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二泊三日、1Kにて/Novel by 小早川

二泊三日、1Kにて

40,894 character(s)1 hr 21 mins

2426のささろ。簓と交際中の26盧笙が24簓の元へタイムスリップ、しかし未来から来たことを隠しているため違和感に心乱される24簓のお話。DAY1までを秋さろで展示させていただきました。
2426のリクエスト嬉しかったです。ありがとうございました!

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DAY1

 ウメダやシンジュクの駅は複雑な構造で迷いやすい、いわゆるダンジョン駅として有名だが、簓はこのイケブクロもなかなかに分かりづらい駅だと思っていた。謎にいくつもある西口や東口、各線へ行くために地下を通る初見殺しの導線、駅構内に未だ残る古い名称。駅の構造を理解した今でこそ慣れたものの、オオサカから出て来たばかりの頃は行きたい出口に辿り着けず苦戦したものだった。

 とはいえ、迷った先に意外な出会いが待っていたこともある。やけになって歩き疲れた頃にあの有名なふくろう像を見つけたときはちょっと感動して記念撮影したし、奥まった場所にある喫茶店へ入ったら偶然美味いクリームソーダを発掘したこともあった。夜遅く、閉店したシャッターの並ぶ突き当りでヤクの裏取引を見かけ、烈火のごとくキレ散らかした左馬刻を召還したのはわりと記憶に新しい出来事だ。

 迷い道の果てには思いがけないものがある。簓の予想を軽々と飛び超えたものが。

「盧笙……」

 すらりと高い身長。整ったきつめの顔立ち。後ろに撫でつけた髪のセットは昔より緩めで、見たことのないシャツとベストを着ているが、それで見間違えるわけもない。彼がこちらを振り向く動きに合わせて丸い眼鏡につけられたグラスチェーンが揺れた。その姿を正面から捉えて、簓の息が止まりそうになる。

 駅構内の地下、左馬刻に指定されたコインロッカーへ向かう道すがら。しばらく迷って袋小路に行き着いた簓の前に、かつてオオサカでコンビを組んでいた相方が立っていた。

 


「簓!よかったお前もおったんか!なんや気ぃついたらよう分からん場所におって……」

 あまりの事態に一瞬意識が飛びかけた簓だったが、目の前の人物が駆け寄ってくるのを見てすぐに正気を取り戻した。簓の元相方、今もオオサカに住んでいるはずの盧笙は数メートルの距離をあっという間に詰め、簓のすぐ傍に寄り添うように立った。近い。漫才をするときくらい、近い。簓はまずその距離感に動揺した。一方の盧笙は白い首を伸ばして落ち着きなくキョロキョロと辺りを見渡している。簓は盧笙から一時も目が離せないというのに。

「なあ簓、ここどこやと思う?俺はまったく見覚えないねんけど」
「え、えーと、盧笙……?」
「ん?どないした?珍しくボケッとしよって」

 盧笙はキョトンとした顔で言う。まるで簓の方がおかしいとでも言いたげな口調だった。つい引きずられかけたが、いやどう考えても妙なのはコイツやと思い直した。だって二人が会うのはコンビを解散してからこれが初めて、実に約四年ぶりなのだ。

 いつか偶然会うこともあるだろうと考えてはいた。だから簓はこれまで何度も、何パターンもイメージしてきた。盧笙と再会した時のための会話を。今日のこれはそのどれとも違っていた。

「簓お前」
「え、」

 おもむろに盧笙の右手が伸びてきて、ふわりと簓の襟足に触れた。硬直する簓の様子にはまったく気づいていない様子で、そのまま簓の首筋をさわさわと撫でる。柔い指先の感触に全神経が集中する。

「お前、こんな髪短かったっけ?いつの間に切ったんや?」
「か、髪?」
「ちゅーか服も、そんな青いスーツ持ってたか?初めて見た。衣装か何かか?」

 盧笙の右手はそのまま真下に降りてきて、気安い手つきで簓のスーツの胸元をぽんぽんと叩いた。初めて見たって、当たり前や。何年ぶりやと思ってんねん。お前の服かて俺知らんわ。そもそも今服とか髪とかどうでもええやろ。頭の中ではそんな言葉が次々と浮かぶが、驚愕の余波が引かず何も音にならない。目の前で起きている現実に頭が追いつかない。盧笙があまりに自然に、昨日ぶりに会った友人のように話しかけてくるせいで、簓の脳内はぐるぐると混乱を極めていた。

