愛満つる善き日に
7/13 星願あいおまにて無配として置いていた、ささろが上下を決める話。頒布した「翌くる頁のうた」のアナザーストーリーですが、単品でもお読みいただけると思います。
本をお手に取ってくださった方は本編のあとにお読みいただけると嬉しいです!
イベントとてもたのしかったです、ありがとうございました!
- 18
- 24
- 638
何か決定的にしんどいことが起こらなくても、日々の疲れは少しずつ蓄積し、体を蝕んでいくものだ。
金曜の退勤後、肩かけ鞄の中のパソコンの重みをやけにずっしりと感じながら、盧笙は家路を急いでいた。アスファルトを一歩踏み締めるごとに、今週の出来事がぽこぽこと脳裏に浮かんでくる。職員会議で延々とどもりが出てしまったこと。考え事をしていて、生徒からの提出書類の端をシュレッダーに突っ込んだこと。三者面談の時間を間違えて遅刻しかけたこと。どれも大事には至らず、尾を引くこともなかったが、心臓がバクバクする嫌な感覚はふとした拍子に幾度もよみがえった。その度に自己嫌悪で顔を覆いたくなった。
そんな夜だったから、自宅のリビングの明かりがついているのが見えたとき、ふっと涙が出そうなほど気が緩んでしまったのだ。
手繰るようにして玄関ドアを開けると、パタパタという軽い足音とともに簓が出迎えにやって来る。ジャケットを脱いだシャツ姿で、はにかむように盧笙へと笑いかける簓。ああ、好きだ。じんわりとあたたかな喜びが胸を満たしていく。
「盧笙、お帰り!今週もお疲れさん!」
「……おう」
「ん?なんや表情が――」
返事もそこそこに簓の左肩へ額を預けると、簓は一瞬固くなり、それからゆっくりと盧笙の背を撫でた。
「あらまあ、えらい甘えんぼやん。先に風呂入れよか?」
「もうちょいこのまま」
「ふふ、ここやとアレやからリビング行こな」
自然に鞄を奪われ、もう片方の手に右手を取られ、部屋の奥へと導かれる。ぴょこぴょこと陽気に揺れる緑の後頭部。まるでどちらが家主か分からなくなるような振舞いだ。だけど、嫌ではい。
再会してしばらくは簓の不法侵入癖に呆れ返っていた盧笙だったが、恋を自覚して以降、それを密かに期待している自分に気付いていた。忙しい簓が時間を惜しまず自分に会いに来ること、一日の終わりに顔を合わせられることが嬉しかった。一方通行のあいだもそんなふうに好きだったのに、結ばれた今は、自分でも戸惑うほどもっとずっと簓のことが好きだ。想い人に恋人として出迎えられるのはむずがゆくも至福だった。こんな、慈しむように優しく手を引かれる日が来るとは。
このまま簓の長い指も、細身に見えて均整のとれた体も、溌溂とした自信にあふれた顔も、欲のおもむくままに触れてみたい。そんな衝動を抑え込む。自分だけががっついているとは思われたくなかった。
明るいリビングに辿り着くと、簓はくるりと体を反転させて盧笙へと向き直った。得意げな笑みが見えたと思うと、すぐに距離が詰まって片腕で抱き寄せられる。繋いだままの方の手の中で、どちらからともなく指が絡まった。
耳元で、簓の声がいつもより低く響く。
「盧笙、ほんまにお疲れ。何かあった?簓さんに何でも話してな」
顔も口調も笑っているが、本気で心配してくれているのが分かる。心に沈殿していた黒い澱がゆっくりと溶け出していく。盧笙も片腕で抱き締め返すと、二人の体温が一つの塊になった。ごく当然のように唇が近づき、柔らかく重なる。
「まあ、色々はあったけど。これで一旦全部チャラやな」
「ええ!嬉しいこと言うてくれるやん!」
照れる盧笙を見て簓の目元がふにゃりと緩んだ。物欲しげな盧笙の唇に、再び軽いキスが施された。
仕事もそのほかも、盧笙自身はまだまだ精進しなければならない立場だ。滞りなく日々を過ごし、周りに迷惑をかけることなく、向上し続ける。そんな完璧な人間には程遠い。それは一生涯続く試練なのかもしれない。現実に疲れ、起き上がるのが億劫になる夜も訪れるだろう。
