154 【星穿ち】のリゲル 2
(注:R15タグ相当の残酷描写があります)
リゲルが目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。
その日の空は雲ひとつない晴天だった。
頭上から強烈な日の光が照りつけ、口の中が乾く。
カラカラに乾いた口の中に血の味が広がるのを感じながら、リゲルが辺りを見回すと、すぐ目の前に鎖で繋がれた父がいる。
そこでようやく、リゲルは自分も同じ鎖で繋がれていることに気がついた。
そこはとても見晴らしの良い場所だった。
父は鎖に繋がれたまま黒い金属製の台に押さえつけられ、何かを叫んでいるようだった。
父の脇に立つ二人の黒い鎧の男はそれぞれ分厚い曲刀を高く掲げていて、今にも振り下ろそうとしている。
鎖に繋がれたままの格好で、まだ頭の回らないリゲルが辺りを見渡すと、地上では沢山の顔が自分たちの様子を興味深げに見上げている。
そこには祭りの出し物を見るように楽しそうな表情で眺める者もあり。
或いはただ不安そうに見上げる者もあり。
中にはぼろ切れを纏った獣人たちの姿もあった。
彼らの目の前には大きな魔物達が詰め込まれた巨大な檻が置かれていて、その頑丈な檻の上部は何かを待ち受けるかのように天に向かって口を開けていた。
────あれは何のために置かれているのだろう。
そして、この大勢の人たちは何のために集まっているのだろう。
リゲルが疑問に思うと同時に、黒い鎧を纏った男が分厚い曲刀を振り下ろし、黒い台に寝かされていた父の片腕が飛んだ。
次は、反対側の腕。
その次は、脚。
父親の一部分が斬り取られる度、辺りから大きな歓声が上がり、それらが興奮した魔物たちが詰め込まれた檻に放り投げられると観衆は手を叩いて喜んだ。
────自分は一体、何を見せられているのだろう。
こんな光景、悪夢にしても悲惨すぎる。
だが、それが現実の出来事であるとリゲルが理解するまでにはそれほど時間はかからなかった。
リゲルはぼろ切れを纏う同胞が投げた石に顔を打たれ、ようやく自分の置かれた状況に気がついた。
ああ、そうだ。
自分たちは敗けたのだ、と。
共に戦った仲間達は物言わぬ巨人に無惨に潰され、紙のように引き千切られて遺言も遺さず死んでいった。
唯一、自分の他に残った父は腕と脚を失いながら何かを喚いている。
聞けば、それは息子であるリゲルの命乞いだった。
まだ心のどこかでこの悲惨な光景が夢であることを期待していたリゲルの目を醒したのは、そんな父をせせら笑う声だった。
────今更何を言う、汚らしい『野人』めが。
────無様に泣き喚いて、いい気味だ。
────本当にいい迷惑だよ。この処刑を以って、己が何をしたかを知るがいい。
それは紛れもなく、ぼろ切れを纏った同胞たちの口から発された言葉だった。
彼らの声と重なるようにして目の前に立った刑務官から、自分たちが守るはずだった同胞たちの顛末が『罪状』として読み上げられる。
────お前たちが隠したつもりの女・子供・老人は既に捕らえられている。多くの者は従順になり投降したが、少しでも抵抗した者は子供であろうとその場で例外なく処刑された。
生きて捕らえられた者はこれから、子孫共々永久に犯罪奴隷となることが決まっている、と。
リゲルは淡々と読み上げられた内容を、即座に真実として受け入れた。
刑務官が口にした場所は、戦を共にした仲間たちから「自分に何かあった時には頼む」と託された、彼らの大事な家族の居場所だったから。
リゲルの視界が絶望に暗く沈む中、目の前の黒い金属製の台に美しい弓が置かれ、黒い鎧を着た男が黒ずんだ鎚を頭上に振り上げた。
それは『引けずの神弓』だった。
重い鎧を着た刑務官の手で巨大な槌が振り下ろされ、慣れ親しんだ弓が打たれて破壊されていく音を聞き、リゲルは自分たちが成そうとしたことが全て失敗に終わったことを悟った。
────ああ。
何もかもが無駄だった。
リゲルは自分の目に涙が浮かぶのを感じながら、自分の心を惹きつけた美しい弓が目の前で打ち壊されていくのをじっと見守った。
巨大な槌が一回、二回と振り下ろされる度、透明な弓が少しずつ折れ曲がり、ひび割れていく。
そうして数回も打たれると、『引けずの神弓』は金銀の混じる弦の張力に耐えかねて粉々に砕け散り、砂漠の空に白く輝く粒子が舞った。
砂漠の街に粉雪が舞う。
太陽の光を受けて宝石のように輝く見慣れぬ石が降り注ぐ中、観衆は処刑人が処刑刀を振り上げるのを見守り、リゲルはそれが父の首に振り下ろされるのを見た。
止めようと必死に叫ぶが、力なく枯れ果てたリゲルの声はその場の歓声に掻き消された。
