おとうふ屋のゆずっ葉
佐和ネクロ
第1話『帰り道のおとうふ屋さん』
──おとうふ。
白くて四角くて柔らかい、優しげなあの食べ物のことを、ずっと考えている。
仕事帰りの電車を降り、徒歩で自宅アパートへの帰路に就いた今も。
電車の窓に映っていた自分の顔は、思ってたよりも余力が残って見えた。外ハネショートボブのハネ具合が少し乱れてはいたのだけど、まだ「今日は少し贅沢なお惣菜を買いにお店に寄ろう」と決意できるだけの元気は残っていた。
仕事で毎日疲れ気味なわたしの名前は、
23歳。女性。162センチの普通な外見。たまに眼鏡。
“みなも文化財団ホール”運営課勤務。賞罰ナシ。
趣味は──小さなしあわせを集めること。
お日様みたいで明るそうとか、
間違ってはいない気がするけど、どこか自分のことでもなさそうな気もする。まあよく居る、普通の社会人だ。
今日は連日の残業からたまたま解放され、ややお高そうな個人店のお惣菜を買って帰る事にした。自分へのささやかな
いつもの帰り道を少し外れて歩く。よく寄るコンビニの明かりが眩しくて、別の光を無意識に探していただけなのかもしれない。
確か、この奥に。
角を曲がる。
──あった。発見。
そのお店──おとうふ屋には、『うたたね豆腐店』という立て看板が出ており、白い暖簾がふわふわと揺れていた。まだ営業中だ。
個人店? なのかな? にしてはそこそこ大きい店構えだ。
わたしのアパートからはまあまあ離れているので、つい最近までお店があることに気づかなかった。
仕事で『みなも市郷土展』のホール運営に携わったときに、初めて資料で名前を知ったのだ。
少し自分がそわそわしているのを自覚しながら、お店の暖簾をくぐった。
わたしが持っている前情報は。
ここの豆腐は──。
──絶品。
「はい、いらっしゃーい」
優しそうなお婆さんが、にこにことカウンターから立ち上がった。
わたしは軽く会釈すると、店内を見回した。冷蔵ケースに、四角くて柔らかそうな白いおとうふがたくさん並んでいた。少し水の音がさらさらと聴こえるような気もする。
手書きの値札も多いけど、それも高級すぎず安心した。
おとうふがたくさんあって、お惣菜もたくさん種類がある。
視覚的に楽しくて癒やされる。ほんの少しだけ時間の流れが遅く感じる。
小さなしあわせを感じているわたしの視界の片隅に、ふと見慣れない商品名の札を発見した。
『ゆずっ葉』
ゆずっぱ。
わたしは、ゆずは。
自分の名前と似てるだけでそれを手に取ってしまうのは、我ながら単純だな。わたしは少しにこにこした。
小さなプラスチックのパックに、刻まれた緑が入っていた。葉っぱらしいかたちはもう無くて、薬味のようでもあり、香り付けのための何らかにも見える。
「すみませーん」
惣菜を並べていたお店のお婆さんに、「これって……何ですか?」と訊いてみた。
「それね、柚子の若い葉っぱなのよ」
笑顔のまま、お婆さんは教えてくれた。
季節のもので──少ししかないのよ。と。
その説明で十分。
お高めのおとうふと一緒に、ゆずっ葉を買った。理由は──わたしの名前と似てるから。それで良かった。
帰宅したわたしは、うつわにおとうふを出した。包丁は使わずにスプーンで食べる。
刻まれたゆずっ葉をのせると、とても香りが立った。
ひとくち食べた。
優しい味がして、少し肩の力が抜けた。劇的な事は何も起きないし、疲労が全回復するわけでもない。
ただ──今日が終わる速度がゆっくりになり、気持ちが満たされる。
自分の名前を味わうみたいに、ゆずっ葉という名前を考える。
そして思い出す。
子どものころに読んだ絵本の中で、柚子の葉っぱを集めている少年が居たな。
わたしの初恋相手であるその寓話の中の少年は、葉っぱを集めてスープにしたり、冠に加工したりと器用だった。
小さな小さなかけらを集めて何かを作り、しあわせを創る少年を、わたしはすぐに好きになった。
食べ終わったうつわを流しに置いて、外ハネの髪の毛を耳にかけた。指先に少し香りが残っていた。
次はいつ『うたたね豆腐店』に行けるか分からない。
でも、行かない理由はなるべく作らない。
ゆずっ葉という名前がとても胸の中に残っている。
急がなくてもいい。その名前を覚えていれば小さなしあわせを集めていける確信があった。
あの寓話の少年を思い出せたのは、きっと第一歩。
冷蔵庫を閉めると、部屋が少し静かになった。
明日も仕事だ。
また小さなしあわせに遭遇できる予感がする。理由はなくて、ただね、何となく。
おとうふ屋のゆずっ葉 佐和ネクロ @maelstrom
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