2026年2月21日(土)
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【今西和男 我が道5】舟入高サッカー部入部 1年で全国大会出場

[ 2026年2月5日 07:00 ]

高校2年時の高校選手権で(中列左から2人目が筆者)
Photo By 提供写真

 舟入高校サッカー部に入部すると、すぐにレギュラーになった。サッカーを始めたばかりで技術はないし、被爆による左足のやけど痕のケロイドで皮膚が突っ張り、左足首が自由に動かせなかったので、うまくボールが蹴れなかった。だが、足が速く、負けん気が強いところが武器だった。

 草サッカーではFWだったが、サッカー部では左フルバック(FB)。当時はWMというフォーメーションで、2人のDFの左。「野球でいえば、8番ライト、下手な選手がやるポジション」と言われていたが、試合に出られるならどこでもやるつもりだった。当時のオーソドックスな戦術は、後方からコーナーフラッグをめがけてロングボールを蹴り、サイドの選手が走ってクロスを上げてチャンスをつくるというもの。私は走るのが速く、攻撃に参加してボールに追いつくのだが、左足で蹴れないので、カットインして右足でシュートするしかなかった。守備では、体ごとぶつかる強烈なスライディングタックルを身に付けた。サッカーは選手が連係して動くところが面白く、どんどんのめり込んでいった。

 舟入高校のグラウンドは狭く、野球部とサッカー部が交互に譲り合って使っていた。練習がない日は自宅の近くにある山陽高校の練習を見に行った。同校サッカー部の渡部英麿監督は父の知人で、「舟入はライバルだから、練習で見たことは言うなよ」とくぎを刺しながらも、快く練習を見せてくれた。

 サッカー部に入部して1年目、2年生の8月に行われた中国大会の決勝戦で広島大学付属高校に2―1で勝って優勝した。続く高校サッカー選手権、県大会は準々決勝以降から全校応援となり、授業が休みになるので、同級生から「今西、頑張れよ」と激励された。注目されればやりがいがあるし、自然と力が入る。準々決勝で賀茂(かも)高校に6―1、準決勝で山陽高校に5―0、決勝でも修道高校に3―1。代表決定戦で山口県代表の多々良学園高校(現高川学園高校)に3―0で勝って、西中国代表として1957年(昭32)度の高校選手権に出場した。会場は西宮球技場と西宮球場で、58年1月2日の1回戦で東北代表の仙台育英高校(宮城)に1―0で勝利。しかし翌日の2回戦で西奥羽代表の秋田商業高校(秋田)に0―1で敗れた。秋田商は決勝で愛知県代表の刈谷高校に4―2で勝って優勝した強豪。私は2試合とも出場し、1回戦を突破したことはうれしかった。秋田商の選手は、ドリブルやキックは特別うまくはないが、運動量は豊富で「冬は雪でグラウンドが使えない地域なのに、なぜサッカーが盛んで強いのだろう」と思った。

 父の弟が大阪にいたので、西宮には何度か行ったことがあったが、改めて「スポーツをやればいろいろな所に行ける」と思った。焼け野原の広島と違い、活気のある大都市の光景に「将来は東京か大阪に住みたい」と思ったものだった。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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