そうして瞬く間に小さくなった父の身体は残らず魔物の檻の中に投げ込まれると、あっけなく魔物の腹の中に消えた。
────ああ。
これで何もかもが終わった、とリゲルは思った。
次はリゲルの番だったがもう何も抵抗する気は起きなかった。
抵抗する力もない。意味もない。
そのまま処刑人が気力を失ったリゲルの前で巨大な処刑刀を振るうと、リゲルの腕が宙に舞う。
だが、四肢切断の痛みはすぐさま周囲の声に掻き消された。
それは歓喜の声だった。
リゲルの腕が魔物の群れに投げ入れられると一層、大きな歓声が起きる。
怒声とも悲鳴ともつかない狂喜の声を聞きながら、リゲルは自分が本当に憎まれているのを知った。
同胞だと思っていた者たちが、父の死を喜び、自分が死に向かうことも喜んでいる。
今も苦しんでいるだろうはずの人々が。
自分たちは確か、困窮している彼らを助けるなどと意気込んでいた。
だが、それはとんでもない思い上がりだった。
彼らにとって自分たちはただの『敵』だった。
彼らにとって大事なのは主人に殴られずに済む明日の希望ではなく、貧しくとも食べ物が与えられる、すぐそこにある平穏の日々だった。
だから、その平穏を壊しにきた者たちができるだけ残酷に八つ裂きにされ、骨まで魔物に喰われてしまえば彼らは安心して眠ることができるのだ。
自分たちがしたことは、何もかもが無駄だった。
始まる前から、無駄に終わることが決まっていた。
リゲルの目から知らぬうちに溢れ出していた涙が、片目に押し当てられた赤熱した鉄の棒で一瞬にして蒸発する。
眼窩に満ちた熱で喉まで焼かれるのを感じるが、最早リゲルはそれを苦痛とさえ思わなくなっていた。
今更、腕や目など失った所で何も変わらない。
最悪の罰は既に受けている。
仲間を全て失い、父も失い、母と妹を助けるための弓も失った。
もう自分には何もない。
そんな自分が、これ以上生きていて何の意味がある?
ただ、二度とあの美しい弓を引けなくなったことだけが悲しかった。
リゲルはその時、全てを諦めていた。
そうして、やるならさっさとやってくれ、とリゲルは目を瞑って天を仰ぎ、そのまま終わりの時を待つことにした。
だが、運命はそんなリゲルにすら冷淡だった。
(────雨────?)
リゲルの額に水滴が当たる。
思わず目を開くと、先ほどまで雲ひとつなかった空に奇妙な雲が現れて渦を巻き、そこからぽつぽつと雨が降り始めている。
それは砂漠の街に似つかわしくない分厚い雨雲だった。
上空に突然巻き上がった巨大な雲を皆が見上げる中、その雲はやがて雷を伴う黒雲となり、風を呼び、すぐに本格的な嵐を招いた。
観衆は急激に荒れた天候に処刑への興味を失い、逃げるようにしてその場を去り始めた。
結局その日、リゲルは死ななかった。
見せしめのために集めた大勢の観客が去ったことで興醒めした主催者より、「『【星穿ち】のリゲル』の処刑は後日改めて行う」と宣言がなされ、リゲルはそのまま暗い牢獄に繋がれ放置された。
だが、生き残った所で、リゲルの中に残ったのは空虚さだけだった。
暗い牢獄の中で荒れ狂う嵐の音を聴きながら、やがてリゲルは自分が笑っていることに気がついた。
不意の自分の表情に戸惑うが、心の内を探るとその答えはすぐに見つかった。
リゲルが浮かべていたのは安堵の笑みだった。
自分はもう全てを失った。
でも、そのおかげでやっと全ての責任から逃れられた、と感じている自分がいる。
これでようやく『【星穿ち】のリゲル』という重荷から逃れられた、と。
胸を撫で下ろしている自分がいる。
……なんなのだ、自分は。
臆病者、卑怯者。
そんな言葉ではとても足りない、愚か者。
皆が信じ、信じさせた自分はその程度の存在だった。
自分は元々、そんなことは最初から知っていた。
知りながら、皆に『英雄』と持ち上げられるままにし、皆が信じたいと願う役割を演じることに心地よさを覚えた。
そうして皆が『【星穿ち】のリゲル』という虚構に酔うのを知りつつ、自らもその嘘を進んで信じさせようと努力した。
────その結果が、これだ。
結局、自分は嘘ばかりだった。
振り絞った勇気も、誇りも。
期待も。
何もかもが嘘だった。
自分は皆が信じてくれたより、自分が信じていたより、もっとずっと弱かった。
倉庫に最初の矢を放つ時も、手が震えていた。
すぐにでも逃げたいと思っていた。
ならばあの時、母が忠告したように迷わず逃げるべきだったのだ。
それなのに、自分を強く見せようとし、皆の期待通りの『英雄』を演じようとし、そうして結局、皆は『【星穿ち】のリゲル』の偽りの勇ましさに期待したまま死んだのだ。
────【星穿ち】?
