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【今西和男 我が道22】オフト効果“広島から代表へ” 森保の運動量と危機察知能力がフィット

[ 2026年2月22日 07:00 ]

92年、オフト監督率いる日本代表がアジア杯初V

 1991年(平3)年末だった。オフトから国際電話があり「日本代表監督のオファーをもらったのだが、どう思うか」と相談された。私は適任だと思ったので、勧めた記憶がある。確かに数カ月前に日本サッカー協会の関係者からオフトの指導について聞かれたことがあったが、このことだった。

 92年3月に就任が正式に発表された。既にJリーグの開幕が決まり、マツダもサンフレッチェ広島として参加することになっていたが、オフトが日本代表監督に就任したことは広島にも追い風だった。同年6月、オフトジャパン初戦のキリンカップ、アルゼンチン戦とウェールズ戦へ向けた日本代表が発表されたが、広島からMF森保一、FW高木琢也、GK前川和也の3人が選ばれた。

 森保は全国的には知られていなかったが、運動量と危機察知力に磨きがかかり、オフト監督が目指すサッカーに欠かせない選手になっていた。高木もストライカーとして、力をつけていた。日本代表に選ばれたことで森保や高木が自信をつけたのはもちろんだが、広島の他の選手も「俺も頑張れば、日本代表に選ばれるかも」という効果を生み、チーム全体が活気づいた。

 実はオフトはMF風間八宏も招集したいと考えていた。司令塔役にうってつけで、リーダーシップもあった。だが風間は前任の横山謙三監督時代から「所属するチームを強くすることに集中したい」と、日本代表招集の打診を断っていた。監督がオフトに代わっても、考えは変わらなかった。

 オフトはマツダ時代と同様に、難しいことは言わず、基本を重視していた。「アイコンタクト」「トライアングル」「スリーライン」などの用語も同じで、規律を重視するところも変わっていなかった。私はサンフレッチェ広島で取締役兼強化部長兼総監督を務めていたので自分のチームのことで忙しく、練習や試合を見てバクスター監督の相談に乗ったり、外国人選手の獲得のために欧州や南米に行った。

 92年10月から11月に広島で開催されたアジアカップで日本代表は初めてアジアを制覇した。韓国が出場していなかったが、準決勝で中国、決勝でサウジアラビアを破ったことは、日本が成長した証だった。この大会ではサンフレッチェ広島も協力した。鯛尾(たいび)の練習場を貸したりしたが、それにしても、着実に強くなる日本代表に驚かされた。森保と高木は主力選手になっていた。93年のW杯米国大会アジア最終予選、ドーハでの戦いは、最終戦のイラク戦であと十数秒で涙をのんだ。オフト自身も相当なプレッシャーがあったはず。周囲の人から「今西さんがオフトのそばにいたら、違っていたのでは」と言われたが、うれしかった半面、私がそれほど力があるとは思ってもいなかった。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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