でも大切な人が隣で寄り添ってくれるのなら、ひととき羽を休めて、また何度でも頑張れる気がした。なにより、それが簓であることが嬉しかった。互いに刺激し合い、支え合うだけではなく、癒しと愛情も分かち合えるようになった。今はこれで十分すぎるほどだと、盧笙は本気で思っていた。盧笙の指を絡めたままの簓の手が、器用に腰を撫でてくるまでは。
腰と尻の境目あたりを簓の手が這い、その今までにない感触に盧笙は息を呑んだ。驚いて見ると、簓の黄金色の瞳が揺れながらこちらを向いていた。
「さ、簓?」
「……盧笙さ、こないだの違法マイクの症状はもうええんやろ?」
「ああ、それはすっかり平気や。今日は職場でのこと考えてただけで……」
少し前、盧笙は違法マイクを持った輩に襲われ、そのせいで一週間ほど寝込む生活を送っていた。症状が出ているあいだは抗えない眠気と気怠さに苦しんだが、今は正真正銘、完全に回復している。簓は「そうか」と呟き、意を決したように盧笙と見つめ合った。
「そんならさ、俺たち、そろそろ次のステップに進まへんか。ほら、明日は俺もお前もオフやし」
「そ、それって」
「もちろん今日いきなり最後まで出来るやなんて思うてへんよ。ゆっくり慣らさんとあかんことやし、無理は禁物やし。せやけど俺、盧笙とやりたいねん。ほんまは今すぐにでも」
そう言い切った簓の顔には朱が差していた。盧笙はごくりと喉を鳴らした。
もっと深く触れ合いたいと思っていたのは盧笙だけではなかったのだ。恋した相手に求められ、にわかに心が沸き立つ。しかも簓は、一応病み上がりにあたる盧笙を気遣って言い出すのを堪えてくれていた。感極まって目と鼻がムズムズしてくる。張り詰めた表情の簓は、強張る指でそっと盧笙の頬を撫でた。そんな、畏れるみたいに触る必要なんてないのに。盧笙はその手に自分の掌を重ねた。
「俺も同じ気持ちや。俺も簓とやりたい。正直最初から上手くいくかは分からんけど、それでもやってみたいんや」
「……ほんまに?盧笙、ありがとうな」
「おう。こちらこそや!絶対優しくするからな、簓」
「ん?」
簓は間の抜けた声を出し、首を傾げた。なんとなく、つられて盧笙の頭も傾いた。
「えっと、盧笙? 一応聞いときたいんやけど、抱く方と抱かれる方、どっちやるつもりでおる?」
「は? そら俺が抱く方やろ。体格もええし」
「なっ……た……!?」
簓の上半身が大げさなまでにぐらりと揺れたかと思うと、そのまま顔が俯いた。おかしい、ついさっきまで色っぽい雰囲気だったはずなのに、今はその空気をまったく感じない。戸惑っていると、どうやら一瞬で気を持ち直したらしい簓が盧笙の両肩をがっちりと掴んだ。その目はギラギラと燃えたぎっている。
「ええか盧笙、これは至極大事なことや。確かに俺も、お前に何も言わずに最初から決めつけてたのはあかんかったと思う。せやけどこればっかりは譲れへん。俺が盧笙を抱きたいねん!」
「はあ?なんでやねん!俺やろ!」
「そのなんでやねんがなんでやねん!言うとくけど体格なんてそない変わらへんし、わけの分からん固定観念を持ちだすんナシやからな!お前……自分がキスされとるときどんな顔しとるか知らんくせに!」
どういう意味だ。一瞬想像しかけて、顔から発火してしまいそうでやめた。
「知らんわそんなん!いや、なんちゅうか、そもそも俺が先にお前を好きになったんやし。お前に尽くしたい……っちゅうか……気持ちよくさせたいっちゅうか。そもそもこんなデカくて強面の俺を抱きたいて、正気かお前」
伝わるように説明しようとして、それも恥ずかしくなり口ごもる。一体何を言わされているのか。そのあいだ簓は口を噤み、盧笙の姿をじいっと眺めていた。