そんな名前はもう、必要ない。
そう呼んでくれた者は皆死んだ。
いや、死んだのではない。
殺したのだ。
自分が。
いらぬ希望を駆り立てて。
その張本人だけが生き延び、己の責務からも目を背け、こうして一人で笑っている。
これが、皆に全てを期待された『【星穿ち】のリゲル』だった。
結局、皆はそんな虚構に生き、全てを賭けて死んだのだ。
そう思うとたまらなく悲しくなり、それ以上に全てが滑稽に思え────やがて、全てがどうでも良く思えてきた。
結局、もう全て終わってしまったのだから。
今更どんなに嘆いても、何もかもが遅い。
「……は、は……!」
そこにいるのは最早、全ての獣人の希望と呼ばれた少年ではなく、空っぽの自分を嘲笑うだけの何かだった。
あらゆる力を失ったリゲルは冷たい床の上に座り込み、自分の腕があった場所から血が流れ出ていく様子をただ眺めていた。
そんな無様な自分の姿を受け容れ、また力なく掠れた声で嗤う。
「────へえ。君。今、笑ったね?」
不意に暗闇の奥から、子供の声がした。
続いて、硬い石の床を蹴る複数の重い足音がする。
リゲルが音が近づいてくる方向を見ると、その先頭を歩いているのは15歳のリゲルより5、6歳下に見える、年端もいかない少年だった。
「……面白い。なんで、こんな時に笑うんだい? 君の父親はついさっき、無様に泣き喚いて君の命乞いをして死んでいったというのに。彼の意思を汲んで、最後まで汚く生き足掻かなくていいのかい? もしかして……もう自分の命なんていらない、なんて思ってる? なら、僕には好都合だけど」
刑務官数人を連れて近づいてきた少年は悪戯っぽい笑顔で鉄格子の中を覗き込むと、鎖に繋がれるリゲルに質問した。
だが、リゲルは何も答えなかった。
少年の問いへの答えは持ち合わせていなかったし、答えるだけの気力も残っていなかった。そんなリゲルの様子を気にするでもなく、少年は牢の扉の鍵を開け、四人の刑務官と一緒に入って、再び笑顔で問いかける。
「……ねえ。いらないなら、君の命、僕に売ってくれないかな? できるだけ良い値段で買い取るから」
「……ふざ、けるな。さっさと……殺……せ……!」
リゲルは嘲るような少年の言葉に苛立ちを覚え、思わず顔を上げた。
リゲルが一つ身じろぎすると、牢獄の壁に繋がる鎖が鳴る。
「へえ。その状態で喋れるんだ、すごいすごい。でも、悪いけど、これは対等な取引じゃない。元から君に断る権利はないんだ。君がこれから自分で決められるのは、自分を幾らの値で売るか、という一点だけ」
そう言って少年は複数の刑務官に押さえつけられるリゲルの顔を、また面白がるように覗き込む。
「……俺の処刑は既に決まっている。お前のような子供に何ができる」
「ふふ、その通りだね。でも、僕はこれでも『サレンツァ家』の一員なんだ。だから、できることは結構ある。例えば、こんなことぐらいなら」
少年の合図で刑務官の服装をした男が四人、また新たに牢に入ってきた。
そして、すぐさまリゲルを押さえつけていた四人の刑務官の後ろに立つと、一斉に彼らの首に短刀を突き刺した。
「……何を……している?」
暗い牢獄に血飛沫が舞い、四つの身体が同時に冷たい床に倒れ込むのをリゲルは虚ろな目で眺めていた。
「何って。君を助けに来たのさ。もちろん条件付きだけど。じゃあ、どうぞ。君も入ってきて」
別の刑務官に連れられ、牢に一人の少年が入ってきた。
リゲルとほとんど背格好が変わらない獣人の少年だった。
「彼、なかなか君に似てるだろう? たまたまそこで見つけたんだけど、こいつを上手く使おうと思ってるんだ」
無邪気な笑顔の少年とは対照的に、無理やり連れてこられた様子の獣人の少年はひどく怯えていた。
