【今西和男 我が道21】トーンダウンしていたが…広島も初のプロリーグに参加
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プロリーグ設立へ向けてサッカー界が動き出した。1989年(平元)6月、日本サッカー協会がプロリーグ検討委員会を立ち上げた。
マツダはプロリーグ参加を表明していたが、この頃自動車販売の不振が続き、徐々にトーンダウンした。だが、広島市民から「プロリーグに参加しないと、サッカー王国広島の名前が泣く。広島からサッカーが消えてしまう」という声が上がり、署名運動も行われた。広島出身で日本サッカー協会副会長の長沼健さんや後に広島県サッカー協会会長を務めた野村尊敬さんらが動き、メインバンクだった住友銀行(当時)の後押しもあって、マツダを翻意させ、プロリーグ参加が決まった。
私はマツダの担当者としてプロリーグ検討委員会に出席していたが、参加が決まりホッとした。プロになることを前提に獲得した選手も何人かいたからだ。私が選手だった時代に、日本にプロリーグができることは想像できなかっただけに、感慨深かった。
マツダを中心に広島県や広島市、デオデオ(現エディオン)、中国電力、広島銀行などが出資して「株式会社サンフレッチェ広島」が設立され、私は取締役兼強化部長兼総監督に就任、チーム強化の責任者となった。監督にはスチュアート・バクスターを招聘(しょうへい)した。91年6月、東欧遠征で対戦したハルムスタッド(スウェーデン)で監督をしていたのを見て「この監督ならチームを成長させてくれる」と思ったからだ。92年5月に就任したが、前任のビル・フォルケスが教えたイングランド流の激しいサッカーに、技術と戦術を加えてくれた。MF森保一をレギュラーに抜てきしたことも、先を見据えた上で大きかった。チームで一番走れて、働き蜂のようにどこにでも顔を出すところが評価されたようだった。
FW高木琢也も獲得した。大阪商業大学で活躍し、卒業時に争奪戦となった。高さがある上に、ボール扱いがうまく、シュート力もあった。同大学の上田亮三郎監督は東京教育大学の先輩だったので「ぜひうちに」と声をかけたが、フジタ(現湘南ベルマーレ)に行ってしまった。だが、フジタがホームタウンを確保できず、Jリーグの開幕10チームに入ることができなかった。高木がJリーグでのプレーを熱望していることを聞き、フジタの許可を得て獲得交渉し、サンフレッチェ広島に来てもらうことになった。欧州遠征で目を付けた当時のチェコスロバキア代表のDFユリウス・ベーリックとMFユリ・カビルも獲得、戦力を整えることができた。
海外留学も実施した。90年と91年にフォルケスのつてでマンチェスターUに約1カ月間、選手とコーチを派遣。森保や高木、前川和也らはMFデビッド・ベッカム、MFポール・スコールズ、MFライアン・ギグスらと同じ宿泊施設に泊まり、一緒に練習する機会もあっていい刺激を受けた。92年もサフォーク州の古豪・イプスウィッチが受け入れてくれて、若手選手の成長に役立った。
◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。