 簓が最後に見た盧笙とはまるで別人だ。ずぶ濡れになって虚ろな目をしていたあの日など存在しなかったかのように、目の前の盧笙は朗らかに簓に話しかける。

「そんで、簓は今の状況分かるか?ここがどこかとか、俺らがなんでここにおるんかとか」
「……どこも何も、ここはイケブクロやん。俺は今ここに住んでんねん」
「はあ?イケブクロ?住んでる?簓が?今?」

 盧笙は形の良い眉を訝しげにひそめた。どうやら初耳らしい。事務所には東へ行くことを伝えてから発ったが、退社していた盧笙の耳にまでは入らなかったのか。

「お前いったい何を言うてんのや?お前が住んでんのはオオサカやろ」
「いや、俺今芸人休業中やん。ちょっと気分変えるためにこっち出てきてん」
「休業中……」

 相方を探しに来たなんて盧笙には言えない。そこを突っ込まれたら上手く誤魔化さねばと思案している簓をよそに、盧笙は口をぱくぱく開閉させながら簓を凝視する。

「エイプリルフール……やない、よな?」
「全然季節ちゃうやんけ。まあ色々と成り行きでな。盧笙は?なんで東都におんの?」
「簓がイケブクロに住んどる……?まさか、あり得へん。いやでも……そんなアホな。そんならさっきの攻撃は」

 急に盧笙の様子が変わった。ぶつぶつと何か呟きながら慌ててスラックスのポケットから手帳型のスマホケースを取り出し、画面をしきりにタップしたり端末の電源ボタンを連打したりしている。一心不乱にそんな操作をひととおり試してから、途方に暮れたように頭を抱えた。ついさっきまで明るかった顔がみるみるうちに青ざめていく。

「あかん、動かへん。充電はまだあったはずやのに」
「なに、スマホ壊れたん?駅前にだいたいのキャリアの店あるけど」

 今本当に話すべきはこんなことではないと思うのに、つい目先の話題に飛びついた。ところが盧笙は顔面蒼白のまま首を横に振る。
 
「いや、たぶんこれは故障やなくて……な、なあ簓、今お前は何歳や?」
「は?俺ら同い年やで。24歳に決まっとるやん」
「なっ……お前、ほんまに簓なんやろな!?俺らが初めて会うた場所と俺が簓に貸しとる金額言うてみい!」
「さっきからなんやねん藪から棒に……養成所に入る前の面接会場と500円やろ?」
「簓や……」

 盧笙はふらりとよろめき、簓の姿を上から下まで眺め回した。彼の様子が一変した理由が見えないまま、とりあえず簓も同じようにする。盧笙は解散した時より明らかに背が高くなっていた。簓も多少伸びたが、盧笙の成長はそれ以上だ。捲った袖から見える腕はがっしりとした太さがあった。健康で、元気そうだった。

「……盧笙」
「……っ!」

 思わず簓が手を伸ばそうとしたその瞬間、いきなり盧笙が踵を返して簓と反対方向へ走り出した。ぎょっとして反射的に追いかける。簓より足が速いからあっという間に離されてしまう。見失ってたまるかと速度を上げてついて行くと、盧笙が百メートルほど先にあったコンビニへと飛び込むのが見えた。そのまま真っすぐ雑誌コーナーに向かい、今日付けの新聞を引っ掴んで広げる。盧笙の視線は誌面を縦横無尽に走り、数秒置いてその全身がわなわなと震えはじめた。

「はあっ……おい盧笙!いきなり何をやってんねん!」
「簓……」

 盧笙の腕を強く腕を掴んでこちらを振り向かせた。されるがままに顔を上げた盧笙を見て、たじろいだ。不安で潰れそうな面持ち。眼鏡の奥の凛々しい瞳は、先ほどまでと打って変わって頼りなく揺れていた。一体盧笙がどうなっているのか、簓は相変わらず訳が分からなかった。盧笙はしばらく逡巡するように黙り、それからおずおずと口を開く。