「何を考えているか知らないが……やめろ。そいつは俺と関係ない」
「……関係ない? それは違うよ。こいつは君の腕が切り落とされた時、ケラケラと楽しそうに笑っていたんだ。そして嬉々として足元の石を拾い、何度も何度も投げつけた。君と彼とはそういう関係」
「……だからどうした。俺はそんなことで恨まない」
「違う、違う。君は気にしなくても、僕が気にする。こいつは僕が欲しいと思ったモノを傷つけた。だから、相応の罰を受けなくちゃいけない」
「そ、そんなの、おかしいじゃないか!? 他にも居ただろう! な、なんで俺だけ────!?」
「……なんで、自分だけ? うんうん、罪人はみんなそう言うね。自分がしたことを棚に上げて。君はその典型だ」
少年が興味を失った冷ややかな瞳で獣人の少年を見つめると、獣人の少年の顔は恐怖に歪んだ。
「────ひ。ま、待って。あ、謝るから────!」
「謝って済むなら刑法はいらない、って言葉、知らないかい? 刑務官、いいよ。予定通りに進めて」
「は」
「ま、まッ……!?」
少年の合図で泣き喚く少年の腕が無慈悲に斬り落とされた。
獣人の少年はしばらくの間、冷たい牢の床で苦しそうなうめき声をあげていたが、血を流し続け、やがてピクリとも動かなくなった。
刑務官は少年の心臓が動かなくなったことを確認すると、絶命した少年の右目に焼鏝を押し当てて、リゲルと同じ拘束具を取り付けた。
「……何を……している?」
「わからないかい? ……いやあ、流石あの『【星穿ち】のリゲル』。死ぬ間際に暴れ回って大変だった。彼が死ぬまでに刑務官が四人も犠牲になってしまったよ」
「お前は……何を言っている?」
「状況は見ての通りだ。逃走を試みた『リゲル』は刑務官四人を殺害。騒ぎを聞きつけ駆けつけた他の刑務官数名が取り押さえたが、直後、失血死した────そういう内容の書類が、ここにある」
少年は血塗れの部屋の中で一枚の紙切れをたはめかせた。
「要するに、これで『リゲル』は死んだんだ。……おや? じゃあ、たまたまここに居合わせた君は、一体、どこの誰なのかな? もう、誰でもなくなってしまったね。これなら、君がここから居なくなっても誰も困らない」
「……まさか、そんなことのために殺したのか?」
「もちろん。彼が死んでも僕には何の損もないからね。いやあ、刑務官の弱みを握って協力を取り付けるのには苦労したよ……でも、よかった。これで誰も職を失わずに済む。ね、君たち?」
少年はそう言って、微笑みながら刑務官たちの背中をぽんぽんと叩いた。
「……お前らにとって命とは、そういうものなのだな」
「命には価値があるものとないものがある。君の命は僕にとってそれなりの価値があり、そこに転がる彼はそうじゃなかった。それだけの話」
「ふざけるな。何を期待されようと、お前らになど与しない」
「……お前らって『サレンツァ家』のことかい? なるほど、君は殺してやりたいほど僕らが憎いんだね? そういう顔をしている」
「……ああ、そうだな。俺にはもう時間はないが……お前一人殺すぐらいなら、わけはない」
リゲルの目に俄かに昏い光が宿り、片方だけになった腕に力がこもる。
すると、リゲルを牢獄に繋ぐ鎖が轟音を立てながら壁から引き抜かれていく。
そんな光景を目にした刑務官たちは慌てふためき、少年はまた笑う。
「はは、さすが。その目つきだけでも人を殺せそうだ」
「……脅しではない。本当に殺す」
「なら、なぜやらないんだい? 今、一言話す時間で、君は僕を何度殺せた?」
「それは────」
「きっと冷静な君は今、こう考えている。同胞を殺した『サレンツァ家』は確かに憎い。だが、こんな子供など殺して何になる? 本当の仇はもっと他にいるはずなのに────と」
「…………ッ」
