悲喜劇は雨天決行
新生MCDが4人で旧どつのネタを見る話。
少しジメッとした簓がいます。
リアルタイム盧笙は出てきませんがささろです。
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わざわざ口に出して場を盛り下げたりはしないが、雨の日は本当に、ろくなことが起きない。
と、手元に残った一枚のトランプを掲げながら簓は思った。絵柄はスペードの7。ラッキーセブンという言葉も今この状況ではどこか虚しい。簓が左馬刻の事務所に出入りし始めてから買ったトランプはまだそこそこ新しいはずなのに、角が曲がったり、ゆがんだ紙にジャンクフードの油染みがついたものが何枚も見られた。簓が手にしているカードの上半分は、先週空却が肘で倒したコーラで薄茶色に染まっている。雑に遊ばれた品物はこうも早くビンテージになるのか、という知見を得る。
向かいのソファではギリギリ3位で上がった一郎が空却と爽やかなハイタッチを交わしていた。2位上がりの左馬刻は簓の隣で余裕ぶって脚を組み、天井に向かって煙草の煙を吐いている。実に平和な事務所の光景だ、簓以外は。ババ抜き、神経衰弱、七並べ。暇を持て余すたびに四人で色々とやったが、やはりこの、定番で盛り上がる大富豪で遊ぶ率が高かった。ゲームの敗者は主に、今が絶賛食べ盛りの男どもの飯を奢らされることになる。
左馬刻がこちらを向いてニヤリと口角を上げた。
「簓ァ、お前連敗じゃねえか。昨日の焼肉はまあまあ美味かったぜ」
「はは、ほんまにな――……」
お前が大人げなく一郎に張り合って肉追加せんかったらわざわざ金下ろしに行かんで済んだんやぞ!とその高い鼻先で言ってやりたいが、ぐっと堪えておく。
このチームに上下関係のようなものは無いに等しい。だが簓は故郷オオサカの地で、芸人たる者先輩は必ず後輩に奢るべしという伝統の中に生きてきた。たとえ連日財布の中身を搾り取られることになろうとも、十代もいる前で年長者のプライドを見失うわけにはいかない。万札何枚くらい残っとるっけ、と昨日の記憶を探りながら、簓は明るく声を張った。
「まあ負けたもんはしゃあないな!そんで、今日は何食べる?一抜けの空却が決めるんやろ?」
「ン、今考えるからちょっと待てや」
空却は両目を閉じ、腕と脚を組んで坐禅のようなポーズを取る。ソファの上で。その日の気分とノリだけで生きているような坊主なのに、長考するのは珍しかった。空却と最も親しい一郎も、ついでに左馬刻も、一同揃って不可解そうな表情を浮かべた。
「なんやお前、腹でも痛いんかいな」
「ちげえよ!ただの飯よりおもしれえもんが無いか考えてんだろうが」
「おもろい飯てなんやねん……」
「おい空却、激辛はやめろよ。せっかく奢ってもらうなら美味いメシがいい」
「わーってるよ!そういうことじゃねえ!このうざってえ天気の気晴らしになりそうなもん考えてんだよ!」
その言葉につられるようにして窓の外に目をやった。灰色の雲に覆われたイケブクロでは、昼前に降り出した雨がいよいよ激しさを増し、今では大粒となって事務所に打ち付けていた。傘を差したところで間違いなく膝下まで濡れるであろう勢いだ。「まあ、どのみち今は出る気にならねえな」と左馬刻が呟く。同感だった。ここでとめどない雨音に耳を侵されているだけでも気が滅入るのだから。
