2026年2月21日(土)
×

【今西和男 我が道17】手探りの連続だったオフトと二人三脚の指導体制

[ 2026年2月17日 07:00 ]

86年シーズン前の集合写真(前列中央右がオフト、同左が筆者)
Photo By スポニチ

 私が監督、ハンス・オフトが特別コーチの二人三脚体制がスタート。実際のところ、私は選手の獲得や会社との調整、対外的なことなどが仕事で、「日本のゼネラルマネジャー(GM)第1号」といわれた。オフトには「欧州では選手を経験した人がチームづくりをする。日本もこれから、そういう人が必要になる」とアドバイスされたが、初めてやる仕事なので、手探りの連続だった。

 サッカー部員は午後5時45分まで職場で仕事をしてから練習していたが、それが誇りでもあった。だが、多くのチームが「仕事は午前中で、午後は練習」だったので、チーム力を上げるために、会社とかけあって仕事は午後2時までにしてもらった。

 鯛尾(たいび)練習場の整備も行った。当時はトップレベルのチームが練習するようなピッチではなかったので、芝の張り替えやクラブハウスの改修を行った。だが、改修箇所が多く、工期が大幅に延びてしまい、シーズン中に練習場探しをしなければならなかった。山口県内のグラウンドを借りたこともあったが、練習が思うようにできず、84年は日本リーグ2部で6位に終わり、「1年で1部復帰」は果たせなかった。

 オフトの指導は素晴らしかった。難しいことは言わず、止める、蹴るなどの基本を徹底した。後に日本代表監督になって知られるようになったが、「アイコンタクト」「トライアングル」「スリーライン」などの用語もこの時から使っていた。日本リーグの選手なら誰でも知っていることだが、分かりやすい単語を使うことで選手に徹底した。「前、後、右、左」などの日本語も駆使。相手の目を見ながら言い聞かせるように話した。ミーティングや練習の最後に必ず、「何か質問は」と言って、選手にも積極的に発言させた。「この指導者ならチームは間違いなく成長する。我々もこういう指導ができるようになったら、日本のサッカーも変わる」と確信した。

 ただ、チーム強化は苦戦し、即戦力が獲得できなかった。一番の要因は広島の立地。バブルの絶頂期で、広島出身者でも、東京や大阪の大学を卒業すると、そのまま大都市の会社に就職した。有望な選手は三菱重工、古河電工、日立、日本鋼管、ヤンマー、フジタ、日産、読売クラブなどに行き、広島に来てサッカーをやろうという選手はあまりいなかった。そこで、「将来性のある高校生を獲って、育てていこう」と方向転換し、それが森保一らの獲得につながった。鯛尾練習場も、改修が終わって練習環境が良くなると、後に日本代表に選出されるFW高橋真一郎やDF信藤克義(健仁)らが成長し、チームの軸になった。85年は日本リーグ2部で2位になり、1部復帰を果たした。選手もGKディド・ハーフナー、前川和也、FW島卓視、DF山西博文らが入団し、チーム力が上がってきた。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

この記事のフォト

「サッカーコラム」特集記事

「日本代表(侍ブルー)」特集記事

サッカーの2026年2月17日のニュース