「すまん。ちょっと取り乱した……もう大丈夫や」
「全然そうは見えへんで。盧笙、何があったん?もしかして迷いでもしたんか?」
「……ああ、そうや。迷ってもうたみたいや。今日、仕事でこっち来てんけど、どうやら降りる駅を間違えたらしい」
「仕事」

 サクッと、胸に鋭利な何かが刺さる。解散した後、盧笙が進学した大学に通っていた知り合い伝いに教職を目指しているということは聞いていた。盧笙先生になったんか、おめでとう。そう言わなくてはならない。早めに、自然に。今すぐに。

「あんな盧笙、俺」
「ほな、俺はそろそろ行くわ。邪魔してすまんかった。またな……簓」
「ああ、また……って、」

 耳を疑った。今なんと言った、この男は。なぜ腕を掴む簓の手を剥がそうとしているのだ。

「ちょい待ち!盧笙もうどっか行くんか!?」
「ああ。迷ってたっちゅーことが分かったし、もう行かんと……」

 盧笙は簓から目を逸らし明後日の方向を見た。簓の頭に鈍器で殴られたような衝撃が走る。信じられない。何か事情がありそうとは言えまさか、元相方との再会をこれで終わらせるつもりなのか。こんな数分で。中身のない会話だけで。次の約束も何もないまま。
 
 そうはさせまいと、盧笙の腕を握る手に力を込めた。
 
「なあ、行くってどこへや?東都のどの駅?」
「あー……それは」
「もう外暗くなっとるし、今日は泊まりやろ?ホテルはどこに取ってんの?」
「ホテルは、まだ……」

 盧笙の視線はあらぬ方向へ泳いでばかりだ。器用にいなしたり誤魔化したりする術を持たない、生きづらいほどに正直すぎる性格は変わっていない。この歯切れの悪さはきっと簓の問いに答えたくないか、あるいは答えを持たないか。

「盧笙、お前スマホの調子悪いんやろ?現金は?十分にあるんか?」
「あっそうや、財布!」

 盧笙は思い出したように尻ポケットから黒い二つ折りの財布を取り出した。ちらりと外側を見た限り、意外にもそこそこ値の張るブランド品だった。盧笙はざっと財布の中身を確認してからがくりと項垂れた。

「まあ1泊分くらいはなんとかなるか、ネカフェとかあるやろし……」
「心許ないんか」

 咄嗟に貸そうかと言いかけた。いまいち掴めない盧笙の事情にこれ以上踏み込んでいいものか分からない。これでこじれたら洒落にならんでと、簓の理性がブレーキをかけようとする。しかし本能がそれを無視した。今日このまま盧笙とサヨウナラすることだけはあり得なかった。

「ほんならさ、ウチに泊まったらええやん。ここから近いで」
「えっ……いや、でも」
「そない驚くことやないやろ。前もお互いの家に泊まったりしたやん」
「それは、確かにそうやけど……」

 当惑が盧笙の顔に浮かぶ。ようやく現在の二人の距離感を思い出したのだろうか。だとしたらこのまま一緒にいるのは気まずいかもしれない。だがそうだとしても簓は、今この手を離すことは出来そうになかった。胸の内の焦りを悟られないように笑ってみせると、盧笙の険しい表情が少し緩んだ。

「別におかしいことあらへんよ。金は節約できた方が助かるやろ?困ったときはお互い様や。盧笙やって俺が困ってたら助けてくれるやろ?」
「まあ、せやな……」
「な。焦っとる時こそ一旦どっかで落ち着くべきや。ウチ来て、盧笙」
「……お前が、そう言うんなら」

