2026年2月21日(土)
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【今西和男 我が道8】東洋工業で仕事もサッカーも…これ以上望むものはなかった

[ 2026年2月8日 07:00 ]

東洋工業の社員食堂で(中央は小城得達さん、左は三菱重工の森孝慈さん)
Photo By 提供写真

 東京教育大学では4年間、優勝はできなかったが、4年生の時はキャプテンを務めた。1年生の時に学年キャプテンになり、そのまま4年生で全体のキャプテンになる習わしだった。私はサッカーを始めたのが高校1年生の終わりで遅く、あまり技術がなかった。しかも被爆の影響で左足でうまくボールを蹴れない。それでも、入学時に舟入高校から一緒に来たGK倉岡誠親が、「今西はみんなの世話ができる」と、学年キャプテンに推薦してくれた。私は「それなら、もっとうまくならないといけない」と、それまで以上に練習した。キャプテンになったことは、私の人生で得がたい経験だった。

 夏が過ぎ、就職活動が始まった。教員免許の取得を目指し、教育実習もやったが、教員になるつもりはなく、「もう少しサッカーを続けたい」と考えていた。ただ、まだ日本サッカーリーグがない時代で、実業団でサッカーを続けるのはハードルが高かった。東京教育大学は、順天堂大学教員になっていた小宮喜久さんがコーチだったが、他のOBも指導に来た。メルボルン五輪代表で、東洋工業のDF小沢通宏さんが来た時、卒業後の進路の話になった。小沢さんは「今西は下手くそだけど、ファイトがある。東洋工業に来ないか」と、誘ってくれた。小沢さんは私が東京教育大学に進学するきっかけをつくってくれた恩人で、再び道を示してくれた。

 「地元の屈指の大企業、東洋工業で働きながら、サッカーができる」。これ以上望むものはなかった。しかも東洋工業はその年1962年(昭37)の秋に実業団No・1を決めるトーナメント大会の実業団サッカー選手権で古河電工と優勝を分け合い、国体男子一般の部でも優勝した強豪だ。うれしくて早速広島の両親やきょうだいに連絡した。ところが両親は喜んでくれたが、兄・邦男に反対された。兄は東洋工業に勤務し、人事部にいたので「おれが、弟を入社させたと言われてしまう」というのが理由だった。だが、日本代表で主将も務めていた小沢さんの推薦とあって、兄も理解し、私は無事に入社することができた。

 63年4月、東洋工業に入社した。人事教育部門の健康保険組合に配属され、従業員の健康保険証を発行したり、病院とやりとりする仕事だった。サッカー部は38年(昭13)創立で「仕事もきちんとやって、サッカーも強い」というのが誇り。午前8時15分から午後5時45分まで仕事をし、6時30分から約2時間練習した。ただ、私の職場は3分の2が女性、しかも優しい先輩ばかりで、「今西くん、仕事は私たちがやっとくから、早めにサッカーの練習に行っていいよ」と、みんなが応援してくれた。監督は元日本代表GK下村幸男さんで、厳しい指導には定評があった。だが、下村さんも被爆者で、同じ被爆者の私にそれとなく気を使ってくれたことはうれしかった。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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