ローテーブルの上に散らかったトランプを、誰に言われるでもなく一郎がさっさと片付け始める。遅れて簓も手を伸ばすが、簓の指が届く前に、十代にしては大きく厚い手のひらがワイパーのようにカードを回収していった。そんな不甲斐ない大人を前にしても恩着せがましさはカケラもない。これが山田一郎。あの左馬刻を彷彿とさせる豪快なラップスタイルと無二の存在感を持ちながらも、決して俺様ではなく、気配りのできる常識人。こうやって当たり前のように弟たちの面倒を見てきたのだろう。7つも年下ながら尊敬に値する男だ。
フー、と細い息を吐いて、簓はソファの背に頭を預けた。
偶然が縒り合って集まった四人だったが、ここは不思議と居心地がよかった。なんというか、このチームは同じ「匂い」がするのだ。戦っているとお互いの考えが、呼吸の間が手に取るように分かる。目には見えない共通のパスで繋がっているような感覚。
お互いの強度への絶対的な信頼もあった。躊躇なく危険に飛び込める度胸と自信。限界からもう一歩を踏み出す底力。自分で言うのはアレだが、生まれながらに他を圧倒する強さを与えられた者たち、という感じがした。冗談抜きで、このメンツで戦って成せないことはそう無いのではと思えた。
人生を前に進めるため勢いのままにやって来たイケブクロだったが、簓は今それなりに楽しく過ごしていた。破天荒だが気の合う仲間たちに、物騒で退屈しない毎日。もちろんグルメの頂点は天下の台所オオサカだが、東都にも美味い店は色々とある。人を笑わせることだって、その気になればどこでもできる。幾度かやった野外ライブで笑っていた観客一人ひとりの表情を脳裏に思い浮かべていく。爆笑を掻っ攫ったときの快感は西も東も変わらない。
人やモノに溢れたこの大都会には、オオサカで失った相方以外はなんでも在った。だけどその欠けたかたちがあまりに大きくて、まるで心臓のあたりを丸ごとくり抜かれたみたいだった。
簓の意識がゆっくりと深いところへ沈みかけたその時。空却が「決めた!」と大声を張り上げ、驚いた簓はバランスを崩してソファから滑り落ちかけた。
「な、なんやねん!やっと食いたいもん決まったんか?」
「ちげえよ。もっと面白れぇこと思いついた」
なぜだろう。他の二人は何の気なしに空却へと目を向けていたが、爛々と輝くその派手な顔を見て、簓の背には冷や汗が伝っていた。まるで傍若無人な悪魔に急所を握り込まれでもしたように。赤髪の悪魔は凶悪な笑いを浮かべながら簓の方を見る。
「簓は地元でプロのお笑い芸人?コンビ?やってたんだろ」
「そうやけど、ちゅーか今もプロではあるけど」
「んじゃそのコンビ時代のネタ見んぞ。プロの芸人が二人がかりならさぞかし笑わせてくれんだろ」
「は!?」
今度こそソファから転がり落ちた。床の上で呆然としている簓には目もくれず、空却は机上のリモコンを引っ掴んでテレビの電源をつけた。このテレビで動画投稿サイト・U-Tvが視聴できるように設定したのは他でもない簓だった。全身の冷や汗が止まらなくなる。
「これで検索すりゃ何かしらは出てくんだろ?」
「ちょちょちょい待ち――!!」
ばね仕掛けのように立ち上がった簓は素早くテレビ前に移動し、両手を広げて立ちふさがった。三人分の訝しむ視線で気分は針の筵だが、怯むわけにはいかない。