 畳みかける言葉に、盧笙はとうとう頷いた。



 連れ立って駅を出ると既にとっぷりと日が暮れていた。ターミナル駅であるイケブクロはこの時間通勤通学客でごった返しているが、この数年で慣れきった簓は人混みを縫うようにずんずん歩く。右手は盧笙の左手首を掴んだままだった。誰に見られようが気にする余裕はなかった。盧笙は少し調子を取り戻してきたらしく、通り過ぎる見慣れない街並みのあちこちを興味深そうに眺め、「あそこは何の店や?」とか「スーパーは近いんか?」などと尋ねてきた。今話すことそれかい、と思いながらも簓はすべてに回答した。

 左馬刻に手配してもらった単身者用マンションは駅から徒歩五分圏内で、大人の足で急げばあっという間に着いてしまう。普段はエレベーターを使うが万が一の非常階段も近い部屋。扉の前に二人佇み、盧笙にじっと見られたまま鍵を開けた。今さら胸のざわめきが強くなる。勢いでここまで来たものの、考えてみればこの家に他人を入れたことはほぼなかった。左馬刻はなるべく妹のいる家に帰りたがるし、十代たちをもてなすようなものは何も持っていなかった。

「ほな、何もない部屋やけど適当にゆっくりしたって」
「ありがとう。お邪魔します」

 簓が押さえたドアから盧笙が先に入室した。土間で靴を脱ぎ、その中に手を差し込んで丁寧に揃える。盧笙も自分の家ではここまでやらないが、人の家を訪れるときは生来の育ちの良さを発揮するのだった。コンビを結成したてのあの尖っていた頃からそうだった。懐かしかった。

 イケブクロでの簓の家はシンプルな1Kだった。もっと広い部屋も提案されたものの、寝に帰るだけの仮住まいに金をかける必要性を感じなかった。それでもオオサカで住んでいた古めかしいアパートよりは小ぎれいで、盧笙はどこか浮足立った様子であちこちを見渡していた。

「なんやシュッとしてんなあ。東って感じするわ」
「いやいやこんなんどこも変わらんて。ちょっと築浅なだけや」

 何が面白いのか盧笙がキッチンの水回りをしげしげと観察している隙にさりげなくベッドサイドへと移動した。そこに置いていた写真立てを後ろ手に倒し、そのままラックに突っ込む。素知らぬ顔で待っていると、盧笙がフローリングの床を歩いてこちらにやって来る。

「なあ簓、冷蔵庫にほとんど何も入ってへんけど」
「え、開けたん?」

 嫌なわけではないが少し驚く。コンビ時代はお互い日常茶飯事だったし、これが空却のようなノンデリ相手であれば簓も違和感を抱かなかった。盧笙は一切悪びれる様子無く頷いた。

「あんまし料理せえへんねん。言うとくけど飯はちゃんと食うとるよ。俺美味いもん好きやし」
「そうか。自炊めんどい気持ちは分かるわ。けど、味だけやなくてバランスとかも大事やで」

 何気ない調子で紡がれた言葉が、また簓の心臓を引っ掻いた。
 
「俺のこと心配してくれるんやね」

 ついぽろりと言葉が口をついで出た。しまったと思って顔を上げると、盧笙はちょっと目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。

「そんなん当たり前やろ。忙しいんやったらその分気ぃつけて栄養摂らなな」
「……さよか、当たり前か」

 思わず目を伏せた。まただ。盧笙の距離感に何か、バグのようなものを感じる。どういうわけか、駅で会ってから簓ばかりが振り回されているようだった。

 部屋の中央に置いたローテーブルへ、盧笙がそっと近付いた。机上の灰皿には今朝の吸い殻が入っていて、そこに盧笙の興味津々な眼差しが注がれていた。タバコを吸い始めたのは盧笙と解散してからだ。簓は一日で箱を空にするほどのヘビースモーカーではなかったが、それでもこの部屋の壁紙やリネンにはヤニ臭さが染みついているだろうと思われた。盧笙はグレていたわりにいくら先輩に勧められても吸おうとはとはしなかった。まるで親に非行が見つかったような据わりの悪さだった。
 
