、ある弧に対する円周角の大きさは一定であり、その弧に対する中心角の2分の1に等しい。本当はどうでもよかった、でも、どこか遠い高校で人生をやり直すのが、わたしの唯一の希望になってた。
 だけど、わたしは変われなかった。
 高校一年の秋まではうまく隠せてたと思う。第一志望じゃなかったけどわたしのこと知ってる人の居ない高校に行けたから、普通の人の振りができてた。大丈夫、大丈夫。誰もわたしのことなんて見てない。わたしは見るような価値のある人間じゃないから。そう思い込んで、楽になってた。
 高校一年の秋、文化祭でクラス発表があった。なんとなく意味もなく続けてた勉強のせいで、成績が優秀だったわたしがクラス代表として発表することになってしまった。それが、引き金になった。わたしのことをみんなが見てしまう。わたしのことをみんながうわさにする。そうやって、簡単に壊れた。
 台本を読み上げるだけの発表だったのに、息ができなくなって、その場にしゃがみ込んでしまい、あとは思い出せない。
 真っ白な世界から逃げ出した後で、気付けばまたトイレの個室に追い詰められてた。なんだ、変わんないんじゃん。わたしの人生、結局ここなんだ、って。トイレの床にへたりこんで、低い天井と換気扇を見上げながら、胃液で焼けた喉でぜえぜえ息をしながら、不思議と涙は出てこなかった。ただひたすら、〝世界の終わり〟って言葉が頭をぐるぐる跳ねてた、それだけ。
 まともに授業を受けられなくなった代わりに塾に通わされることになった。人の集まりがどうしても無理で、なんとかお母さんに頼んで、個別指導の塾にしてもらった。勉強さえしていれば、どこか遠くに行ける、まだそんな気がしてたから。でも、どこに行ったって、本当はどこにも居られないんじゃない?
 ──ううん、そんなことない。高嶋さんは、自分で思ってる以上に可能性があるの。
 わたしの担当になった吉田先生がいつだか、そんな風に言ってくれた。あなたはいつか、ずっと遠いところで活躍できるかもしれない。だって、ここだけの話、他の子より明らかに飲み込みが早いもの。……そんなこと言われても、わからないです。そう言うわたしの目を見て、吉田先生は励ましのようなことを言ってくれる。私もあなたぐらいの頃は分からなかったけれど、世界って、ずっと広いんだから、これからも一緒に頑張りましょうね、なんて。……先生、これ何の授業ですか? 数学ですよね?
 なんていじわるな回答、さすがに先生には出せなかった。だって先生はきっと勘違いしてるから、わたしのこと。わたしは本当にどうしようもない人間なのに、ただちょっと問題が解けるぐらいで、可能性なんて言ってしまう。わたしぐらいの人はどこにでもいるんだから、先生こそ世界を見てほしい。……なんてことを、やんわりと伝えてみたら、今の私は目の前の生徒を見るだけで十分だから、と笑ってた。
 と、下校時刻のチャイムが鳴り出す。ああ、結局こんな時間まで居てしまった。部活が終わった生徒たちが何か騒ぎながらばたばた昇降口を埋めていくのが聞こえる。わたしはシーツを被りなおす。もう少し、人がいなくなってから。そういう言い訳をして、時間ぎりぎりまで逃げてしまう。また、今日も、だめだった。
 先生。わたしは、どこに居ればいいんですか? どこなら居ていいんですか?
 答えは返ってこない。わたしがずっと、叫びたいことも口の中で噛みつぶしてしまうから。
 放送部の下校を促すアナウンスが流れ始めた頃、わたしはベッドから出て上履きを履きなおす。保健室の先生に迷惑をあまりかけず、かと言って下校の集団とぶつからないちょうどいいタイミングを測るのにも慣れてしまった。嫌な慣れだと思う。わたしは先生にお礼を言って、そっと保健室のドアを閉じた。
「おー、玲奈ちゃんおつかれぇ!」
 せ、先輩……?
 思わず目をそらした。窓の向こう、もうだいぶ傾いた夕焼けが目にまぶしい。どうしよう、保健室から出たとこ見られたかも、いや先輩のことだからそんなの気にしてないって説に賭けて、
「てか玲奈ちゃん、大丈夫? なんかずっと保健室いなかった?」
 ……最悪。終わった。
 先輩の視線から逃げるように、わたしは昇降口、下駄箱の方に向かう。別に、なんでもないですよ。ちょっと昨日、ユーチューブ見ちゃって寝不足なんです。とか適当なこと言ってローファーに履き替えようとしたら先輩が「え、なになに? 玲奈ちゃんどんなの見るの?」とか食いついてくるからローファー落としてしまう。落ち着け、わたし。
「玲奈ちゃんってさ、顔に出るって言われない?」
 どういう意味ですか。
 って聞くと墓穴掘りそうだし、わたしは先輩の話を聞き流す。でも、横目に見えた先輩の眼差しはいつもよりやわらかく感じて。思わず、目が合ってしまって。
「……まあ、なんかあったなら話、聞くからね。いちおう、先輩なんだしさ」
 今朝、留年したって言ってませんでしたっけ。
「それは言葉のあや! っていうか、留年したって先輩は先輩だもん!」
 まるで説得力のない叫びがもう誰もいない校庭に響いて消えてく。いたたまれなくなって、先輩は先輩ですもんね、なんて言葉を付け加えるけど余計気まずくなっただけだった。というか、後輩に気を使わせないでくださいよ……。
「あっ、待って玲奈ちゃん」
 ちょうど校門を踏み越えたあたりで先輩の声がした。息が止まる。きゅってなる。でも、先輩の手が触れると固まりそうなわたしの心臓がするりとほどけていくみたいで。
 先輩はわたしの頭をそっと撫でて、手ぐしで髪を整えてくれる。
「ふふ、髪の毛はねてたから。まぁそれはそれでかわいかったけど」
 っ! 先輩、言ってくださいよ!
「今言ったからセーフ! じゃねぇ、また明日ぁ」
 そう言ってひらひらと手を振って、先輩は校舎の方に戻っていってしまう。なんだろ、まだ四月なのにすごい暑い。それに、胸の奥がなんでか鳴り止まなくなってて。
 気にしないようにって通学路になってる並木道に出て、もう散っちゃった桜の花びらが染めた道を歩きながら、駅の方へと向かった。夕方のラッシュか何かで車の通りも人通りも多くて、だんだん駅に近づくごとに人の気配が増していくけど、わたしは透明だって思えるうちは平気だった。わたしは透明、わたしは風。そう言い聞かせて、誰にも見られないように駅に向かう。
 でも赤信号ばかり続くし、同じ色の制服が寄り道してるとこは避けなきゃいけなくって、思うように進めない。やっと着いた頃には、普段より時間が経っていた。ていうか、駅前のTSUTAYA、潰れてたの今気付いた。そういえばカード更新してなかったっけ。
 それでそのまま家に帰れればよかったけど、今日は塾の日で、わたしは駅の東口から西口まで素通りして塾に向かう。また同じ色のスカーフを見つけて、人混みに隠れる。あの子たちは二駅となりの街で遊んで帰るのかな。わたしには、よくわからないけど。
 塾に着いて自習室に向かおうとしたら、吉田先生が授業の準備をしてた。
 ──高嶋さん、今日もお疲れ様。英文法のテスト、どうだった?
 その時間はトイレに直行してそれどころではありませんでした。なんてこと言えるわけないから、適当にごまかす。はい、おかげさまで。関係代名詞のとこ、やっぱり出てました。ありがとうございます。
 そう、よかったぁ。本当にうれしそうに目を細めるものだから、罪悪感がすごくてわたしは自習室に逃げ込んでしまう。この後、先生とどんな話すればいいんだろう。ていうか、先生はいい人すぎてわたしが汚れてるように感じてしまう。こんな風に思うの、わたしだけかな。
 どうにも気が散りそうになるのを振り払って数学の問題集を開く。問題集はいい。だって、いずれどこかに答えが出てくるから。……現実と違って。
 週明けの月曜日、重たい身体を引きずって教室に入った。わたしのことなんて誰も見てない、気にしてないって言い聞かせて。遅刻ぎりぎりまで廊下の陰で時間をつぶして、後ろの方の席にそっと座る。おはよう、なんて声さえ怖くて、うまく声が音にならなかった。
 一時間目の授業は先生の都合で自習になって、二時間目はテスト。存在を消していられる授業が二時間続いたおかげで、息の仕方にも慣れてくる。なのにそれでも心のどこかがざわめいていて、不安の影が消えてくれない。いいことがあった後は必ずわるいことが起きる、そんな考えが呪いのように付きまとってしまう。
 三時間目、英語のリーダーの授業が始まった。その時、先生は気まぐれで、わたしのことを指名した。
 英文を読み始めたわたしに、足を組んだ先生はもっと大きな声でと指示を出す。そうだ、これじゃあ聞こえない。聞こえません、って声が聞こえた。うそだ。そんなこと誰も言ってない。だけど、確かに、聞こえませんって責める声がするの。小学校の時の記憶がぶり返してくる。たかしまさん、きこえませーん。今、クラスの誰かが笑った! 呼吸の音で分かる、そこでわたしのこと笑ってるの!
 一瞬で息の仕方がわかんなくなった、ああもう、ただ普通にすればいいだけなのに、予習もしてある、読み上げるだけなのに! 先生がわたしのことを呼ぶ、顔を教科書に近づける、見えないように見られないように、変なことしてる自覚はあった、変な子だって自覚はしてた、だからみんな笑うんだ、気にしないようにしなきゃいけない、気をそらすんだ、自分の手首をぎゅって握って、強くつよく押さえつけて、でも震えてきた、ちゃんとしなきゃいけないのに息の吸い方がわからなくなって左手が痛くてたまらないのに押さえてないと変になっちゃうからでももう変になってるから大丈夫だいじょうぶわたしはだいじょうぶへんじゃないおかしくない大丈夫だいじょうぶ大丈夫じゃなきゃだめなのに!
 喉の底からこみあげてきて、その場を飛び出すしかなかった、先生がなにかいう、でももう声もだせないから、走って、足をうごかして、どうにか、えずくのを押さえつけてどうにか、個室で便器をあけて──

 むりだった
 かぎ、しめればよかった
 なにもできなかった、けど、
 でも、
 こんなとこ、
 ぜったいに、
 みられなくなかったのに、

「……大丈夫、ゆーっくりでいいからね? どう、ゆっくりだよ、よくなってきた? ううん焦らないで、私がいるからね、ほら、ゆーっくりだよ」

 ……先輩が、わたしの背中を何度もさすっていた。ゆっくり、ゆっくりでいいよ。って、そんな言葉を繰り返しながら。まるでお母さんみたいに、お母さんもしなかったことを、先輩の手のひらがしてくれて。
 せんぱい、わたし、きたないですよ。さいてーなんですよ。なのに、せんぱいの手はわたしのこと離してくれなくって、もう、ぜんぶ、むりだった。
「大丈夫? ……ううん、大丈夫じゃなくていいよ、玲奈ちゃん、大丈夫にならなくていいからね?」
 もう、だめだった。めちゃくちゃな声をあげて、きたない顔をぐちゃぐちゃにして、せんぱいにおしつけた、せんぱいの手があたまをなでて、せなかをさすって、わたし、だめで、むりで、せんぱいがわたしのことをほどいてくれるから、めちゃくちゃでいいよってしてくれるから、めちゃくちゃになって、ぐしょぐしょに溶けて、ずっと、しがみついてた。ずっと。せんぱいが、わたしのこと、ゆるしてくれたから。

 それからのこと、よく思い出せない。腕の中で、まるで赤ちゃんに戻ったみたいにずっと泣いてた。赤ちゃんの頃の記憶なんてないくせに、ここが一番大事な場所なんだってそういう実感がずっとあった。大丈夫って実は呪いなんだった、そんなことも気づかないで唱えてたのに、先輩がたやすくほどいてしまった。わたしが自分で縛り付けてたものを、先輩はほどいてしまった。
 ちゃんとしなきゃ、普通にしなきゃ、でないとわたしの本性っていうか化けの皮みたいなのが剥がれて嫌われて二度と取り返しがつかないって、小学校の時からずっと思ってたのに、どろどろに溶けてしまったわたしのことを、先輩はすくいとってくれた。先輩がわたしのことすくって、もとの人間のかたちに戻してくれた。……言っても誰にも伝わんないと思うけど、わたしの形が、もう一度、サナギの中で溶けた幼虫が羽化するみたいにして、もう一度戻ってきた、羽をもらって戻ってこれたみたいに思えた。……先輩にさえ、どうせ伝わんないと思うけど。

