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【今西和男 我が道15】引退、コーチを経て社業に専念 若い社員を教育

[ 2026年2月15日 07:00 ]

引退後は社業に専念、社員教育を任された
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 1969年(昭44)は膝や腰が限界で、私は一試合も出場することができなかった。日本リーグは三菱重工が優勝、東洋工業は2位で5連覇を逃した。私はこのシーズンを最後に引退することにした。4歳の時に被爆し、左足のやけど痕がケロイドとなってうまくボールが蹴れなかったが、その足でここまでサッカーを頑張り、多くの人に応援してもらえたことは誇りだった。

 70年に下村幸男監督の下でコーチになった。ただ、現役に未練があったので、下村監督に頼んで選手兼任にしてもらい、背番号は4番から12番になった。大橋謙三さんがヘッドコーチで、DF桑原弘之さん、私と同期のFW大島治男、FW岡光龍三もコーチ。もっともケガ人が出た時などに備えて、コーチを選手として登録しておくことはよくあることで、桑原弘さんと岡光も選手兼任で試合にも出ていた。コーチになった年の70年は日本リーグで5度目の優勝を飾った。6年間で5度の優勝、まさに東洋工業の黄金時代だったが、これが日本リーグでは最後の優勝となった。

 コーチはやりがいもあったが、東洋工業総務部に勤務していた実兄に「いつまでもサッカーをやっていないで、会社に恩返しを」と言われていた。71年に健康保険組合から教育部に異動したこともあって、コーチは1年で辞めて社業に専念した。

 東洋工業は当時約3万1000人の社員がいたが、そのうちの約7000~8000人が、府中や宇品など8カ所の独身寮にいた。中学校や高校を卒業したばかりの若者が多く、1年間で約1000人入社した年もあった。高度成長期で、自動車業界は活気があった。中でも東洋工業は67年に発売したロータリーエンジンを搭載した車が売れていて、給料も良く、人気があった。新入社員は中国、四国、九州の出身者が多かった。寮の管理をする教育係は自衛隊OBの社員が多く、どうしても命令口調で指導が厳しい。そこで「東京教育大学を出て教員の資格を持っている」という理由で私に白羽の矢が立った。

 私は若い社員の話を聞くことに徹した。夏休みに泊まりがけでキャンプをやったり、話し方教室などもやってみた。日曜日に寮対抗の野球大会やサッカー大会などを企画した。自動車の製造ラインに入ると、流れ作業なので、工員同士が話をする機会が少なくなる。一緒にスポーツを楽しめば話が弾み、友人をつくるきっかけになる。しかもスポーツにはルールがあるので「ルールを守りながら会社の仕事を励むことにつながる」と、社員教育にもつながった。総務部長になっていたサッカー部の先輩・小沢通宏さんに「人を教えるのは耐えること」だと言われ、その通りだと思った。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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