少年に心の動きを正確に言い当てられたリゲルは、思わず歯噛みした。
「そこで本題。僕と君とで取引といこう」
「……応じると思うか? ここにいる全員を捻り殺すぐらい、片腕でもできる」
「いいから、聞けよ。君にとっても悪い話じゃないからさ」
少年は冷ややかな笑みを浮かべ、少年を脅すリゲルに顔を近づけた。
「……実は僕、家族からちょっと嫌われててね。特に親父から。最初の頃は結構可愛がってもらってたんだけど……最近はだんだん、怖がられるようになってきて。気付いたら食事に毒を盛られるぐらいにはなっていた。なんでだろうね? 今まで、何度か『家』の意向に背くことをしてるから、仕方ないことかもしれないけれど。最近なんて酷いよ。ろくに隠そうともしなくなってきた」
「……それで俺に同情しろとでも?」
「違うよ。協力しようって言ってるのさ。僕ら、嫌われ者同士でね」
「……協力、だと?」
「そうさ。僕はずっと探していたんだ。僕の傍に置いてもいいと思える人間を。そして、君が夜空に放った矢を見た時、やっと見つけたと思った。だから、今日君がここに来ることを知って、多少の無茶をしてここに来た。実は僕、今日の処刑には呼ばれてないんだ。だから僕は今、本当はここにはいないことになっている。今頃、僕そっくりの役者が優秀な使用人と湖畔で優雅にバカンスしてるから、何も問題はないはずだけどね」
「……一体、お前は何が望みだ」
リゲルは思わず少年に問いかけていた。
リゲルはずっと、少年を殺意を込めた目で見つめていた。だが、それを当たり前のように笑顔で受け止める少年を不気味に思った。
それはリゲルにとって初めて出会う、得体の知れない生き物だった。
「僕が提案する取引の内容はシンプルさ。これから君には僕を護って欲しい。その代わり僕も君を保護することを約束しよう」
「俺が……お前を?」
「そうだよ。君はこれから、僕が家族に殺されずに生き延びられるよう護るんだ────そうしてこの先、僕がちゃんと大人になるまで成長し、見事『サレンツァ家』の上に立つことができたなら、その時は君の全ての罪を帳消しにして完全な自由の身にしてあげよう。その場で彼らの首を掻き切るなり、八つ裂きにするなり、好きなようにすると良い」
「……そこまで待てず、最初にお前の喉を噛みちぎるかもしれんぞ」
「いいや、おそらく君はそれをしない。君は獣人に珍しく損得勘定のできる人間だ。僕一人を殺すことと、残りの『サレンツァ家』全員の命を天秤にかけて、少なくて価値がない方を選ぶなんて間抜けはしない。そうだろう?」
少年は首を傾げながら、嘲るような表情で自分よりずっと背の大きいリゲルを見上げた。
「……つまり、お前は自分の家族の命を『対価』として差し出すと? なぜ、そんなことを考える」
「言っただろう。僕は家族に殺されかけている。とはいえ、実はそんな日常も悪くないかな、って思っているんだけど。彼らとの命懸けの遊戯は退屈しないからね。でも……欲を言えば、僕はもう少し先の未来を見たいのさ。その為なら、家族の命を全て引き換えにしたっていいと思ってる────ま、要するに。君は僕に『自分の命』を預ける代わりに、彼らを皆殺しにするチャンスを得られるわけだ。ね? どうだい、この取引。君にとっても悪い話じゃないと思うけど」
リゲルは少年が饒舌に話す間、赤黒く染まった牢獄の床をじっと見つめて黙ったままだった。だが、次第に光の消えた目に昏い感情の火が宿るのを見て、少年は血の匂いが充満する牢獄の中で満足そうに微笑んだ。
「……ああ、そうだ。君が名無しのままじゃ不便だし、新しい名前を考えなきゃね。『シャウザ』、なんてどうだい? 小さい頃、僕が飼っていた猫の名前なんだけど」
そう言って少年は無邪気に笑った。