 顔を洗って、わたしが人の形に戻るまで、先輩がそこにいてくれた。どうでもいいことしか言わないで、「ひまだし、桜、見に行こうとしたら散っちゃってたから、代わりに玲奈ちゃん見つけてね」「ってか玲奈ちゃんに授業サボってるのバレちゃったね?」なんて笑ったりして、お互い様ですよ、なんて言えるくらいになるまで、ずっと、ここに。
「調子が悪いのは事実なんだしさ、今日は保健室で休んどいた方がいいよ。一日ぐらい、誰も気にしないって」
 先輩がそう言ってくれたから、それに甘えて、またシーツにもぐりこんでしまう。でも、なんでだろう。真っ白なシーツが、今日はいつもよりあったかくって。目を閉じても、やわらかい記憶がわたしを包んでくれて。……うん、春の陽射しのせいだ。そういうことに、今はしとこう。って、決めとく。なんでか口がにやけちゃうし、泣いちゃいそうなのにあったかくてしょうがないんだけど。
 と、ぼんやりしてたらチャイムが鳴り出す。スマホで時間を見る……四時間目が終わったとこだった。いけるかな、わたし。ちょっとシーツの外に顔を出して、手を伸ばしてみる。
 教室。先生の目。誰かの笑う声。……だめだ。わたし、全然怖いよ。
 さっきちょっと自分がなんか変われた感っていうか、ハッピーエンドっぽい空気してたけど、遠くで聞こえる椅子の音とか声とかだけで、全然無理だった。でも、さっきより大丈夫感あるし、ここで行かなかったらただのサボりだ。そんなのだめだ。行かなきゃ。って言い聞かせる。……一人でなにやってるんだろう、わたし。
「れーなちゃんっ」
 っ?! 急に顔見せないでくださいよっ、ていうか保健室に入ってくるのアリだったんですか?!
「ふふっ、細かいこと気にしてると長生きできないよ~? まぁ、ちょいとお座りなさいな」
 ほとんど同い年のくせに、てか留年してるのに、先輩がなんか諭そうとしてくる。ついでに勝手にベッドに腰掛けて、そのままごろんと身体を横たえて、下からわたしのこと見上げてくる。先輩、まつ毛長いな……って、なににやけてるんですか。
「玲奈ちゃん玲奈ちゃん、藤堂先輩ねぇ、すごいこと気づいたんだけど」
 藤堂さん、留年してたでしょ。
「あーん! もっとオブラートに包もうよ?! 先輩じゃなくっても、お姉さんなんだよ?!」
 先輩じゃないお姉さんって悲惨じゃないですか……。って、これ以上騒いでると、保健室の先生に見られた時にわたしがやばい人になるから、とりあえず先輩の言い分を聞く。……先輩じゃないけど、一応聞いてあげる。
遥香先輩てさぁ、高嶋さんと同級生、なんだよね? ね?」
 なんか嫌な予感する。そしてわたしの嫌な予感、わりと当たる。
「だったらさあ、玲奈ちゃんと一緒に授業うけても、ぶっちゃけバレなくない?」
 ……は?
「玲奈ちゃんの隣の席って、今日お休みだったよね。だからさっきリーダーで当てられてて。そこ、借りちゃっていい?」
 いやいやいや! 無理があるでしょ! 常識で考えてください! 先輩に常識あんまないのわかってますけど!
「ちょっ、玲奈ちゃんそれライン越えてない?! 私、バイトもできてたんだよ?! やめちゃったけど!」
 初めて聞きましたけど今その話じゃないです。というか、わたし授業戻るんで邪魔しないでください。そう、自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫、大丈夫……
「うぇえ? せっかくおそろいの学年なのに、やぁだあ! いじわるー!」
 こないだ先輩への〝敬意〟とか言ってた人が、めちゃくちゃだだこねてる。あの、分かりましたから。本当みっともないんで、静かにしててくれるんなら、……しょうがないので。不本意ですけど。
 そしたら、先輩がぱぁーって目を輝かせて、満面の笑みの実例みたいな顔で喜んでくれる。……だめだ。かわいいって思ったら、先輩の思うツボなんだってば。
 というか、時間大丈夫かな。スマホを見る。あと二分もないじゃん! わたしが飛び起きると先輩が転がり落ちてひざぶつけて涙目になる。なにやってるんですか……ていうか、置いてきますよ!
「急に元気じゃん?! 温度差で風邪ひいちゃうよ!」
 先輩はどうせ風邪ひきませんよ! 学級閉鎖とかなっても平気で遊んでるタイプでしょどうせ?!
「なんで知ってるの!?」
 とか言ってる間に教室に着いてしまう。息を整えようとしたら急ブレーキかけたわたしの背中に先輩が、ぼすん、ってぶつかってそのまま二人で入ってしまう。
 いいですか。いい子にしててくださいね?
 って先輩に小声で言い聞かせたら、先輩が真剣な顔で「玲奈ちゃん、もし、怖くなったら、魔法の言葉。教えてあげる」なんて言い出した。四時間目開始のチャイムが鳴る。急に大事な話、しないでください。もう周りのことなんて気にしてられなくって、ただ先輩のことが気になって、先輩を急かすと、

「……スベスベマンジュウガニ

 ……は?
 聞き違いか、耳がおかしくなったのか、向こうの頭がおかしくなったのか、たぶん最後のやつだと思う。そのまま授業が始まってしまう。ええと、……よかった。数II Bだ。微積はぐりぐり解いていけるし楽しい。よし。
「……ねぇ、うちの学校、外国語で授業してたっけ? 何言ってるかさっぱりなんだけど」
 日本語です。
 あと授業中に話しかけないでください。
 ……そんな顔しても、相手しませんからね。
「むぅ~!」
 それから十五分くらいは落ち着いていた。先輩も。というか、先輩ほんとに着いていけてなくって、まぁ教科書見せてあげるくらいはしてあげたんだけど、なのに窓の外とか見てて、全然集中してなかった。
 そんなんだから留年とかしちゃうんじゃないですか? って、授業中じゃなきゃ言ってた。
 じゃあ、問3を、高嶋さん──はいっ。やば、急に指されて変な声でた。ていうか、ちょっと笑ってません? 邪魔するなら出てってほしいんですけど!
「……玲奈ちゃん、ファイト。玲奈ちゃんの実力なら、きっと大丈夫だから。それに、」
 急にまじめな顔した先輩が、小さく手招きした。耳を近づける。先輩が、そっと、ささやいた。
「……スベスベ、マンジュウガニ。」
 ぷふっ。
 ……あ、違うんです、先生、ちょっと喉が乾いちゃって、すみません気にしないでください! 吹き出してしまったせいで必死で取り繕ってるのに、先輩は顔を押さえてぷるぷるしてる。めっちゃウケてるし。ああもうっ!
 後ろを振り向かないように気をつけながら黒板に解答を書き終え、ちょっと首を傾げてる先生と視線が合わないようにもしながら、解答に丸がつけられるのを確認して、どうにか自分の席にたどり着いた。
「……すごい! 私、玲奈ちゃんのこと信じてたよ!」
 ゆるんだほっぺたを無言でつねったら、やっと落ち着いてくれた。本当、何しにきたんですかあなたは。
 わたし史上最大のピンチをどうにか切り抜けて、お昼休みが来た。なんか一人相撲してるみたいで居た堪れなくって、そそくさと屋上前に逃げ出した。着いてくる人がいる。わたしが屋上前にたどり着くと、その人は「ねぇねぇ、魔法の言葉、効いたでしょ?! これで玲奈ちゃんも安心だねぇ」とか抜かしたので、得意げな顔にビンタしてやった。
「っ!? ちょっ、手出すのはひどくない!?」
 むしろここまで耐えたわたしすごくないですか!? いい加減にしてください! もう、わたし必死だったのに、先輩が、先輩は……ああぁあ! もう!!
「……ね、大丈夫だったでしょ?」
 そう言って先輩がふわっと笑った。それだけで、わたしは何も言えなくなってしまう。代わりに、いつものため息。幸せ? 逃げちゃえばいいよ、どうせ、いくらでも次のが湧いてくるんだろうから。根拠もないのにそう思えて、うれしくなる自分がちょっと許せなかったりして、とにかく、先輩はずるいなって思った。窓からの陽射しに照らされた先輩が、日陰の方に座ったわたしにはまぶしくって、でも繋がった手から熱が伝ってくるから、こっちまで温かかった。眠たくなるくらいやわらかな光にわたしたちは包まれている。……先輩は、やっぱりずるいよ。
「んふ、ぽやーんって顔してるじゃん。……いろいろあったもんね。ねぇ、こっち来て?」
 先輩がわたしの手をそっと引く、それだけで気の抜けてたわたしの身体は先輩の胸元に倒れてく、ちょっと抵抗しようとしたけどどうでもよかった、だって、やわらかな光があったかくって。
 そのまま先輩はわたしの頭を自分のひざまで誘って、横にしてしまう。さっきと逆だな、なんて考えたりして。先輩の顔、こんな下から見上げても、さらっとしてるの。誰かの声も遠くて、光がさらさら射し込んでて、先輩がわたしの頭を、髪をなでるのに合わせてわたしの呼吸もゆるやかに落ちていく、沈んでいく、そっと、ひざのやわらかい感触とほんのり涼しい風の中でそっと、わたしがほどけていく。
「こうしてると、なんだか昔のこととか思い出しちゃうんだよね……ねぇ、玲奈ちゃん」
 先輩の手の中 溶けていく  心地よく  、声 、世界 、遠のいていく       。しあわせ たぶん、   わたしの しあわせ 
「ふふ、玲奈ちゃんの油断してるとこ、私かわいくて好きだよ?」
        。           、       、       。          、         、             。  、                 。                、                        、                   。
       、         。
「もう、また先輩のひざまくらが恋しくなっちゃった? いいよ、また明日ね?」
         、                。    、  、  。        、            。             。   、                  。
            。  、                    。   、    〝   〟             。
「あーもう今日、私の席ないじゃん! しょうがないか、サボろっ」
                   。                      、                     。                      、                         。
        、       、          。             、                 、                           。
「ほらあ、玲奈ちゃんモテモテじゃーん。ね、言ったでしょ? 今の時代は逆に玲奈ちゃんみたいな真面目な子がかわいい、って」
             、               、〝   〟         、       。           、             。
「久しぶり~、連休どうだった? てか今日、本当に五月? 暑くない?」
                                     、                      。  、               、                  。     。
「やっと梅雨明けたーって思ったらもうこんな暑さだもんね……日本どうなってるの?」
                、                        、                      。                、                 。
「てかもう夏休みだよね、玲奈ちゃんどっか行く? 行きな? ぜったい楽しいよ!」
                                   、                。                      、      「だよね? 玲奈ちゃん天然なんだよね!」       、                          、                             。
                    、              。            、             、             。
     。
                、     、              、         。     。
「え、夏祭り行ってきたんだ!? わぁっ、玲奈ちゃんの浴衣かわいい~! てか、この子って前の席の子だよね? なんか嫉妬しちゃうなあ」
     、         。
        ……                、        。
「……今の私には、玲奈ちゃんたった一人だもんね。そりゃ、妬いちゃうよ。なんてね?」
                                、                  。          、            。
「あぁ……私も夏祭り、行けたらいいのになぁ。はぁーあ」
                、                       、      、          。
「夏が終わったら文化祭かぁ。忙しいね、学生諸君」
                           。          。         。  、          。
「そうだね、玲奈ちゃんと居るといろいろ忘れっぽくなって、いいよね。……てか、玲奈ちゃんのクラス、何するの?」
                  。            、                      。
「きゃあっ! 猫耳メイド喫茶?! そんなの全部盛りじゃんっ、また玲奈ちゃんのファンふえちゃうよ! 私ぜったい当日行くからね? 予約だからね!?」
                    。      、  、                       。          、             。                            。
「ねぇねぇっ、玲奈ちゃんうちの高校の後夜祭はじめてでしょ? みてよ、この花火! すごくない!?」
    、                   、                                。                           、                  。         、          。               、                、               。
「いやぁ、一年てあっという間だったねぇ、もう十二月だよ……てかさ、玲奈ちゃん大学どこ行くんだっけ」
            、         。     、                           、                   。
     、        。
    、    ……          、   。
     、                 ?
「うぇ、私?! えーと、そりゃあまあ、藤堂さんも卒業を視野に入れつつ、いつまでも留年してるわけには行かないらしくって……ちょっ、玲奈ちゃんその目なに!? 先輩のこと信用してないでしょ!」
                    。      、            。
                                      、                  。    、              。                        、                       、          。
         、      、           。             、          。
「えっうそ!? ちょっと玲奈ちゃん変なこと言わないでよぉ」
        。
   、              、                              。『高2女子転落死 遺書見つかる 学校側はいじめを否定』──           、       、                 。
                              、       。      、         、                                      ?      、       、                           ?
    、         、              。                                       、                                     。
 ……                   、                、               。  、           、                、                      。
「玲奈ちゃん、また寝不足? もう、ちゃんと寝なきゃお肌にわるいよー?」
                   、                        、              。         、                      、   、                               。           。  ……
 先輩      本当      視界     揺らいで 、   やわらかな光     変わらず射していて 先輩    あったかくって      桜が咲いてて                       、夢うつつ   、    迷っていた。
「……玲奈ちゃん、おはよう。なんかすっごい寝込んでたね?」
 先輩が笑うから、顔が熱くなる。いつものことなのにどうして慣れないんだろう、わたし。だけど、時は少しずつ、確実に経っていて。
「言い忘れてたけど青のスカーフ、すごい似合ってるよ。玲奈ちゃんも、もう高校三年生なんだね」
 先輩が笑った。まだ、あの赤いスカーフを巻いたままで。変わらない風景。変われない先輩。わたしまでこのままなんじゃないかって、ねぼけた頭でそんな夢をまた見そうになってしまう。
「てか気付いたんだけど、もう玲奈ちゃんの方が先輩じゃんね?!」
 そうですよ。どうしてくれるんですか。
「玲奈せんぱぁい! パン買ってきてくださいよお! ランチパックの玉子のやつ!」
 それ、言うとしたら普通は逆ですよね?!
 まったく、後輩(?)になってもやってることが変わらない先輩(?)だった。というかわたし、先輩っぽく振る舞うの慣れてない。部活も中学の時のあれですぐやめちゃったし、後輩なんていなかったから。
 だから、もしわたしに後輩がいたらそんな感じなのかな? なんて思ったりして。
「もしもーし? 玲奈パイセン? かわいい後輩がお腹すかせて待ってますよー?」
 いや、本当の後輩はこういうんじゃないはずだ。たぶん。
 というか、わたしにとって先輩は先輩なんです。わたしだって、先輩って存在はたった一人なんです。だから先輩は先輩でいてくださいよ。あんまり追い抜きたくないんです、なんとなく。
「そうなの? んふっ、言っても私、先輩じゃなくたってお姉ちゃんだもんねぇ?」
 それは知りませんけど。
 そんなやり取りを無限にしてるうちに昼休憩が終わってしまって、今日は空いてる席がないから先輩もいなくて、だけどたまに校庭とかふらついてたりするからついつい窓の外を見ちゃう。季節は一周回ってきて、今年の桜もとっくに散ってて、教室の中ではみんな志望校に向けて赤本とかとにらめっこしてて、わたしだけまだふわふわ浮いているみたいだった。どこにでも行けるだなんて、塾の吉田先生どころか担任の先生にも言われたけど、行った場所に居られるかなって、そもそも他に行きたい場所なんてあるのかなって、現実感がなかった。
 あ。校庭の桜の木の根元のとこ。先輩、みつけた。
 ……って、そんなことしてる場合じゃないのにな。
「ふふふ、高嶋さんも先輩を見習ってサボり癖がついてきたみたいだねえ」
 放課後、よそ見をしてたわたしに先輩がさっそく食いついてきた。先輩がちらちら気が散るとこに居るからいけないんですよ。しかもたまに居なかったりするし。
「えぇ~そんな私のこと気になるんだ~? もしかして玲奈ちゃん、私のこと……きゃーっ」
 そんなことより先輩聞いてください。進路調査票、提出日が来週なんですけど。先輩だったら何て書きます? というか、先輩代わりに書きません?
 冗談のつもりで先輩に名前しか書いてない進路調査票を渡してみたら、珍しく困ったみたいに笑うので、そっと取り戻す。あの、すみません。自分で考えることですよね。
「うーん……私はさ、ほら、ずっとこの高校でのんびり過ごしてると思うし。だって、ねぇ?」
 目を細める先輩に、わたしは何も言えなくなってしまう。先輩のそばにいてあげたいなって思ってしまうけど、それが叶わないことだっていうのも、頭では分かっていて。
 だから、せめて、この一瞬……いや、永遠を嘘でも信じさせてほしくなったの。
 季節は流れていく。ずっと膨らんでいった心の奥が、夏休みが来る頃には、抱えきれなくなっていた。放課後、離れるのがつらかった。下校時刻を先延ばしにして、少しでも同じ時間を過ごそうとした。友達はできたはず、引退前の最後の大会に向けて練習してる子が、ただただ屋上前でくだらない時間をつぶしてるわたしなんかに付き合って駅まで一緒に歩いてくれたりした。そのせいか、ホームで別れると、よけいにあの人の姿がまざまざと浮かんできて、夕焼けの逆光が強すぎるせいかな、意味もなく泣けてきちゃう時さえあった。そういう話、あの人に伝えたら重たいって思われるに決まってるのに。
 でも、伝えたかった。あなたはわたしの中でいっぱいになってて、ちゃんと生きてるんだってことを。
 夏休み前の最後の放課後、いつもの屋上前で、わたしは先輩をつかまえて、言った。言おうとした。袖のはしっこつかんで、遥香先輩をこっちに向かせて、わたしは、わたしは、心の奥を伝えようとした。そうしようとしたの。
「……ごめんね。勘違いだったら笑ってほしいんだけど、たぶん、私、ごめんねって言うと思う」
 言おうとしていた言葉を奪われて、わたしは何もできなくなってしまう。けれども体の奥の熱はふくらむ一方で、外に訴えることもできなくって、あふれ出たものが涙になって世界を溶かした。ぐちゃぐちゃになっていく中で、こんなはずじゃなかったのに、かろうじて言葉にする。
 でも、せんぱいのことが、好きなんです。わたし、せんぱいと、ずっといっしょが、いい。
「……ごめん。無理だよ」
 何が無理だっていうんですか。わたしのこと、めちゃくちゃにしておいて、人生を変えておいて、今更なんて、そんなの、わたしが無理です。わたしの居場所はあなたがくれたんです。だから、今度は、わたしがあなたの、

