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【今西和男 我が道16】肩書は監督、実質的にはGM ハンス・オフトと2人で分業

[ 2026年2月16日 07:00 ]

チーム再建へオフト(右)を招へい

 日本リーグは70年代に入ると、三菱重工、ヤンマー、日立などに加えて、フジタや読売クラブ、日産自動車、ヤマハ発動機などの新興勢力が力をつけ、新日鉄(八幡製鉄)や東洋工業は苦戦していた。私は仕事が忙しく、サッカーからは離れていた。仕事も独身寮の管理から、販売会社の広島マツダに出向して営業をやっていた。年間129台売った年もあった。自動車のメカニックについての知識はあまりなかったが、サッカーをやっていたことが役立った。今西というのはあまりない名字だが、訪問先で「東洋工業のサッカー部に、同じ名字の選手がいたね」と聞かれ、「それ、私です」と話が弾んだこともあった。

 サラリーマン生活にすっかりなじんだ1982年(昭57)秋ごろ、総務部長になっていたサッカー部OBの小沢通宏さんに呼ばれ、「サッカー部を立て直してくれ」と言われた。東京教育大学に進学したのも、東洋工業に入社したのも小沢さんのおかげ。小沢さんに頼まれては断ることはできない。チーム名は「東洋工業」から「マツダ」に変わったが、83年から副部長としてサッカー部に復帰した。

 3年後輩の二村昭雄(てるお)が監督だったが、日本リーグで10チーム中最下位に終わり、初の2部降格が決まった。さあ、どうするか。私は「自分が監督をやるより、外国人監督を招へいした方がいい」と考えた。

 サッカー部を離れていた13年間でサッカーは大きく変わり、もはや私が指導できるものではなかった。チームを大きく変えるためにはしがらみのない外国人監督の方がいい。しかも、2カ月程度の短期間ではなく、数年単位で任せた方がいい。思い浮かんだのは82年7月から7週間、ヤマハの臨時コーチを務めてチームを強化し、天皇杯で優勝に導いたオランダ人のハンス・オフトだった。翌年夏も来日して、ヤマハを指導し、成果を上げていた。79年3月に静岡県高校選抜が欧州遠征した際にオランダで指導を受け、その時の選抜チームの監督で、東京教育大学の1年先輩だった清水東の勝沢要監督らから話を聞いて興味を持っていた。日本サッカー協会の平木隆三技術委員長からも、いい話を聞いていた。さっそくオフトとコンタクトを取り、84年1月に欧州で会って東洋工業の指導を要請した。オフトは快諾してくれた。

 私はオフトに監督をやってもらうつもりだったが、「いいトレーニングのための環境づくりや練習試合を組むことなどは私にはできない。ミスターイマニシにはそれをやってほしい。グラウンド内での指導は私に任せてくれ」と言って、2人で分業することにした。肩書はオフトが特別コーチだが実質的には監督、私は監督だが実質的にはゼネラルマネジャー(GM)だった。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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