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【今西和男 我が道20】メモを取りながら話を聞いていた 風間から一番影響受けた森保

[ 2026年2月20日 07:00 ]

風間(左)の入団はチームを大きく成長させた

 日本リーグは前年から秋開幕に移行。87~88年シーズンは登録上もオフトが監督となり、私は総監督になった。肩書は変わったが仕事の内容は同じ。若手が成長してチーム力は上がったと思ったが、12チーム中11位で2度目の2部降格。オフトは「チームの基礎はつくれた。いい仕事ができた」と責任を取って退任した。

 88~89年シーズンは、再び私が監督になり、コーチに英国からビル・フォルケスを招へいした。日本サッカー協会の国際委員で、後にサンフレッチェ広島の強化部長になる伊藤庸夫(つねお)のつてでマンチェスターUから紹介してもらった。

 オフトの時と同様に、選手の指導はフォルケスがやり、私は実質的にはGMだった。フォルケスはマンチェスターUでDFとして活躍、引退後は指導者になった。1958年(昭33)2月6日、欧州チャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身)の試合を終えたマンチェスターUの選手やスタッフらを乗せたプロペラ機が、ベオグラードからの帰途、給油に寄ったミュンヘンの空港で、滑走路に積もった雪の影響で離陸に失敗して炎上。選手8人を含む23人が死亡した「ミュンヘンの悲劇」の生き残りとしても知られていた。

 当時のイングランドはパワーを前面に出すサッカーで、フォルケスもそういうサッカーを志向していた。オフト時代とは違ったサッカーで、マツダを成長させることができた。

 1989年(平元)に、西ドイツでプレーしていた風間八宏を獲得したことも大きかった。風間は84年3月に筑波大学を卒業して西ドイツに渡り、レーバークーゼンなどで活躍していたが、私は大学生の頃からずっと注目していた。技術が飛び抜けていて、手で扱うように巧みに足でボールを扱った。筑波大学4年生の時に、東京教育大学の1年後輩の松本光弘監督を通じて獲得を打診したが、「本人が本場でサッカーをしたい、できればイングランドか西ドイツでと言っている。日本でやることはないですよ」と断られた。私は毎年、欧州にサッカーの勉強に行ったが、その際に西ドイツに寄って風間と会った。そしてこの年「広島に来てくれないか」と誘うと、「サッカーが優先できるなら、マツダに行きます」と了承してくれた。

 風間の入団は、私が予想していた以上にチームを大きく成長させてくれた。サッカーの基本の止める、蹴る、運ぶなどの技術は、他の選手も影響されて、みんな一生懸命練習した。風間はとてもクレバーで、常に「どうしたら自分がボールをもらえるか」を考えながらプレーしていた。風間がボールを持つと、相手が2人、3人マークに来る。「必ずどこかが空くから、そこにつなげばいい」と話した記憶がある。風間から一番影響を受けたのは、森保だったと思う。合宿や遠征も同室になることが多く、風間の一挙手一投足を見るだけでなく、メモを取りながら話を聞いていたのは印象的だった。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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