「なるほどなあ。盧笙の主張は分かったけど。逆に盧笙は俺を抱きたいと思ってんの?本気で?絶対?」
「なんやその脅迫じみた……アッ」
瞬きのあいだの出来事だった。簓の手が器用に盧笙のシャツの中に滑り込み、下から腹を撫であげたのだ。盧笙の指と絡み合って少し湿った、ひんやりとした指たち。それぞれが好き勝手に動いて、盧笙の肌の感触を楽しんでいる。
「おい、やめえ!」
「質問に答えてや。どんくらい本気で俺を抱きたいん?」
「どんくらいって……そら、お前のこと好きやし、俺に甘える態度とか、可愛いて思うときもあるし。触りたいし」
「なは、嬉しいなあ。でも抱かれる側でも触ってええねんで?盧笙なら大歓迎や」
「ひっ!お前ええ加減に、」
腹部に侵入した簓の両腕がシャツの裾を持ち上げながら盧笙をかき抱いた。グラスチェーンがしゃらりと音を立てる。撫で回されて敏感になった肌が空気に晒された。裸の部分を簓に抱き締められるのは初めてだった。
簓の方は袖までしっかりシャツを着込んだままだ。なぜだろう、自分だけが剥かれてしまったようで恥ずかしいのに、頭の芯は妙に昂っていく。
「なあ、盧笙は俺にされるんが好きなんやって思うてたんやけど、俺の勘違いやった?そんな真っ赤になってんのに」
「ハズイからやアホ!」
「照れギレ顔こわ。でも、それもかわええな。な、盧笙。俺ほんまに盧笙のこと抱きたいと思うとるよ」
吐息とともに耳に吹き込まれる甘い声に眩暈がした。簓は本気なのだと分かった。本気で盧笙のことを。
簓は盧笙の頬に唇を寄せ、畳みかける。
「好きになった順番なんて関係あらへんし。そもそも俺は自覚できてへんくて遅れをとっただけやし。俺かて盧笙に尽くしたいし、一緒に気持ちよくなりたいねん」
「……」
「盧笙?」
世界で一番好きな顔と声の猛攻に、盧笙は小刻みに震えながら頷いた。こうなってはもうだめだ。お手上げだ。結局盧笙は簓に甘いのだ。
「……簓の言うことは分かる。自分の適性……みたいなんも、薄々分かってた。でも、あかん。俺だけ恥ずすぎんねん」
「え……俺の尻も見る?平等に」
「ちゃうわどアホ!」
本日二度目、簓の肩に額をグリグリ押し付ける。今度は掘るほどの勢いで。
「痛!なに!?」
「簓のこと、めっちゃ好きや。憧れもある。そんな相手に体、弄られて、抱かれてもうたらもう、自分がどんなえらいことになんのか怖いねん。おかしくなってまいそうで、お前に引かれる気しかせえへん。こんなデカい男が……そんなん恥ずすぎるやろ」
我ながらしどろもどろで、なんとも情けない告白だった。こんなの抱かれる前に引かれてしまうだろうと思ったが、先ほどまで盧笙の素肌を好き放題していた簓の動きがピタリと止まる。顔を上げて見ると、真っ赤な顔をして金魚のように口をパクパクさせている。
「簓?」
「なんやそれなんやそれなんやそれ……なあもうほんまに勘弁して。お前が可愛すぎて辛抱たまらんくなるから」
「は、はあ?」
盧笙が口を開けた瞬間、簓が襲いかかってきた。帰宅時に交わした親愛のキスではない。熱く蠢く舌で蹂躙される、獣のようなキスだった。あらゆる場所を舐め回る簓の舌から思わず逃れようとすると、頭をガッチリと掴まれ固定された。至るところをきつく吸われて、頭がくらくらしてくる。あまりの勢いに鼻呼吸では間に合わない。酸素が足りない。簓の胸を叩くとようやく離れたが、二人のあいだを長く繋ぐ銀の糸に羞恥が掻き立てられた。
「はあ……お前、くるし……」
「盧笙」
簓の腕に抱き締められたまま熱視線を注がれ、盧笙は目を丸くする。簓は猶予のならない赤く歪んだ顔で盧笙を見つめていた。
「盧笙。俺も余裕なんてないから、カッコつかへんところばっか見せてまうと思う。お前に引かれるのちょっと怖いかも。俺もおんなじ。な、」
「それは……申告ありがとう」
「盧笙、大好き」
