アウシュヴィッツ強制収容所では、一部の医師たちが男女の囚人を実験台に、好き勝手な人体実験を繰り返していた。例えば、カール・クラウベルク教授は婦人科検査と称して、膣内に薬剤を注入して大量断種(強制不妊)の方法を研究した。この薬剤は炎症により卵管を数週間で肥大させて閉塞に至らせた。実験台にされたユダヤ人女囚は高熱、腹膜炎、性器出血を発症し、一部は死亡し、一部は解剖のために殺された。
アウシュヴィッツ強制収容所では、一部の医師たちが男女の囚人を実験台に、好き勝手な人体実験を繰り返していた。例えば、カール・クラウベルク教授は婦人科検査と称して、膣内に薬剤を注入して大量断種(強制不妊)の方法を研究した。この薬剤は炎症により卵管を数週間で肥大させて閉塞に至らせた。実験台にされたユダヤ人女囚は高熱、腹膜炎、性器出血を発症し、一部は死亡し、一部は解剖のために殺された。
カール・クラウベルク
資料提供:APMA-B
1898年9月18日にヴッパーホフで生まれる。医学博士、婦人科医、ケーニヒスベルク大学教授。第二次世界大戦勃発の際は、ホジュフ聖ヤドヴィガ病院婦人科診療所長を務めていた。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命により、1942年末から1945年1月まで、アウシュヴィッツ強制収容所でユダヤ人女囚を実験台にして大量断種を目的とした人体実験を繰り返す。戦後、1955年10月まで、ソ連の捕虜になる。その後、西ドイツに移り住む。同年11月21日に逮捕され、ドイツ医師会により医師免許を剝奪された。このほか、一切の学位も剥奪される。公判を控えた1957年8月9日にキールの拘置所で亡くなった。
…アウシュヴィッツ第一強制収容所にクラウベルク教授が来て…私はまた実験台にされた。裸で黒い台に載せられ、電灯のついた白いガラスをかぶされた。手術室の電気が消され、膣に器具か何かを入れられた。出産に似た痛みを感じた。赤いランプが点いていた。その後に写真を撮られた。この実験は、クラウベルク教授が行っていたが、それを手伝っていたドイツ人医師の名は知らない。翌日も写真を撮られたが、膣に器具は入れられなかった。同じ実験が2週間後とそのさらに2週間後に繰り返された。この実験の合間に、胸に初めは3本、数日後には一気に9本、何かを注射された。…1944年7月にクラウベルク教授がまた来た時、私はもう役に立たないと言われ、他の12人の女囚と一緒にビルケナウに移された。それ以外の女囚は10号棟に残された。
出典:Mitie Harpman, APMA-B, Oświadczenia, t. 1, s. 47.
証言者の紹介
ミティエ・ハープマン
1902年にアムステルダムでオランダ系ユダヤ人女性として生まれる。アウシュヴィッツ強制収容所の10号棟で人体実験に利用された。1945年2月にアウシュヴィッツ強制収容所跡で、ソ連の調査委員会に証言した。
資料提供:PMA-B
アウシュヴィッツ第一強制収容所の10号棟では、1943年4月から1944年5月までカール・クラウベルクが女囚らを実験台にして人体実験を繰り返した。
資料提供:PMA-B
第10棟に設けられた内診台の現在の姿
ユダヤ人の女囚と男囚を実験台にして、ホルスト・シューマン医学博士も断種実験を行った。2台の装置で男囚の睾丸と女囚の卵巣にX線を照射し、完全な不妊に至らしめる放射線量を調査した。被曝した囚人は重度の火傷、炎症、治癒困難な化膿性病変に苦しんだ。断種実験の数週間後、実験台にされた女囚と男囚の一部は、照射された生殖器官を組織学的検査や比較のために切除された。このほか、一部の被害者は収容所で選別され、ガス室に送られた。
ホルスト・シューマン
資料提供:APMA-B
