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【今西和男 我が道12】被爆した選手でも日本代表に…長沼健監督には感謝しかない

[ 2026年2月12日 07:00 ]

日本代表の遠征で(右から2人目が筆者)
Photo By 提供写真

 日本リーグ2年目の1966年(昭41)初頭に、思いがけない知らせが届いた。日本代表候補に選ばれたのだ。当時は年初に40人ぐらいのその年の日本代表候補が発表され、そこから大会ごとに二十数人の日本代表が選ばれた。前年11月28日に広島市民球場で開催された東洋工業―トルペド・モスクワ(ソ連)戦に出場して1―1、欧州の選手を相手に互角に戦えた。この時のプレーや日本リーグのプレーが評価されたのだと思う。

 66年6月22日に国立競技場でスターリング・アルビオン(スコットランド)と対戦する日本選抜に選ばれ、1―3で負けたが手応えがあった。26日には日本代表がSアルビオンと対戦したが、初めて代表に招集されてベンチ入り。7月から約1カ月間の欧州遠征にも選ばれた。

 被爆の影響で左足でうまくボールが蹴れない私が日の丸をつけるなど、考えてもいなかった。日本代表監督の長沼健さんには感謝するしかない。釜本邦茂を抑えたことも見てくれたのだと思う。釜本と初めて対戦したのは、彼がまだ早稲田大学の学生だった64年度天皇杯3位決定戦(65年1月17日、神戸市王子競技場)で、東洋工業が早大に2―1で勝利。私は何とか釜本を抑えたが「とんでもない選手だ」と思った。私は柔道の黒帯で、相手にぶつかられても倒れたことはなかったが、釜本は体が大きくて強く、競り合いで吹っ飛ばされた。そういえば日本代表の合宿で彼に「同じチームになったのだから、ケガをさせないでくださいね」と言われた。

 長沼さんとも対戦した。古河電工の監督兼選手で、62年12月に日本代表監督就任と同時に古河電工の監督は退任したが、67年まで選手として試合に出ていた。日本代表の合宿中になぜ私を選んだのか聞いたことがある。長沼さんも広島市出身で「僕も15歳の時に被爆して嫌な思いをした。今西君は左足でうまくボールが蹴れないが、頑張れる。被爆した選手でも日本代表になれるというところを見せてやってくれ」と言っていた。

 7月17日のソ連・ドネツク選抜戦(ジュダノフ)で先発して日本代表デビュー。ソ連五輪代表戦、西ドイツ五輪代表戦など10試合中6試合に出場した。「試合に出たい」と必死だったが、毎日食事がパンばかりで力が入らず「米が食べたい」と思った。帰国後11月26日の香港選抜戦(国立競技場)にも先発。12月にタイのバンコクで開催されたアジア大会の日本代表にも選出された。1次リーグでインド、イラン、マレーシアと対戦して3戦全勝、私は初戦のインド戦で先発して2―1の勝利に貢献した。2日続けて試合がある過密日程で、日本代表はメンバーを入れ替えながら戦った。2次リーグはシンガポール、タイに連勝。私は最終戦のタイ戦に先発して5―1の勝利に貢献した。そして翌日の準決勝イラン戦にも先発したが、0―1で敗れた。3位ではあるが、個人としては出場機会が少なく、悔しさが残った。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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