「無理なの。だって、見てわかるでしょ? 私、死んでるんだよ?! 身体だって透けてる、ただの地縛霊なんだから──」

 そんなの最初から分かってます!
 結ばれないどころか関わるべきじゃないってこと、最初からわかってました。だけど、どうしても、わたしにはあなたが必要になっちゃったんです。あなたは、わたしの中では生きているんです。
「……玲奈ちゃん。ごめんなさい、分かって。私はもうこの世にいないの」
 いますよ、ここにいる、ちゃんとこうやって抱きしめることだってできるじゃないですか!
 もうわたしはだめだった、すがりついて、先輩の腕の中で泣きじゃくって、ぼろぼろになっていった、先輩はわたしをゆるしてくれる、でも、恋人にはなってくれなくって。まるで先輩自身が先輩のことゆるしてないみたいで、それが余計にきりきりと痛んで。
 どうして、こんなふうになっちゃったんだろう。見下ろした先輩の足首が透けて見えないことくらい、初めて出会った時から知ってたのに。
「これだけは分かって。気持ちは一緒、うれしかった。でも、普通に考えて、だめでしょう?」
 普通なんて知らない! 先輩が普通じゃない幸せを教えてくれたのに、先輩が普通からわたしのこと救ってくれたのに、今更そんなの盾にとらないでください。十年前のニュースの記事だって読みました。そしてそれが実は間違ってたってことまで、わたし、知ってるんです。
 先輩は自殺なんかしてない。
 先輩は確かに間違えたかもしれないけど、わたしは先輩の方に立ちたい。
 なのに、どうして先輩はこの場所で呪われ続けようとしてるんですか! わたし、先輩と一緒に、生きていたいんです!
「……ありがとう。嬉しかったけど、……ううん。暗くなってきちゃったから、また今度、ね?」
 そう言って先輩はわたしの身体をそっと引き剥がした。先輩の目も赤い気がした、向こう側の夕陽の光と混ざってよくわからなかったけど。
 ふたりで階段を降りて、もう薄暗くなった廊下を抜けて、もう人の少ない校舎を後にした。校門の前で先輩がひらひらと手を振る、風に揺れるスカート、その先の足首は透けたままもう見えない。長い影が校庭に植えられた木から伸びているのに、先輩の足元に影はない。先輩から手を離すと、とたんに手のひらがつめたく感じて、七月も後半だというのに震えてしまいそうだった。そのまま倒れてしまえればいいのにって、夢の中でなら先輩とずっといられるのにって、思うとまた目の奥が熱くなってしまうから、なんでもないように、明日また会えるかのように決め込んで駅までの道を踏み出した。頭の中は先輩のことしかなくって、なのにこの手のひらは空っぽで、足を進める間隔に合わせて止まってたはずの涙がみるみるこぼれ出して、駅前通りの交差点の先、横断歩道の手前でうずくまってしまいそうだった。でも、立っているしかない。だって今のわたしに、支えるものなんて何もなかったから。
 どうせ失うのなら、手のひらなんて繋がなければよかった。目に刺さる信号の赤にたまらなくなりそうな中で、ああ、デジャヴだ、って感じて、いつのことだろって考えてくと、……そうだ、高校一年の十一月だった。

 文化祭が終わって冬に入る手前、その頃にはもうわたしは教室に居られなくなっていたから、どこか逃げる先をずっと探してた。トイレにこもってたら、騒ぐ声が聞こえたりして、耳をふさいで持ってきたイヤホンで適当なボカロの曲とか聞いて、途切れるごとに差し込まれる生身の人間のノイズが苦しくって、消えてよ、消えたい、消えよう、って唱え続けてた。
 でも世界もわたしの身体も消えてくれなかった。わたしはわたしを引きずって、大丈夫の振りが全然できないまま、どこか遠く、静かなところを目指して、校舎の奥の階段を登った。偶然、普段は閉まってるはずの扉が開いていた。何かの授業とかで屋上を使ったまま閉め忘れてたんだと思う、知らないけど。とにかくわたしは息ができなかったから、はやく楽になりたい、溶けて消えたいって思いながら扉を開けた。
 空、おぼえてる。十一月の乾いた風と、うんざりするくらい晴れた空、わたしの居場所なんて焼き尽くすくらい、光がまぶしくって。
 もう、いいよ。
 ごめんなさい。わたしは、無理でした。
 頭の中でぐるぐる唱えながら、ぼうっとしたまま、ここから飛んで楽になろうって、都合よく溶けてしまおうって、それだけ考えて身体を進めた、手すりをつかんだ、こういう時って靴をそろえるんだっけ、どうでもいいか、でもなんかやだな、わたしの残りが散らかってるのはやだな、きれいに消えよう、って足元に手を伸ばした、その時。
「──痛いよ?」
 ひ、って後ずさる、われに返る、急に人の声がしてパニクる、どうしよう、見られた、ちがうんです、そんなんじゃなくって、息が詰まる、目を伏せる、屋上の床の先、避雷針の影が突き刺した先、揺れるスカート、……なのに、その先の足は、無かった。
 ──っ!?
「あ、危ないって! 落ちると痛いからね?! めっちゃ痛いっていうか死ぬほどっていうか実際死ぬんだけど、とにかくこっちに来てってば!! 危ないからっ!」
 動けないわたしをその透明な手がつかむ、やだ、こわい、にげる、引きずられそうになってバランス崩して肩がコンクリートにぶつかる、いたい、痛みが染みてく、なのにそのなんだかよくわからない透明人間が離してくれなくって、やだ、たすけて、死んじゃう──
「そうだよ?! 死ぬと、死んじゃうんだからね!?」
 わたしを両腕で押し倒した透明人間が、なんかすごい必死な顔でこっちをまっすぐ見てた。黒い瞳も白い頬も透けていて、その中で飛行機雲が伸びていく。強い風、目を細める、先輩の前髪がゆれる、その唇がなにかいう、言った、でも聞いてる場合じゃなかった。
 あの、あなた、……なんですか。
 透明人間に組み伏せられて、さっきまで唱えてた地獄みたいな考えとかが全部真っ白に吹っ飛んで、わたしはなぜか、今更恥ずかしくなってきた。なんだろ、この状況、って。
「えっ……なに、っていうか、学生です、いや、でした? 過去形……いや待って、私別に退学はしてないから! ちゃんと高校二年生だし、今も!」
 あ、じゃあ先輩なんだ。
 最初にそう思って、ちょっと安心したけど冷静に考えたら得体の知れないモンスターみたいなのに押さえつけられてやばすぎる状況だった。
「あ、私は藤堂遥香ね! 藤くん、じゃなかった藤原氏の藤に平等院鳳凰堂の堂で藤堂、あと遥香アジカンの遥か彼方の──んぎっ?!」
 脇腹蹴っ飛ばしてたら落ちてきた先輩の身体から逃れてなんとか体勢を立て直す。やばい。死ぬとか消えるとかそういう問題じゃない。とにかく逃げなきゃ。わたしは飛び出す、足がもつれる、膝にコンクリがぶつかる、痛い、それでも逃げなきゃ、ああ、うごけ、動けわたしの身体、逃げなくちゃ、
「ったあ……死んでもこんな目に遭うなんて今日ついてないな……あっそうだ、きみ、名前は? あと好きなバンドとかある?」
 知りません! わたしボカロしか聞かないです!
 そう叫んで屋上からどうにか逃げ出した。そんな風にして、わたしは遥香先輩に出会ってしまった。
 次の週までわたしは耐えた。なにに耐えてたのかはわからない。けど、授業中もあの謎の先輩のことばかり思い出してしまって、休み時間も廊下の端っことか体育倉庫の近くとか変なとこに隠れるようにして過ごしてたから、屋上ドア前の人の居なさがありがたそうで、だけどまたあんな心霊現象(?)に出くわしたらどうしようもないから、誰かに言っても絶対伝わんない自信あったから、ずっと耐えてた。なにかに。
「あ、こないだの! 残念でしたぁ、今日は屋上入れないもんね!」
 違いますよ。って普通に言ってしまう。相変わらず、身体は透けてる。今日は雨だったから外で過ごせなくて逃げてきただけ。別に先輩の幽霊とか関係ない。言い聞かせながら、むしろ堂々としてやろうって思ってわざとお弁当を開いてやった。そしたら先輩が「なにこれかわいい~! タコさんウィンナー久しぶりに見たかも! ねぇひとくち、」って指を伸ばしてきたので先に食べてやった。ちょっと悲しそうに眉を下げた顔、なぜかおかしくって、でも笑うとか負けだから黙ってた。なんで変な意地張ってたんだろ、あの時。
「玲奈ちゃん、って言うんだ。かわいい名前だね」
 そんなこと言われたことなかった。曇りひとつなく、ふわぁって笑った先輩に、なぜか息がしづらくなってしまう。だけどそれはいつもの教室でのあれと違って、どこか切なくなるくらいあったかくって。
 とりあえず、ここに居ようって決めた。先輩なんてどうせ成仏とかして自然と消えちゃうだろうからって言い聞かせて、いつの間にか晴れ始めていた午後十二時の明かりを階段の窓から感じながら、先輩が消えるまでここに居座ってやろうって勝手に決めたんだった。
「玲奈ちゃんなに聞いてるのー? ……うわ、こんなの歌えないでしょ! いやぁ、さすがボカロって感じだね」
 あれ、いつだっけ、先輩がイヤホン片耳奪って勝手に聴いてくるから、先輩の嫌がりそうな早口の曲とか流してやったのに、普通に面白がってて負けた感じがしたやつ。バンドとか好きな人ってボカロを毛嫌いしてるイメージだったから、先輩は珍しいなって思った。じゃあ何なら嫌がるかなってプレイリスト作って挑んで、わたしの負けだった。むかついたから音量マックスにしてびっくりさせてやったけど全然勝った気がしなくて、その時作ったプレイリストを見るたび、先輩の顔が浮かんできた。やわらかな幻覚みたいにまとわりつく先輩のイメージはスキップできなくて、わたしはとっくに使い終わったプレイリストも消せずに残していた。今だって、二年前のが残ってる。
 先輩はほっといてほしくてもずっとわたしの隣に来て、ぐりぐり近づいていった。学校でわたしのこと呼んでくれるの先輩だけだったから、だんだんわたしも、先輩は雑にしてもいいんだって、許してくれるからって、雑になっていった。さっさと嫌えばいい、今までみたいに。そう思ってたのに、先輩は全部受け止めて、いや、聞き流してくれてた。それはわたしが授業に出られるようになって、友達もできて、一緒に夏祭りに行ったり文化祭をリベンジしたりしてからも、なぜかずっと続いてしまった。
 先輩の死の記事を知ったのは、二年生だった時の一月、今年の最初の登校日だった。
 先輩の姿はなぜかわたしにしか見えない。なのに先輩はわたしが友達と居る時でも平気で話しかけてくるから、反応するせいで、わたしは見えないものに反応する変な人って扱いにされてた。もうめんどくさくって霊感あるってことにしたら、新年明けの登校日、友達がこの学校に〝出る〟っていう幽霊のうわさを聞かせてくれたんだった。
 それは保健室のベッドが動いてるとか、軽音部のベースが勝手に倒れただとか、購買のスイーツが減ってたとか、犯人の顔を知ってるとため息しか出てこないような内容だったけど、最後にその子から証拠として見せられたネットの記事には、先輩がいじめを苦にして遺書を残して自殺したってことが書かれていた。
 あの、生きてる誰よりも明るい先輩の死因が飛び降り自殺だったなんて、最初受け入れられなかった。先輩は「昔のことは覚えてないんだよね」ってごまかすから、それに、当時の辛いこととかを思い出させたくなかったから、わたしはそれ以上何も言えなかった。
 その後、二月ごろ、わたしがインフルにかかって久しぶりに一週間休んだ後で、塾に行ったら吉田先生に心配されてしまっていた。今日は本調子じゃないはずだからって宿題まで減らされそうになって、大丈夫ですってわたしから止めたりもしたんだった。吉田先生はわたしが学校でうまくいってなかったことも知っていて、最近は元気そうで安心していたなんて語りながら、今更ながら昔話を聞かせてくれた。
 ──私、高嶋さんの先輩だったって話したでしょう? 実はね、私もその頃、いじめがあって、学校に通えなくなってたの。
 先生は、あの学校だから心配だったと明かした。いじめを受けていても守ってくれなかったから。結局、人が亡くなるまで誰も動かなかったんだから──吉田先生が珍しく、冷たい声でこぼした言葉がわたしの頭の中で繋がった時、思わず声を出してしまった。
 先生。ひとつ、聞いていいですか。
 藤堂遥香さん、って生徒のこと、先生はご存知ですか。
 そんなわたしの発言で、時が止まった。近くの教室の生徒たちはもう帰っていて、二人きりだったのが幸いだった。とっさに、言わなきゃよかった、と思ったけど止められなかった。先輩のこと、知りたかったから。
 ──はるちゃんのこと、誰かから聞いたの?
 さすがに言葉に詰まった、だって、信じてもらえるだなんて思えなかったから。でも、先生の真剣な眼差しに向かって言える嘘なんてなくって、騙し続けて嘘を抱え続けるよりも本当のことを言って関係が終わる方が誠実なんだってその時勝手に思ってしまったせいで、わたしは先輩のことを話してしまう。わたし、先輩本人と会ったんです。幽霊になった先輩と。先輩は、屋上から飛び降りて死のうと決めてたわたしを止めてくれたんです。
 ──そんなの、まるで、はるちゃんみたいじゃない……本当にはるちゃんだったの?
 なぜかは分からなかったけど、先生はわたしの話を聞き続けてくれた。先輩がいつもそばにいてくれたこと。お昼休みに屋上で過ごしていること。お弁当を狙ってきてめんどいってこと。わたしの聞いてる曲を勝手に聞こうとしてくること。距離感がバグってて人のふところにちゃっかり入ってくるくせになんでかあったかくて、ずるいとこ。わたしを救ってくれたこと。
 ──ねぇ、高嶋さん。はるちゃんのこと、もっと聞かせて。私もその話、信じてみたくなったから。
 吉田先生がそう言ってくれた。それからわたしは調子に乗ってどうでもいい話まで話してしまって、気づいたら塾が終わる時間を過ぎてて塾長が様子を見にきたから慌てて帰り支度をしたんだった。でも、その日のうちに全部知ってしまった。吉田先生は遥香先輩の親友だったこと。当時高校二年生だった吉田先生はクラスでいじめを受けていたこと。そして、遥香先輩は吉田先生が自殺しようとしたのを止めようとして事故で亡くなったという話まで。

