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【今西和男 我が道6】保健体育の筆記もあった入試 大学では授業とサッカーに明け暮れた

[ 2026年2月6日 07:00 ]

東京教育大学時代(後列左から2人目が筆者)
Photo By 提供写真

 高校3年生の時の高校選手権は、県大会の準々決勝で広島国泰寺高校に2―1で勝ったものの、準決勝で広島大学付属高校に0―1で敗れ、2年連続の全国大会出場はできなかった。広島大付高校が全国大会で準優勝しただけに、ことのほか悔しかった。私の高校サッカーはこれで終了した。

 2年生の冬に高校選手権出場を決めた時、外林秀夫校長が学外のコーチとして、メルボルン五輪に日本代表として出場した東洋工業のDF小沢通宏(みちひろ)さんを呼んでくれた。舟入高校のOBではないが、その後も時々指導に来てくれるようになった。3年生の夏、高校卒業後の進路を考えていた時だった。小沢さんが「誰か東京教育大学(現筑波大学)に来ないか」と聞いてきた。私が「大学へ進学してサッカーを続けたい」と言うと、「君は勉強はできるのか?」「好きじゃないけど、20~30番です」「体育学部がある。そこなら合格できるかも」と、自分の母校の東京教育大学を薦めてくれた。

 中国電力に勤務していた父は定年になっていたが、「これからは、大学を卒業しないと、いい会社には就職できない」と、大学進学を勧めてくれた。定年後も再雇用されて働いていたが、家の経済状態を考えると、国立大学に行くしかない。地元に国立の広島大学があったが、サッカー部は弱く、舟入高校と練習試合をやってもいい勝負。「ここではうまくなれない」と思っていた。その点、東京教育大学は国立で授業料が安く、サッカー部もレベルの高い関東大学リーグで戦える。私の希望にピッタリだった。

 私は東京教育大学の体育学部体育学科を受験することにした。落ちたら浪人する覚悟だったので、他の大学は受験しなかった。国立なので、試験は英語、国語など5教科、加えて体育学部は保健体育の筆記試験と実技もある。勉強は好きではなかったが、目標ができると人間は変わる。必死で机に向かい、人生で一番勉強した。元々数学はわりと得意だった。国語も本を読むのが好きで、苦手ではなかった。英語は兄の奥さんの父が広島大学で英語を教えていたので、勉強を見てもらった。合格通知が来たときは跳び上がって喜んだ。

 1959年(昭34)4月、東京教育大学に入学した。知人の紹介で、西武池袋線の石神井(しゃくじい)公園駅近くに下宿し、茗荷谷のキャンパスに通った。食事付きで、6畳に広島の修道高校出身の山本さんというサッカー部の1年先輩と一緒だった。同郷で話が合い、リラックスして大学生活を送ることができた。石神井公園は閑静な住宅地で、近くに大きな池があり、練習が休みの日はその周囲を走った。授業とサッカーの練習で、アルバイトをする時間はなかった。体育学科なので、バレーボールやバスケットボールなど、いろいろなスポーツをマスターすることができた。妻の美代と出会ったのもこの頃。大学の同級生でモダンダンス部。卒業後に結婚した。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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