「せ、せっかく俺のネタ見るんやったら新しいやつの方がええやんな?ここに来る前は簓さんピン芸人やったからな、動画もようさん上がっとるはずやで!」
「あ?お前の一人芸は寒いダジャレつきで散々見せられてんだわ。拙僧は違うのが見てえんだよ」
「ほほほんなら思いっきり違うの見ようや!四人おるんやし皆の意見も聞いて!な!一郎もアニメとかのがええやろ?」
「別に何でもいいっすよ。アニメは家で見る方が集中できるし」
一郎は真面目な顔であっさりと答え、当てが外れた簓は小さく狼狽えた。チッと盛大な舌打ちが聞こえたかと思うと、次の瞬間にはもう左馬刻がブーツを履いた脚を勢いよくテーブルの上に投げ出していた。ダメな大人の見本のような態度だが今さらそれを咎める人間はここにはいない。深紅のどぎつい目がギロリと簓を睨みつける。
「簓ァ、テメェ人を散々お笑いとやらに巻き込もうとしてきたくせによ、自分の芸を見られたくねえってのはどういう了見だ?」
「いや芸を見られたくないわけでは……ちゅーかそう言う左馬刻こそ過去の俺の動画なんて興味ないやろ?な?な?」
「あるぜ」
「え」
左馬刻は勿体ぶってパンツのポケットから新しい煙草を取り出してくわえ、火をつけた。
「目立ちたがりのテメェがそこまでゴネるほど見られたくねえ過去、ってことは相当やらかしてんだろ。どんなもんか俺らで見てやんよ」
「それは、」
違う。そう言いたいのに、急に口内がカラカラに乾いて、舌が上顎に貼り付いてしまったみたいだった。違う、恥ずべきやらかしなんかやない。あの頃の俺たちは、
「んだよ黒歴史ってことかよ。安心しろや、お前の普段のギャグも拙僧たちは――」
「んなモンとちゃう!」
咄嗟の加減がきかず思いのほか大きな声が出た。気づいた時には事務所は静まり返り、三人は呆けた顔で簓を見ていた。いっそう喧しく聞こえる雨音の中、「しまった」と即座に思う。イケブクロに来て以来、ここまでナイーブな感情を剥き出しにしたことはなかった。でも、言わずには居られなかった。
あの頃アイツと過ごした時間。喧嘩っ早さに驚愕しつつも忘れられない出会いになった初対面。コンビを組んだ時の通天閣での邂逅。朝から晩まで二人一緒に、ひたすらお笑いに打ち込んだ日々。充実感とそこに忍び寄る不協和音。そしていつの間にか何かを間違えて、避けられなかった別離。
思い出すたびに胸の痛みを伴おうとも、そのすべてがかけがえのない記憶だった。仕舞い込みたい黒歴史なんてない。無かったことにしたいだなんて考えるわけがない。今、簓が逃げを打とうとしているのはそんな理由ではなくて。
ともあれ、この微妙な空気のおかげで今の話が流れるのではと簓は少し期待した。だがしかし、本日の一抜け様はそんな繊細な機微を持ち合わせた人間ではなかった。悪魔は片眉を吊り上げ、退屈そうに肩を回しながら言い放つ。
「んじゃ俺らが見ても問題ねえよな。早くそこ退けや。あー、コンビ名なんつったっけ?」
「お――い!」
「白膠木簓、で検索したら何か出るだろ」
同じくさほど気にしてなさそうな一郎が空却の手元を覗き込んだ。空却は一郎の言うことは比較的素直に受け入れる。簓が渋々テレビの脇にずれた途端、リモコン操作でカーソルが動き、ぬの字が画面に現れた。
「書くならまだしも、これで打ち込んで変換すんの面倒くせえな」
「普通逆だろ。それにこれはひらがなでいいって」
波羅夷空却も面倒くさいやろ!
