狂阿弥街──黒死館ねむけの不眠な不可思議
佐和ネクロ
第1話『人喰い映画館』
ある地方都市、『
街角でひっそりと営業している古書古雑貨屋、『
古時計が時を刻む音だけが、今は店内に無機質に響いている。
黒死館の店主、黒死館ねむけはカウンターの奥で肘をつき、うとうとと舟を漕いでいた。
完全に眠りに落ちてはいない。だが、覚醒しているとも言い切れない。
この街、そしてこの店では、そんな狭間の時間がいちばん奇妙で不可思議なのだ。
「──今回の狂阿弥街のお話は──」
少しだけ目を開けたねむけは、ぽつりと語り始める。
「──この街にとても古くからある、小さい映画館のことです──」
※ ※ ※
狂阿弥街の中心部から自然の森に抜ける道路沿いに、その映画館はあった。
シネコンという施設がショッピングモールを席巻する、ずっとずっと前から、そこで映画を上映していた。
くすんだ白い壁に、額装された映画のポスターが飾られている。知名度もなく、難解な作品のポスターばかりが並んでいるその様は、通行人たちからとても心細く見られていた。
そして、特に大騒ぎが起こるほどでもない都市伝説程度の話だが──その映画館に入ったまま出てこない人たちが居るという。
最も、狂阿弥街では、人が突然姿を消すこと自体は、そう珍しい話でもないのだが。
──人喰い映画館だ。
そんな噂が、ひそひそと秘めやかに街に広がっていた。
人喰いと呼ばれる映画館で上映されていたのは、古い中東の映画や、むかし何度もテレビ放送されたアメリカ映画の名作などだった。
話題作でも、問題作でもない。
しかし、妙な事を言う観客も居て、「スクリーンが、やや奥行きを持って広がって見える」との証言もあった。
くらやみの中、スクリーンとの距離がおかしく感じると。
──そして。
そうした感覚を口にせぬままに、映画館を訪れ──消息不明になった人々も、確かに居たという事実が生々しかった。
映画館の支配人は困り果てていた。老境に入った彼は、ただ自分の好きな映画たちを上映していただけだったのに。
警察も来たし、防犯カメラもチェックされた。館内に特に異常はなく、カメラの映像には観客たちが黙って映画を観ている姿しか映ってはいなかった。
館内に残っているものは、古いフィルムと微かな埃の匂いのみ。
ただ──上映後に誰かが座っていた席がひとつ、空になっていた映像があったが、その席の観客が立ち上がって出ていく所を見た人間は誰も居なかった。そもそもどんな観客が座っていたかも鮮明ではなかった。この映像は、捜査資料として警察が“一応”持って返った。
ある日、噂を聞きつけた物好きな人間が、レイト上映で最後まで残って映画を鑑賞した。
かなり前列で、じっとスクリーンに見入っていたという。
映画が終わり、照明が点いた時、その席には──。
──誰も、座ってはいなかった。
結局、その映画館は閉館した。
人喰い映画館という噂が原因だったのか、ただ単に不況の煽りで客が入らなくなったからなのかは、はっきりとしない。
かつて映画館だった建物は今も残っている。
街角の、ただの古びた元映画館として。
映画館『狂阿弥キネマ』の半世紀ほどの歴史は、静かに終幕を迎えたのだ。
※ ※ ※
──ねむけは、そこで一度言葉を切った。
白いマグカップに少し口をつけ、カウンターにことりと置く。
「──人喰い映画館というのは、少し違います」ねむけは、とても眠たそうに言った。「消失した人々は、食べられたわけではありません」
──彼ら、彼女らは。
ただ、スクリーンを超えて、向こうに行ってしまった。
「何かに選ばれたわけでもなく、何かに罰されたわけでもない」
そう。
銀幕の向こうの世界にも、街があったでしょう。狂阿弥街とは全然違う、未知の世界が。
それは例えば西部の埃っぽい町だったり、或いはどこにも属さない宇宙の片隅かもしれない。
映画とは、元々は知らない世界を覗き込むためのもの。
黒死館ねむけは、そう呟くと口に手を当て、小さくあくびをした。
「銀幕の向こうに旅立った観客たちは、自分たちの街──世界を見つけられたのでしょうか」
──狂阿弥街には。
──もう。
──二度と。
戻ってきませんでした。
それが答えなのでしょう。
黒死館の外では、狂阿弥街の夜が更けていく。
何事もない夜に抱かれて、ねむけはまたうとうとと舟を漕ぎ始めた。
うつらうつら。うつら、うつら。
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