ベビールームリバース
様子のおかしい友人を探しに村に行く、よくあるB級ホラーです。
恋愛やクトゥルフ神話要素も少しありますが、知らなくても問題ありません。
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甘くて、幸せで、完璧で。
体が溶けてゆくような夢を見た。
「大丈夫よ」
とん、とん、と軽いリズムが毛布越しに肩を打つ。ぼんやりとした意識の中で、女が柔らかく目を細めた。
「ママは、ここにいるからね」
彼女は今日会ったばかりの他人だ。それなのにどうしてこんなに、安心して身を預けているのだろう。泣き出しそうな気持ちになるのだろう。
「……くん、伊吹くん。大丈夫?」
「え?」
声をかけられて顔を上げた。目にかかるくせ毛を、のろのろと手で払う。
「お前もう酔ったのか? 魂抜けたみたいな顔してたぞ」
「ほら、お水あるよ。水分大事だからね」
そう言って明里が差し出してきたグラスが、指の中でつるりと滑る。
「あっ!」
「おっと」
グラスを両手で支えて事なきを得る。寝起きにしては偉業と言えるだろう。
「危なかったぁ。ほんと不注意でごめん」
「いやいや、明里のおかげで目が覚めたよ」
グラスに口をつける。焼き鳥の焦げる匂いに、壁越しの喧噪。ほてった喉に冷水が流し込まれると、意識がはっきりしてきた。
俺──高野伊吹は、居酒屋の個室で友人達と向かい合っていた。こもった空間に暑さを感じて、くたびれたスーツの上着を脱ぐ。
「よくわかんねーけど、システム保守ってやつ? 伊吹も大変そうだよな」
「やっぱり疲れてたんじゃない? 今日誘ったの迷惑じゃなかった?」
「ぜ、全然! むしろこれが楽しみで生きてきたっていうか」
「いや、伊吹くんの人生の理由にされても困るけど」
「アッハッハ! ほら伊吹、しいたけ食えよ。好きだろ?」
茶髪を揺らしながら、体格に似合う豪快な笑い声が響いた。杉本翔太は大学時代の友人で、今は地域情報紙の編集者をしている。
そして俺の隣で微笑んでいる女性──桐谷明里。彼女も大学時代の友人だ。
よく動く瞳のそばで、黒髪がふわりと揺れている。毛量が多いのが悩みらしく、後ろ髪の上部分をリボンで結んでいた。
「にしても、寂しくなっちゃったね。早苗も結婚しちゃったし」
小動物のように両手で枝豆を食べながら、明里がしんみりと言った。学生時代、しょっちゅう顔を合わせていたボランティアサークルのメンバーを思い出す。
しかしそれも数年前までのこと。就職だ転勤だ結婚だと、それぞれみんな離れていく。気軽に会える距離に残っているのは、もう俺たちだけだった。
「でもこうやって二人と、たまに会えるだけでもありがたいよ」
翔太ほどの社交性を持ち合わせていない俺は、卒業してから友人らしい友人を作れていない。仕事以外は食って寝るだけの日々を思えば、久しぶりに人間らしい時間を過ごせている気がした。
「その、明里は最近、どう? 仕事とかプライベートとか」
探るように話を振ってみる。枝豆から視線を外し、彼女がこちらを見た。
「仕事ねえ。まあ、厳しいよ」
「やっぱり忙しいか」
「それもあるけど。なんていうか、嫌なこととか色々見ちゃうとねえ」
複雑さを滲ませて、彼女の目が伏せられる。細い指がグラスを包み込むように持ち上げた。
「でもご家族や子ども達の笑顔を見ると、私もがんばらなきゃって」
明里は、民間の児童支援施設で働いている。基本オフィスにこもってパソコンに向き合い続ける俺には、想像もつかない苦労があるのだろう。
「伊吹くんはどうなの?」
「話すほどのこともないよ」
グラスに残ったビールを、一口飲みながら答える。
「トラブルが起きると「何やってんだ」って怒鳴られて、徹夜で解決したら「遅い」、何も起きないように努力しても「当たり前だ」ってさ」
社会貢献だとか、ご大層な考えがあるわけではない。このボランティアサークルだって、就活のネタになると誘われて入っただけだ。
ただ昔から漠然と、誰かに必要とされたいという感覚があった。それは勉強をしても仕事をしても、消えることはなかった。
「あー、いるよな。そういう奴」
「ほんと、伊吹くんの努力を何だと思ってんだろ」
俺の愚痴に、明里と翔太は顔をしかめて怒ってくれた。
「うんうん。二人とも、ストレス溜まるよな。たまの休みに、ちょっと息抜きした方が良いぜ」
話しながら、翔太が俺のシャツをちょいちょいと引っ張る。俺はハッとして言った。
「あのさ、明里。今度よかったら気晴らしに……」
──ピピピピ、ピピピピ。
電子音のアラームが言葉を飲み込んだ。
「うわ、ごめん」
ごそごそとスマホを取った明里が声をあげる。
「明日、家庭訪問で朝早いんだ。そろそろ電車少なくなるし、先帰るね」
「おう、お疲れ」
「駅まで送ってくよ」
立ち上がろうとした俺に、明里はにっこりと笑って返す。
「いいって。ここ駅のすぐ隣だし」
二人とも飲み過ぎないでね、と言い残し明里は店を出て行った。
* * *
遠くでささやかな歓声が聞こえる。カウンター席のテレビで、誰かがヒットを打ったらしい。明里がいなくなって、ぽっかりと空いた座席に目を向ける。
「伊吹お前さ、もうちょっと押さねえの?」
「うるさいな」
放っておいてくれ、と言いそうになったが、翔太が気を遣ってくれていることを知っているので俺は黙っていた。
「もう何年片思いしてんだよ。こじらせすぎだって」