とは口に出さなかった。いや、出せなかった。簓の舌は情けなく乾いたままだった。
U-Tvの検索欄に「ぬるで」まで入力された途端、すぐにサジェストが表示される。上から順に「白膠木簓 ピンぐら」、「白膠木簓 漫才」。その下に表示されたのが
「どついたれ本舗」
誰にも聞えないであろうか細い声で呟いたにも関わらず、自分の喉の震えがはっきりと分かった。もういつぶりに口にしたのか分からなくなってしまった、この世にたったひとつのコンビ名。
両目がテレビ画面へ釘付けにされる。空却は「あーそういやこんなふざけた名前だったな」と宣いながらカーソルを進めていく。
「白膠木簓 どついたれ本舗」の検索結果でトップに出てきた動画は、全国放送されたあの爆笑王ではなかった。かつてコンビで何度もネタを披露した、主に若手芸人たちが出演するオオサカの深夜ローカル番組だった。動画のタイトルは「どついたれ本舗傑作選」。よくある違法アップロードではなく番組公式が上げたもののようで、しかし簓は今まで目にした記憶が無かった。コンビの仕事が多忙を極めていた時期に世に放たれたものだった。
動画のサムネイル画像では主張の強いタイトル文字の下に、揃いのスーツを着て並んだ青年二人が写っていた。ネタの途中を切り抜かれたのだろう、二人とも大口を開けてどことなく必死そうな顔をしている。心臓がドクンと脈打ち、呼吸が荒くなる。
「この一番上のやつでいいっすよね、簓さん」
「……」
「んじゃ、これにすっぞー」
簓の感情を置き去りにしたまま、動画は何の躊躇いもなく再生された。少しチープでやかましい色彩のスタジオセットの中に、ぽつんと一本サンパチマイクが立っている。そうだ、あそこはこんなセットだった。もはや懐かしさすら感じる。すぐに番組特有の出囃子が鳴って、間髪入れずにどついたれ本舗の二人が飛び出してきた。ニコニコと満面の笑みの自分と、少し気を張った様子で頬の血色がいい盧笙。さりげなくカメラ位置を確認する盧笙の瞳が丸眼鏡の奥で輝いたのを見て、簓は咄嗟に視線を逸らした。
盧笙。動いて喋って、漫才をする盧笙がここにいる。
「この相方の人、眼鏡で雰囲気変わってるけどどことなく左馬刻さんに似てるっすね」
画面を見つめる一郎が落としたコメントに、左馬刻と空却が同時に「あ?」と反応した。
「そうかあ?左馬刻より万倍は取っつきやすそうだけどな」
「おいクソ坊主、口の利き方には気ーつけろや」
「だからそれが眼鏡の効果なんだって……」
さすが一郎はよく分かっている。普段からオタクとして眼鏡キャラの素顔についても思いを巡らせているのだろう。
盧笙の端正な顔面が放つイカつさは、荒くれ者を束ねる左馬刻にも引けをとらないほどだった。芸人を志す者だというのに。だから簓は少しでも雰囲気を和らげるためにと眼鏡を贈った。でも実は、そのキツい素顔は盧笙の素直な心を映して面白いほどにくるくると表情を変えるのだ。全世界に知らしめたいけれど、せめてほんの一部だけは簓ひとりのものにしておけたらと願ってしまう、盧笙の魅力。
画面の二人はピンと丁寧に一礼した後、弾かれたように喋り始めた。口火を切るのは決まって簓だ。
『どうも、僕らどついたれ本舗言いますー!今日ここにおる誰よりもピッチピチなんですう、見て見てこの肌のハリとツヤ!覚えて帰ってや!』
『おい肌ツヤなんて覚えさしてどうすんねん!多方面に失礼なやっちゃな!無駄に喧嘩売らんとしっかり名前を覚えてもらわんかい!』
『なあなあ!今度二人でテーマパーク行かへん?あのオオサカの有名な!』
『話聞けや!ほんでなんでお前とテーマパークやねん!俺そういうの興味ないし』
『そんなつれへんこと言わんといて〜!先輩が先週行ったらしくてな、めっちゃおもろいお客さんがぎょうさんおったんやって!俺らも見たいやん!』