「タバコ、吸うてるんやな」
「まあ口寂しいときくらいやけどな」

 つまりそこそこの頻度だ。盧笙はふうんと呟き、簓のスーツの左下、タバコ用のポケットがあるあたりに目を向ける。

「そない美味いんやったら、俺も吸うてみようかな」
「……盧笙がか?」
「あかん?」
「あかんくは、ないけど」

 どういう心境の変化なのだろう。躊躇いながらも、まだ数本残っている箱を取り出した。一本取って差し出すと、盧笙は初めての玩具を渡された子どものようにしげしげと眺め、火をつける前の匂いを嗅いだりした。

「俺ライター持ってへん。火ぃつけてくれるか?」
「あ、ああ」

 盧笙の小ぶりな唇がくわえたタバコに目が吸い寄せられる。まあ盧笙も良い大人なのだから自己責任だし、そもそもこんなのは特別でもなんでもない、誰にでもある経験だ。そう自分に言い聞かせ、ライターを鳴らして火を近づけていく。同じだけ、薄ピンク色の唇に近づいていく。その唇を通過した主流煙が盧笙の美しい肺にたまり、澱のように沈殿する様を想像する。

「やっぱやめとき」

 ライターを仕舞って盧笙の口からタバコを奪い取った。無垢で不満そうな顔から逃げるように、その一本も箱へ入れ直す。

「興味本位で手出してハマったらしょうもないで。ほら、今は税金も高うなったし。こんなん無駄遣いの筆頭やん」
「はあ?そんならお前はなんやねん!」
「俺はH歴になる前から吸うとるからもう手遅れなんや!」
「威張って言うことかい!」

 バシッと肩を叩かれる。久しい衝撃に息を呑む簓に向かって、盧笙は笑いながら「けど」と言葉を続けた。

「きっと手遅れなんかやないで。お前も止めたくなったら止められるはずや!諦めんな」
「……そか。まあ、止めたくなったらな」

 曖昧極まる答えを返す。すぐに止めろと言われないのも、止めたくなったらと前置きされたことも意外だった。まるで年上に優しく諫められているような気分。それが無性に歯がゆく、簓を落ち着かなくさせた。

 今この瞬間、簓だけが緊張している。そう、簓は緊張していた。簓の中では未だにあの日のずぶ濡れの盧笙がこちらを見ているというのに、目の前にいる盧笙は初めて来た簓の家で至極リラックスして過ごしている。時間が経てば経つほど際立つこの乖離はなんだ。

 別に、盧笙に気落ちしていてほしいわけではない。こちらに遠慮してほしいわけでもない。だけどあまりに何も気にしていなさそうで、簓はどう接していいのか分からなくなる。それとも、あの解散がもう盧笙の中ではなんでもないことになっているのだろうか。それほど楽しい毎日を生きているのだろうか、盧笙は。隣に簓のいない世界で。



 盧笙の言うとおり簓の家の冷蔵庫は空っぽで、元々今日の帰りに酒と一緒に何か買ってくるつもりだったことを今さらながら思い出した。さらに驚くべきことに、オオサカから遥々東都まで出てきたはずの盧笙は財布とスマホ以外何も持っていなかった。「急ぎで決まった出張やから何もかも現地調達するつもりやったんや」と盧笙は主張したが、さすがにこの装備は無謀すぎて不自然だ。もしや誰かに言いくるめられるか盗まれでもして、簓に言いだせずにいるのだろうか。騙されやすさにかけては他の追随を許さない盧笙ならばあり得る話だった。

 諸々を調達するために再び外出しようと提案しかけて、簓は口ごもった。

 もし買い物をしている間に盧笙とはぐれてしまったら。その後簓の元に戻って来なかったら。
 ここにいる盧笙はまだ、簓にとってはどこか現実味の薄い存在だった。

「やっぱ今日はもう外出るのやめよ。時間も遅いしなんや寒なってきたわ」
「え?俺なんも持ってへんし食うもんないやん。さすがに一人でも買い物くらい行けるで」
「寝巻きは俺のを着たらええし、こういう時のための非常食あんねん」

 滅多に開けないキッチン戸棚からオオサカ名物・かすうどんのカップ麵を二つ取り出すと、盧笙は「栄養ないやん」と文句を言いながらも嬉々として湯を沸かし始めた。インスタントを食べるのは久しぶりらしい。