 信号が青になって、駅へと向かうバスがわたしの後ろから通り過ぎていく。誰かがわたしのカバンにぶつかって、ぼんやりしてた意識が戻ってくる。先輩に最初に遭遇した帰り道もこう、嫌になるくらい晴れてて、夕陽が目に痛いくらいまぶしくて、早く家に帰って全部忘れようって信号待ちがもどかしかったんだった。それが今では、先輩の存在がわたしの記憶から消えてくことさえ怖くなっていた。どうしても手元に繋ぎ止めたくて告白までしたけど、先輩はついに受け止めてくれなかった。先輩は、自分がどこにも行けないと諦めている。
 もしかしたら、吉田先生なら、先輩の気持ちを変えられるかもしれない。この際、わたしの方に振り向かなくたってよかった、でも先輩にあんな寂しい笑い方はしてほしくなかった。
 次の登校日には、答えを見つけないといけない。青信号が点滅してる。わたしは慌てて横断歩道を抜けて、駅前の塾へと急いだ。

「先輩。今からわたしとデートしてください」
 八月の登校日。クラスの友達がみんな帰って行った後で、わたしは屋上の入り口に座り込む遥香先輩に向かってそう切り出した。
「えっ、いやいやいや、だって私、外に出れないじゃん?!」
 案の定そう言ってきた先輩の手を取って、まずはトイレに連れて行く。よかった。ちょうど誰もいない。「えっ、ちょっ、そういうのはちゃんとお付き合いしてから──」違います。静かにしてください。……では先輩、個室に入って今着てる制服を全部脱いでください。
「やっぱりそういうんじゃん?!」
 違いますってば!
 わたしだってこんな場所で変なことしたくないんですよ?!
「うぅ……わかった、わかったけど、それで服を脱いだらどうするの? そういうプレイとか?」
 時間がないので無視。続ける。……わたしも脱ぐので、そしたら隣の個室に制服投げますから、先輩はわたしの服を着てください。
「は?! 玲奈ちゃん、意外とやばい趣味してるんだね?!」
 違いますから早くしてください人が来ちゃいますから! それだけ言い残してさっさと個室に入る。少しして、隣の個室が閉まる音。
「玲奈ちゃん、私のだとサイズ合わないかもだけど大丈夫? ていうかさぁ、玲奈ちゃんじゃなかったらセクハラだよ……?」
 いつもよりちょっと弱めな声に胸の奥がきゅってするけど気にしないようにする。サイズは……まぁ、うちの制服ならちょっとくらい大丈夫なはず。閉じた便器のふたの上に持ってきたカバンを置いて、わたしもさっさと制服を脱いでく。あ、スカーフ……まあいいか。先生に見つかったら忘れ物したって言おう。
「いい? いくよー?」
 隣も準備できたみたい。まずはわたしの制服を隣に送る。「あっ、ちょっ、トイレの中入っちゃうっ、」
 閉じといてくださいよ?! わかるでしょう!?
「ぎりぎりキャッチしたから入ってない! じゃあ次、玲奈ちゃん行くね! えいっ」
 隣の壁から落ちてきたのは、ほんのり赤いレースの入ったブラと、同じ色のショーツ。……いやいやいや!? そこまで脱げってわたし言ってないですよ!? 何してるんですか!?
「うそ?! 早く言ってよ~! ああもうっ返してっ!!」
 まだ熱が残ってる下着を慌てて隣に押しやる。ていうか、今の、サイズおっきくない……? ああっもう、変なこと考えてる場合じゃないのに!
 壁に頭を打ちつけて無理やり頭を冷やしたりしてるうちに、ようやく制服の上下だけがこっちに来た。さっきの衝撃で変な汗かいちゃったから先輩のを着直すのはちょっと嫌だったけど、でもたぶんそうするしかない。先輩のためなんだ。そう言い聞かせる。「玲奈ちゃん、やっぱりこの制服きついんだけど……」我慢してください。
 二人とも着替え終わった頃には十数年経ってた気がした。なんかもう、死ぬかと思った。いまわたしが着てるのは先輩の制服で、代わりに先輩の胸元には青のスカーフが結ばれている。同級生だ、って一瞬思ってうれしくなっちゃう自分、ちょっと単純すぎると思う。
「ええと……玲奈さん? 私、変じゃないかな……?」
 言われて我にかえる。そうだった、大事なこと、確かめなきゃ。先輩の手を引いて洗面所の前に連れて行く。ちょっと自分の手汗とか気にしちゃうけどすぐ忘れる。……やっぱり。思った通りだった。
 先輩が着たわたしの制服は、先輩と一緒に透けていって、鏡にはわたしとわたしが着てる先輩の制服しか映っていなかった。
「……え、どういうこと? 玲奈ちゃん、これ実験したかったの?」
 そうですけど、それだけじゃないです。とは答えたけど、自分の目で見てもちょっと信じられなかった。まぁ、見えない先輩と一年以上やり取りしてきて今更ではあるんだけど。
 先輩。このまま、ちょっと外に出てみましょうよ。
 わたしは心の中で手を合わせてお祈りしながら、まだぼんやりしてる先輩を引き連れて外に出た。……あ、靴は大丈夫かな。まぁ最悪、ダイソーで買ったスリッパで我慢してもらうしかない。
「玲奈ちゃん、前も試したでしょ? 私はこの学校の地縛霊なんだから、ここから出られっこないって、」
 まだ心配そうに言ってる先輩を引き連れて、わたしは門の方へ向かう。いける、たぶん大丈夫。祈りながら先輩の手を引っぱる。敷地の境界線が近づいてくる。
 わたしには勝算があった。七月の最終登校日の後、吉田先生と話して、どうにかして遥香先輩と先生とを引き合わせる必要があるって考えた。でも先輩は学校から出られない。だから文化祭の一般入場までチャンスがない。……本当に?
 思い出したのは、去年の四月ごろ、教室から逃げ出した帰りに先輩に髪を整えてもらったあの日のこと。あの時、たしかわたしは学校の外に立っていた、はず。先輩は実はぎりぎり内側だったかもしれないけど、ひょっとすると不可能じゃないのかもしれないって思いつく。そういえばその日の夜、先輩のいたずらで前髪にかわいい髪留めを付けられてたんだった。次の日返しに行ったら、要らないって言われてずっと家の引き出しにしまってあった。要するに、わたしは先輩の私物を学校の外へ持ち出すことができる。なんでこんな大事なこと忘れてたんだろう。だって、そしたら──数学の証明問題みたいにして、ひとつの仮説が浮かんでくる。
 もし、わたしの全身が先輩の私物だったら?
 いや、逆にいっそ、先輩の全身がわたしの私物で覆われてるとしたら?
 仮説の答えは、もう目の前にあった。