「わかってる。でも、そういう目で見られてないっていうか」
明里とは高校の同級生だったが、親しくなったのは大学のサークルで再会してからだ。
二人で食事や買い物をしたこともある。下の名前で呼び合うようになったのだって、その時からだ。でもなんというか壁があって、そういう雰囲気にならない。
やっぱり顔か。この童顔のせいか。
「彼女にその気がないなら、友達のままで良いかなって。人と付き合う元気も、今はお互いなさそうだし」
もしフラれて、今の関係まで壊したらそれこそ辛い。
「お前、それで明里が他の誰かと付き合いだしたらどうすんだ?」
「う……」
「明里のやつ、今まで告白してきた奴はみんなフッてるらしいけどな。この先もそうとは限んねーぞ?」
想像したくない未来だった。
翔太はため息をついて、ビールの残りを飲み干す。
「ま、そんな顔すんなよ。お前が本当はいい男だって、俺は知ってっからさ」
「まーた調子の良いこと言いやがって」
ウインクを飛ばしてくる親友に苦笑しながら、俺も水を飲み干す。
「じゃ伊吹、次の店行くぞ」
「まだ飲むのかよ」
「いや」と否定した翔太は、内緒話をするように顔を近づけて言った。
「SNSで見つけたんだけどさ──元気がない奴にぴったりの店があるんだ」
翔太が、いつになく楽しげに俺を誘う。天井の白熱灯に照らされて、その目がキラキラと光っていた。
* * *
六月のぬるい夜風が、肌に吸い付いてくる。人の流れはゆるやかに駅の方へと向かっていた。酔いは覚めかけているが、頭の奥にまだ熱っぽさがある。
「どこ行くんだよ、翔太」
「癒やしの店。こっからすぐそこだ」
「おい、怪しい店ならお断りだぞ。金もないし」
「大丈夫だって。なんつーか、コンセプトカフェ? みたいなもんだ」
ずんずんと進んでゆく翔太を俺は追いかけた。
高架下を抜けると、街の賑わいが遠くなる。暗く塗り潰された空の下、不意に翔太が足を止めて振り返った。
「俺、先月その店に行ったんだ。なんつったらいいのか……特に何かしたわけじゃないのに、涙が出てさ」
よく引き締まったスポーツマン体型が、街灯に照らされている。電車が走るリズムが遠くで響いた。
「はは、なんだよそれ。あやしー」
「そう、だよな。俺もそう思う」
歯切れの悪い返事に、俺は違和感を覚えていた。単なる店の紹介にしては、声が真剣すぎる気がする。
「ま、騙されたと思って来いって。悪くないとこだからさ。お前には幸せになってほしいし」
本当に大人しく付いて行っても良いのだろうか──疑念と同時に、翔太がここまで言う『癒やし』とはどんなものか? そんな期待とも好奇心ともつかないものが俺の足を進ませた。
「ほら、ここ」
翔太の指さした先。雑居ビルの入り口に、プレートがかかっていた。
『ベビールーム』
淡いピンクで書かれた文字。丸みを帯びたフォントが、夜の中で不思議な存在感を放っていた。どうやら他のテナントは入っていないらしい。
「なあ、どういう意味だよこの名前」
俺の問いに答えず、翔太は薄暗いビルの廊下を進む。その突き当たりに扉が現れた。
やはり『ベビールーム』と書かれたそこは、パステルカラーの画用紙やモールで飾り付けがされている。何も知らなければまず、託児所だと思うだろう。
「おい──」
翔太の手の中で、ノブが静かに回る。中から白い光がこぼれた。
まぶしさよりも先に、甘い匂いが絡んでくる。
少しだけ、間があった。
「ようこそ」
声が聞こえる。耳に響く、落ち着いた優雅な響き。
翔太を止めようとして、気づけば一歩を踏み出していた。柔らかい絨毯に足が沈む。
「おかえりなさい。よく頑張りましたね」
栗色の長い髪に、笑みをたたえた女が立っていた。年齢は二、三十代に見えるが、よくわからない。ぴったりとしたシスター服の胸元で、ゆるやかな曲線が上下している。視線の置き場に困って目を逸らし、それも失礼かと顔を見ると、眼差しに捕らわれた。
初対面のはずの俺を、待ち焦がれていたかのように見つめる瞳で──。
息が詰まる。内側から、あたたかいものがこみあげてくる。
「ただいま、ママぁ」
翔太が聞いたこともないような声を出した。女に鼻の下を伸ばしているのとは、何かが決定的に違う。まるで幼児が甘えるような、純粋な歓喜の声。
「おかえり、翔太くん」
女性が翔太の手を取って頭を撫でる。呆気にとられて、茶化す気にはとてもなれなかった。大学時代、兄貴分と慕われていた友人の面影はそこにない。
「あなたは、伊吹さんですね?」
名乗る前に名前を呼ばれ、ドキリとする。
「私はベビールームの店主をしております。真奈世と申します。ママとかシスターとか、呼ばれております」
「真奈世さん。は、初めまして」
答えて息を吸った途端、懐かしい匂いがした。ここが雑居ビルの一角だと忘れてしまいそうになる。
「ええ、初めまして。今日はよくいらっしゃいました。どうぞ、こちらへ」
玄関らしき所を通り、薄暗い奥へと案内される。
静かだ。
音もなく、白いカーテンが揺れている。ピンクの壁が笑っている。街の雑踏や湿気とは、まるで別の空気。
ミルクの甘い匂いと、白熱灯のかすかな明かり。オルゴールの音だけが空間を満たしていた。
「さあ、伊吹さん」
真奈世さんが細い手を差し出す。
「どうぞ、心のままに。お還りなさい」
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- Naa11 hours ago