2026年2月21日(土)
×

【今西和男 我が道19】戦力にはならない それでも…次点の森保を関連会社で採用

[ 2026年2月19日 07:00 ]

中央の筆者の右が森保、左が森保の恩師、長崎日大の下田監督

 1987年(昭62)4月に入社したMF森保一は、この頃のマツダを象徴している選手だった。国体の長崎県選抜に選ばれていたが、全国的には知られていなかった。私が初めて森保を見たのは86年3月、彼が高校3年生になる春休み。長崎日大高校の下田規貴(きよし)先生から「ぜひ見てほしい選手がいる」と連絡を受けた。長崎は私にとっても特別な場所。広島と同様に被爆し、下田監督から「長崎にもつらい思いをしている人がたくさんいる。広島のようにスポーツで市民を勇気づけたい。プロ野球球団は難しいのでサッカーを普及させたい」と言われていた。サッカー教室や指導者講習会の開催を頼まれたこともあった。

 さっそくオフトとともに、長崎まで森保を見に行った。練習を見る限り、特別な魅力を感じることはなかった。足が速いわけでも、ボール扱いがうまいわけでもない。きゃしゃでフィジカルも強くない。選手を見極める時は、特長の有無がポイントになる。運動量が豊富で、首をよく振って周りをよく見ているところは評価できたが、「マツダに来ても、戦力にはならない」と思った。

 だが、練習が終わって森保と話をした時、私の話を聞く姿勢に驚いた。私の顔を食い入るように見つめながら、話を聞いていた。そして、いつもボールを離さず持っていた。「ずっとサッカーを続けたい」という情熱が感じられ「ただ者ではない。このひたむきさは、ものになるかもしれない」と直感した。私はその後も何度か練習を見に行った。夏休みに愛媛・南宇和で行われたサテライトの合宿に呼んで、練習に参加してもらい、最終的に獲得を決めた。

 だが、予想もしなかったことが起きた。サッカー部はこの年、6人の採用を予定していたが、秋に内定を出す段階になって、会社から「採用は5人」と1人減らされた。リストの6番目が森保だった。会社からは1人内定を取り消すように言われたが、私は関連会社のマツダ運輸で採用してもらい、サッカーはマツダ本社のサッカー部でやることはできないかと考えた。マツダ運輸の社長がサッカー部の先輩だったこともあって、話はうまく進み、了承を取って森保に連絡した。関連会社は本社と給与体系が違い、少し安いが、それでも森保は「マツダでサッカーをしたい」と言ってくれた。

 当時のマツダは、高校を卒業したばかりの新人はすぐに日本リーグの試合に出られる力がないので、中国リーグ所属で、系列の販売会社・広島マツダの「マツダSC東洋」に登録して、実戦経験を積ませていた。森保も同様だった。午前中は会社で仕事、午後からマツダ本社サッカー部で練習。夜は週に3度、マツダSC東洋の練習に参加し、ハードだった。森保は真面目で仕事もよくできたので、1年半ぐらいで本社人事部とかけあって、マツダ本社に転籍させた。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

この記事のフォト

「森保一」特集記事

「サッカーコラム」特集記事

サッカーの2026年2月19日のニュース