『おもろいアトラクションやなくて、客ぅ?一体どういうことや』
ああ、「テーマパーク」だ。もちろん覚えている。やれと言われれば今ここで暗唱できるくらい、何もかもを。喫茶店での会議で簓がこのネタを持ち寄ったとき、「ええやん」と頷きながらも渋い顔をしていた盧笙を思い出す。聞けば遊園地の類で遊んだ経験がほとんどないのだと言う。こんな俺でもリアリティ出せるやろか、と神妙な顔をする真面目な盧笙がなんだかおかしくて、そのあと心の底からええなあと思った。
それならばと簓がキャストのバイトをしていたテーマパークへ招待し、社割で一日遊び倒した。簓がはしゃいで回しまくったコーヒーカップで見事に目を回した盧笙。ジェットコースターが頂上に上り詰めるまでの間、目を閉じて素数を数えていた盧笙。生まれて初めて食べたのだと夢中でチュロスを頬張る盧笙の顔が鮮やかによみがえり、簓はすごすごとソファの上に戻って膝を抱えた。
東都に来てから盧笙の姿を見ないようにしていた、わけではない。むしろ胸に彼の影が過るたび、つまり結構頻繁に揃いのスーツで並んだ宣材写真を見返していた。プライベートで撮った盧笙の写真や動画も専用のフォルダに入れていつでも開けるようにしてある。胸元に仕舞った合鍵を無性に撫でたくなる夜は、つい盧笙の声が長めに入った動画を再生して、撮影当時の場面を思い起こした。あの声の響きを、生き生きとした表情を、何度でも。
しかし二人で漫才をしている映像だけはどうしても見返すことができなかった。理由のひとつは、その時間が簓にとってあまりに熱く鮮烈で、人生で一番と言っていいほどに楽しかったから。ほんの指先が触れただけでも一気に引き戻されて、どこにも行けなくなってしまうような気がしていた。
『まずな、入り口のショップでかわええカチューシャ買うとった兄ちゃん!パークのキャラクターにも負けへんほどの輝きで服もめっちゃ賑やかやったらしいで!』
『そんな客おる?アイドルの撮影とかか?』
『まん丸の頭がペカー!光ってて、シャツの柄もおかんのスカーフみたいにド派手!金のネックレスじゃらじゃらやったんやて!』
『お前それスキンヘッドの反射やん!ほんでその特徴完全にヤカラやん!なんでそんなやつがかわええチューシャ買うてんねん!』
簓の胸元に盧笙の鋭いツッコミが入る。その衝撃で映像の自分のギアが一段上がったのが分かった。最初はより自由度の高いコント漫才に仕立てる案もあったが、二人の掛け合いだけでおもろくしたろうやと強く主張したのは盧笙だった。俺らならやれるやろと言い切ってくれた。確かあれは盧笙の家での出来事で、簓は無性に嬉しくなって、その日は半ば強引に泊まり込んでネタを磨き続けた。
『んでそのトッポい兄ちゃん、なんやスタッフの人にドスとかチャカとか言うてはってな』
『は!?ドスにチャカて一番やばいやつやん!警察呼ばな!』
『なんでも、どすこい力士チャカ丸くんってアニメのコラボアトラクション探しとったんやて!』
『聞いたことないアニメ出てきた!誰やチャカ丸て!ほんまにあのパークは何でもかんでもコラボしよって!』
『その後もしばらく観察しとったら、今度は一人ぼっちで泣いとる小学生くらいの男の子にガン飛ばし始めてな、』
『子どもの泣き声が気に障ったんか!?あかんあかん止めな!今度こそ危ないて!』
『それがな……男なら妹が迷子になったくらいで泣くんやない、1番不安なのは妹なんやから。俺が一緒に探したる……ってハンカチ差し出してたんやて!いやあええ話やなあ!』
『ベタすぎる!そこでええ人出してくんのは逆にベタすぎて気まずい!』
客席から上がる笑いと呼応するように一郎と空却が同時に噴き出して、チラリと左馬刻の様子を伺った。