 何かを食べる時間は嫌でも沈黙が訪れやすい。こういう時に、イケブクロでも忘れず買ったテレビがいい具合に盧笙の注意を引いてくれて助かった。場所は違えど、二人向かい合って簡素なメシを食っているとコンビを組んでいた頃の光景が脳裏に過る。あの頃は盧笙との間の沈黙なんて気にしたことは無かったが。

 ゴールデン帯のバラエティー番組の司会を回している先輩芸人を見て、盧笙が感慨深そうに箸を止めた。

「そうか、この頃はまだこの人が司会やってんや」
「え、どういうこと?数年前からずっとこの人がやってるやん」
「あ……せやな。すまん、ちょっと言葉のあやや」
「謝ることやないけど」

 また無味乾燥な会話がひとつ終わった。このぎこちない雰囲気の原因は分かっている。簓がいまいち話に乗れないのだ。しゃべくりの天才が聞いてあきれる。番組で歓声が湧き、盧笙が再びそちらに注目したので簓はほっと胸を撫で下ろした。

「盧笙、食べ終わったんやったら先に風呂行ってき。お湯張ったろか?」

 すっくと立ち上がって声をかけると、盧笙は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「シャワーで十分や。すまんな、服やらパンツやらまで用意してもろて」
「ちょうど先週新しいパンツ買ったところやから良かったわ。部屋着もちょっと小さいかもしれへんけどまあ着れるやろ」
「ん、ありがとう」

 盧笙はこちらへ穏やかな目配せをしてからバスルームに向かう。やがてシャワーの水音が聞こえてくると、簓はテーブルの一角にまとめられた盧笙の数少ない所持品、スマホと財布へと手を伸ばした。躊躇いは一切なかった。

 スマホはやはり電源が入らない。ケースを外して改めると、なんとそれなりの値段がする最新機種だった。盧笙が高価なガジェットを持ちたがっていた印象はない。なにせ養成所に入るまではポケベルを使っていた男だ。型落ちの安価なスマホを喜んで使っていそうなのに、どこか不可解だった。

 そして財布の方も、黒革の飾らないつくりながら所謂老舗のブランド品だ。中身は交付されて間もないらしい私学教員用の保険証とクレジットカードに、現金が二万円ほど。この年齢になれば何の変哲もないと言える範囲だが、ここでも簓の中には引っかかるものがあった。昔の盧笙は父親のお下がりかなにかのくたびれた財布を使っていたのに。またひとつ元相方の変化を見せつけられたような気分になり、簓は頭をかきまわして大きく息を吐いた。

 今日盧笙に会ってからこれまで、ただ久しぶりに会った友達のような当たり障りのない話しかしていない。本当はもっと話すべきことがあるはずだ。解散のこと、離れていた間のこと。なのに盧笙を前にして何も切り出せないのは、もちろん盧笙の態度の影響が大きかった。
 
 盧笙の仕事について詳細は聞いていないが、東都での用事はもう終わったのだと言っていた。ならば明日にはもうオオサカへ帰るのだろうか。簓はそれすらも聞きだせないでいた。

「あ、しもた。タオル」

 寝巻きや下着の準備にかかりきりで脱衣所に盧笙用のバスタオルを置いてくるのを忘れていたことに気付いた。急いで衣装ラックの下の方から予備の、わりと新しめのタオルを引っ張り出す。念のため軽く匂いを嗅いだ。一応、ヤニ臭さは感じない。早めに渡しておかねばと、脱衣所に繋がる引き戸まで行き、躊躇いなく開けた。

「盧笙開けるで。これ――」
「うおっ!お前答える前に開けんなや!」

 盧笙の大音声を浴びた瞬間、記憶が飛んだ。
 
 洗い場用にと貸したボディタオルを絞って身体を拭いたらしい盧笙は、既にパンツまで履き終えたところだった。驚きで丸くなった瞳の下、なめらかな頬はピンク色に上気している。肌の白い上半身は昔よりかなり厚みが増して肉付きが良く、うっすらと水滴が残っていた。胸部を覆う均整の取れた筋肉は下腹部まで続き、アーモンド型のへその辺りまでキュッと引き締まっている。簓サイズのパンツは盧笙には若干窮屈そうで、

