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【今西和男 我が道7】「俺はずっとスポーツに関わっていきたい」 大学時代の友人が実現させた夢

[ 2026年2月7日 07:00 ]

大学時代同期の坂田くん(前列左)、筑波大の小井土監督(後列中央)、松本元監督(前列右)と
Photo By 提供写真

 東京教育大学の同期は11人いた。ずばぬけてうまい選手はいなかったが、結束が固く、いい仲間だった。中でも仲が良かったのが坂田信久くんだ。富山県立富山中部高校出身で、3年間高校選手権に出場。坂田くんはテクニックがあり、1年生の時こそスタンド観戦だったが、2、3年生の時は全国のピッチに立った。

 東京教育大学は1年生が6人もスタメンで出ていた。坂田くんが右フルバック(FB)で私はセンターハーフ(CH)、今でいうセンターバック(CB)だった。坂田くんとは3年生から所属するゼミも一緒で、「体育心理学」を勉強した。だが、坂田くんは4年生になる直前にサッカー部を退部してしまった。右足アキレス腱を断裂し、当時は秋開幕だった関東大学リーグに出場するのは難しかったからだ。さらに「スポーツを通じて人間的に成長することができた。卒業したらマスコミの世界へ行って、スポーツを広める仕事がしたい」と、難関のテレビ局を志望して就職活動をしようとしていた。敗戦から復興を目指していた日本にとって、子供たちに夢を与えられるスポーツは重要、それを広める仕事をしたいと考えていた。

 坂田くんは「サッカーをやれるのは30歳ぐらいまで。俺はその先もずっとスポーツに関わっていきたい」と、確固たる考えを持っていた。そして、「今西、君はサッカーを頑張れ」と、私にエールを送ってくれた。

 坂田くんは希望通りに日本テレビに入社し、運動課に配属されてスポーツ中継を担当し、プロ野球の巨人戦やプロボクシング、プロレスなどの中継に関わった。

 サッカーも担当し、1970年度(71年1月)から、高校サッカー選手権の放送権を日本テレビが獲得。翌年から全国のテレビ局が系列を超えて、都道府県大会決勝を含めて中継するようにした。それまで関西圏で開催されていたが、日本サッカー協会などと交渉して、76年度(77年1月)から首都圏開催に移行し、決勝戦は国立競技場で行うように。参加校も83年度から全都道府県48校(東京都は2校)が参加する現在の形にした。

 早くからサッカーのプロ化を視野に入れ、1969年(昭44)に東京ヴェルディの前身、読売サッカークラブの設立にも関わり、Jリーグ開幕後は東京Vの取締役に就任、98年11月から社長を務めた。

 87年には箱根駅伝の完全中継を始め、正月の風物詩に育て上げたほか、1991年(平3)の世界陸上(国立競技場)の中継も実現した。

 坂田くんはテレビ局という視点から日本スポーツ界の発展に貢献し、子供が明るく成長できるようにした。大学時代に語っていた夢を見事に実現させたのだ。

 坂田くんは東京Vの社長を退任した後は、国士舘大学、大学院の教授となって教壇に立ち、大学生にメディアについて教えた。私は東京に行くと、時々坂田くんと会った。「箱根駅伝を見に来い」と言われて行ったこともある。いつも、私にいい刺激を与えてくれた親友だ。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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