医学博士、国民社会主義ドイツ労働者党員、ドイツ空軍中尉、親衛隊少佐。1906年5月1日にハレで生まれる。1939年8月からヴュルテンベルクのグラーフェネック安楽死施設の所長を務め、1940年12月からは、ピルナにほど近いゾンネンシュタイン安楽死施設の所長を務める。1941年7月、アウシュヴィッツ強制収容所を初めて訪れ、障害者等を強制的に安楽死させるT4作戦の延長として、慢性疾患や障害を持つ囚人を14f13作戦で殺害すべく選別した。ドレスデンの療養所に連れて行くという口実で選別された囚人575名は、ゾンネンシュタイン安楽死施設の浴場で一酸化炭素で中毒死させられた。1942年末に安く効率よく大量断種する方法を開発すべく、アウシュヴィッツを再訪する。ユダヤ人の女囚と男囚、合わせて数百名を実験台に、X線照射による断種実験を行った。戦後、1951年まで西ドイツで暮らしたが、逮捕を恐れて日本に逃げた。1955年にはスーダンに移り、1959年にナイジェリアに逃げた。1960年にガーナに移り住み、そこで世論の圧力により1966年に逮捕され、西ドイツに引き渡された。1970年9月23日、フランクフルト参審裁判所で法廷にかけられた。しかし1971年4月に、シューマンの容体悪化を理由に起訴は取り下げられた。
医師であったヨーゼフ・メンゲレ博士も、人類学の観点からロマなど異なる民族を研究したほか、双生児や小人症患者の形質遺伝を、生理学や病理学の観点から研究した。ユダヤ人やロマから選ばれた双子や先天性異常を持つ患者は、彼の意のままに身体計測、血液検査、歯科検査、外科的な検査などを受けさせられた。そして、写真を撮られ、石膏模型を作るために歯型を取られ、手足の指紋を採取された。検査が終わると、実験台となった人々は心臓にフェノールを注射されて殺され、解剖で内臓が比較された。メンゲレは、左右の目で虹彩の色が異なる人々にも興味を示した。彼はそんな虹彩異色症の人々の目に、各種の化学物質を滴下し、さまざまな病気や障害を引き起こし、しばしば失明に至らしめた。メンゲレはジプシー収容所で、ロマを悩ませたノーマ(水癌)と呼ばれる壊疽性の口内炎の原因と治療法も研究した。患者の大半を占めた子供たちは、薬物で治療を受け、特別な療養食も与えられた。しかし、メンゲレが選んだ子供たちは殺され、死体または摘出した試料は、組織病理学検査のためにライスコ親衛隊衛生研究所に送られた。
ヨーゼフ・メンゲレ博士
資料提供:APMA-B
1911年3月16日にギュンツブルクに生まれる。人類学博士号と医学博士号を取得する。国民社会主義ドイツ労働者の党員となる。1938年から1940年まで、ドイツ国防軍で兵役に服し、武装親衛隊に入隊する。1943年2月から5月まで、戦線に派兵され、そこで負傷する。医学と人類学の観点から研究を行うため、アウシュヴィッツ強制収容所への配属を志願し、第二強制収容所ビルケナウBIIe区域のジプシー収容所担当医となる。1944年8月から12月まで、男女の収容区域全てを管轄するビルケナウ医務長を務める。1944年11月、ビルケナウの親衛隊病棟担当医に任命される。アウシュヴィッツ強制収容所では、多胎妊娠とその発生条件、双生児と小人症患者の形質遺伝について実験を行ったほか、ノーマ(水癌)について研究した。残虐な人体実験を繰り返したメンゲレが裁かれることは、ついになかった。1949年にアルゼンチンに渡ってからも、追及を逃れて住まいを転々とした。1979年にブラジルで亡くなった。
資料提供:APMA-B
ロマの子供たち:シュミット兄弟(ヨハンナ6歳とエルドマン5歳)もヨーゼフ・メンゲレ博士の残虐な人体実験の犠牲となった。
資料提供:APMA-B
ライスコ親衛隊衛生研究所に12歳児の頭部の組織病理学検査を要請する書面に、ヨーゼフ・メンゲレ博士が署名している。