「ぶっ!」
 
 簓が放り投げたバスタオルを顔面で受け止めた盧笙があたふたしている間に、引き戸を思いっきり締めた。

「コラァ簓!お前なにすんねん!」
「タオル無いなら呼べばええやろ」
「ああこれ、持って来てくれた……んはありがたいけど投げんなや!」

 背にした扉の向こうから盧笙のくぐもった抗議が聴こえる。その声を聴きながら、簓は扉にもたれるようにへなへなとしゃがみ込んだ。

「ほんまアイツ、勘弁せえよ」

 振り回されて乱されて、本当にしょうもない。こんな恋は、身体の深い場所で昏々と眠り続けるはずだったのに。



「ほんで寝とるんかい……」
 
 逃げるように交代して簓が風呂から上がると、盧笙はフローリングの上で胡坐をかいたままベッドに頭を預けて眠っていた。簓のスウェットでは当然丈が足りず、手足はつんつるてんという言葉がぴったりの有様だ。起こさないよう静かに傍らに跪き、かけっぱなしの眼鏡を取り上げる。よくよく観察しても簓が昔贈った眼鏡で間違いなかった。芸人を辞めてもなお、盧笙はチェーンまでつけてかけ続けていたのだ。胸がどうしようもなく締まった。

 長旅で疲れていたのだろうか。思いやる余裕がなく悪いことをしたかもしれない。この状態の盧笙をどうしたものかと考えて、そういえばこの家には来客用の布団が無いという事実にようやく思い至った。もちろん簓が招いたのだから盧笙をベッドに寝かせないわけにはいかない。新人芸人の頃から無茶なロケを散々こなしてきたおかげで、簓は床でも平気で眠ることが出来る。それは相方の方も同じだったけれど。

「盧笙、ちょっと起き。寝るならベッドで寝えや」
「ん……」
「あかんかあ」

 軽く揺すっても起きる気配がない。仕方がないので盧笙の脇の下に腕を差し入れ、身体を支えながら引き上げた。盧笙はずっしりと、予想以上に重かった。組んでいた頃はもっと楽に支えられたのに。なんとかベッドに転がしたものの、盧笙の長い脚に躓いてバランスを崩した簓も隣に倒れ込んでしまった。成人男性二人分の体重がかかったセミダブルベッドが痛々しく軋んだ。

「はあ、世話の焼けるやっちゃ……」

 目を開けて、ハッとした。生まれながらの凶相が嘘のように安らかな盧笙の寝顔が、視界いっぱいに広がっていた。小ぶりな唇からすうすうと寝息が聞こえ、その呼吸に合わせて長い睫毛が僅かに揺れる。眠る盧笙が優しげなのは昔からだ。いや、最初は見た目で敬遠されても、盧笙は本当はずっと優しいのだ。誰よりも。そして皆が盧笙を好きになる。簓がその最たる一人だった。

 入浴前はセットされていた長めの前髪がひと房落ちて、盧笙の顔を覆った。手を伸ばしてかきあげてやると、洗いたてのいい香りが漂う。簓と同じソープの香り。そのまま指先で頬の曲線を撫でる。盧笙はくすぐったそうに眉を寄せた。

 盧笙にどんなふうに触ってたっけ。優しく、それとももっと力強く?確かめるようにぼうっと盧笙の髪を梳いていると、簓もだんだんと瞼が重くなってくる。そろそろベッドから降りないといけない。今日ここは簓の場所ではない。でもあともう少しだけ。

 意識がゆるりと溶けていく中で、そういえば今夜は一本も吸わなかったなと思った。

Comments

  • 麦茶(茶`・ω・´)

    投稿ありがとうございます!!!秋さろの展示みてめちゃくちゃ続きが気になっておりました😭😭😭24簓の盧笙との再会を知らないからこその葛藤や辛さも最高だし、色々乗り越えてる26盧笙も最高でした😭😭😭2426最高過ぎます😭😭😭ありがとうございました😭😭😭

    December 7, 2025
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