「なんか左馬刻みてえなチンピラじゃねえか?」
「あ?どこがだよ俺様はハゲてねえだろうが!」
「いや、そこじゃないっすよ」
画面の中で繰り広げられるネタは次に見かけた客の話に移る。映像の簓は盧笙の方を向きつつ口元に手を添えて、ほんのひとさじのミステリアスさを演出していた。盧笙も少し簓の方に耳を傾ける。あんなふうに漫才中接近した時、盧笙のスーツからふわりといい匂いがすることがあった。あの頃の盧笙は香水をつけていなかったし、スーツは簓と同じように使い倒しているはずなのに不思議だった。あれは、持ち主自身の香りだったのか。
盧笙がどんな表情をしているのか確かめたい。でも、それができない。
『その後な、なんとお化け屋敷の前で……中坊くらいの子がお化けに囲まれとったらしいねん!口裂け女、幽霊、河童、ろくろ首と勢ぞろい!』
『はあ!?なんでそんなもんが外に出とんねん!妖怪大戦争か!』
『先輩はその子がお化けに取り込まれてまうー思て助けに行こうとしたんやけど』
『パークのお化け屋敷に取り込まれるっちゅうのは意味分からんけど……そら確かに心配かもなあ』
『それがな、近づいてよおく耳をすましたら……お前らお化けのくせして全然怖ない、なけなしの小遣いで入ったのに許せへん!俺が鍛え直したるからそこへなおれ!――って説教してたんやて、中坊が』
『とんだ悪質クレーマーやないか!ほんでお化けらもそんな子どもに負けんなや!』
左馬刻がハッ!と肩を揺らしながら笑い、さらに深くふんぞり返った。
「空却みたく頭のおかしいのもいんじゃねえか」
「あん?てめえ分かってねえな。いいか、涅槃寂静っつって、自分の思い通りにならねえ時に他者へ向ける怒りは即ち自分の心が生み出したもんだ。その原因たる煩悩を消し去るのが悟りの境地、つまりは拙僧のいるところだ。なあ一郎?」
「いやお前だって常日頃怒りまくってんだろ……」
揃いのスーツを着たコンビは、気づけば漫才開始時より微妙にそれぞれの定位置が近づいている。簓がどれだけ距離を詰めようとも、盧笙は離れていったりしない。
『そんでな、日も落ちかけた帰り際になななんと!強盗に遭遇したんやて!女の人のバッグを奪った男がパーク内を逃走すんの見たらしいわ!』
『あんな人多いところでか!?逆に人混みに紛れやすいんか……そんで、どうなったんや?』
『先輩は急いで警察に通報しようとしたんやけどな、その時誰かがすごい速さで走って来てみるみる犯人に追いついて、あっちゅー間に取り押さえたんや!しかもその人、今年放送しとる戦隊ヒーローの赤レンジャーの恰好しとったんやで!』
『ほー!ヒーローショーのキャストが飛んできたってことか?現代の捕物帳やんなあ!』
『いんや?普通の客やで』
『は?』
『その人ヒーローオタクで、ついついヒーロースーツ着て入場してもうたんやって!後でスタッフさんに怒られてたらしいわ』
『ほんまの変人ばっかやないか!もうええわ!』
左馬刻と空却が、込み上げる笑いに顔を歪めながら一郎の方を見た。
「いちろお、お前も心当たりあんじゃねえのか?」
「心外っすね。俺ならそんな双方の公式に迷惑をかけるような真似はしません絶対に。だいたい仮装してパークに入っていい時期は決まってるしジャンルだってなんでもいいわけねえしそれすら守らねえやつはオタクの風上にも置けねえっつーか」
「何言ってんのか分かんねえからオタク早口やめろや……」
一郎は毅然とした表情で答え、空却がげんなりとコメントする。それから三人は各々肩を震わせて笑い出した。一郎は年相応の少年らしく大きな声で。空却はソファに転がりながらちょっと苦しそうに。珍しいことに、左馬刻の笑いはいつもよりだいぶ長めに続いた。テレビ画面では「どついたれ本舗」があたたかい拍手に包まれながら一礼している。簓はそれを、自らの膝を抱いたままどこか遠い心地で眺めていた。