「うそ──?! 待って、玲奈ちゃん、私、学校の外にいる!! なんで?! どうなってるの!?」

 先輩が校門のレールをぴょんぴょんと飛び越えては戻りながら、興奮した様子でわたしに呼びかける。先輩のテンションが爆上がりなせいか、わたしはむしろ落ち着いていた。それはまるで化学の先生の指示に従った通りの手順で、リトマス試験紙を思い通りに染めた時と似ている。驚きよりも安心感の方が強い気がした。……ほんとはちょっと、こぶしを握ってガッツポーズしちゃったけど。
「玲奈ちゃん天才じゃない?! 私、十年ぶりに外に出れた!」
 飛びついて抱きしめてくれたせいでわたしたちはバランス崩して倒れそうになっちゃうけど横の電柱につかまってなんとか耐える。いけないいけない。そうは言っても周りからはわたし一人しか見えないんだから、変な行動は慎まないといけない。それに、本番はこっからなんだから。
「いやあ、十年後ってこんな感じなんだぁ……変わんないなあっ! ね?!」
 わたしが一人で覚悟とか決めてる横で先輩のテンションは爆あがりで、さっきまでわたしに引きずられるくらいグダってたのに今じゃ先輩に手を引っ張られて、あっ、先輩まだ信号赤ですよ?!
「あはははっ! ごめんごめん、ってか玲奈ちゃん聞いて!? こないだ言ってた私のハマってたバンドのCD、駅前のTSUTAYAさんで借りたんだけどね? あーそうだじゃあ玲奈ちゃんのオススメのボカロとかも聞かせて──」
 信号が青になる。自転車が先輩とぶつかりそうになって手を引く、もう、危ないなあ……。というか先輩にぶつかったらどうなるんだろう。先輩はものを動かせたり逆に触れなかったりするから、それってどんなルールなのか今度また実験して……って、今日はそういうんじゃないんだってば!
「え……閉店したの? 私のオアシス……小学生の時からあったのに……」
 ようやく駅に辿り着くと、今更TSUTAYAの閉店を知った先輩が目に見えてしょんぼりと肩を落としてた。先輩、いまはサブスクの時代だって言ったでしょ。みんなスマホのユーチューブとかで聴いてます。わたしはニコニコのアプリも入れてますけど。正直、CDの時代じゃないです。
「……時代の流れって、ちょっとさみしいね」
 思ったより落ち込む先輩に、ちょっと反省する。イヤホンを片耳貸してあげる。いよわさんとか知らない先輩でも分かる、ちょっと古い曲。アスノヨゾラ哨戒班って、何年前だったっけ?
「あっ、ヨーカドーはまだあるんだ! ここだよ、私がバイトしてたとこ!」
 先輩が指差す。「私こっから自転車で10分くらいのマンションに住んでてね、東近隣公園って言ってわかる? 川が流れてて、春は桜がとってもきれいなんだよ」
 ただの通り道でしかなかった駅前の風景が、先輩の思い出話であざやかに色づいていく。先輩の学生生活が知りたくなった。きっと、わたしと違ってたくさん友達がいて、誰とも仲良くなって、そうだ、カラオケ舘に行ってたって言ってたな、先輩またバンド系歌ってたのかな。想像するだけで、今までただ通り過ぎるだけだった街が輝いていくけど、そろそろ行かなくちゃいけなかった。わたしは先輩の指差したイトーヨーカドーに入って、三階に入ってるセリアの前の多目的トイレを目指す。
「またトイレ? 玲奈ちゃん、近いの?」
 違います。ため息をついてから、気持ちを切り替えて先輩に尋ねる。遥香先輩、今日って例の夏祭りの日なんですよ。わたし、先輩の分も浴衣もってきたんです。一緒に、行ってくれますか?
「うそ?! 玲奈ちゃん最高! もちろんだよっ、ねぇ早くみせてみせて!」
 多目的トイレの壁ぎわに置いたカバンから畳んでた浴衣を取り出す。よかった、あんまりしわになってない。荷物をぎりぎりまで減らした甲斐があった。わたしは赤ちゃん用のベッドに浴衣を載せて、先輩もどうぞ、あとこっちみないでくださいねって言いつけてから着替え始めた。
「玲奈ちゃん、それ、チュチュアンナ? かわいい~! 私のサイズあんまりかわいいのないから玲奈ちゃ──ふみゅっ!?」
 脱いでた制服を思わず顔面に投げつけた。すいません、でも今のは先輩がわるいです。なんなんだこの人。
「ごめんってばぁ……あ、玲奈ちゃん待って。浴衣の帯、結んだげる」
 わたしたちはお互いに帯を結んで、トイレの鏡で前髪を整えた。先輩はわたしの目には完璧で、せっかくだからと言って後ろでくくった髪からのぞいた首の線に、ぼんやり見とれてしまう。トイレから出た後、駅のコインロッカーに荷物を預けて、熱気と音楽が流れてくる方に二人で向かった。夕陽がそろそろマンションの隙間に吸い込まれそうで、青い夜が空を染めていくところだった。
「はい、チーズ! ……あはは、やっぱだめだったね」
 身体を寄せ合ってスマホで自撮りしたけど、写ってたのはわたし一人で、でもそれもなんだかワクワクしてきてしまう。先輩との秘密、またひとつ増えちゃった。
 人混みの中を、手を握って抜けていく。焼きそば、イカ焼き、わたがし、金魚すくい。どれも先輩が買ったり食べたりしたら大騒ぎになっちゃうから、わたしが買って、タイミングを見計らって先輩の口に近づけたりした。なんだか秘密のゲームみたいでドキドキする。先輩との秘密の思い出が、一歩ずつ増えていく。──あ、せんぱい、電球ソーダ勝手に飲まないでください。
「ふふっ、これって間接ちゅーじゃない?」
 っ……一瞬、置いて帰った方がいいかなって思ったりもするけど。
「てかさ、玲奈ちゃん、逆にこの身体利用して手品とかできないかな? そのりんご飴、私が取ったら消えちゃうってことでしょ? お金取れるんじゃないかな!」
 大騒ぎになるのでやめてください。
 なんてこと言ってる間に勝手にりんご飴食べられちゃったりして、スマホの着信に気付いた時にはもう八時前だった。ラインの新着、1件。……ちょっとだけ、もうちょっとだけ先輩と居られたらよかったなって。言えないけど。
 ──ねぇ、先輩。最後にちょっと、行きたいところがあるので来てもらっていいですか?
「うん、楽しみ!」
 わたしたちはお祭りの騒がしい空気から外れて、近くの公園を目指した。祭りの灯りは遠く、さらに公園の電灯でぼやけてしまって、なまぬるい風が吹く中でも肌寒く感じるくらい、少し心もとなく思えてしまう。手を握る。握り返してくれる。それだけが、わたしの頼りになっていた。
 夜の八時ちょうど過ぎ。
 虫の声がかすかに響くなかで、授業を早く終わらせてきたという、その人はもう待っていた。隣の先輩が思わず固まる。
「えっ……うそ、待って……まさか、ゆみちゃんなの?!」
 吉田裕美子先生がわたしにだけ手を振る。電灯に照らされて伸びる影も、わたしと先生の二人分だけだった。
「うわぁ……でも雰囲気とか、言われてみたら変わらないかも? わあぁ、ほんとに十年経ったんだねぇ……」
 先輩は吉田先生の近くに行って顔や姿かたちをじろじろ眺めてる。失礼ですよ。
 ──そこに、はるちゃんがいるってことね?
 そんな先輩のことなんて見えない先生は、わたしの方をまっすぐ見て尋ねる。……先輩、ちょっと邪魔です。
「あは、ごめんごめん! だって十年ぶりだったから、」
 先輩の後ろで困ったような顔の先生。こうしていてもしょうがないのでわたしが話を進める。あの、吉田先生。なにか、先輩と先生にしか分からないことってないですか? ここで先輩に答えてもらえば、先輩が実在してるって証明になると思うんです。
「お、いいねえ。なんでも聞きたまえ!」
 だから先輩、そこだと邪魔ですってば。
 吉田先生は口元に手を当てて少し悩むと、こんな質問をした。──じゃあ、高校一年の春かな、私たちがはじめてカラオケに行った時、私が何を歌ったか覚えてる?
 わたしも先輩の言葉を待つ。先輩の言葉はわたしが伝えなければならない。わたしが先輩の存在を証明しなければならない。
「うーん…………あぁああ、なんだったっけ、ええと、ううん……」
 わたしたちを照らす電灯のひとつが、ときどき弱々しく点滅したりしている。生ぬるい風が吹いてきて、しばらくすると止んでしまう。わたしは先輩の答えを待った。いつの間にか握りしめてた手のひらが汗でにじむ。
「──ごめん、今のパスで。次の問題をどうぞ!」
 ダメじゃないですか!?
 思わず声を上げてしまい、吉田先生が驚いてしまう。いや、ちがうんです、だめなのは先輩の方でして、「いや、だって十年前のこと覚えてる方がやばくない?! なんかこうヒントとかないの?!」ヒントで解いたら存在証明にならないじゃないですか! ……なんてことを言い合っていると、先生がなにか察したみたいに、苦笑いをしはじめる。……すみません、先輩、十年経ってもこういう人みたいなんです。
「あっ、──ああ、そうだ! あれだよね、駅前のカラ館でしょ、私がDAMのままでいいって思ってたらジョイサウンドにしようってゆみちゃん言ってくれて、……そうだ!」
 ようやく思い至ったらしい先輩から曲名を聞き出し、わたしは吉田先生に尋ねる。……えっと、インディゴの、『瞳に映らない』……で、合ってますか?
 どこか遠くを見つめていた先生は、わたしに向き直ると答えて言った。──うん、そうだったはず。懐かしいな、十年も前のことだもんね……わたしは思わずこぶしを握りしめる。よかった、先輩のこと信じてくれた! 胸の奥がどうしても高鳴って、隣の先輩のドヤ顔がちらつかなかったらうっかり感動してしまうとこだった。
「ね、言ったでしょ? 私こういうのは結構覚えてる方なんだよねぇ、ライブ行ってもセトリとか記憶できてた方だし? ふふん」
 それはともかく、吉田先生、先輩がここに居るってことは分かりましたよね?
「玲奈ちゃんまで無視しないでよ?!」
 いや、だって先輩の相手してると話が進まないんで。
 すると吉田先生は、ふっと微笑んだ。ほら、先輩が変なことばっか言うから。そう言うと先生は、違うの、そうじゃなくって、と否定した。
 ──だって、瞳に映らない、って、まさに今のはるちゃんのことだなあ、って思っちゃって。
「あは、言われてみれば! そりゃそうだよね、私も瞳に映らないんだ」
 わたしだけ話についていけない。そういう曲なんですか? というか、どういう曲なんですか?
「あ、えっとね、バンドの正式名称は『indigo la End』って言って、あのゲスの極み乙女。のボーカルの人がボーカルやってるバンドで、『瞳に映らない』はメジャーデビューして最初のシングルでね、」
 すいませんもういいです自分であとで調べますから。
「それ絶対あとで調べないやつじゃん?!」
 わたしは先輩の言葉を無視して続ける。吉田先生、藤堂遥香さんは今もここにいるんです。遥香先輩は今でも先生のその後の人生を心配しています。だから今ここで、遥香先輩に伝えてくれませんか? 先輩のしたことに間違いはなかった、って。もう自分の幸せを優先してもいいんだって。
「……ちがう、玲奈ちゃん違うよ、私はゆみちゃんの人生に重荷をね、」
 すると吉田先生が語りはじめた。あのね、高嶋さん聞いて。はるちゃんは、高嶋さんの言うような子じゃなかったの。「えっ、ちょっ、」遠くの月明かりが薄い雲に隠される手前、吉田先生はほほえみながらも話を続けてくれる。
 高校に入学したばかりの時、はるちゃんと同じクラスになってね。その時のはるちゃんは大人しくて静かな子でね、四月の自己紹介の時なんて、リスみたいにおどおどしてて、自分の名前もうまく言えないくらいだったの。はるちゃんのそんな姿、高嶋さんには想像つかないでしょう? でも、教室の壁に張り出してあった自己紹介ではるちゃんが私と同じバンドが好きって知って、それで私から声をかけたの。そしたらはるちゃん、すっごく語ってくれて、次の日にはそのバンドの初回限定盤まで持ってきてくれてね。それからかな、一緒にカラオケ行ったりしたの。
「あっ、あぁああっ、ゆみちゃぁん……! あの頃の話はナシだってぇ!!」
 黒歴史をバラされた被告人は顔を真っ赤にして証人にすがりついてた。かるく涙目になってるのが見えて、正直ちょっとドキドキしちゃう。だって、かわいくって……ていうか、ずるい! 吉田先生、先輩のそんなとこまで知ってたなんて!
「ぅう……ゆみちゃんのいじわるめぇ……そっちがその気なら私だってゆみちゃんが中学の時に好きだった先生の──」
 先輩がぶつぶつ言ってる中、わたしは吉田先生の遠い眼差しを見てた。そっか、吉田先生にとって先輩は遠い過去の話で、現在進行形で先輩に付き合ってるわたしとは違うんだ。そんな、他人からしたら当たり前のことが、ちょっとどうしようもなく、かなしく思えてきて。思わず手を伸ばしてしまう、先輩の方へ、手のひら、ふれる。指先を軽く握ってくれる。ちゃんとあったかい。先輩は、ちゃんとここにいるのに。
 ──はるちゃんは、きっと私のことを恨んでるんでしょうね。だから、今になって、こんな仕打ちを。
「そんなことないよ!? っていうか、私の方がゆみちゃんのトラウマみたくなっちゃったの後悔してるし! 謝んなきゃいけないのは、私の方だよ……!」
 先輩が必死で訴える、でもその声は届かない。吉田先生には聞こえない。先輩の姿は先生の瞳に映らない。先生はまっすぐ私を見ていた。……あぁ、そうか。なんとなくわかってしまう。
 だからわたしは先輩と違って、吉田先生が続けた言葉に驚かなかった。
 ──高嶋さん、あのね、とっても言いにくいんだけれど、聞いてくれるかな。あなたはきっと、統合失調症の陽性症状が出ていると思うの。だから心療内科とか、しかるべき医療機関にかからないとダメ。先生と約束してくれる?
「……っ!」
 先輩は何も言えずに唇をかんでいた。そのままうつむき、黙ってしまう。でも、それが普通の人の反応なんだろう。先輩の存在は、わたしたちの関係は、きっと公に認められるものではないということ。
 わたしはわかってしまった。先生の言うとおりだ。このままでは、ダメなんだ。わたしたち。
「……そう、だよね。私はもう、この世にいないんだもんね。……ううん、ゆみちゃんは悪くないよ。ゆみちゃんが正しい、やっぱり私は──」
 せんぱい。
 わたしは先輩の手をぐいっと掴んだ。わたしはそれでも、先輩のことを──ちがう、そうじゃないんだってば、このまま先輩と続けたって遥香先輩の存在は、この世の中で認められないんだから。だから、わたしは、
 ──高嶋さん、ごめんなさい。先生ね、まだ昔のことを消化できてないみたい。だから言ってはいけないことを言いそうになってしまうの。
 わかってる。わたしが間違ってたんだ。わたしは先生の心の傷を掘り起こしただけだから、そんなの先輩だって望んでいなかったはず。認めたくないけれど、本当は考えたくなかったけれど、わたしが先輩のためにできることは、たぶんもっと逆のベクトルで。
「玲奈ちゃん、それでもよかったよ、うん。ゆみちゃんにもこうして会えたし、ちゃんと元気だってわかったし、それに今日の事は、私が最初からわかってるべきことでしかないよね、うん、……私がはきちがえてただけだから」