そして眉を下げて笑う。盧笙の大好きな笑顔だった。この笑顔のためなら何でもできると思ってしまうほどの。
天井を仰ぎ、深く息を吐いた。
「分かった。しよ、今日」
「え!盧笙……」
「ただし先に風呂やからな。飯も軽くは食べたい。何も食べてへんからさすがに」
「あ、ああ!せやな。もちろん……」
言葉では物わかりのいいことを言う。プレゼントをお預けにされた子どものような顔をしているくせに。フッと笑って口づけると、不意を突けたようで目を見開いていた。
「お前のために準備すんねんから、ええ子で待っといてな。終わったら一緒に風呂入ってもええで」
「!ろしょー!」
一緒に風呂、の実績解除に表情を輝かせる簓を見て笑いを堪える。天下にその名を轟かせる白膠木簓にこんな顔をさせているなんて、俺もなかなかやるかもな、と思った。
♢
「思えばそないなこともあったなあ」
「おい、お前散々やっていきなりなんやねん」
盧笙は自分のタフさに自信を持っていたが、さすがに今日ばかりは体を動かせそうにない。全身汗だくで疲れ切っているし、うつぶせの背中には同じく汗だくでくったりとした簓が乗っているのだ。
嫌というほど時間をかけて慣らされて、優しく体を拓かれて。今日は初めて簓と最後まで出来た日だった。誰にも言えないが、二人とも感極まってちょっと泣いた。
背の上の簓はもぞもぞと体を動かし、盧笙のうなじにキスを落とした。
「いやな、最初に抱くか抱かれるかの話したときのこと思い出してん。盧笙がタチやるって言いだしたときは内心焦ったわ~」
「ほんまか?お前いきなり腹に手突っ込んで襲ってきたやんけ」
「それは必死やったから!さすがにその気のない盧笙に無理強いはできへんもん」
簓はごろりと転がり、緩やかに盧笙の背から落下した。そのまま盧笙の家の布団の上に二人並んで寝転ぶ。幸福そうににっこりと微笑む簓に心臓を撃ち抜かれて、盧笙は思わず押し黙った。
「二人でいっぱい思い出できてよかったな!」
「開発を思い出と呼ぶな」
「ええやん!あんな盧笙もこんな盧笙もたまらんくて俺の脳みそのメモリーにばっちり焼き付いてんねんもん!なあ盧笙、受け入れてくれてほんまにありがとうな」
優しい目で改めて言われると今さらな照れが湧き上がってくる。盧笙は「おう」と短く返して、簓をじっと見た。
夜通し汗をかいてぐったりと疲れていて、髪もぼさぼさだ。それなのに板の上の姿に負けないくらい男前に見える。盧笙を幸せそうに見つめる眼差しが、くすぐったい。
ああ、これが愛しいということなのだ。
簓にぴたりと体を寄せ、目を閉じた。
「俺もありがとう。痛くないように時間かけてくれて。途中ほんまにしつこいええ加減にせえと思ったけど」
「ガーン!それは意地悪やないもん、いや、まったく意地悪心が無かったかと言われると、あれやけど」
「アホ……せやけど、分かっとるから。簓が相手で、ほんまに良かった」
自分が先に簓を好きになった。結ばれるなんて高望みはしないつもりだったのに、簓は丸ごと受け止めてくれた。惜しみなく好意を伝えてくれて、同じ男である盧笙を大切に抱いてくれた。簓と恋ができて、幸せだ。
上から降って来た簓の声は、僅かに震えていた。
「そんなん俺の方こそやって、何回言うたら分かってくれる?ちゃんと盧笙に伝わっとる?」
「せやな。これだけ言うてもろたらさすがに分かる」
「ならええけどお」
盧笙の頭に、そっと簓の頭が擦りつけられる。髪の毛の先まで濡れそぼっていて、もはやそれがどちらの汗なのかも曖昧だ。
触れ合う体はあたたかく、次第にうつらうつらと眠気に襲われる。あの違法マイクによる容赦の無い睡魔ではなく、簓がもたらす安心感に包まれるような、心地よい眠気だ。明日は休みだし、シャワーに行くのはもうしばらく後でいいかもしれない。二人一緒に、つかの間の眠りへと落ちていった。