メンゲレ博士本人から受けた人体実験は、確か2~3回くらいだったと思う。ほとんどの場合、人体実験は彼の指示を受けた囚人の医師が不定期に行っていた。…双子の私たちは、だいたい数日おきに呼ばれた。「クレイン兄弟はこの収容棟にこの日に来るように」とね。メンゲレ博士の人体実験のために、ジプシー収容所の診療室に呼び出されて、採血、歯や目とか、いろんな検査をされた。採血はしょっちゅうされて、ついでに何か注射されたような気がしないでもない。一番嫌だったのは目の検査だ。何か薬をさされ、目がどうなっているか観察された。メンゲレ博士は臨床検査だけ、自分でこなしていた。服を全部脱ぐように言われ、体を隅々まで調べられた。手術などは自分でしていなかった。…
メンゲレ博士は私たち患者に対しては、礼儀正しかった。誰も殴られたことは一度もない。そして、彼の名前に守られていたとも言える。例えば、たまたま囚人頭や親衛隊員に虐待された時、メンゲレ博士に言いつけると叫ぶと、奴らも怯み、効果てきめんだった。博士の診療室に入ると、女囚の看護婦と通訳が手伝っていた。…いつも兄弟で入室した。…私たちグループでは、メンゲレ博士の検査から戻ってこなかった双子はいなかった。メンゲレ博士は、自分が計画した人体実験を完了するまでは誰も殺さなかったのだ。私たちのグループでは、誰かが殺されるまで実験が進まなかったのだ。…
出典:Otto Klein, APMA-B, Oświadczenia, t. 125, s. 124-126.
証言者の紹介
オットー・クライン
1932年6月7日生まれ。1944年6月27日、アウシュヴィッツ強制収容所へ移送され、囚人A5332号として登録される。収容所到着直後の選別で、双子の兄弟とともに、ヨーゼフ・メンゲレ博士の人体実験の実験台に選ばれる。1945年1月27日、アウシュヴィッツで解放された。
ミュンスター大学の解剖学教授であったヨハン・パウル・クレマー博士は、飢餓による人体への異変、肝褐色萎縮について人体実験を行った。この目的で、極度に衰弱した囚人たちの中から、クレマーが実験台を選び、心臓への注射で殺し、すぐに肝臓、脾臓、膵臓の一部を研究用の試料として摘出し、保存した。このほか、エドゥアルド・ヴィルツ博士は子宮頸がんを人体実験により研究した。実験台に選ばれたユダヤ人女囚らは、前がん病変を発見するために膣の検査を受けた。病変が疑われるか発見された場合、子宮頸部が摘出され、研究試料としてハンブルクの組織学研究所に送られた。
ヨハン・パウル・クレマー。
資料提供:APMA-B
1883年12月26日生まれ。医学博士号と哲学博士号を取得する。ミュンスター大学で教授を務める。1932年7月30日に国民社会主義ドイツ労働者党員となる。1935年には一般親衛隊員、1941年から武装親衛隊員となる。ベルリンの親衛隊衛生局、およびダッハウとプラハの戦線で武装親衛隊員部隊の病棟で服務する。1942年8月30日から1942年11月18日まで、罹病した医師の代員としてアウシュヴィッツ強制収容所で勤務する。自身が関心を寄せる肝褐色萎縮を研究すべく人体実験を行い、飢餓で衰弱した人々から採取した組織を検査した。自身が参加した選別などを含め、日々の重要な出来事を日記に書き留めた。アウシュヴィッツ強制収容所を離れ、軍医としてプラハに駐屯する武装親衛隊で服務した。1943年1月30日に親衛隊中尉に昇格した。
戦後、ポーランドに身柄を、引き渡され1947年12月22日に最高人民裁判所で死刑判決を受けたが、のちに終身刑に減刑された。1958年に釈放され、西ドイツに引き渡され、再び法廷にかけられた。起訴された容疑で有罪判決が下されたものの、ポーランドで服役した10年は刑期から差し引かれた。
1944年にドイツ国防軍の医師エミル・カシュブがアウシュヴィッツ強制収容所に赴任し、当時の東部戦線などで問題になっていたドイツ兵による詐病、すなわち故意に誘発された怪我、潰瘍、発熱などを見破る方法を人体実験により研究した。カシュブは、囚人の手足に各種の毒物を注射したり、皮膚に擦りつけたりした。またドイツ兵がよく訴えていた症状を、囚人にも誘発させるために経口薬も投与した。ユダヤ人数十名がこのような人体実験の犠牲になり、炎症、化膿性病変、治癒困難な潰瘍や壊死に苦しんだ。その一部は、収容所での選別により、ガス室に送られた。