 先輩はくすっと微笑んでそんなことを言うんだ、あぁもう、そんな顔をさせたくて、ここに連れてきたわけじゃなかったのに! 耐えられなくて目の奥が熱くなってくるけど、泣きたいのはきっと先輩の方なんだ。誰も悪くない、けど、それでも。
 言葉を続けたのは先生だった。ごめんなさい、私もね、はるちゃんのこと、信じてみたいって気持ちも、ほんの少しあるの。そんな中途半端な気持ちだから、高嶋さんのことまで傷つけてしまって……吉田先生の途切れ途切れの言葉は、夜の公園の静けさに溶けていってしまう。
 ──私もね、はるちゃんがいたから生きて来れたの。はるちゃんはどう思っているかわからないけれど、高嶋さんに見えているはるちゃんも、はるちゃんのことだから、きっと高嶋さんを守ってくれてたんだと思う。
 だって、私の知ってるはるちゃんもそういう人だったから。
「……そんなことない、全然すごくないよ、だって私、こんななっちゃったし」
 先輩の手がそっと離れて、吉田先生の方へ向かう、そのまま先生の小さな肩を先輩が抱きしめる。いつかわたしにしてくれたみたいに。だけど先生はわたしの方を見つめ続けていた。
 先生は遥香先輩のことなんて気にも留められないまま、別れの挨拶を告げる。
 ──高嶋さん、はるちゃんのお話を聞かせてくれてありがとう。……ごめんね。
 歩み去っていく先生の姿を抱き止めようとする遥香先輩の半透明な腕はすり抜けて、先生はわたしたちを残したまま、お祭りの余韻が残る街の方へ歩いて行ってしまう。かけられる言葉は、わたしにはもうなかった。小さくなっていく先生の背中をただ見つめることしかできない遥香先輩にさえ、手を伸ばすことも許されなくて。
 ずっとどこかで期待していた。先輩とわたしの関係、許してくれる人もきっといるってなんとなく思い込んでた、目を背けてた。先輩のことを知ってる吉田先生だったらわたしが一緒になることを許してくれるはずだって、自ら命を落としてしまうなんていう、そんなあまりにひどい結末のせいで自分のことを今でも許せずにいる先輩の分まで、吉田先生だったら許してくれるんだって勝手にそう思い込んでた。甘えてたんだ、あいまいな状態のまま。
 だから終わらせないといけない。次に進まないといけない。
「──今日は楽しかったね! 十年ぶりに外に出られて本当に嬉しかったし、夏祭りだって本当に久しぶりで、それに、……ゆみちゃんにも会えたもん」
 夏祭りの余韻が残る夜の町を駅に向かってふたりで歩いていた時、遥香先輩がそう言った。なんとなく重たかった空気を吹っ切るように、ちょっとわざとらしいぐらいに明るい声で──でも、それでもこんな空気は拭い切れなくって。本当は気づいてたんだ、信号待ち、遥香先輩が自分の透けた手に視線を落とした時の一瞬の表情にも。わたしは先輩のもう一方の手を引いてこの世界に引き留めようとした、結局そんなことしかできなかったから。ふたり連れ添って歩いた、街灯がときどき映し出す一人分の影から目をそらしながら。
「でもさぁ、ゆみちゃんも大人になったよねー……昔はね、それこそ玲奈ちゃんぐらいの時とか、大人なんて遠い存在っていうか別の生き物だってぐらいに思ってたけど、……ふふっ、変な言い方だけどね、ちゃんと私たちの先にあったんだなぁって、変わらないままでも変われるんだって、ちょっと安心しちゃった。──まぁ私は例外なんだけどね? ずっと留年してるしさぁ、あは」
 笑えないブラックジョークだった。だって先輩の手振りが、普段と違ってちょっと高い声とかが、何か少し焦っているような言い方も、ぜんぶが無理して明るくしてくれてたんだってわかってしまうから。胸の奥がきゅっと締めつけられる。そんな顔、しないでください。わたしのことを責めていいんですよ。だって、ぜんぶ、わたしのせいだったから。
「……ねぇ玲奈ちゃん。ゆみちゃんのこと、怒ってる? ううん、違うならいいんだけど。私は全然平気だから、だって最初からわかってたから、って、そんなことより大人になったゆみちゃんがきれいで、私ちょっと嫉妬しちゃったかも? あははっ、」
 そう言って無理に笑ってみせた先輩の声はどこか寂しげで、街灯の光を受けるたびに透き通った瞳の向こうがどこかうつろに見えてしまう。
 先輩に想いを伝えてからまだ数日も経ってないのに、もう何年も経ってしまったような気がする。いっそ、このまま永遠に先輩とここにいてしまってもいいのにって、心のどこかで思ってしまうわたしは相変わらず弱かった。でも、それじゃあ、もうだめなんだってわかってたから。このままだと先輩は──
「そうだ。この制服、返さなきゃだよね。あと髪留めもだっけ、そういうの全部。……うん、みんな玲奈ちゃんのおかげだね。ありがとう」
 そうしてわたしたちは駅までたどり着いてしまう。やわらかな風が吹いていても、どこか冷たく感じていた。夏が終わっていく。八月ももうすぐ終わっちゃうのに、わたしはまだ何も終わらせられなくって。
 ……先輩。もう一つだけ、大事な話をしてもいいですか。
 え、って振り向いた先輩の小さな笑顔、それをわたしはこれから、ふいにしてしまうのかもしれない。伝えようとした自分の言葉が重たくって、もう今から息が詰まりそうだった。わたしはこれから先輩との関係を台無しにする。なかったことにしてしまう。それでも、今ここで言わなきゃいけないことがあった。
 だからわたしは言った──遥香先輩、ごめんなさい。この間の告白、なかったことにしてください。
「え……?」
 先輩の顔から表情が消える。ぽかんと開いた口は何か言いかけて、でも言葉にはならない。なんで、なんでそんな顔するの。先輩言ってたじゃないですか、わたしたちは付き合えないって。やっとそれがわたしにもわかったのに。
「えっと、……どういう、こと? だってもう、私たち一緒にいられるんだよ? だから私も玲奈ちゃんのこと、」
 ──だめなんですっ、それだと!!
 遥香先輩が目を見開く、道を歩く誰かの視線、でももうそれどころじゃなかった。先輩、わたし、わかったんです。吉田先生の言ったこと、やっぱり正しかったんだって。先輩は今でもわたしの中で生きてるけれど、でも先輩はもうこの世のものじゃないんですよ。先輩が救った吉田先生が今生きているように、わたしも、ひとりでちゃんと生きてないとダメなんです。
 でないと、先輩が生きていた証がだんだんわからなくなっていっちゃうから。
「……そっ、かぁ。……うん、そうだよね。私も思ってたよ、私、死んでるもんね、うん……」
 先輩は目を伏せて、また明るい声を出そうとする。ちがう! そうじゃなくって、わたしは先輩のことを大切にしたくって、でも今のわたしでは先輩を変な病気扱いさせてしまうから、ちゃんとした人生を送って、それが、せんぱいのおかげだってなったら、みんな、ゆるしてくれる、って……。
「……玲奈ちゃん。私、玲奈ちゃんのこと、……すき、だよ」
 ついに涙がこぼれてどうしようもなくなってしまったわたしに、先輩が、あれほど聞きたかった言葉をかけてくれる、でももう、それじゃあだめなんですよ。だからもう、いまは先輩のやさしさが、傷に沁みてくるみたいで。
 ……ねぇ、遥香先輩。この際もう嘘でもいいですから、今からわたしに、『もう会うのはやめにしよう』って言ってください。それで、おしまいにします。
「そんなの、言えるわけない……!」
 先輩の声が少し大きくなって、なにか言おうとして──でも結局なにも言わずに先輩はうつむいてしまう。駅のホームに案内音声が流れて、下り電車が滑り込んでくる。開いたドアから大勢出てきて、わたしたちはホームの隅に追いやられていく。わたしたちは言おうとした言葉をついに見失ってしまう。
「……ねぇ、玲奈ちゃん」
 人混みが改札に吸い込まれて静かになったホームで、先輩がふと、付け加えた。
「どうせ最後になるんだったら、今夜だけでいいからさ、ずっと一緒にいるってどうかな? お泊まり会でも、しようよ」
 先輩の声が小さく、でも確かにわたしの耳に届いた。ずっと別れるべきだって思ってたのに、気づいたらうなずいてた。次の電車が近づく直前、先輩がわたしの頬をそっと触れた。
「だって、明日になったら、たぶんほんとにお別れだから」
 そう言って歩き出す先輩の背中を追いかけながら、わたしは思う。あと一晩だけ、先輩と一緒にいたい。あと一晩だけ、先輩の本当の気持ちが知りたい。そう思ってしまうのは、わがままなのかな。
 気づけば帰宅ラッシュはとっくに終わっていて、電車の中では酔っ払ったおじさんたちが二人、向かいの座席で眠ってた。わたしの隣にはただ誰も座ってないように見えるんだろうけど、ここには先輩がちゃんといて、見えない手がわたしの指先をそっと撫でている。うつむきながら感じる温もりだけが、この瞬間だけは確かなもので。
 最寄り駅で降りて住宅街の道を歩きながら、どうやってこっそり先輩を家に連れ込もうか考える。お母さんはたぶんもう寝てるだろうけど、万が一起きてたら……考えたってしょうがないか。わたしは自分の部屋の窓が開けられるかどうか思い出そうとする。
「ってかさ、私、玲奈ちゃんのお家も初めて行くんだよね」
 そう言って先輩が少し歩く速さを緩める。わたしはついつい顔を上げて先輩の方を見る。ほんのりと月の光に照らされた横顔が、夢の中にいるみたいだった。
 先輩……ほんとに、いいんですか? 明日のことも考えると……
「玲奈ちゃんこそ、いいの? 私が明日の朝いなくなっちゃったらさ、後でさみしくなっちゃうんじゃなーい?」
 明日のことなんて考えたくなかった。でも現実は目をそらしたってそこで待っているから。わかってますよ、それぐらい。わたしはゆっくりとうなずいた。先輩の透ける手が、わたしの髪をそっと撫でる。このままこうしていられたらいいのに、わたしの家はどんどん近づいて、……ああもう、見えちゃった。二階建ての小さな一軒家。
 玄関の電気がもう消えてたから、たぶんお母さんはもう寝てそう。そっと鍵を開けて、先輩を小さく手招き。先輩の姿はどうせ誰にもばれないって頭ではわかってても、なんとなく息をひそめてしまう。とりあえず階段をあがって自分の部屋に行く。
「わぁ、ここが玲奈ちゃんのお部屋かあ!」
 後から入ってきた先輩が、部屋の中をきょろきょろ見回す。いつもの屋上前と違って、わたしの本当の居場所を見られるのはなんだかむずがゆかった。先輩の視線がベッドの上のテディベアとか机の上の問題集の山とかに向いてるのがわかって、……先輩、さっきから人の部屋見すぎですよ。
「ふふっ、でもなんか思ってた通りだったかも」
 え、どういう意味ですか?
「優等生っぽいっていうかさぁ。でも意外とクマちゃんとかも置いてあったりして。玲奈ちゃんってそういうとこあるでしょ?」
 どういうとこですか。
 って、それより、なんか思ったより散らかってたかも、って今さら気づく。もっと片付けとくべきだったかな……カーテンを閉めながら、先輩が「真っ暗にしたら私が消えちゃいそうだね」なんて冗談を言う。冗談にならないからやめてください。
 あ、先輩。先輩もお風呂……入ります?
「え!? いいの?! でもそれって……」
 だって先輩、今日ずっと外にいたでしょ。家のお風呂なら安心ですし。
 わたしが言うと、先輩がようやくうなずいてくれた。わたしは足音を立てないように廊下を歩いて、洗面所の電気をつける。ドアをそっと閉めて鍵をかけた時、先輩が少し顔を赤くして立ってた。
「えっ、と……玲奈ちゃん、一緒に入るの……?」
 別に、先輩が嫌じゃなければ。
「え、いや、嫌じゃないけど、その……えーと……」
 先輩がもじもじしてるのを見てると、なんだかおかしくて。いつもふざけてるくせに、かわいいところもあるんですね。そしたら先輩が慌てたように手をひらひら振る。
「ち、違うよ!? ただその……玲奈ちゃんが見られるの嫌じゃないかなって。私は全然平気ですけど?」
 わたしこそ先輩に見られたくないから、後ろ向いててください。そう言ってから気づく。先輩は後ろ向いてても透けてるから意味なかった。……それでも一応向こう向いててください。
 お互いにぎこちなく服を脱いでく。下着になった時点で、先輩が小さく「きゃっ」って声をあげた。どうしたんですか?
「いや、その……予想以上に玲奈ちゃんが……その……」
 先輩だって学校の時とか、さんざん見せてきたじゃないですか。そう言ってやったら先輩が「あ、あれはわざとじゃないもん!」って顔を真っ赤にして抗議してきた。
 しばらくして、先輩と湯船に一緒につかってたら、先輩の身体が微妙に透けて見えて不思議な感じがした。先輩は肩まで湯につかって、ほーっとため息をついてる。
「ふぃー、あったかーい……やっぱりお風呂っていいねぇ。うちの高校、シャワーしかなかったから」
 そう言って目を閉じてる先輩の横顔を見てると、胸の奥がきゅってなった。明日になったら、もうこんな風に一緒にいられない。そう思ったら、なんだか涙が出そうになってしまう。
「ねぇ、玲奈ちゃん。髪、洗ってあげよっか?」
 先輩がシャンプーを手に取る。座るところ逆にして、バスタブの縁に両手をつきながら後ろ髪を先輩に預ける。なんだか小さい頃お母さんにしてもらったみたいで気持ちよくて、思わず声を漏らしてしまう。
「もう、そんな声出しちゃだめだよ? ママにバレちゃう」
 からかうように言いながら、先輩の手つきは優しくて。爪の間に泡が絡んでくるのを感じながら、先輩の指が髪をすくたびに、なんだか心もほどけていくみたいだった。
「玲奈ちゃんの髪、すごくきれいで触り心地いいよ」
 そんなこと言われたら、わたしの方も先輩の髪を洗ってあげたくなってくる。洗い終わってお湯で流してもらったら、今度はわたしが先輩の髪を洗ってあげる番。
 先輩の髪はさらさらで、思わず何度も指をすかしてしまう。ていうか、死んでるのに髪が伸びてるのって変じゃないですか?
「うーん、私も不思議なんだけどね。きっと心の中のイメージなんじゃないかな。玲奈ちゃんが私をどう見てるかっていう」
 だとすると、わたしは先輩のことをすごくかわいく見てたってことになるけど。先輩のきれいな髪を見ながら、そんなことを考えてた。
 お風呂から上がって、パジャマを貸してあげたけど先輩には少しサイズが合わなかった。なんか、ちょっと負けた気がして妬いてしまう。
「ごめんね、玲奈ちゃんのサイズだときつくって」
 別にいいですよ。というか、先輩って普段制服とかちゃんと洗濯してるんですか? いつも同じ格好してるじゃないですか。
「え!? いきなりなに言うの!? 失礼だなあ!」
 だって、今まで制服以外の姿見たことなかったから。
「私だって玲奈ちゃんの私服姿はじめて見るもん!」
 そんなくだらないことを言い合いながらベッドの準備をする。枕を二つ並べて、シーツを引っ張り出して。電気を消すと、月明かりだけが窓から差し込んできた。
「大丈夫? 一緒に寝るとちょっと狭いかも」
 全然平気です。むしろ、くっついてた方があったかいし。
 そう言って先輩の隣に転がる。先輩の匂いっていうかお風呂の石鹸の香りがして、なんだかほっとする。意識したら、先輩の体温が伝わってきて。
