飛田新地の「二万円のキス」に救われた話
その日の大阪は、恨めしいほどの快晴だった。
新大阪駅のホームに降り立った瞬間、吹き抜けた春風が、休職中の身にひどく冷たく凍みた。
仕事のストレスに押し潰され、逃げるように関東を離れてからは、行く当てもなく放浪を続けていた。福岡で念願の温泉に浸かっても、視界を埋め尽くす桜の奔流を眺めても、俺の心は動かなかった。「温かい」「花が咲いている」という記号だけを脳が受け取り、感情は氷の下に閉じ込められたままだった。
福岡を発つ間際、ふと「飛田新地」という地名が頭をよぎった。
なぜその時、そこへ向かおうとしたのかは今でも分からない。ただ、あの時の俺は、飢えた獣のように、理屈抜きで「女」という存在のぬくもりを求めていた。
動物園前駅の1番出口を上がり、新世界の喧騒を背にアーケードへと足を踏み入れる。横断歩道を一つ渡るごとに、空気の色が変わっていくのが分かった。煌びやかな観光地の気配が消え、辺りは得体の知れない妖気に包まれる。
遊廓の入り口には、明確な「境界線」がある。吉原に大門があるように、飛田においてはあの横断歩道こそがそれだった。そこを跨ぐことは、日常を捨て、別の世界の扉を開くという儀式に等しい。
近くのコンビニで買った精力剤を一息に煽り、俺は覚悟を決めてその線を越えた。
地図を頼りに、うらぶれたアーケードを抜けると、不意に淫靡な灯りに彩られた料亭街が姿を現した。
飛田は残酷な場所だ。並ぶ娘たちの顔も仕草も、すべてが露わに品定めされる。青春通り、メイン通りを歩いてみたが、どれも均一化された美容整形特有の違和感があり、食指が動かない。俺が求めていたのは、そんな人工的な美しさではなかった。もっと根源的な、柔らかな肉のぬくもりに溺れたかった。
当時の俺は、自分の孤独を埋められるのはそれだけだと信じ込んでいた。
二周し、散々迷った末に、青春通りの外れにある一軒の料亭へ入った。二十歳前後の、愛嬌のある顔立ちをした娘だった。ミニスカポリスの衣装を纏い、深い谷間を惜しげもなく晒している。その肌には、作り物ではない生身の柔らかさが宿っているように見えた。
二階へ上がり、対価を支払う。一階へ現金を届けに行く彼女の、白く弾むような尻の揺れを眺めながら、自分の中で何かが疼くのを感じた。「俺の目に狂いはなかった」という確信が、熱となって下半身に宿る。
戻ってきた彼女と、言葉を交わす。
大きなリュックを背負った俺が旅行者であることはすぐに見抜かれた。休職して旅をしていること、温泉を巡っていることを伝えると、彼女の瞳が輝いた。
「私、愛媛出身なんです!道後は行きました?」
「いや、学生時代に一度きりかな」
「もったいない!ぜひ行ってみてください。奥道後は?」
「聞いたことがないな」
「次は絶対に行ってくださいね。最高なんですから!」
屈託のない、澄んだ声だった。この場所にいながら、彼女の心はまだ擦れていない。
そんな他愛もない会話を交わしながら、薄暗い部屋で、導かれるままに彼女を抱いた。
外の冷風で冷え切っていた体に、彼女の体温がじわりと溶け込んでくる。女の扱いに慣れない俺は、戸惑いながらも、ただ必死にその肢体をまさぐった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、彼女が吐息混じりに「気持ちいい」と漏らした。
「こんなに気持ちいいって感じたの、初めて……」
思わず動きを止め、彼女の顔を覗き込んだ。
「飛田に入ってまだ日は浅いんですけど、他のお客さんはみんな痛くて。お兄さんが初めてです。何をされても、全部心地いいのは」
当時の俺は、わずか一ヶ月前に風俗で筆下ろしを済ませたばかりの、実質的な素人童貞だった。
「……俺、ほとんど経験ないよ?」
「じゃあ、私も素人処女ですね!きっと、相性がいいんだわ」
彼女は人懐っこく笑い、それから自分の身の上をぽつりぽつりと話し始めた。
亡くした両親のこと、残された高校生の妹のこと。妹の学費を稼ぐために、愛媛から関西へ出てきてこの街に立っていること。
なぜ彼女がそんな秘め事を話してくれたのかは分からない。けれど、その瞬間、俺は自分が彼女にとっての「特別な誰か」になれたような錯覚を覚えた。
無性に、彼女と唇を重ねたくなった。
「……ごめん、キスしてもいい?」
「……普通はダメなんですよ。でも、二万円くれたら、いいよ」
断る理由などなかった。百万円だったとしても払っていただろう。追加の代金を払いに一階へ駆け降りる彼女の後ろ姿さえ、今は愛おしく、離れがたい。
不慣れなキスは、時折歯が当たるほどぎこちなかった。けれど、触れ合う唇と舌の柔らかさは、どんな刺激よりも俺を昂ぶらせた。
体温と手触りが、自分の中に澱んでいた孤独を少しずつ溶かしていく。やがて自分と彼女の境界線さえも曖昧になり、一つの生き物として溶け合っていくような没入感に包まれた。
気がつけば、俺は果てていた。正常位だけでイったのは、それが初めてだった。
「キスしたらどうなっちゃうかと思った。私も、もう少しでイクところだった……」
お互いの興奮が冷めやらぬまま、彼女は「今度は私を女にしてね」と笑い、抱きついてきた。
「次に来るときは、指名してください」
そう言って渡された名刺。飛田にも名刺があることを、俺はその時初めて知った。
帰り際に口にした、いちご味のキャンディ。その甘さが、驚くほど鮮明に感じられた。
青春通りを吹き抜ける春風は、来る時とは違い、春の確かな暖かさを孕んでいた。
孤独で、誰にも必要とされていないと思っていた人生。
もちろん、俺も子供ではない。すべては金銭で成立する関係であり、彼女の言葉や仕草も、巧妙な演技だったのかもしれない。
けれど、たとえ嘘であったとしても。
「誰かに求められ、特別な存在として扱われること」が、これほどまでに心を救うものだということを、彼女は教えてくれた。凍てついていた俺の心に一陣の春風を吹き込み、溶かしてくれた彼女には、感謝しかない。
その日を境に、世界の色は鮮やかさを取り戻した。京都の桜も、兼六園の庭園も、心から「美しい」と思えるようになったのだ。
一昨年、無性に彼女が恋しくなり、飛田を再訪した。けれど、かつての料亭に彼女の姿はなかった。
今、彼女がどこで、どんな空気を吸って生きているのかは知る由もない。
二度と会えなくとも、あの時の肌の感触、体温、弾けるような笑顔は、俺の心に消えない刻印として残っている。
それでも、もし叶うのなら、もう一度だけ彼女に会いたい。
あれから俺も少しは変わった。今度は彼女を満足させられる男になれているだろうか。
願わくば、客と中居という形ではなく、ただの男と女として。一人の人間同士として、静かに再会してみたいと思う。



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