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小説 スズキ氏の聞いた話(3)

 スズキ氏の知人に、加治木かじき夫人という女性がいる。彼女がいつだったか、スズキ氏に語った話。


 加治木夫人は元保育士で、とある保育園で園長まで勤め上げて定年退職したという女性だった。
 彼女自身の子供たちもそれぞれ独立し、今は夫とともに悠々自適の生活をしているという。整った身なりにおだやかな物腰で、上品という言葉が服を着ているような人物だった。面会場所の古びた喫茶店内の雰囲気にも、彼女の姿はよく調和していた。
 その加治木夫人が、その雰囲気のままの口調で語る。

 まだわたしが、なんの役職もない平の保育士として働いていたころのことでした。当時はまだ保母と呼ばれていましたっけ。
 わたし自身も弟妹が多かったし、子供たちと関わるのは好きでしたから、大変なこともそれはたくさんありましたけど、やりがいのある仕事でした。天職とすら思っていたんですよ。

 そのとき受け持っていたのは年中さんのクラスでした。そこに、ある女の子がいたんです。そうですね、名前は出せません、すみません。Aちゃん、とでもしておきましょうか。
 べつに、普通の子でしたよ。家庭環境に問題があるでもなく、同級の子たちとも仲がよかったし、年上の子にいじめられているとか、逆に年下の子たちに当たりが強いとか、そんなこともなく。
 活発な子ではありました。よくグループのリーダーになっていて、といって暴力や金銭で支配的な行動に出るわけでもなくて。
 おませな子で、まだ若かったとはいえ大人のわたしにも物怖じすることなく、先生、先生、とよく慕ってくれましたっけ。


 そのAちゃんについて、どうしても忘れられないことがあるのだ、と加治木夫人は言う。


 あれはいつごろのことだったか。暑い時分だったと思います、ミンミンゼミがよく鳴いていたのを覚えていますから。
 年少クラスから年長クラスまで混ざって、園庭にみなを出して遊ばせていたときのことです――そうですね、夏といってもまだ今ほどの猛暑にはなりませんでしたから。昔は夏場でもそうやって外遊びをさせていたものです。

 幼児といっても彼らなりの社会があるもので、仲の良いグループで数人ずつ集まって、園児たちはみな自由に遊んでいました。遊具で遊んだり、砂場でお山や泥団子をこしらえたり、地べたに座って草花を摘んだり、少し広さのあるところでは鬼ごっこやボール遊びに熱中したり。
 Aちゃんは、同級の年中クラスの子と、年少クラスの子を何人か集めて、おままごとを始めたようでした。Aちゃんがお母さんで、あとはそれぞれ、お父さんだとか、こどもたちだとか、お隣さんだとか、役割を受け持って。
 園児たちみなにそうしているのと同じように、わたしは、もちろんAちゃんたちのグループにも目を配っていました。むろん他の保母たちも同様です。何人の大人の目があっても、思いもかけないときに、思いもかけないことで事故や怪我につながってしまうのが、このくらいの子供たちの常ですから。

 Aちゃんたちのおままごとは、何事もなく進行しているようでした。お父さんは仕事に出かけ、お母さんはこどもたちの世話をしたり、買い物に行ってお隣さんと井戸端会議をしたり。
 ふと、こども役をしていた年少さんが泣き出してしまいました。原因がなんだったのかは、正直記憶がおぼろげです。近くにいた子の手足や体がちょっとぶつかったとか、そういったよくあることだったのかなとは思います。
 Aちゃんはお母さん役らしく、あるいは、もともとの性格がそうだったのもありますが、泣き出した子をなだめたり、あやしたりし始めました。利発で面倒見のいい子でしたから、こういう場面は珍しいものではありませんでした。
 でも、こども役の子はなかなか泣き止まなくて。その子はいわゆる早生まれの子でしたから、体も小さめで、いつもむずかり始めると長い子だったんですね。わたしが見かねてそちらに駆け寄ろうとしたときです。

 Aちゃんはその子に向き合って両肩を掴むと、うつむいて泣くその子を覗き込むように、鼻と鼻が触れ合わんばかりにぐうっと顔を寄せて、

「もくあみに、しちゃおうか」

 はっきりと、そう言いました。
 わたしの足は思わず止まりました。
 「元の木阿弥」という言葉はあります。Aちゃんのような賢い子だったら、どこかで聞いたその言葉を覚えていても不思議はないし、それがたまたま口から出ただけなのかもしれません。しかし、その口ぶりがなんだか、わたしには、
 ……恐ろしくて。

 加治木夫人は言い淀んだ。
 Aちゃんの言う「木阿弥にする」というのが、どういう意味なのか把握できたわけではない。また、Aちゃんがことさらに恐ろしい作り声を出したとか、大声でおどしつけたとか、そういうわけでもなかった。それなのにどうしてそれがこんなに恐ろしいと感じたのか、加治木夫人にはわからなかったと言う。そのことがまた、恐ろしくてならなかった、とも。

 立ちすくむ加治木夫人に気づいたのか、Aちゃんは、こども役の子の肩を掴んだまま、ぐいっと顔だけで振り返った。
 そして、もう一度、

「せんせい。もくあみに」

 そこから先はわからない、と加治木夫人は言う。

 お恥ずかしい話ですが、耐えられなくなってしまって。わたしはきびすを返して、園舎の中へ逃げるように駆け込みました。いかにも何かを取りに行くようなふりをして小走りに職員室まで行って、自分のデスクの前で何度か深呼吸をして、やっといくらか落ち着きました。

 そこで気づきました。

 セミの声がしないんです。当時は夏場でも窓を開けて風を通していましたから、あんなにうるさかった声が聞こえないわけがないのに。
 そして、泣き出したらしばらくは泣き止まないはずの、あのこども役の子の鼻声も。
 まるで断ち切ったように、ぴたりと聞こえなくなっていて。

 加治木夫人は顔を上げ、職員室の窓から園庭のほうを見やった。


 園児の全員が、こちらを見ていました。
 こちらに体を向けていない子も、Aちゃんのように、ぐいっと顔だけこちらを向いていて。

 全員と、目が合ったんですよ。

 そこで話は終わった。
 加治木夫人はひとつ息をついて、静かに紅茶に口をつけた。

 スズキ氏もつられたように目の前のコーヒーカップを取り上げて――

 そこで気づいた。

 外からの音が聞こえない。
 喫茶店内は空調が効いていて、窓は閉め切ってある。しかし、広い道路沿いの店だ。さっきまでひっきりなしに、通り過ぎる車の音が聞こえていたし、ごく近くを歩く歩行者の声も、ぼんやりと聞こえていたはずだったのだが。

 窓の外を見る気持ちにはなれなかった。
 取り上げたコーヒーカップの中身を、スズキ氏は顔を上げることなく、一心にすすり込んだ。

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創作ができる人になりたいなあと言っているだけの口だけ星人です。うまいものだけ食べて生きていきたい。
小説 スズキ氏の聞いた話(3)|葛城ユキヒロ
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