「玲奈ちゃん、今日はありがとう。夏祭りも楽しかったし、ゆみちゃんにも会えたし」
 先輩が静かに言う。その声は、もう無理に明るく振る舞う感じじゃなくて、いつもと変わらない先輩の気持ちが伝わってきた。
 ……先輩こそ、今までわたしを助けてくれて、ありがとうございました。おかげで、わたし、すこし変われた気がします。
「うん。玲奈ちゃんはきっと大丈夫! 私がいなくたって、ちゃんとやっていける」
 そう言って先輩が頭を撫でてくれる。暗闇の中、先輩の手だけが微かに光っているみたいに見えた。
 ……ねぇ、先輩。本当は、まだ終わりたくなかったんです。でも、このままだと先輩も、わたしも、前に進めないから。
「私も、この一年、玲奈ちゃんと過ごせて本当に楽しかった。はじめは玲奈ちゃんがちょっと怖かったけどね」
 え、わたしが怖かった?
「だって、最初の頃って玲奈ちゃん私の扱い雑だったじゃん? はじめて会った時もおなかキックされちゃったし……でも、助けてよかった。玲奈ちゃんに出会えて、本当によかった」
 先輩の声が少しかすれてた。暗闇のせいで表情は見えないけど、きっと先輩も泣きそうになってるんだと思った。
 わたしも、先輩に出会えてよかったです。先輩がいなかったら、わたし、今ここにいなかった。
 先輩が少し身体を寄せてくる。わたしも自然に先輩の方へ向き直る。顔が近くて、瞳のかすかな輝きまでわかった。
「玲奈ちゃん……」
 そのまま、先輩が唇を重ねてきた。柔らかくて、あったかくて、ふんわりと石鹸の香りがした。胸がドキドキして、このまま時間が止まればいいのにって思った。
 唇が離れると、先輩が小さく笑った。
「えへへ、ファーストキス、うばっちゃった」
 ずるいですよ、先輩。最後にそんなことして。
「ちょっとぐらいずるくてもいいでしょ? 明日でお別れなんだからさぁ」
 先輩が頭を撫でながら、優しく言う。わたしは先輩の腕の中で丸くなった。先輩の体温と優しい手の感触だけが、この瞬間を現実にしていた。
 ……遥香先輩、大好きです。
「私も玲奈ちゃんのこと、大好きだよ」
 先輩の声が少しずつ遠くなっていく。意識がぼんやりしてきて、いつの間にか眠りに落ちていく。夢の中でも先輩の腕の中にいた気がした。明日には消えてしまう温もりを、少しでも長く感じていたくて。
 いつの間にか朝の光が窓から射し込んできていて、まぶたの裏がうっすら明るくなる。身体がちょっとだるくて重たくて、なんだか眠った気がしない。ぼんやりと目を開けると、隣には誰もいなかった。当たり前か。昨日のことがぜんぶ夢だったみたいな、静かな朝。枕にはかすかに石鹸の香りだけが残っていて、それも朝の風にすぐ消えてしまう。
 制服に着替えながら、ふいに涙がこみあげてくる──やめよう、泣いても仕方ないから。普通の朝を過ごさなくちゃ。洗面所に行って顔を洗ったら、鏡に映った自分がいつもと変わらなく見えて、それさえもちょっと不思議な気がした。
 玲奈、朝ごはんよ──お母さんの声がリビングから聞こえてくる。
 おはよう、お母さん。いつもと変わらない朝。昨日の夜に起きたことなんて、この家のどこからも感じられない。ぜんぶ最初から夢だったかのように。テーブルにはいつものトーストと目玉焼きが並んでいる。
 ──玲奈ったら、朝から食欲があるのね。しっかり食べるようになって。
 お母さんがうれしそうに言う。たしかに、以前は朝ごはんも食べられなかったっけ。変わったのかもしれない。でも、その理由を口にすることはできなかった。誰にも説明できない変化だから。
 いつもと同じ時間に家を出て、いつもの歩道を歩いていく。桜並木だった道には葉が生い茂っていて、夏の終わりの風が吹き抜けていく。駅まで歩いて、電車に乗って……いつもと変わらない日々。そう、ごく普通の高校生活。普通になろう。自分に言い聞かせながら、車窓の景色を眺めてた。いつもの景色なのに、なんだか色が違って見えた。
 学校に着くと、昇降口で同じクラスの子が手を振ってくれる。
 ──おはよー、玲奈ちゃん。昨日の夏祭りの写真、ラインで送るね。
 あ、そうだ。わたしも夏祭りに行ったんだった。友達と一緒に。普通の高校生らしい週末を過ごして、普通の思い出を作って。それがわたしの現実だった。
「あ、玲奈ちゃん! おはよう!! って、先輩のこと無視しないでよー?!」
 ──玲奈ちゃん、明日から文化祭の準備始まるけど、明日来れる?
 文化祭。そういえば去年は……いけない、何も考えちゃダメだ。今年は今年。去年とは違う。わたしは違う自分になってるはずだから。
 昼休みのチャイムが鳴る。教室の中で友達と一緒にお弁当を食べてたけど、なんだか落ち着かない。友達の笑い声が耳に刺さるようで、視線が気になって。まだ完全には慣れてない。でも、前みたいに教室を飛び出すこともできないし、そんな自分を見せたくもなかった。
「玲奈ちゃん? 私、いつものとこで待ってるよ! ……おーい」
 ──玲奈ちゃん、大丈夫? なんか顔色悪くない?
 隣の子が心配してくれる。大丈夫、ちょっと疲れただけ……嘘だった。本当は、胸の奥がきりきり痛んでた。何かが足りない感じ。空白みたいなものが、心の中に広がってる。
 トイレに立って、そのまま屋上へと向かう足は、いつの間にか勝手に動いてた。もう一度、あの場所に行かなくちゃ。ちゃんと決着をつけなくちゃ。そんな気持ちが、わたしを引っ張っていく。
「やっぱり来たねぇ、玲奈ちゃん!」
 屋上への階段を上がっていく途中、いつもの場所に差し掛かった。でも、そこには……誰もいなかった。当たり前だ。昨日決めたことだから。わたしが決めたことだから。でも、誰かの声がした気がして……ううん、なにも聞こえなくたって振り返る。
 何もない階段。ただ窓からの光が射してるだけ。空耳、だよね。わたしは屋上へと続く扉の前まで歩いていく。いつもここで待ち合わせてた場所。思い出が染み込んだ場所。
「私もさぁ、なんだかさみしいなあ。でもこれでよかったんだよね、玲奈ちゃん」
 扉に手をつけて、深呼吸する。落ち着いた声で言う必要がある。最後に、ここでちゃんとお別れを言おう。そう決めた。
 ……遥香先輩。「んー? 玲奈ちゃん、なぁに?」
 誰もいない扉の前で、わたしは小さく呟く。「大丈夫だよ、ちゃんと聞こえてるよ」自分の声だけが、静かな階段に響く。
 先輩のおかげで、わたしは変われました。教室に入れるようになったし、友達もできました。先輩がわたしに教えてくれたこと、絶対に忘れません。
「玲奈ちゃん……うん、ありがとう」
 涙が出てた。拭いながら、続ける。
 先輩が救ってくれた吉田先生が、今ちゃんと生きてるみたいに、わたしも、先輩が救ってくれた証として、ちゃんと生きていきます。いつか、わたしみたいに困ってる子がいたら、その子を助けられる人になります。
「うん、玲奈ちゃんならきっとできるよ! ……私もそう、ここで信じてるから」
 階段の窓から見える校庭には、生徒たちが昼休みを過ごしてる。いつもの風景。でも、わたしの隣にはもう誰もいない。これから、一人で生きていくんだ。でも、さみしくはない。思い出は、わたしの中でずっと生き続けるから。そういうことにして、屋上への階段から教室へと戻る。途中、窓から見える空が妙に眩しくて、目を細めた。夏の終わりの空は、どこまでも透明で澄んでた。
「玲奈ちゃん、……ふふ、今日の玲奈ちゃん、なんかいい顔してるね」
 屋上の窓のそばを通り抜けて、そのまま階段を降りていく。大丈夫、大丈夫ってあの人が言ってくれたから。だからもう振り向かない。振り返ったら、きっと何か悲しくなってしまうから。
 教室に戻ると、友達が心配そうに振り返る。
 ──玲奈ちゃん、どこ行ってたの?
 ちょっと保健室に。って、嘘をついた。本当のことなんて言えるわけない。誰も信じないし、わたし自身、自分に起きたことを信じられないときがあるから。
 その時、教室の窓の向こうから、なんとなく誰かが覗いてるような気がした。「ねぇ、玲奈ちゃん、最後に──」振り向くと、生徒たちが廊下を通り過ぎていくだけ。何事もない、いつもの日常。「──ううん、なんでもない」
 ──玲奈ちゃん、どうしたの?
 ううん、気のせい。そう答えたけど、胸の奥でざわめく感覚は消えなかった。でも、もう気にしないようにしよう。現実に集中しなければ。
 午後の授業が始まるチャイムが鳴る。友達が席に戻っていく。わたしも自分の席について、教科書を開く。普通の日常。新しい日常。これに慣れていかなくちゃいけない。数学の授業は、いつものように進む。黒板に書かれた数式を写していると、となりの空席が妙に気になった。でも、誰もそこに座る予定はない。
 授業後、朝話したクラスの子が話しかけてくれた。
 ──玲奈ちゃん、明日の文化祭準備、一緒に残れる? 放課後からなんだけど。
 うなずく。逃げてちゃダメだ。新しい日常に慣れていかないと。友達との時間を大切にして、高校生らしい生活を送らなくちゃ。それが、今のわたしに必要なこと。
 ──じゃあ明日、待ってるね。
 友達が手を振って帰っていく。教室に残されたわたしは、窓の外を見上げた。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていく。一日が終わっていく。
 鞄を持って、教室を出る。「すごいね、玲奈ちゃんやっぱり大人気だ!」誰もいない廊下を歩きながら、無意識に屋上への階段の方を見上げた。そこには、もう誰も待っていない。「まぁ、私が一番に玲奈ちゃんのこと見つけたんだけどね」当たり前のことなのに、なぜか確認してしまう自分がいて。
「じゃあね、玲奈ちゃん。また、いつか」
 昇降口を出て、夕日に照らされた校庭を歩いていく。明日も、明後日も、こうやって学校に通うんだ。友達と笑って、勉強して、文化祭の準備をして……普通の高校生として。それでいいはずなのに、足取りがどこか重たい。
 でも、振り返らない。前を向いて歩いていく。それが、わたしが選んだ道だから。
 それから季節は流れていった。クラスみんなで力を合わせた文化祭の劇の準備は思ってた以上に楽しくって、台本の読み合わせでみんなが笑ってくれるとなんだか誇らしい気持ちにもなった。誘われてたヒロイン役はさすがに引き受けなかったけど、舞台装置の制作係として参加することにした。友達と一緒に夜遅くまで学校に残って、ダンボールに色を塗ったり、看板を作ったりする日々が続いた。
「あーっ文化祭かぁ! 今年は演劇やるんだね?! 盛り上がるといいなぁ」
 文化祭当日、わたしたちのクラスの劇は大成功だった。観客席から拍手が響いてきて、その音が胸に染みてくる。「いやあ、よかったよ! 特に最後の人魚姫が届かない声で想いを伝えるとことか! 泣けたなぁ」去年のメイド喫茶とは違った形の達成感があった。友達と一緒に打ち上げに参加して、夜まで騒いで……普通の高校生活。それがとても新鮮だった。
 二年生の秋、進路について真剣に考えなければならなくなった。大学受験。当初は特に行きたい学部も決まっていなかったけれど、なんとなく心理学に興味を持つようになっていた。人の心と向き合うこと。その難しさと大切さを、身をもって知ったから。
「玲奈ちゃん、今日も遅いんだね。受験生は大変だなあ」
 塾での勉強は順調に進んだ。吉田先生はわたしの進路希望を聞いて、都内の心理学部のある大学をいくつか推薦してくれた。模試の結果も上々で、自分でも驚くほど集中して勉強できた。友達と一緒に図書館で勉強したり、たまには息抜きでカラオケに行ったりもした。
 卒業式の日。桜が咲き始めた校舎を見上げながら、なにか心に来るものを感じてた。三年間、長いようで短かったな。「あ、玲奈ちゃん! 卒業おめでとう!」教室を出る前に、どうしても気になってしまって、屋上への階段を見上げてしまう──誰もいなかった。そんなの当たり前だった。
「また今年も入学式かぁ……今年の一年生もみんなかわいいなぁ」
 大学に入学すると、想像以上に多様な人たちと出会った。心理学の授業は興味深くて、特に発達心理学と教育相談の分野に惹かれた。教授の話を聞きながら、かつての自分のような生徒に寄り添える大人になりたいと思うようになった。
 大学二年の夏休み、フリースクールでボランティアを始めた。不登校の子どもたちと関わるなかで、自分の経験が少しでも役に立てばと思った。最初は戸惑ったけれど、子どもたちが少しずつ心を開いてくれるのを感じると、これが自分のやりたいことなんだと確信した。
「ふふっ、また私の噂話かなあ? ──いや、購買の甘食パンたべたのは私じゃないってば?! クロワッサンだけだもん!!」
 大学三年の秋、進路に悩んでいた時、偶然吉田先生と再会した。街の大型書店で、心理学の専門書を探していた時だった。
 ──高嶋さん? あら、本当に高嶋さんじゃない。
 振り返ると、そこには吉田先生がいた。数年ぶりの再会に、思わず声が詰まってしまった。
 ──大学生になって、すっかり大人っぽくなって。何の本を探してるの?
 進路のことを相談すると、かつての先生は優しく微笑んだ。スクールカウンセラーになりたいという話をすると、先生は、素晴らしい選択ね、と励ましてくれた。
 ──あなたの経験は、きっと多くの生徒を救えるはず。
 その言葉が、わたしの決意を固めてくれた。
 大学四年の夏、教育実習に参加した。母校ではなく、別の高校だったけれど、教育現場の空気に触れて、ますますこの道を進みたいと思った。
「今年も暑いなあ……そういえば、あの時、夏祭りがあったのも今ぐらいだっけ。……ううん、いいんだけどね」
 実習期間中、生徒からも、わたしとならなぜか話しやすい、と言われたことがあった。その時、過去の経験も無駄じゃなかった、そう思えた。
「ついに文化祭かぁ……今年も特等席で花火みちゃおっかな!」
 大学卒業後、臨床心理士の資格取得のため大学院に進学した。研究テーマは『思春期の不登校生徒への心理支援』。かつての自分を客観的に研究対象として見つめることは、つらくもあり、癒しでもあった。
 大学院一年の冬、  の教育委員会  スクールカウンセラー採用試験の      。   希望         。面接の準備     、自分 ど だけ変わっ       た。
「また今年の子たちも卒業かあ……見送る側って、いつまでも慣れないな。って、ほんとは誰も見送れてなんかいないけどね、あは」
 面接当日。       、なぜこの  を選んだのか、自分の経験     たいのか、   話すこと     。
 ──        、           。          。
         、                         、                 。   、         、             。
「……あの時、はじめて出会ったのも春だったよね。もう、あの子は忘れちゃったかな。その方が、いいんだよね。……うん」
                                                                             