僕は1944年6月にアウシュヴィッツ強制収容所に連行されてきた。1944年8月の初めに、飢餓で足がむくみ、病人としてアウシュヴィッツの19号棟に入れられた。…1944年8月22日頃、僕らの19号棟に収容所の主任医師クラインが率いる委員会が訪れた。親衛隊曹長エミル・カシュブも一緒だった。委員会は病人を診察しながら、僕と同年代の仲間20名を選び、28号棟の13号隔離室に入れた。エミル・カシュブが親衛隊員に、僕たちを外に出さないように命令し、僕たちにも他の囚人との接触を禁じた。隔離室からは24時間に1度だけ、便所に行くために出してもらえた。それ以外は、隔離室に置かれたバケツに用便を足した。13号隔離室に入れられて2日目から、エミル・カシュブは、囚人だった弁護士のシュテルン博士とハンガリー人囚人のシュヴァルツ医師とともに、僕たちの体でいろいろ実験し始めた。
エミル・カシュブは直々に、小さなノコギリで僕ら20人のふくらはぎの皮を剥し、一人の傷口には軟膏を、別の一人の傷口には薬液を塗ったりして、みんなの皮膚が化膿したり、傷口が癒えたりするのを観察した。毎日、僕たちの傷口の写真を撮り、傷口が思い通りに化膿すると、直ぐに一人一人から感染した組織を筋肉と一緒に切り取って持ち去った。僕らだけでなく、収容所の仲間たちも、似たような実験を受けた。…
写真撮影の時、エミル・カシュブは僕らを机の上に立たせた。窓を覆い、専用のライトで写真を撮っていた。その間、「どうだ、痛むか?」と尋ね、相手が「はい」と返事をしたら、「ドイツの兵隊はな、薄汚いお前らユダヤ人のせいで苦労してるんだ」とけなしたりした。
その後、エミル・カシュブはブリュッセルへ去った。彼がいない間、シュヴァルツ先生が僕たちを一所懸命に治療し、元気になった者を他の収容棟に行かせてくれた。しかし、どうしても治せなかった者は、収容所管理部の指示により、死体焼却棟で殺されて焼かれた。
出典:Tomasz Bardij, APMA-B, Inne Zespoły, 1/1, t. 2, s. 75-79.
証言者の紹介
トマシュ・バルディイ
1923年にブダペストでハンガリー系ユダヤ人として生まれる。ドイツ国防軍の医師エミル・カシュブの人体実験に利用される。解放後、収容所跡で活動したソ連の調査委員会に証言した。
資料提供:APMA-B
エミル・カシュブが人体実験で引き起こした炎症、化膿性病変、潰瘍を記録した写真は、収容所の写真室で使役されていた囚人が守って保存していた。
資料提供:APMA-B
エミル・カシュブが人体実験で引き起こした肌の病変を記録した写真は、収容所の写真室で使役されていた囚人が守って保存していた。
資料提供:APMA-B
体温表に記載されている囚人108997号ヴワディスワフ・ギジェフスキは、チフスを患い、薬理実験に利用された。
資料提供:APMA-B
Be-1034薬剤はバイエル社が製造し伝染病に感染した囚人たちに実験的に投与された
1941年から1944年にかけて、親衛隊の医師たちは、伝染病に感染した囚人たちに、新開発の薬剤をさまざまな用法と用量で投与し、その効果を試していた。とりわけフリードリヒ・エントレス、ヘルムート・フェター、エドゥアルト・ヴィルツが主な役割を担っていたが、フリッツ・クライン、ヴェルナー・ロード、ハンス・ヴィルヘルム=ケーニッヒ、ブルーノ・ヴェーバー、薬剤師ヴィクトル・カペジオス(収容所の薬局長)も関与していた。囚人たちをわざと伝染病に感染させることも多かった。実験は、しばしば吐血、痛みを伴う血便、循環障害につながった。囚人が死亡すると、その一部は、投与された薬物による病変がないか調べるために解剖された。