ふん、せやろ。俺らの漫才おもろいやろ。若造やったし顔で売れたなんて嫌味言われることもあったけど、俺らはほんまにおもろいって自信があったから全く気にせえへんかった。二人で、テッペンまであと一歩のとこまで行ったんや。
盧笙、こいつら普段お笑いなんて見いひんのに、俺らのネタ見てゲラゲラ笑っとんで。言うとくけどこれかなり珍しいことやからな。俺らの漫才が時を超えて人笑かしたんや。お前、芸人辞めてもうたけど。この有様を見せてやれたら良かったなあ。
どうやらどついたれ本舗はこの日の放送のトリだったらしく、二人を画面に残したまま番組はエンディングを迎え、お馴染みの番組テーマ曲が流れ始める。どこかとぼけたような音楽が懐かしく心臓を刺し、簓は軽く唇を噛んだ。
これがどついたれ本舗のエンドロールなのだろうか。
なおもやかましく笑い続ける十代たちの声に身を潜めるようにして、簓は音も無くソファから立ち上がった。足音を立てないように事務所の出口に向かい、小さく開けたドアに身体を滑り込ませる。廊下に出てから後ろ手にドアを閉めると、テレビの音はぷつりと途絶えた。
♢
左馬刻の事務所が入った雑居ビルは内階段のほかに非常用の外階段がついていて、各階の端にある重たい金属の扉から出ることができた。扉を押し開けてひんやりとした外気に触れた途端雨の匂いが鼻をつく。一時よりは小降りになったものの、まだしとしとと降り続いているようだった。踊り場は一応屋根の下だったが、風が雨粒をさらってきてたちまち簓の全身はしっとりと濡れた。スーツの青が濃く深くなる。寒くて煩わしい。雨は嫌いだ。でも、今はこの冷たい風に晒されていたかった。
踊り場は各階の喫煙所も兼ねていて、簓も気晴らしにここで吸うことがあった。申し訳程度に置かれた小汚いバケツには淀んだ水が張られており、縮こまった吸い殻がぷかぷかと浮いていた。雨が入って普段より水位が上がっている。煙草を一本取り出して火をつけようとするも、風雨が邪魔をしてなかなか上手くいかない。ため息をついた時、背後の扉がギイと軋んで開いた。
「おい、その濡れ鼠のままソファに座ったらただじゃおかねえぞ」
「左馬刻」
扉から踊り場に出かけた左馬刻は簓の手元に目を留め、自分のライターを点火した。まだ半分屋内にいるおかげで幾分か元気な火をありがたく頂戴する。明るく礼を言おうとして、やめた。きっとこいつにはバレてしまう。こう見えて人の痛みに敏感な男だから。
「おもろかったやろ?俺らの漫才」
「ああ。悪くなかった。プロって感じしたぜ」
「せやろ。眼鏡のアイツ、盧笙言うんやけどほんまにおもろいやつでな。解散してもうたけど、喧嘩別れなんかやなくて、今も……」
今も友達。もしそう思っているのが簓だけだったら。
鼻の奥がツンとしたけど、泣かないと決めている男の隣で自分だけ涙をこぼすのは憚られた。簓は深く息を吸って、倍の時間をかけて吐いた。
漫才をしている盧笙の顔を見られないのは大切な思い出だからという理由だけではなかった。盧笙の表情に一瞬でも絶望が過るのを見たくないからだ。あのずぶ濡れの、簓に別れを告げた盧笙の面影を見るのが怖いからだった。
簓と道を共にする盧笙はもう手の届くところにはいないのだと、現実を突きつけられるのが怖かった。それでもまだ盧笙本人に会いに行って話が出来るなら救いはあったのに。二人はそういう解散ではなかった。
盧笙へ向いたこのままならない感情が単なる友達や相方への情だけではないことに気づいたのは、解散してからだった。
「なっさけないよな。別れた相方の顔見るのにビビッてんの!雨に振られ、相方にフラれ、ってな~……」
