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【今西和男 我が道4】校内大会で活躍 黒帯取得後に柔道部からサッカー部へ

[ 2026年2月4日 07:00 ]

高校選手権、前列左が筆者
Photo By 提供写真

 小学4年生の3学期、1951年(昭26)1月に私たち一家は、実家に近い平塚町(現中区東平塚町)に引っ越した。まだ100メートル道路はなく、一帯にバラック小屋が並んでいた。広島市立竹屋小学校に転校したが、私は新しい学校でもすぐにガキ大将になった。平塚町に引っ越す1年前の50年に広島カープが誕生し、プロ野球人気が高まっていた。平塚町の自宅から近かったこともあって、父に連れられて、よく広島市民球場に通った。草野球もよくやった。足が速かったので打順は1番、ポジションは外野手。「将来はプロ野球選手になりたい」という夢もあった。まさに広島カープが、焼け野原となった広島復興の原動力だった。

 53年4月、広島市立国泰寺中学校に進学した。前身が旧制広島第一中学校で、越境入学してくる生徒も多く、私の学年は14クラス、約1000人。人数が多いので、授業を2部制にし、午前中と午後1時半からに分けられて通学したこともあった。本格的にスポーツをやりたかったが、部活動は各部とも人数が多く、思う存分練習することはできなかった。しかも、ツベルクリン反応検査で陽性となり、1年間運動を禁じられた。思春期で、左足のやけど痕を人に見られたくないという気持ちも強く、スポーツは遊びで草野球やサッカーをやるぐらいだった。

 高校は広島県立国泰寺高校が第1志望だったが、志願者が集中することが予想されたため、その年は広島皆実(みなみ)高校、舟入高校、基町(もとまち)高校、観音高校は総合選抜だった。5校が一括で入試を行い、合格者が抽選で各校に振り分けられる。私は合格したものの、第5志望の舟入高校。前身は広島市立第一高等女学校で、通学にバスで40~50分かかった。だが、これが私の人生を大きく変えた。「高校へ行ったら、今度こそ思う存分スポーツをやろう」と考えていたが、舟入高校も外林秀夫校長が「スポーツを通じて、世界へはばたけるようにしたい」という方針だった。野球をやりたかったが、有力選手は広島商業や広陵高校に集まり、舟入高校が甲子園に行ける可能性はほとんどなかった。野球部が強かったら、入部していたかもしれない。サッカー部は強くて全国大会に出場できる可能性があったが、左足のやけど痕を人に見られたくない気持ちがあって、入部をためらった。結局「相撲が強い」という理由で、柔道部から誘われて入部した。

 しかし、1年生の秋の校内サッカー大会で活躍したことで、サッカー部の強化を考えていた外林校長から「足が速く、ボールを遠くまで蹴れる」と褒められて、サッカー部に入部することを勧められた。1年先輩で中央大学から日立に入社し、日本リーグの初代得点王になったFW野村六彦(むつひこ)さんにも「一緒にやろうよ」と誘われた。「やってみたい」と、心が動いた。柔道を始めたからには黒帯は取りたかったので、1年生の春休みに初段を取り、黒帯になったことで踏ん切りがつき、サッカー部に入部した。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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