                                                                  
「でも……だめだな、私。ずっと引きずってるの、私だけ。探しちゃうんだ、いるわけないのに」
                                                                                           
                                                                      
「……あいたい、なんて……そんな資格ないんだけどさ。今の私に、うん……」
                                                                   
                    
                                                                   
                                   
「──ううん、私は私で、誰かが落っこちそうな時に引っ張ってあげられればいい。最近はそんな子あまり見かけないから、ちょっとさみしいけどね、ふふっ」
                                                           
                                               
                                                
「はぁ……雨もあがっちゃったなあ……っ、え? うそっ、待って、」
                                                            
                                              
                                                                     
「いや、そんなはず……でも、でもあれ絶対!!」
                                                              
「いいのかな……いいよね、うん、いい! ねえっ、──えいっ!」
  ?          、            。  、   、         。
    、「だーれだっ」        。
   、        。
   、      ──  、      。          。

「うん、私だよ……ずっと待ってた!! ねえ、どうして、っ、私のこと、わかったの……?」

 ──だって、こんなことしてくる暇人、先輩ぐらいですから。

秒針の隙間から伸びた、


  少年のイデアは呟く、
  「……意識を介在させてはいけない。
   防波堤はカタストロフィーの布石さえ演じられぬのだから。」


──午前七時四十二分

 等間隔に配置された街路樹の下を抜け、彼は停留所に向かう。
 眠りから醒め切らぬ街。躁病を抱えたスーパーマーケット。流動性を固持する乗用車の群れ。
 弛みに絆されるその感覚は彼を厭世観に染めかけるも、所詮はコピーペースト故、途切れる。
 そして劈く不快感。
 眼界にノイズの如く走る少女たちの嬌声が彼を現実に縛り付ける。
 自動的な歩み。ほら、もうバスが来る。急がなきゃ。パブロフ。


  それはさも悲しげに、
  「生まれつき歯車として生きていたかった。
   せめてそんな風に思われていたかった」と。


──AM 08:17

 バスの中、整理券を吐き出す装置に寄り掛かり、黄色いアクリル樹脂で包まれた手摺りに腕を絡める。
 座席はまばらに埋まり、人間の音が響き合うのが遠く聞えている。
 車内での立ち位置は固定されていた。
 彼は固定する事を好んだが、固定されるのも許容できた。
 食欲に似た生命維持装置に身を委ねる日々は、恒常性に欠けるのだ。
 翻って予定調和は母の腕の中のように柔らかく、慈愛に満ちている。
 そういえば、最後に他人の皮膚に触れたのは、いつの事だったか……。

                  ――何かが聞えた。

 咄嗟に理解が追いつかず目を四方に走らせる。誰が?
 誰だ ?
 車内アナウンスだった。遅れて、理解が触れる。あの野蛮な声は、路上に這うガムの残骸の声は―

「聞こえて□んです□? バスの□テップに立□ないでくだ□い、いい加減に


 反響。反響……視線が、無数の目が―動けない―四方に飛び散る意識が、足元が、足元が沈み込む―
 目が、眼球が、血の通う眼球が、無数の瞳孔が、虹彩が、

 潰されるんだ!!
 殺される、殺される、血の海になって僕はやけつくような火を、非を咽頭に押込まれて腸壁が瓦解するのに

『ねえ、あのひと、なんかこわくない』
『前も見たよ、確か途中のバス停でのってくるひとだ』
『だいじょぶかなあのひと』
『あのひと』
『あのひと 』
『 あのひと 』『あのひと』『あ の ひ  と』『あ の ひと』『あ の  ひ と』『あの ひ

 食道に焼け付いた破片を、傍観,連なる傍観、十字架は誰の殺サ,繝九Η繝シ繧ヲ繧 ァ

 

  。

   、


 その瞬間、見た。
 見えた。
 窓の外に。

                    手 ?

 

──AM 08:19:02
 僕は見た。
 窓の外、雑木林に見守られた、空白のような畑。
 錆付いた土の海から一本の手が伸びているのが見えた。

  手

 白い。
 肘からずっと、宙に向けて、星を取る子供のように、あどけなく。
 誰かが置き去りにしたのか?
 用済みで?
 或いは、奪われた手か?
 子供のように玩具として『手』を奪い、飽きて放ったのか?
 切除したのか、ならば、どう、何を以って?
 同意はあったのか。同意して手を切る、否、自ら手を切る、肘ごと?


──AM 08:19:57
 疑問符が胸を浄化して、気づくと真実だけが残されていた。

 違う、あれは『手』だった。
 紛れもなく救いの『手』を差し伸べられたのだった。

 しばらくしてバスが止まり、僕は降りた。
「あそこに立たれるとドアが開かなくなったりして、困るんですよ」
「すみません、うっかりしてて」
 そんな、笑える程自動的な。


──夕方、五時過ぎて

 日の落ちた薄闇に目を凝らし、帰りのバスの窓からあの畑を見る。
 あったのはやはり、引っ掛けられた白いゴム手袋だけだった。
 あの瞬間、秒針の隙間に見えた猟奇は、自分の記憶だけに固定しようと考えた。

 いつもどおり家に着いて。僕はこうして。
 たぶん明日も。また。


潜水アリス

 プールは海ではない。際限なく広がってゆくあの深い暗がりと違って四辺を壁に隔てられたその場所は泳いで行けばやがて終わりにたどり着いてしまう。重力を忘れたモラトリアムからひとたび醒めてしまえば手に残るのはあの白々しい塗料とこびりついた赤錆の影だけで、それでもとターンして塩素を溶かした偽物の海をかき分けても、かき分ける毎に、壁、壁、壁。
 夜、浴槽に身体を沈める時、私はときどき顔を浸けてみる。小さい頃は頭までどっぷり潜り込んだこともあったけれど、さすがに髪の毛を沈めるほどの歳でもなかった。目を閉じて、瞼の暗幕を漉して透けるわずかな明るみからも目を背けて、暗く暖かい水に入っていく。自分の身体が発する音を聞き、換気口が漏らすため息を遠くに聞き、手足の重みを忘れて、記憶にない懐かしい場所を思いだそうとする。人は一人分のプールで生を享け、二人で身体を重ねて重力を忘れあい、水浴びを繰り返してプールに愛を宿してゆく。やがて乾ききって、蒸発して、最期には煙となって雨粒の種として空に溶けてゆく。どこかへかえりたいとき、水に身体を沈めていく。小さな死が身体の芯まで染み込んでいき、形のない夢を繰り返し舐め続ける。
 これはきっと忘れてゆく言葉だ。水は形を持たない。焼けるほど冷やして形を求めた年月を長く過ごしたけれど、そのようにして水を手にしようと拘泥したけれど、手に残ったのはまがい物ばかり、あの壁のように指先を焼いてはほどけていった。飛び込み、抱かれたあの場所で待ち合わせを取り交わしても、約束は氷のように溶けてしまう。言葉でつかめるものもそのくらい危ういものなのだから、砂粒を集めてお城を築く遊びはやめにしよう。あなたにふれたい、髪を乾かせば忘れられてしまう私が、今はまだ、あなたを確かに求めている。
 その日、あなたはせせらぎのようにたゆたっていて、私はまた息を止めてしまう。名前をよぶ、その形を舌で感じる、あなたはまだ私の恥を知らない。

夜の起源について

フラクタルの種を蒔いた
それは短かな数式の形をしている
三角形と平行四辺形と
割り切ることができる種だ
なぁに
もとは 借りた本に挟まっていた種だと
余らした一粒を爪で割る
それは無数に重なった小さな三角形と
細く伸びた平行四辺形と
割っても 割っても 無限に分かれてゆく
爪に溜まる皮の一かけらまでも
三角形と 平行四辺形と 原子核の孤児と

朝が来て
芽吹いた種は天を貫き
すべすべと堅い木肌を誇り
根本から 植木鉢を突き破って
無限に枝分かれして空を刺す小枝の形は
よくみれば
肌を刺す三角形と おぞましく伸びた平行四辺形と
麓の町すら呑み込む
黒く覆い隠した
踏みつけた葉をひろう
葉脈にすら刻まれた 幾何学文様を
あきれて 爪でなぞる間にも

その日
紀元前から続いた白夜が終わった

neoteny flower

 道の上に男がいる。両脇を果樹園に挟まれ、輪郭の薄れた山麓へと続く人通りの多い道端で男は小石と共に転げている。その道は舗装が甘く、分離帯の色すら黒く薄れており、道を行く人々はそれぞれ好きな場所を好きな速さで歩くが、その中で彼に気づく者はいない。彼はときどき自分が見えないガードレールにきつく囲われたように身体をまさぐったり、自分を取り巻く気体に向かって溺れたように腕を振ってみるのだが、そこにもさわれるものなど何一つない。
 やがて男は肩の痛みに堪えきれず荷物を地面へ下ろす。発汗した肩紐を外して土の上に置く寸前、目を覚ました重力が荷物を引っ張る。接地、同時に小さな土煙があがる。このとき彼は初めて自分の荷物の重さを、次いで自分が荷を負っていたということを知った。と、同時にいったん自分の身から切り離してしまった荷物が己のものだとも思えなくなる。むしろ、自分の方こそ今までこの荷物に所有されてきたのではないか。荷を失って軽くなった身体が風に飛ばされてしまいそうに思えて、つい何かにしがみつこうとする。だがそこに掴まれるガードレールはない。
 空をさまよう彼の手もまた地に落ち、そこで果樹園の敷地からはみ出た小さな植木鉢へとたどり着く。実にまばゆい花だ。彼の膝ほどの背丈に育った花が風に首を傾げる。花びらの白はみずみずしく男の目を射す。そうだ、おれはこの花を育てていたのだ。男は伸びやかな茎と純白の花びらに改めて魅了される。
 プラスチックの植木鉢によって果樹園の土から遮断されたその花は猥雑な植物たちの作る木陰の下でも凛と背を伸ばし、貞淑ながらも可憐な花を咲かせている。茎は小川のせせらぎを一本掬い取ったようにまっすぐ透き通った緑で、だが恐る恐る触れるとそこには確かな産毛が柔らかく生えている。細くたおやかに締まったその茎を彼の指先は幾度となく愛撫した。触れながら目を閉じると茎を流れる生命の脈動を感じる。閉じた目蓋には流れる血潮がうら若きおとめの胸元に浮かぶ静脈の青よりはっきりと映った。
 茎を愛撫しては茎へと養分を満たす土にすら嫉妬する彼はしかし、花びらに手を伸ばすことはない。花びらの白は太陽の光を濾し取ったように眩しく、触れれば彼の不健康な指を瞬きの間に焦がしたことだろう。気高い白はみだらに生い茂る樹木の緑の足下にあっても濁ることがない。彼女の白は周りの色すらも清めるほどだ。それは男の視界で沈む陽の赤を淡い口紅のように映し、月影の青をドレスのようにまとってみせた。
 妖精の羽のように風に揺れる花びらに彼はどれほど触れたかったか、いや口づけを交わしたかっただろうか。男は花を噛み砕き、啜り、咀嚼する時を浮かべては腹の奥で灯った熱に身悶えした。だがこうした夢想を一通り舐めつくすと、そこで彼女を穢したことをひどく恥じた。
 永遠の美を体現した一輪の花。彼女にかしずく男は土に手を加え、陽の照りぐあいをわが事のように憂い、そして潤いを絶やさぬようにと水を毎日捧げる。如雨露から柔らかな雨を浴びる彼女は一糸まとわぬ姿で清流と戯れる少女の姿を思わせる。無邪気に水浴びをする彼女を男は娘とも母ともつかぬほどいたわった。太陽と土と水しぶきの恵みを受けて花はますます美しさに磨きをかけるだろう。
 と、背後の足音に気づいて男が飛びのく。通行人がいぶかしげにこちらを一瞥して通り過ぎた。彼女の色気に惑わされたのだろう。男はそう決め付けると歩道に背を向け、植木鉢に咲く造花を人並みから隠した。