カスカスの声でそう言って黙り込んだ簓を、左馬刻はしばらくの間じっと見ていた。それからゆっくりと口を開く。吐き出された煙が湿気の中で溜まり、時間をかけて少しずつ薄くなる。
「俺は時々、合歓の考えてることが分からねえ時がある。元々芯が強えけど最近特に色々言われっし、近々大喧嘩するかもしれねえな」
「へ?……そら、年頃の女の子やからなあ。けど合歓ちゃんが左馬刻のこと大好きなんは見てて明らかやん。お前も揺るぎないシスコンやし。せやから大丈夫やないか?」
「それだろ」
「へ?」
左馬刻は穏やかに簓を見据える。いつもの粗暴な姿を一瞬忘れそうになるくらい、纏う空気は静かで、研ぎ澄まされていた。
「大事なやつを見るときの顔くらい分かるっての」
「ええ?俺そんな分かりやすかった?なんや恥ずいな、テレビやのに」
「お前だけの話じゃねえよ。眼鏡の相方も同じ顔してたぜ」
「え」
周りの世界が一気に遠ざかった。簓の手から落下した吸い殻は風に流され、無事足元のバケツの中に着水した。そう言えばアイツは煙草のポイ捨てを見ると自分より大きなヤカラ相手でも注意しに行こうとしてた。不意にそんなことを思い出す。
「お前のことちゃんと見て、同じよーな顔で楽しそうにやってたぜ、漫才。再生回数が多いのもそういうことだろ」
「……」
「二人とも天職っぽいのに解散したのは惜しいって、一郎たちが話してた」
「……ほんまに?ほんまのほんま?」
「しつけえ。後でまた自分で見りゃいいだろ」
「うん。見る。この後すぐ見る。」
「家で見ろや」
泣き出したいような叫び出したいような不思議な気持ちだった。階段の手摺から顔を出して天を見上げると、細雨が柔らかく簓の頬を打った。身に纏うものを湿らせ、簓のかたちを浮き彫りにするような雨。
盧笙が胸の内に抱えていた言葉を簓は知らない。ぶつけてもらえなかったし、聞き出すことも出来なかった。でも、あの輝かしい時間を、確かに盧笙も楽しんでいたのなら。あの時間がこれからも色褪せることなく生き続けるのなら、簓はそれだけで大丈夫になれる気がした。
もし。二人で駆け抜けたあの日々を今の盧笙がしんどく思っていたとしても、ならば簓がその分愛せばいいのだと思った。簓だけが好きなのだとしても、疎まれていたとしても、諦めずにいつか会いに行って、また二人の新しい関係を作っていけばいい。盧笙が笑えないのなら簓が笑わせればいい。同じ後悔はもう二度としない。
冷えた身体に熱がめぐりだす。肌に張り付く服の感触も気にならない。簓が振り返ってニッと笑って見せると、左馬刻も呆れたように笑った。
「なあ左馬刻。やっぱ俺は芸人としてしか生きられへんわ。そのうち復帰公演するからな」
「そーかよ。んじゃそん時は花でも贈るわ」
「おう景気ええの頼むわ!みんなも連れてきたって!んで盧笙の話なんやけどな、アイツあんなツンとした顔やけど知れば知るほどアツくておもろいやつやねん。俺らの渾身のネタ見れば分かって貰えると思うんやけど次はどんなのがええ?」
「いや、今日はもういい。腹減ったからそろそろメシ……」
「あかん!先にさっきの動画もっかい見る!そんで俺のオススメも片っ端から見せたる!今日は祭りや、三人とも寝かせへんで!」
「コイツ……」
脚が勝手に踊り出しそうだ。ウキウキと金属の扉を開けてビルの中に戻ると、後ろから気怠い足取りで左馬刻がついて来る。文句を言いながらもなんだかんだ付き合ってくれるのだろう。左馬刻も、あの二人も。
雨は降り止まず、しかし喪失を押し流してはくれない。それでも生きて行くのだ。またアイツの隣に立つ日を夢に見ながら。
――その日簓は寿司を奢らされて再び財布を空にしたが、ATMまでの道をスキップしていた、永遠に笑い続ける妖怪みたいで怖かったと、仲間内でしばらく怯えられていたという。