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【今西和男 我が道3】被爆のやけど痕がケロイドに 自宅2階のベランダで…猛烈な閃光と熱風が襲った

[ 2026年2月3日 07:00 ]

小学2、3年生の頃
Photo By 提供写真

 1945年(昭20)8月6日月曜日、午前8時15分だった。その日はいい天気で、私は二葉の里の饒津(にぎつ)神社近くの自宅2階のベランダから足を出して座って、隣家の1階にいた女の子と話をしていた。「今度の祭りはどうするの」などとたわいのない話だった。女の子が「下駄を買ってもらった」と言っていた。私は草履しか持っていなかったのでうらやましく思い、「僕も欲しいな」と言った記憶がある。その時、猛烈な閃光(せんこう)と熱風が町を襲った。米軍によって、原子爆弾が広島に投下されたのだが、その時は何が起きたのか分からなかった。家は倒壊したが、私は2階のベランダにいたことが幸いした。1階の縁側にいて助かった母に、屋根の下から引っ張り出された。

 海軍にいた父は、詳しくは知らないが大分県別府市に、大学生の兄は学徒動員で山口県にいた。2人の姉は広島市内の女学校に行っていた。家にいたのは私と母だけで、私は母に背負われて北へ1・5キロぐらい行ったところにある牛田山の防空壕(ごう)に向かった。母も顔と腕にやけどをしていたが、私は半袖シャツに半ズボンだったこともあって、左腕と左足に大やけどを負っていた。病院にも行けず、患部に赤チンを塗るぐらいしかできない。特に左足首の傷口は膿(う)み、ハエがたかってウジがわいた。母がピンセットで取ってくれたが、痛くて泣き叫んだ。やけど痕はケロイドになり、皮膚が突っ張って足は自由に動かず、左足首は90度以上は曲がらなかった。2人の姉も被爆してやけどを負った。私の腕と足には80年たった今もケロイドとなったやけど痕が残っている。このやけど痕が私の人生を大きく変えた。

 8月15日に終戦を迎え、米軍の空襲はなくなったが、日常は戻ってこなかった。市内は一面焼け野原、私たち一家は府中町に近い広島市矢賀町で遠縁が経営していた今西製作所という木工場の近くに家を借りた。私は、1947年(昭22)4月、広島市立矢賀小学校に入学した。最初はずいぶんといじめられた。左足のケロイドとなったやけど痕を、「やけどこぼれ(水ぶくれ)」などとからかわれ、取っ組み合いのけんかになることもあった。

 父には「人から何か言われようと、負けちゃいかん」と教えられていた。私は相撲が強く、足も速かった。子供は腕力があったり、足が速いと一目おかれる。おかげであっという間にガキ大将になった。それでも、やけど痕のケロイドを人に見られるのは嫌だった。ただ、しばらくすると、やけど痕をからかわれたのは「その子が私と友達になりたかったから」だと思うようになり、その子たちと一緒に遊ぶようになった。自宅近くにビール工場があり、仲間とこっそり構内に入って、広場のようなところで草野球をして遊んだこともあった。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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