2026年2月21日(土)
×

【今西和男 我が道9】黙々とシュート練習 練習場の壁にペンキでゴールを描く

[ 2026年2月9日 07:00 ]

東洋工業時代、居残り練習にも取り組んだ
Photo By 提供写真

 東洋工業に入社したのは1963年(昭38)4月。実業団トップクラスのチームだけに、日本代表主将のDF小沢通宏さんをはじめ、FW石井義信さん、DF桑原弘之さんらベテランがいて、簡単には試合に出られなかった。私は足が速く、強烈なスライディングタックルと、負けん気の強さがあったが、被爆によるやけど痕の影響で、左足でうまくボールが蹴れなかった。コーチに来ていたOBの重松良典さんに「下手くそ!」と怒られながら一生懸命練習した。重松さんは足が速く、ドリブルが上手で、左ウイングやセンターフォワードとして活躍、現役を離れた後は日本サッカーリーグ設立に尽力した。1974年(昭49)に広島東洋カープの球団代表に就任、75年のセ・リーグ初優勝に導いた。81年に退任した後は、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の社長、日本サッカー協会専務理事などを務めて、日本スポーツ界の発展に貢献した。私には「もっとボールに親しまなければいかん。正しく自分の思う通りに蹴れるようになれば、それがいいパスになる」とアドバイスしてくれた。

 私は練習場の壁にペンキでゴールを描いて、全体練習が終わった後に、黙々とシュート練習をした。ゴールポストにわらを巻いて、左足で蹴る練習もした。強烈なスライディングタックルにも磨きをかけて、マークする相手を止められるようになった。何とか少しずつ試合に出られるようになった。

 販売会社の広島マツダのサッカー部などとよく練習試合をした。ただ、レギュラーになるには時間がかかった。2年目の64年10月には東京五輪が開催された。試合を見に行くことはできなかったが、1次リーグでアルゼンチンを破り、ベスト8入りした日本代表の活躍を聞き、「自分も五輪代表になれるように頑張りたい」と、いい刺激になった。

 東京五輪の翌年の65年6月、日本サッカーリーグが開幕した。日本代表の特別コーチを務め、ベスト8入りに導いたデットマール・クラマーさんが、退任する際に4つの提言を残した。(1)全国リーグを設立して、ホーム&アウェーで対戦すること(2)芝のグラウンドを造ること(3)指導者養成システムをつくること(4)日本代表は年に1度は欧州に遠征して、世界レベルのチームと対戦すること――というものだ。その中にあった全国リーグを、サッカーは各競技に先駆けて設立した。

 それまで大学が圧倒的に強く、サッカー界をけん引していたが、授業や大学リーグとの関係などで日本リーグへの参加は見送られた。65年1月16日に芦屋の竹園旅館で参加8チームが発表され、東京の日立製作所、三菱重工、古河電工の丸の内御三家と、広島の東洋工業、北九州の八幡製鉄に加えて、地域性も考慮して、愛知の名古屋相互銀行、豊田自動織機、大阪のヤンマーディーゼルが加わった。新しい時代の幕開けに、私もわくわくした。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

この記事のフォト

「サッカーコラム」特集記事

「日本代表(侍ブルー)」特集記事

サッカーの2026年2月9日のニュース