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【今西和男 我が道13】海外遠征で「東洋工業」をPR 英会話の経験がのちに生きた

[ 2026年2月13日 07:00 ]

胸に「NIPPON」と入ったジャージー姿(左から2人目)
Photo By 提供写真

 1967年(昭42)も5月のミドルセックス・ワンダラーズ(イングランド)戦、パルメイラス(ブラジル)戦で日本代表に招集されたが、試合に出たのはM・ワンダラーズ戦の1試合だけ。腰や膝を痛めていたからだ。7月の南米遠征には招集されず、9月から10月にかけて行われたメキシコ五輪アジア予選も呼ばれなかった。12月のCSKAモスクワ(ソ連)戦とデュクラ・プラハ(チェコスロバキア)戦で再び招集されたが出場機会はなく、メキシコ五輪は夢に終わった。日本代表は通算11試合に出場、そのうち国際Aマッチは3試合で得点0。悔しかったが、実力の世界だから仕方がない。むしろ、チャンスをもらった上で選ばれなかったことで、すっきりしていた。日本リーグはケガと闘いながらも3年目の67年も、前年に続いて14試合全てに出場、チームも3連覇を果たした。

 サッカーのおかげで海外に行けるようになった。まだ海外旅行は一般的ではない時代。子供の頃は野球の方が好きだったが、高校1年生の終わりからサッカーを始めた理由の一つは「海外に行けるから」だった。

 初めて行ったのは、66年6月の東洋工業の韓国遠征。続いて67年1月に日本リーグが優勝チームを派遣する形で香港に遠征し、2試合行った。24日の第1戦はサウスチャイナとシンタオの連合軍に2―3で敗れたが、26日の第2戦は香港選抜に2―0で勝って1勝1敗。中華料理がおいしくて感激した思い出がある。68年2月には同様にマレーシアとタイ、台湾へ行き、5試合行った。まずはマレーシアで2月15日のセランゴール戦は4―1、18日のペラク戦は1―1。タイへ移動して21日のタイユース戦は2―0、23日の空軍戦は2―0。台湾に行って25日の台湾選抜戦は6―0で4勝1分けだった。日本代表でも欧州遠征やアジア大会に招集され、いろいろな国へ行くことができた。

 東洋工業にとっても海外遠征は有意義なものだった。1920年(大9)創業で、戦後は三輪トラックが主力。1960年(昭35)から乗用車の生産を開始し、海外にも輸出した。東南アジアは最大の市場で、どの国もサッカーが大人気。私が入社する直前のことだが、63年1月にタイ、ベトナム、シンガポール、マレーシア、香港へ遠征、8試合行った。戦績は第5戦でシンガポール選抜に2―1で勝っただけで1勝4分け3敗だったが、「東洋工業」の社名やブランドの「マツダ」をPRすることができた。

 日本代表に選ばれた時に「現地の人と直接話したい」と思い、英会話教室に通った記憶がある。後にハンス・オフトやビル・フォルケス、スチュアート・バクスターが監督として来た時に、直接英語でコミュニケーションが取れたことは大きかった。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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